ドイツ近代、現代史

ドイツ戦争

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対デンマーク戦で勝利を収めたプロイセンとオーストリアは、デンマークから割譲された領土をシュレスビヒ州に取り込んで、シュレスビヒ-ホルシュタイン州を設立。仲良く勢力範囲を分けたのだが、そこは仲の悪い者同士、長続きするわけがなかった。戦争のきっかけを探していたプロイセンはオーストリアが協定を破ったと主張、1866年6月にホルシュタインに軍を進めて支配下においてしまった。オーストリアはプロイセンのこの行為を”Deutschnes Bund”(ドイツ同盟)に対する戦争行為であると主張、対プロイセンの動員決議を持ち出した。ここで対プロイセンの決議が可決されると、プロイセンは躊躇せずに直ちに行動に移った。プロイセンの参謀本部長には、対デンマーク戦で奇抜な戦術を採用して大勝利をもたらしたモルトケ将軍が昇進、就任していたが、プロイセンはまずはこの決議に賛成したハノーファー王国(当時は大国)に戦線を布告、軍隊を進めた。当時のプロイセンはドイツ同盟のハノーファー王国、バイエルン王国、それにハンガリーオーストリア帝国を相手に戦争を遂行できる軍事力を保持していなかったから、軍の主力をオーストリアに向けて南下させる手前、ハノーファー戦線にはせいぜい9000人しか派遣できなかった。ハノーファー王国は、プロイセンの2倍もの軍隊を動員できた。

当初、ハノーファー軍はプロイセン軍が圧倒的な数で進軍してきたと勘違い、防戦に徹底した。プロイセン軍が攻撃に失敗すると、ハノーファー軍はプロイセン軍は数の上で劣勢にあると正しく判断、防御から一転して攻撃に出た。この攻撃に泡をくらったプロイセン軍は撤退に追い込まれる。ハノーファー王は撤退中のプロイセン軍を追撃して完全に撃破することを命じたが、ハノーファー軍の上層部は、「武器弾薬が足りない。」と、これを実行しなかった。これがプロイセン軍を惨敗から救った。敗戦の知らせを聞かせたモルトケ将軍は敗退した軍を再編成、「前兵力をもって全方面から全力をもって攻撃せよ。」と厳命した。これが効いた。怒ったように進撃してくるプロイセン軍を相手に、武器弾薬に尽きたハノーファー軍がどれだけ抵抗できただろう。ハノーファー軍が降伏すると、プロイセンはハノーファー王国をプロイセンに合併して、来たるオーストリアとの戦闘でハノーファーから側面を付かれる危険を排除した。ハノーファー王家は残財産を没収されて、お世継ぎはオーストリアに亡命した。ハノーファー軍を粉砕したプロイセン派遣軍はオーストリア側についたカッセルを攻撃、これを降伏させるとフランクフルトに軍を向けた。その一方でプロイセン軍の右翼は突然ニュンベルクに現れて攻撃を開始、オーストリア率いるドイツ同盟軍は全線でプロイセン軍の猛攻に遇い、降伏するか退却するかの選択を迫られた。

南にあるオーストリア帝国は、北方から南下してくるプロイセン軍の主力を迎撃すべく鉄道で軍をザクセンに送りたかったが、お城にしか興味のないバイエルンの王様はバイエルン王国内の鉄道の使用に難色を示した。ハノーファー王国の憂き目を見た王様は、戦争に関与しないのが最善と正しく判断したからだ。そこでオーストリア軍は重機を馬に引かせて、ゆっくりと主戦場に向けて北上することを余儀なくされた。この間隙を利用してプロイセン軍が速やかに軍を南下させると、戦闘を交えることなくザクセン王国を占領してしまう。ここからオーストリア領に向かって進軍を始めると、現在のチェコで北上してきたオーストリア軍とプロイセン軍が最初の戦闘を交えることになった。オーストリア軍とその同盟国は善戦したが、一回だけの例外を除くと、オーストリア軍はプロイセン軍に歯が立たなかった。

プロイセンの参謀本部立案の戦術が優れていたことも理由のひとつだが、それぞれの軍隊が装備していた武器が大きく異なった。オーストリアは記録映画で見るような砲の前から火薬と弾薬を入れるタイプの古い野砲を使用していた。この大砲は重くて移動に時間がかかる上、砲撃準備に1分近くかかってしまう。そしてやっと準備して砲撃しても、何処に当たるかは神様の言う通りという代物。一方プロイセンは移動が容易な、口径の小さい大砲を使用していた。この野戦砲はプロイセンの軍需工業が開発した最新の野砲で、後ろから砲弾を装填するだけ。1分で10発の砲撃が可能な上、かなり正確な砲撃が可能だった。同じことがプロイセン軍が導入していた小銃にも言える。オーストリア軍には火縄銃と同じ原則で、銃口の前から火薬と弾をこめる旧式の銃を採用していた。さらに致命的なことに、オーストリア軍はナポレオン戦争時のように、軍隊は直立したまま前進した。プロイセン軍は射撃の的にならないように、低い姿勢で兵を進めた。さらに世界で始めての銃の後ろ(横)から銃弾を装填する最新式の小銃を採用しており、命中精度も比較にならないほど進歩していた。プロイセン軍はまるで的のように直立しているオーストリア軍を撃つだけでよかった。これではプロイセンに歯が立たないのも無理はない。

