ドイツ近代、現代史

ドイツ第二帝国樹立

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オーストリアを破ったプロイセンが盟主になって、北ドイツ同盟が発足したのが1867年。プロイセン主導のドイツ統一まで、あと一歩だ。まだ独立国であるバイエルン、バーデン、ヴュルテムベルク王国に軍を進めて軍事制圧。それからドイツ統一の宣言することは可能だが、外交官としての経験もあるビスマルクは、この方法は返って逆効果だと考えた。強制するよりは、自主的にドイツ帝国に参加させれることができれば、愛国心を呼びこし、絆が固くなる。しかしどうすれば、残る王国を自主的にドイツ帝国に参加させることができるだろうか。その機会は以外に早くやってきた。

欧州の覇権を狙っていたナポレオン3世にとって、北ドイツ同盟の出現は好ましくなかった。そしてオーストリアがやったように、ナポレオンはプロイセンを過小評価していた。北ドイツ同盟の2倍の国土を保有するフランスは、軍事力でもプロイセンに勝っていると確信していた。ここでスペインの女帝が王位から転落、フランスに亡命した。プロイセンはプロイセンの王家の親戚にあたるレオポルト王子を、スペインの王位につけようとした。これがナポレオン3世に気に入るわけがない。ホーエンツオラー(プロイセンの王家)がスペインで王位に付けば、フランスはホーエンツオラーに囲まれて2面戦争を余儀なくされる。ナポレオン3世は大使をレオポルト王子に送り、王位継承を辞退するように要求した。シュヴァーベン地方の小さな国のレオポルト王子は、自分が原因で戦争になるのを厭い、フランスの要求を聞き入れて王位継承から辞退した。

この知らせにプロイセン陸軍は大いに落胆した。スペイン王位継承でフランスと戦争になることを期待、密かに対フランス戦争の準備を始めていたのだ。ここでビスマルクが「機転」を発揮、「まだ終わったわけじゃない。」とフランス大使からの電報を将軍に見せた。意味が飲み込めない将軍の前でビスマルクは電報の内容を改ざん、これを新聞に載せるように命じた。そう、フェイクニュースだ。当時は侮辱を言った、言わないで決闘をする時代。ビスマルクはこのフェイクニュースに憤慨したナポレオン三世が、プロイセンに宣戦布告してくると期待した。そして期待は裏切られなかった。電報が新聞に掲載されて3日後、フランスの外務大臣はパリに駐在していたプロイセンの大使を呼び寄せると「フランスはプロイセンと戦争状態にあると見なす。」と、宣戦を布告した。

ビスマルクは言うに及ばず、プロイセン参謀本部はこの知らせに大いに喜んだ。プロイセンはすでに軍を召集しており、フランス国境まで数時間で行けるマインツに30万の大軍が集結していた。大国のフランスも常備軍30万を抱えていたが、その内20万はメキシコからアルゲリアまで、フランスの植民地に派遣されていた。フランスがすぐに動員できるのはわずか10万、それもフランス各地から召集する必要があった。それでもフランスがプロイセンに宣戦布告をしたのには、理由があった。南ドイツの3王国、バイエルン、バーデン、ヴュルテムベルク王国が、中立を守るか、最悪の場合でもバイエルン王国はフランスの側についてくれると思っていた。さらにフランスとオーストリアの関係は深く、プロイセンに負けたオーストリアがプロイセンの背面を攻撃してくれると計算していた。ところがそんなことはお見通しのビスマルク。バイエルン、バーデン、ヴュルテムベルク王国を説得、プロイセンの側について参戦する事を約束をさせていた。そして肝心のオーストリアは、プロイセンがウイーンまでに軍を進めずにオーストリアをいたわったことに感謝して、中立の立場を取った。賢いビスマルクの先見の明が見事に功を奏した。こうしてドイツ史上、初めてドイツ人(王国)が一緒になって戦う機会がやってきた。バイエルン、バーデン、ヴュルテムベルク王国の参戦により、ドイツ側は戦術予備も含めると140万人の兵隊を招集することができた。一方、フランスも動員令により110万の軍を召集した。

戦争の火蓋を切ったのはフランス軍。ザールブリュッケンに軍を進めて占領した。フランス軍はドイツ領土内に進軍して、北ドイツ軍(プロイセン軍)と南ドイツ軍(バイエルン、バーデン、ヴュルテムベルク)を分断、各個撃破するナポレオン1世の戦略のコピーを採用していた。これに対抗するドイツ軍は、モルトケ将軍の立案による敵を迂回して包囲する戦術を採用した。ドイツ領内までフランス軍が進軍してくると、正面攻撃をせず、その左翼と右翼を突いた。側面が無防備になったフランス軍は、包囲される危険を逃れるため退却することを余儀なくされた。こうしてフランスの戦術、北ドイツ軍と南ドイツ軍を分断するは戦争の初期に放棄された。その後の戦争は、フランス国内で展開された。ドイツ軍は毎回、対抗するフランス軍を迂回してその側面を突いた。フランス軍がドイツ軍の企図に気づく頃には、すでに包囲される一歩手前。フランス軍は撤退に告ぐ撤退を強いられて、最後は要塞に立て篭もった。するとドイツ軍は対オーストリア戦で活躍した大砲で猛砲撃。ドイツの大砲はフランス軍の大砲よりも射程距離が7~8KMも長い上、正確な射撃ができたので、フランス軍はドイツの火砲に歯が立たなかった。ベルダン、セダンなどフランスの要塞が次々とドイツ軍に攻略されて、ナポレオン三世まで捕虜になってしまう。

