Augsburg

街の紹介 Augsburg

「アウグスブルク。」と言って、「アウ、、何だって?」と聞き返されるくらい日本では無名な町。しかしアウグスブルクはバイエルン州で3番目に大きな都市で、今や29万人もの人口を抱えている。日本なら「たった29万人?」だが、ドイツなら立派な大都市。おまけにドイツではトリアーに次いで2番目に古い歴史を持つ街で、ミュンヘンがまだ小さな集落でしかなかった頃、このアウグスブルクはローマ帝国の植民地の首都として栄えていた。この植民地がAugusta Vindelicorumと呼ばれたのが、町の名前の起源だ。町の”Wappen”(標識)になっている”Zirbelnuss”(松ぼっくり)は、アウグスブルクには自生しないので、ローマ人の植民地だった頃の名残ではないかと言われている。

5世紀になるとゲルマン4大種族のひとつ、アレマーネンが東からこの地に侵入、ローマ人を追い出してこの地をゲルマン化した。8世紀にはカール大帝の指揮の下、同じゲルマン種族のフランケン族がこの地に侵入して、アウグスブルクはフランク王国の一部となる。10世紀には神聖ローマ帝国の初代皇帝、オットー1世がアウグスブルクの南で東からの脅威であったマジャール人を撃破して、アウグスブルクの発展が始まる。12世紀には町(”Reichsstadt”)に昇格(ミュンヘンよりも2年早い)、13世紀にオーストリアのハープスブルク家がアウグスブルクに税金を徴収する権利を与えると町は税金で潤い、15世紀にはアウグルブルクはヨーロッパの出版業の中心地になり、16世紀には株式市場までオープンしている。

アウグスブルクの有名人と言えば、日本でもその名前が知られているフッガー家をおいて他にない。フッガー家は14世紀からイタリアの織物を輸入してこれをドイツで販売、最初の富を築いた。15世紀にJakob Fuggerが経営を引き継ぐと、銀行業に事業を拡大、カトリック教会、ハープスブルク家などを顧客に数え、事業は順調に拡大した。儲かった金を銀、銅鉱山に投資、その後は水銀、鉛などにも事業を広げ大成功。膨大な富を抱え、”Jakob Fugger der Reiche”(金持ちのヤコプ フッガー)という異名を頂戴した。フッガー家が凋落した今日でもアウグスブルク市は、「フッガーの町」と呼んで、かっての盛況ぶりを偲んでいる。

16世紀には宗教闘争が表面化する。アウグルブルクは福音派の砦となり、他の宗派、特にカトリック宗派を弾圧し始めた。この為、1555年に有名なアウグスブルクの講和が締結されて、どの宗派も自由に信仰をする事が可能になった。30年戦争時にはスウエーデン軍に占領され、18世紀にはバイエルン軍に短期占領されるが、この頃にアウグスブルクで望遠鏡が発明されて、欧州全域から注文が殺到、町はこれまでになかった栄華を迎えることになる。

有名なアウステリッツの戦いでナポレオンがロシア、オーストリア連合軍を撃破すると、ナポレオンに加担したバイエルンはその褒美として、隣の州に属している経済的に重要な東シュバーベンをもらえることになり、これが原因で今日までアウグスブルクはバイエルン州に帰属している。この為、アウグスブルクのドイツ人は、厳密に言えばバイエルン人ではなく、”Schwaben”(シュバーベン)人だ。シュバーベン人は本来、隣接するバーデン ヴュルテムベルク州に多く住んでいるので、バイエルンに住むシュバーベン人は混乱を避けるため、「バイエルンのシュバーベン」と呼んでいる。又、生粋のアウグスブルク市民はバイエルン人と一緒にされるとあまりいい顔をしないので、頭の片隅に置いておこう。もっとも併合から200年以上経ったので、ほとんどのアウグスブルク市民はバイエルンに帰化してしまい、シュバーベン人ではなく、バイエルン人と自覚している人がほとんどだ。

アウグスブルク自体、ロマンチック街道の要所なので、デユッセルドルフやケルンなどの工業都市と比べると比較にならないほど美しい。工業都市では、「近代化に邪魔だ。」と戦争の災禍を生き延びた家屋を取り壊してしまって、個性のない町になっているが、アウグスブルクには宮殿のような建物が市内の各所に残っている。郵便局にしても、まだ国営郵便局の看板がかかったままで、豪華絢爛だ。アウグスブルクがネルトリンゲンやデインケルスビュールなどと大きく異なるのは、その町の規模。かって大金持ちでブイブイいわしたアウグスブルクはでかい。観光名所が散在しているので、自転車でもなければ、全部を1日で見て回るのは不可能。ここでは幾つか主要な観光名所を紹介しておくので、観光場所の選抜にご利用ください。

