ドイツ近代、現代史

Schlieffen-Plan

投稿日:2018年3月7日 更新日:


シュリーフェン元帥が立案したフランス攻略計画

ビスマルクは首相になる前、ロシアで外交官として勤務していたことがある。ビスマルクは首相になるとこの関係を利用して、ロシアと一種の「中立同盟」を結んでいた。どちらかの国が戦争状態にある場合は、もう一方の国は中立を守るというもの。この同盟は、ドイツ統一戦争中、プロイセンの不利な地勢をカバーした。

ドイツ統一後、ビスマルクはこの同盟の延長を新しい皇帝ヴィルヘルム二世に進言したが、ビスマルクと仲が悪い皇帝はこれを拒否した。独身になったロシアに接近してきたのはフランスで、両国は二国同盟を結んでしまった。外交の才があるなら、ドイツはフランスの背面を脅かす能力のある英国と同盟を結ぶべきたったが、ヴィルヘルム二世は全く正反対の行動に出た。英国海軍に対抗すべくドイツ海軍を大幅に拡大する計画を実行に移して、英国との仲を悪化させた。嫌われ者のドイツの同盟国と言えば、オーストリアだけだった。

二正面戦争

20世紀初頭、モルトケ元帥の後を継いだシュリーフェン元帥は政治状況に鑑みて、二正面戦争の戦術を立案した。この案ではドイツ軍主力はドイツ-フランス国境に建設されているフランスの堅強な要塞を迂回、ベルギーとルクセンブルクに侵入すると速やかに両国を横断、フランスの防御準備が出来ていない北フランスからフランスに侵入する。

主力はパリを目ざして南進すると、パリを包囲して陥落させる。フランスが片付くと主力を速やかに東部戦線に移動して、ドイツ領内に侵入したロシア軍を殲滅する。これが伝説の「シュリーフェン プラン」で、今日でも、「プラン通りに遂行したら成功したかも。」と議論が絶えることがない。

シュリーフェン元帥の退職後、伝説的なモルトケ元帥の甥、通称、”der kleine Moltke”(小さいほうのモルトケ)が参謀本部長に就任した。オリジナルのシュリーヘン案では、ドイツ軍の主力と側面攻撃を担当する部隊の比率は、7:1。主力に圧倒的な重点を置いていた。モルトケは主力に重点を置きすぎだと判断、側面攻撃を担当する部隊を増強した。結果、主力と側面攻撃を担当する部隊の比率は、3:1。これでドイツ国内から大迂回攻撃をする主力に十分な攻撃力があるのだろうか。

第一次大戦勃発

1914年、オーストリア ハンガリー帝国の皇太子がセルビアで殺害される。オーストリアはセルビアを罰するために動員を始めた。同じスラブ民族のロシアは、セルビアが占領されるのを黙ってみている筈もなく、ロシアも動員を開始した。ロシアと戦争状態になると、二国同盟のフランスも参戦してくる。

そこでドイツも動員を開始して戦力を国境に集結させた。戦争の火蓋はオーストリアのセルビアへの宣戦布告で切っておとされた。ハンガリーオーストリア大帝国は、バルカンの小国、セルビアを攻めあぐねた。戦線が膠着状態に陥ると、ドイツはオーストリアを助けるために、対フランス戦で必要な戦力をセルビア戦線に派遣、ドイツの助けでオーストリアはやっとセルビアを制圧した。

ドイツ参謀本部の誤算

これがドイツの戦争計画を大きく阻害した。ロシアが動員を開始しても、ロシアの貧弱な鉄道網ではその大軍をドイツ国境に配置するまで、数ヶ月の時間があると考えていた。この時間を利用してまずはフランスを打倒する。東部戦線では劣勢なドイツ軍は防御に徹底して、ロシア軍の進軍を遅らせる。その間に軍の主力を、よく整備されたドイツの鉄道網で東に移動する時間があると期待していた。

ところがオーストリアとセルビアの紛争で、ロシアは参謀本部が予想していたよりも早くも動員を開始、ロシアの大軍が東プロイセンに侵入してきた。参謀本部はこの危機に対応するために、二個軍を主力から東部戦線に派遣、オリジナルのシュリーフェン計画がさらに薄められてしまった。

ドイツ参謀本部の第二の誤算は英国。ドイツ軍がベルギー、ルクセンブルクに侵入すると、英国は文句を言うだろうがドイツに宣戦布告することはないと考えていた。ところが英国はドイツが中立国に侵入したことを理由に、ドイツに宣戦布告してきた。しかしもう「賽は投げられた」後で、引き返しはできなかった。

ドイツ軍快進撃

数重なる変更にもかかわらず、ドイツの戦術はフランスを敗北の寸前まで追い込んだ。フランスは伝統的なドイツ軍の侵入ルート、エルザス、ロートリンゲンからの侵入を予期して、こちらに主力を展開、中立国、ルクセンブルク、ベルギー国境の防御は手薄になっていた。ドイツ軍の主力は快進撃、パリ郊外40kmの地点まで達すると、フランスの政府機関、それにお金持ちは「野蛮人」がやってくる前に、パリから逃げ出し始めた。

フランス軍の反抗

パリの陥落は避けられないと思われていた1914年9月初め、ドイツ軍に散々痛めつけられていたフランスの第五軍は英国派遣軍の支援を受けて、反抗を開始した。ドイツ参謀本部はフランスの第五軍には戦闘戦力は残っておらず、名前だけの存在だと勘違いしていた。翌日には再編成された第9軍も反抗に加わった。

この反抗によりパリを目指してマルヌ川を渡河していた軍と、その側面を守る軍隊の間に、ぽっかりと大きな穴が空いてしまった。東部戦線に引き抜いてた2個軍があればここに投入、戦線を安定させることができただろう。しかしドイツ軍にはもう戦術予備が残っていなかった。そして戦力を増強した左翼は、フランス軍の執拗な抵抗でベルダン要塞を攻めあぐねて戦線が膠着、本来の目的である主力の側面を守る目的を果たせないでいた。

建前、名声を優先する日本軍なら包囲されて殲滅される危険を受け入れて、マルヌ川をすでに後にしていた軍をさらに進め、パリの陥落を目指しただろう。モルトケ元帥はこの軍が包囲される危険を重視して、撤退命令を出した。この撤退命令がフランスを敗北から救ったと主張するドイツ人もいるが、側面から敵の2個軍+英国派遣軍の攻撃を受けながら、パリへの進軍なんぞできるものではない。

こうしてドイツ軍の進撃はパリの手前で阻止されて、シュリーフェンプランは水泡に帰した。ドイツは軍の主力をフランスに派遣したまま、ロシアの大軍と直面することになったが、唯一の同盟国、ハンガリーオーストリア大帝国は名前ばかりで、セルビアに負けないようにドイツ軍を派遣してやらなければならなかった。そしてアメリカの参戦。

この四面楚歌の状態でドイツは戦争を4年間も継続したばかりか、東部戦線では数の上で圧倒的に不利なドイツ軍は、ロシア軍の主力を包囲して殲滅してしまう。そして1918年には西部戦線で攻勢に出るのだから、ドイツ軍の戦争遂行能力には目を見張るばかり。ヴィルヘルム二世がロシアとの同盟を放棄しなければ、親戚関係にある英国との関係を悪化させなければ、シュリーフェン元帥の計画通りに右翼を強くしていれば、戦争の結果はまるきり違ったものになったかもしれない。

 

-ドイツ近代、現代史

執筆者:

nishi

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