敵の将を捕らえたプロイセンは、戦争の終結を望んだが、フランスは思ったよりも手ごわかった。フランス政府は第三共和制政府を召集、フランス国民の愛国心に訴えた大動員を開始し、訓練中の兵隊を含めると90万の兵力を準備した。以降、戦争は行き詰まり状態になった。プロイセン軍には残るフランス軍を制圧できる軍事力はなく、一方、フランス軍には攻勢を開始してドイツ軍を撤退に強いる軍事力に欠けた。戦争の長期化を案じモルトケ将軍は、ドイツに残る戦力をフランス戦線に配置、フランスの反抗に備えたかったがビスマルクが反対した。オーストリアが浮気心を起こすかもしれないからだ。ようやくメッツの要塞を落としたドイツ軍は、解放された戦力を投入してフランスに圧力をかけた。パリも包囲されて、毎日、ドイツ軍の容赦ない砲撃に遇った。ここでフランスが国会選挙をするという理由で21日間の停戦を要求してきた。モルトケ将軍は停戦の条件に、パリに篭城している25万のフランス軍の降伏を要求した。一方、ビスマルクは新政権が戦争状態に戻ることを厭い、和平を提案してくるものと予想した。このこのチャンスを逃さないために、フランスの名誉を尊重して条件なしで停戦に承諾した。そして新政権はビスマルクが予想したとおり、和平を提案してきた。こうして1871年、フランクフルトで和平が結ばれた。

まだ戦争中、ビスマルクは南ドイツ王国の北ドイツ同盟への参加の交渉を始めた。1870年11月に合意に達すると、合意文書が北ドイツ同盟の国会に送られて、可決された。1871年1月からは正式に北ドイツ同盟がドイツ帝国という名称に代わり、国家元首にはプロイセンの王様が”Kaiser”(皇帝)として君臨することになった。その君臨式典が、まだ戦争中のパリの郊外にあるベルサイユ宮殿で行われることまで決まった。ところがプロイセンの王様であるヴィルヘルム一世は、”Der Kaiser vom Deutschland”(ドイツの皇帝)という称号を要求した。この呼び方には南ドイツの王様が反対した。ドイツの皇帝という名前は、まるでプロイセンが南ドイツ王国を征服したように聞こえるという理由だ。しかしヴィルヘルム一世はドイツの皇帝という称号でない限り、皇帝の座に就かないとダダをこねた。この懸案は最後の瞬間まで決着がつかず、決断はドイツ帝国樹立を宣誓する役目をおおせつかったヴュルテムベルク王国の王様にゆだねられた。機転を利かせた王様が”Der Kaiser vom Deutschland”の代わりに、「”Deutscher Kaiser”(ドイツ皇帝)万歳!」と呼ぶと、ヴィルヘルム一世はこの称号を受け入れて抵抗しなかった。一同はほっと胸をなでおろし、こうしてドイツ第二帝国が誕生した。

日本ではビスマルクが一人でドイツの統一を成し遂げたか、もっとひどい場合はプロイセンが軍事力だけでドイツを統一したかのように紹介されている。真実はビスマルクの先見の明、外交の腕、度々、ビスマルクと言い合いになり、何度か更迭しかけたが思いとどまってビスマルクの忠告を受け入れた思慮のあるヴィルヘルム一世、ドイツ陸軍の近代装備、プロイセン参謀本部、とりわけモルトケ将軍の優れた立案、これらが全部揃ったから成し遂げることができたドイツ統一だった。ドイツ統一後、モルトケ将軍は元帥に昇進、「モルトケが居る限り、負ける事はない。」との神話が生まれ、元帥は90歳の高齢になるまで引退を許されなかった。モルトケ引退後、一世の跡を継いだヴィルヘルム二世はビスマルクの進言に嫌気が指して、ビスマルクを更迭してしまう。そして迎えることになる第一次世界大戦。ドイツは純粋な軍事力、参謀本部とドイツの軍事力だけで戦争に突入した。しかしビスマルクの外交力がなくドイツは孤立、ヴィルヘルム二世はビスマルクの代わりに参謀本部の言うがまま、そしてモルトケ元帥の後を継いだ甥のモルトケ将軍は、元帥が遺産として残した対フランス攻略計画を修正して開戦することになる。

ベルリンにあるドイツ統一の記念碑。

 

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執筆者:

nishi

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