ドイツ史

プロイセン軍 内部改革 – ドイツ参謀本部の誕生

投稿日:2018年1月15日 更新日:


ドイツで一番でかいビスマルク像

ドイツ第一帝国とされる神聖ローマ帝国。実際にはローマとは関係なく、神聖でもなく、帝国でもなく、諸侯の連盟であった。他国のようにドイツが統一されなかったのは、諸侯が軍を進めて隣の王国を占領するよりは、結婚を通じてお互いに親戚関係を築き、領土と権力の保持を計ったから。親戚同士で戦争をしても勝者はない。ところがここで新しいプレイヤーが登場する。北ドイツの小国ながら、得意の軍事力で近隣の領土を占領したプロイセンだ。

プロイセン、ナポレオンに大敗を喫す

プロイセンはドイツの統一を目指すには国が小さ過ぎたので、近隣諸侯が起こす戦災を利用して、領土を拡大することを主眼にしていた。ここでナポレオンが登場する。プロイセンはフランスと国境を共有しておらず、ナポレオン(フランス)に対しては中立的な立場にあった。

ところがナポレオンがロシアを占領すべく、ドイツに侵入してくる。当時のプロイセンの王はどっちの側につくべきか、すなわちどっちに付けば領土を拡大できるか考えた挙句に、ドイツの諸侯、それにロシアと組んでナポレオンに抵抗することにした。

唯一、バイエルンだけがフランス側についた。どう考えても多勢に無勢、ナポレオンに勝ち目がある筈なかった。ところがナポレオンの天才の前にプロイセンは敗退、ナポレオンの一存次第でプロイセン王国は消滅しかねない事態に陥った。プロイセンはその領土の大部分をナポレオンに割譲することを余儀なくさせられたが、小国としてかろうじて存続を許された。

プロイセン軍 内部改革 – ドイツ参謀本部の誕生

この敗退をきっかけに、プロイセンの内部で軍の改革が実施された。まず貴族の特権を廃止した。これにより貧しい農民の出身でも、才能があれば出世することが可能になった。そしてこれまでの傭兵制度を廃止して、有名な一般徴兵制度が導入されたそしていよいよ世界にその名を轟かせることになる参謀本部が設置されて、これまた新しく設置された戦争省の管轄に置かれた。

初代の参謀本部長は今でも名前が知られているシャルンホスト将軍だ。参謀本部は軍の編成、動員、補給、兵隊の育成、人事から戦術までを中央で一括して組織する。これにより勝敗を決定する戦闘に軍事力を集約して投入することが可能になった。

軍事大国へ

この軍の改革は、1813~14年のドイツ解放戦争で効果を発揮する。プロイセンはロシアと組んでナポレオンをドイツから駆逐することに成功する。ナポレオンの敗退後、”Deutscher Bund”(ドイツ同盟)がオーストリアを盟主として誕生する。

ドイツ同盟とは言うが、デンマークやオランダもこれに参加していた。しかしナポレオンを撃退して領土を回復したばかりか、さらに拡張させたプロイセンは、プロイセンこそがドイツ同盟の盟主であるべきと考えていた。同盟の国会はフランクフルトで開かれたが、この国会にプロイセンの代表として出席したのがビスマルクで、事ある毎にオーストリアを挑発、両国の関係は犬猿の仲にあった。

ドイツ – デンマーク戦争

プロイセンとオーストアが衝突する原因になったのは、1864年に勃発したドイツ-デンマーク戦争。ドイツ(語)の影響力を押さえ込みたいデンマークとドイツの影響を拡張したいプロイセン、それにオーストリアとの関係が悪化、戦争に発展する。仲の悪いプロイセンとオーストリアはそれでも一緒に進軍する。

当時は、日本陸軍が日露戦争で10万人もの死者(病死者を含む)を出す結果になった正面攻撃をするのが当たり前。デンマークはこれを予期してドイツとの国境に巨大な要塞を建設しており、ここが主戦場になると思われた。

ところがプロイセンの参謀本部は敵が攻撃を予想している戦場に軍を進めて無駄な死傷者を出す気は毛頭なく、主戦場を迂回してデンマーク軍の背後に進軍、デンマーク軍を包囲するプランを立案した。正面攻撃を期待していたデンマーク軍は、背後を突かれ、包囲殲滅を避けるには退却しかなかった。

デンマーク軍は北海に面した半島に最後の抵抗線を築いたが、ドイツ軍は「万歳突撃」をしないで、クルップ製の最新の野戦砲で四六時中砲撃すると、陣地は大砲の爆発で鋤き返されてしまう。この時点でプロイセン軍が突撃をしてこの防衛線の大半を占領すると、デンマーク軍は和解に応じて戦争が終結した。この戦争の結果、シュレスビヒ州は今日までドイツに属しているが、今でもデンマーク人が住んでいる。

ドイツ戦争

これで仲違いが解消するかと思えば、大きな勘違い。誰がどの領土を併合するかで両国は最終的に仲違い。まだプロイセンの軍門に下っていなかった諸侯、バイエルン王国、(当時は強大な)ハーファー王国、ザクセン王国、ヴュルテンベルク王国、ヘッセン選帝侯、バーデン選帝侯、ヘッセン選帝侯などはオーストリア側について、でかい顔をしているプロイセンにでかいお灸をそえてやろうとたくらんだ。

プロイセン側についたのは北ドイツの王国で、ハンブルクやリューベックなどもプロイセンの側に自主的についた。これがドイツの「天下分け目の決戦」と呼ばれている、「ドイツ戦争」の始まりだ。

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執筆者:

nishi

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