怒涛のように快進撃をするプロイセン軍を停めるべく、撤収中のザクセン軍とオーストリア軍は33大隊を持って現在のチェコの北部に新しい防衛線を築いた。この防御戦に最初に到着したのがプロイセンの第一軍。通常、防衛線を築いた敵を攻撃するには、3倍の兵力が必要と言われているが、プロイセン軍は援軍の到着を待たずに、数の上で劣勢にもかかわらず攻撃を始めた。まずは野戦砲で敵の陣地を焼け野原にすると、歩兵が突撃した。次々と防衛線が破られていく中、プロイセンの第二軍が戦場に到着、直ちに攻撃に移ると最後の防衛線まで突破されてしまう。オーストア軍がここで壊滅を避けられたのは、後衛を任せたザクセン軍のお陰。ザクセン軍は大きな被害を出しながらも、プロイセン軍の追撃を阻止した。お陰でオーストリア軍は壊滅の憂き目を避けて、撤収することに成功した。

オーストリア軍は現在のチェコの東部、ケーニヒスグレーツの要塞にて撤収してきた軍を再編成、プロイセン軍との決戦に挑むことにした。プロイセンの参謀本部長のモルトケ将軍は、要塞に撤収して安心してきっているザクセン、オーストリア軍の心情を利用、防衛線の側面を付くと敵の背後に出て、敵軍を包囲殲滅する奇抜な戦術を採用した。このプランを実行するには、敵の側面を付く役目をおおせつかった皇太子率いる第二軍をプロイセン領内で東にあるシュレージエンまで移動させ、ここから敵の陣地を奪取しながら日夜休みもなく強行軍、ケーニヒスグレーツを北から攻撃することが必要になる。別の言葉で言えば、このプランの成功の鍵は、第二軍が間に合って主戦場に到着できるかどうかにかかっていた。

7月3日、夜明けと共にプロイセンの第一軍は敵陣地を正面から攻撃を始めた。分散して行軍したエルベ軍は南から、皇太子は北から攻撃を開始する筈だったが、両軍共にまだ攻撃開始戦に到着していなかった。側面を攻撃してくれる援軍なしで、オーストリア軍の演習場となっている地形で敵を正面攻撃、プロイセン軍は大きな被害を出した。戦闘が始まって6時間が経過してやっとエルベ軍が到着、第一軍の左翼となって攻撃を開始した。これで第一軍の負担は軽減されたが、皇太子率いる第二軍なしでは惨敗するのも時間の問題だった。オーストリア軍上層部はすでに、「勝ったぞ。」と戦勝気分に染まり、ビスマルクとヴィルヘルム1世は敗北を覚悟した。お昼過ぎになって皇太子が先陣として送った親衛隊が主戦場に到着、エルベ軍に抵抗していたオーストア軍を側面から急襲した。オーストリア軍はこの危険を取り除くべく予備を派遣しようとしたまさにそのとき、攻撃開始から実に9時間近く遅れて皇太子率いる第二軍の本隊が主戦場に到着した。計画通り第二軍が北からオーストリア軍の側面への攻撃を始めて次から次へと陣地を奪取すると、オーストリア軍にもプロイセン軍の戦術目標が見えてきた。包囲をさけるため、オーストリア軍は撤退を命じた。この時点で皇太子が主戦場に到着してわずか3時間しか経っていなかった。このわずか3時間で決戦の勝敗が決まった。

戦闘に勝ったプロイセン軍上層部、そして何よりもヴィルヘルム1世は軍をさらに南下させて、トルコ軍でさえなしえなかったウイーン落城を要求した。プロイセン軍がこのまま軍を進めていれば、敗退に次ぐ敗退で士気が崩壊したオーストリア軍には大きな抵抗はできなかったろう。しかしビスマルクはオーストリアを占領すると、ハンガリーオーストリア帝国が崩壊してしまうことを危惧、これまで散々オーストリアを挑発して戦争を招いたのに、これ以上オーストリアを弱めないように軍、そして王様に助言した。ビスマルクにしてみれば、ここでオーストリアに恩を売っておけば、次の対フランス戦でオーストリアがプロイセンの背面を守ってくれると計算していた。そこまで損得勘定ができない軍、王様はビスマルク案を蹴った。王様に抵抗したビスマルクは、首相の地位から解任される一歩手前だった。ところがそこは王様、大勝利に貢献したビスマルクを解任するのはよろしくないと判断、最終的にはビスマルクの忠告を聞き入れて、軍を説得、プラハで講和条約が結ばれた。

この戦争後、ドイツ同盟は消滅して、プロイセンが盟主の“Der Norddeutsche Bund”(北ドイツ同盟)が設立された。 プロイセンは北ドイツを支配下におき、オーストリア帝国を軍事力で増す大国が出現した。これが気に入らないのが、もうひとつの大国フランスだ。ドイツ同盟のように30を超える小さな国が乱立している限り、ドイツはフランスの敵ではない。しかしこれが統一されては、フランスの地位を脅かす存在になりかねない。しかしそんなことはビスマルクはすでにお見通し。ビスマルクはオーストリアを挑発して宣戦布告させたと同じ手段で、フランスを挑発し始めた。

ベルリンに建つドイツ参謀本部長、モルトケ元帥像。

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