まずは絵葉書のモチーフになっている市役所から始めよう。アウグスブルクの人口はデユッセルドルフの半分ほどだが、市役所は倍の規模がある。かって町がどれだけお金で潤っていたか、想像するに難くない。この市役所の建造上の特異な点は、後ろから見てもほぼ同じ形をしていること。同じような市役所はドイツにふたつとない。その市役所、2016年9月までお化粧直ししていたので、訪問するなら(汚くなる前の)今がチャンスだ。お化粧直しの後はシミひとつなく綺麗です。夜景も綺麗なので、夜のお出かけ時には一度、寄って見よう。市役所の横に建っているのは、”Perlachturm”というかっての見張り塔で、なんと10世紀建造だ。そのあとで教会をここに建て、見張り塔に鐘を設置することで、独自の塔を節約した。見張り塔だけあって70m+の高さがある。入場料が2ユーロかかるが、てっぺんからの見晴らしはとっても良好です。レンズを単焦点に変えて撮ると、さらにハッキリクッキリ。下の家がおもちゃのようです。

市庁舎の前を左に行くと、通りの終わりに立派なカトリック教会(市民は”Mariendom”と呼ぶ)が建っている。この教会の奥に”Residenz”(宮殿)がある。ミュンヘンでレジデンツと言えばかっての王様の居城だが、アウグスブルクでは司教様の家だ。この先に綺麗な公園があり、市民の憩いの場になっている。この区間、ちょうど路面電車も走っているが歩いていくと、右に左に建っている立派な建物を堪能することができる。市役所の前を右に行くと、見事に復興された建物が見えてくる。ここに”Merkurbrunnen”という噴水がある。16世紀にお金が余って仕方がないフッガーが作成を依頼した。彫刻のモチーフはフッガーらしく、商売の神様”Merkur”なのでこの名前になっている。後ろの綺麗な建物と合わせて、好んで撮られる写真のモチーフだ。

この交差点に11世紀に建造され(14世紀に再建され)た”St. Moritz”教会が建っており、この場所は”Moritzplatz”(モーリッツ広場)という。レストランやカフェが立ち並び、”Rewe”(スーパー)もあるので、電車を待っている間にお買い物もできてしまう(値段は高めの設定です)。モーリッツ広場の交差点に有名な”Weberhaus”が建っている。なんと14世紀の建造物で、アウグスブルクの発展の原動力となった織物の市場として利用された。この建物の裏通りに入ると先に、”Fuggerplatz”(フッガー広場)が見えてくる。町一番の有名人の銅像を何処に立てるべきか長い議論があった末、ようやく2007年になってここをフッガー広場を命名すると市が決定、別の場所に建っていた(ので誰にも知らなかった)銅像がここに移されてきた。フッガーの銅像の向いている方向に歩けば、市役所前に戻ってこれる。

ペルラッハトゥルム横にある真っ赤な建物の脇道入ってみよう。この辺は戦争で焼け残った建物が散在しており、見て歩くのが楽しい。博物館おような立派な建物はかっての日用品店で、現在は役所。後ろから見ても立派です。建物の前の噴水は”Georgsbrunnen”。聖ゲオルグの竜退治が見事な銅像で描写されている。フッガライはこの先にある。フッガライはドイツ語で”Fuggerei”。日本語では「フッガーライ」と紹介されているが、「フッガライ」読まないとドイツ人には通じません。フッガライを日本語に直すと、フッガー住宅。早い話が長屋。ところが日本では”Fuggerei”が、フッガー屋敷と紹介されている。日本の学者が間違って、「フッガー団地」を「フッガー屋敷」と紹介してしまったのが原因。この間違いを日本の教科書が受け継ぎ、お陰でほとんどの日本人が誤解している。本当のフッガー屋敷は”Fuggerhäuser”といい、マキシミリアン通りにあるフッガー屋敷を指します。

