Regensburg

街の紹介   Regensburg

“R”の発音ができない日本人にはとてもやっかいな名前の町。アクセントは、「ゲー」ではなかく「レー」に置き、「ブルク」ではなく、「ブゥーク」っぽい発音にすると、ドイツ人にも伝わる筈だ。日本では知られていないので、まずは地理から始めよう。この町はバイエルン州の東北、もっとわかりやすく言えばミュンヘンの「右上」に位置しており、ミュンヘン空港からでは電車で1時間半の距離にある。チェコとの国境までわずか40kmだ。日本ではハイデルベルクやミュンヘンばかりが観光地として人気だが、ハイデルベルクやミュンヘンと違い、レーゲンスブルクはユネスコから世界遺産都市に指定されているドナウ河畔の中性の面影を残した綺麗な街。発掘で確認されているものだけでも、紀元前400年のケルト人がここに殖民した跡が見つかっており、ドイツで最も古い街のひとつ。ケルト人が町を„Radaspona“(外壁の町)と呼び、その後、フランス語で„Ratisbonne“と呼ばれたのが、レーゲンスブルクの名前の起源と言われている。
紀元後、ローマ帝国がここに兵隊を駐屯させてローマ帝国の一部となる。東からはゲルマン人が絶えず押し寄せてくるので、ローマ人は駐屯地を10mもの高い石壁で囲い、最盛期には6000人もの歩兵が駐屯していたローマ帝国の要害都市だった。ローマ帝国の植民地は”Raetia”と呼ばれ、首都はアウグスブルクに置かれていたが、軍隊の主力は首都ではなく、ゲルマン民族の襲撃にさらされているレーゲンスブルクに駐屯していた。当時の城壁の一部は、今でも遺跡として残っている。ローマ帝国が崩壊すると、カール大帝のフランク王国の一部となり、これが分裂すると東フランク王国の一部になる。この時代に(10世紀)レーゲンスブルクは、東フランク帝国の交易の要所として栄えだし、13世紀にはドイツで最も裕福かつ、最大の人口を持つ町に発展、今日まで町に残っている歴史的建造物の多くはこの時代に建造が始まっている。
レーゲンスブルクにはカトリックの司祭がその居城を構えていたが、町の権力者は早くからプロテスタントを支持して、カトリック教会と仲が悪かった。30年戦争では当初、プロテスタント派のスウエーデン軍に占領され、今度はカトリック派のバイエルン軍がこの町を再占領、スペイン王位継承戦争でも舞台になり、街は次第に経済的に衰退する。街がかっての栄華を取り戻すのは、近代になって工業化が進んでから。しかし発展から乗り残されたおかげで古い建造物の多くが残っており、今ではこれが町の資産になっている。

では町の観光名所を見ていこう。レーゲンスブルクの絵葉書のモチーフになっているのが、13世紀期に建造されたゴシック様式のSt.Peters Dom 、12世紀に技術の最先端を駆使して建造されたドナウ河に架かる石橋(Steinbruecke)、それに橋の袂に建造された”Salzstadel”(塩の倉庫)に併設する門の織り成す風景だ。当時、石橋の建設する労働者に飯を提供する目的で、簡易食堂が建設された。水位が増すとすぐに水没してしまうこの場所は他に使い道もなく、この簡易食堂は今でも残っており、当時、労働者に食されたソーセージを提供している。もっとも観光名所になり過ぎて、昼は満席、座る場所を確保するのは至難の技。これに加えてソーセージと酸っぱ~いキャベツの小さな皿+水で13ユーロという立派なお値段。「旨い!」というものでもないので、無理して食べる必要はない。
ここからどちらに進むべきか悩むところだが、橋から直進して市内に向かうと、大きな壁画が見えてくる。12世紀、ここに宿があり、”Goliarden”と呼ばれる官僚を目指す学士がここに泊まって職探しをしていた。これが原因でこの宿は、”Goliathhaus”という異名が付いた。そして16世紀には、聖書に載っている”David vs. Goliath”の逸話が壁に描かれたという勘違いなお話だ。ちなみにこの壁画の向かいの建物は高級(☆☆☆☆)ホテル。
壁画の前を右に行くと、まずは”Kohlmarkt”が見えてくる。その名の通りかっては石炭の市場だが、今日では小さな噴水とルネッサンス様式の建築物に囲まれた市民の憩いの場だ。ここから時計台が見えるが、直進しないで右に曲がってしばらく行くとスペインの海軍提督のDon Juanの銅像が建っている。ここで質問。海の無いレーゲンスブルクで、しかもスペイン海軍提督が、何故こんな辺鄙な場所建っているのだろう?これを知っている人は、レーゲンスブルクの住人だけ。秘密を明かすと神聖ローマ帝国、およびスペイン皇帝のカール5世がレーゲンスブルクに滞在中、町の娘に一目ぼれ。「お殿様、いけませぬ。」となり、この情事から生まれたのがJohann Hieronymusだ。もっともお殿様は、子供が生まれると知らん振り。4歳のときにスペインに引き取られて教育を受ける。お殿様は遺書で始めて子供がいることを告白、王位を継いだフィリップ2世の計らいで、Don Juanとしてオーストリアの宮廷入り。その後、押し寄せるトルコ海軍を迎撃するため、仲の悪いベニスとスペインが同盟を結び、連合軍を結成。211隻を擁する連合軍の提督に指名されたのが、わずか24歳のDon Juanだ。フアンは260隻もの軍艦を擁するトルコ海軍をイオニア海戦で破り英雄になる。そこでフアン出世の地では町の有名人を誇りに思い、生家の近くに銅像を立てた。以来、何も知らない人が来ると、「彼はスペイン人じゃなくて、レーゲンスブルクの人間だよ。」と自慢話を聞かされる羽目になった。
来た道を持って時計台の方向に向かって歩くと、13世紀に建設され、16~17世紀に神聖ローマ帝国の国会が開催された旧市役所が見えてくる。折角だから、石の階段を上って中も見物していこう。石の兵隊が、おかしな輩が入ってこないように階段の上から見張っている。踊り場にあるステンドグラスが綺麗です。肝心の国会議場は有料、それも決まった時間にしか入れないというので、ここで撤退。この先が旧市街の中心部にある”Haidplatz”(ハイデ広場)だ。まるで城砦のような建物は、13世紀に建造された”Goldenes Kreuz”(金の十字架)だ。町の有名人(権力者)が代々引き継いできたこの建物は、16世紀から”Gasthof”(宿)として使用され、国王や皇帝が宿泊してきた由緒ある宿だ。今でも(一部)ホテルとして利用されている。同じ広場に立つ目に付く色のこの建物は”Neue Waag”と呼ばれ14世紀に、町の権力者によって建造された。日本で言えば鹿苑寺金閣か、それよりもさらに古い歴史的建造物だ。建物の前は”justitiabrunnen”で、住民の飲み水の補給の目的で17世紀に建造された。普通、Justitia”(正義の女神)というと、目隠しをされて、天秤を差し上げているものだが、この女神はもっと直接的で、天秤の変わりに剣をふりかざしている。ここから通りをふたす隔てた場所に、高い塔が街中にぽつりと建っている。これは”Goldener Turm”(金色の塔)で、なんと50mもの高さ。町の真ん中にあるので見張り塔ではない。お金持ちが権力を見せ付けるために建造させたもの。13世紀建造で、とっても古い。
“Haidplatz”から直進すると、”Arnulfsplatz”が見えてくる。ここはかってレーゲンスブルクからアウグスブルクを通って、オーストリアまで続く交易路だった。中世の頃は倉庫街、そして処刑場でもあった。今日ではバス亭になっており、レーゲンスブルクの交通の要所だ。

次はドームを見に行こう。途中に”Neupfarrkirche”が見えてくる。教会の前に噴水があり、夏は子供が遊んでいる。てっきり子供の遊び場と思ってたら、この地域はかってのユダヤ地区。16世紀にユダヤ人を保護していた皇帝が死去すると、町の牧師が先頭になってユダヤ人の迫害を開始、ユダヤ人は町から追い出され、家屋とシナゴークは焼き払われた。この噴水は、かってのシナゴークがあった場所に設置されている。カトリック教の影響力を誇示するこのドーム、7世紀に建築が始まり、何度か焼けて再建されて、やっと19世紀に完成した代物。近くでみると、とてつもなく大きい。ここまで来たら、ドームの後ろも忘れずチェック。こちらは”Römerturm”で4mもの厚い壁に囲まれて、入り口は地上9mの渡り橋だけ。金庫として使用されたそうだ。横には17世紀に建造された修道院も建っている。
ドナウ河沿いに歩くと塩倉庫の近くに、石壁と井戸が見えてくる。壁は植民地時代の礼拝堂の遺跡で、その前の井戸は市民に飲み水を提供するために17世紀に掘られた。ドナウ河畔のこの通りには、綺麗な建物が多い。お化粧直しをした建物は勿論、綺麗だが、カビが生えて、色がくすんだ壁もしぶい。
レーゲンスブルクの郊外に建つWalhalla宮殿は、ドイツ人の民族意識高揚の為、バイエルン王国のLudwig1世によって建設された。 建物の内部にはゲルマン民族の神話に登場する人物の彫刻が数多く展覧されている。神話なんかに興味は無くても、神殿から見下ろすドナウ河の眺めは素晴らしいので、是非、一度は見ておこう。

この街にはメッサーシュミットの工場があった為、第二次大戦中は爆撃の目標となり、数多くの歴史的建造物が破壊されたが、見事に復興され、2006年にはユネスコから世界遺産都市に指定された。戦後はレーゲンスブルクの工場基盤を利用すべく多くの工場(有名な所ではBMW,ジーメンスや東芝など)が建てられ、街は再び戦前の活気を取り戻している。失業率の低いバイエルン州の中でもさらに失業率が低く、観光客も多く訪れるので景気のいい町だ。現在の街の人口は14万人。その内、大学生だけで1万6千人を占めます。街は綺麗だし、物価はミュンヘンなどに比べて安く、治安も良く、留学するには理想的な街のひとつです。