フッガライを観てまだ元気があれば、もう少し先までいってみよう。先に”St. Jakob”教会がある。何故かこの教会にはアジア人の信者が多い。夏は結婚式のシーゾンで、教会の横にクラシックカー車が止まっている(事もある)。この先に”Jakobertor”が見えてくる。ここがかってのアウグスブルクの境界線で、ぐるりと城壁とお堀がめぐらされていた。今日ではお堀の半分は埋め立てられ、城壁の大半は取り壊されてしまたっが、砦はまだ残ってる。ヤコーバートーアには城壁の一部と、かって兵隊が居住していた砦が残されている。このままお堀に沿って歩いていくと、”Fünfgratturm”が見えてくる。この先にかわいらしい塔があり、その先はかっての要塞の「角っこ」にあたる部分で、ほぼ昔の姿で残っている。ここは”geheim Tipp”(秘密の名所)で、”Kahnfahrt”(ボート乗り)をして楽しむことができる、(冬は営業していません。)お堀とは言え、砦の防御の要所である角だけあって、大きな堀なので十分に楽しめます。

路面電車に乗って”Moritzplatz”まで戻ってきたら、今度は”Maximilianstr.”を歩いてみよう。ミュンヘンにも同じ名前の通りがあり、高級ブテイックが軒を連ねているが、アウグスブルクでは弁護士事務所、会計士事務所、それにレストランが軒を連ねている。ここに有名な”Fuggerhäuser”(フッガー屋敷)が建っている。見ればわかる通り、巨大でまさに屋敷という名前にふさわしい。ちなみにこの屋敷は今日でもフッガー家の所有物で、(お金持ちだけがお客さんになれる)フッガー銀行も入っている。この建物の裏通りには、”Zeughaus”が建っている。てっきり宗教関係の建物かと思いきや、19世紀に建設された当初は兵舎と武器庫として使用されていた。当然、多くの部屋がある大きな建物だ。聖ミヒャエルの悪魔退治の像が有名で、ハンブルクのミヒャエル教会といい勝負だ。

表通りに戻ってこよう。ヘラクレス噴水から撮った写真はアウグスブルクの名物。車にはねられないように注意して写真を撮ろう。このヘラクレス像は17世紀の初頭にアウグスブルクで鋳造されたもの。通りの終わりに建っているのは、プロテスタント系の”Ulrichskirche”だ。もっとも南ではプロテスタントといわないで”Evangelisch”(エヴァンゲーリッシュ)という。2015年は改装中の家屋が多かった目抜き通りだが、2016年は改装工事を終えて、かってのアウグスブルクの片鱗をうかがうことができる。とりわけ教会に近くには砦のような建物、見事な装飾を施された建物が多い。通りをそのまま進むと”St. Ulrich”地区になり、古い建物が多く残っている。ここにはかっての「ひづめ屋」があり、壁にはまだ昔の看板がかかっており、まるでタイムスリップしたような気持ちになる。

ここまで来たら近くに「一番綺麗な塔」と誉れの高い “Rotes Tor”(赤い塔)まで目と鼻の先。15世紀に建造されたこの塔は、”Wassertürme”(給水塔)と一緒になっている。自転車で走ってみるとよくわかるが、市内の中心部は小高い丘にある。この標高差にもかかわらず市内に水を供給する目的で、ここに給水塔が建設された。この場所はかってのアウグスブルク要塞の角にあたるので、付近には巨大な防壁が残っている。広大な敷地内にはお堀に加えて、二重に城壁が巡らされており、今では庭園のような様相を呈している。城壁に沿って散歩するのは気分がいいが、ホームレスの自宅となっているので、女性の一人歩きは禁物だ。女性一人で行かれる場合は、城壁内側からの鑑賞で我慢しよう。それでも十分に綺麗な塔を眺めることができる。

日本式のつめこみ教育を受けていないドイツ人がアウグスブルクと聞いて最初に連想するのは、”Augsburger Puppenkiste”(アウグスブルク人形劇)だ。赤い塔の目と鼻の先にあり、いつも子供連れの両親が開演を待ってるほど、ドイツでは「知らない者は誰もいない。」有名物。この地区は”Lechviertel”と呼ばれ、運河が流れて雰囲気のいい地元民の憩いの場。レストランやさまざま店舗が店を構えている。ここに朽ち果てた宮殿のような建物が建っているが、織物で大金もちになったGignoux氏の未亡人が18世紀に建設されたロココ式の屋敷だ。この辺の建物は趣があり、理髪店や皮なめし商の看板も、町の景観を崩さない看板になっている。また、教会がここに、そこに建っている。アウグスブルクの教会の密集度は、京都並み。ここに16世紀から営業しているドイツ飯屋”Schwarzes Roß”(黒い野生馬)がある。二階は宿になっている。

アウグスブルクという名前の通り、かって町は”Burg”(城砦)だったので、城壁や”Wehrturm”と呼ばれる見張り塔、それに町への入り口となる塔は、市内の端っこに行けばまだ随所に残されている。その塔の中には”Der Stoinerne Ma”(石の男)が建っている。伝説によれば30年戦争中、アウグスブルクは何度も包囲されて兵糧攻めに遭う。市内では食べ物が尽きたが、パン職人はおが屑でパンを焼くと、「アウグスブルクにはまだパンが十分あるぞ。」と城壁超えにパンをお堀に投げ込んだ。これを見た包囲軍は怒って、このパン職人を弓で撃った。弓は右腕に命中してパン職人は腕を失ったが、「包囲しても効果がない。」と勘違いして兵を引き上げた。お陰でアウグスブルクの住民は餓死の運命から救われた。戦争後、このパン職人の勇気と機転に感謝すべく、彼の活躍した場所に石造を建てて称えたそうだ。いうなれば、アウグスブルクの救世主だ。

かってアウグスブルクの周囲を巡って建っていた見張り塔の幾つかは、近代化の波に飲み込まれて取り壊されたが、まだ幾つか残っている。アウグスブルク唯一のショッピングセンター”City Gallery”の近くにあるのが”Vogeltor”。外人局の裏にあるのが”Wertachbrucker Tor”、そしてかわいい塔が”Fischertor”だ。この先に「モーツアルトの家」がある。モーツアルト本人が住んでいたわけでなく、父親が住んでいた「だけ。」この通りは18世紀の雰囲気が残っており、随所に大きな建物、見事な装飾を施された建物が林立している。
フィッシャー塔に戻ってこよう。この塔はまだ城壁と繋がっており、ここから城壁に上って城壁に沿って歩くことができる。小高い場所には低い城壁が、くぼ地には高い城壁が設けられている。時折、城壁に沿って家屋が建っているが、城壁が家の壁になっているのが面白い。城壁沿いにはまだ、城壁で見張りをしていた兵士とその家族が住んでいた小さな住居の残って、現在でも家屋として使用されている。

アウグスブルクの各所に小川が流れているが、実はコレ、城壁の周囲に巡らされたお堀だ。お堀の周辺には趣のある建物が多いので、時間のある方は城壁沿いに歩いてみてください。ある家の壁に埋め込まれている彫刻は”Die sieben Kindeln”と呼ばれている。伝説によればかってアウグスブルクに駐屯していたローマ軍の将校が、溺れ死んだ子供を悲しんで作成させたといわれている。城壁の内側の家屋はまるで城壁のように建設されており、敵が城壁を越えて侵入しても、さらにここで市内中心部への侵入を妨げるようになっているには感心です。

かっては交易の要所であったが、工業化の波に取り残されて意味を失う町が多い中、アウグスブルクは稀に見る例外で、工業化の波に上手く乗った。地味で堅実なシュバーベン人の性格のお陰か、名だたる大企業が多く誕生した。戦前にはメッサーシュミットや”MAN社”などの工場があったため、第二次大戦中に何度も空襲に遭ってしまった。お陰で貴重な建築物の多くが破壊されてしまった。「写真だけじゃ満足できない!」という方はアウグスブルクまでお越しください。一泊するなら中央駅前の“Intercity Hotel”。部屋は典型的な三ツ星だが、便利なロケーションにあり、安価、そして宿泊費に市内の電車、バスのチケット込み。自動販売機の前に立って、「どのチケットを買えばいいの?」という悩みを省略できます。予算に余裕がある方には、フッガー屋敷の横にある“Drei Mohren”をお勧めします。

最後に生活情報。アウグスブルクはミュンヘンから電車(IC)で30分(ICEなら20分)という地の利にありながら、物価、家賃が比較的安い。同じ程度の人口を抱えるマンハイムでは一番安い電車のチケットが2.5ユーロだが、アウグスブルクでは1.35ユーロ(2017年)と、ほぼ半額。この低価格で路面電車やバス網が市内くまなく走っており、生活、通学にはとっても便利。さらに治安がと~ってもいい。デユッセルドルフから来ると、「ほっ。」とする。ただし本当の日本食レストランは市内に一軒だけ。ほとんどの日本食はタイ人やベトナム人の経営する日本食なので、日本食レストランでのアルバイト探しには向いていません。その代わり日照時間はフライブルクと並んでドイツの都市の中でトップで、雨の多いドイツでは数少ないお日様に恵まれた町。雨の多いデユッセルドルフと比べると、雲泥の差です。そしてロマンチック街道の観光名所へのアクセスが素晴らしい。NeuburgLandsbergDonauwörthまで1時間以内、Nördlingenまで1時間、DinkelsbühlRothenburgまで2時間、ロマンチック街道制覇の拠点に最適です。観光重視の方には、これ以上適した町はありません。

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