ドナウヴェアト

街の紹介   Donauwörth

ドナウヴェアトはアウグスブルクから50km少々(道に迷わなければ)。40分ほどで行ける史跡を残す小奇麗な町。ロマンチック街道に載っているのも納得。アウグスブルクから電車で行っても30~40分。半日で行ってこれる観光地をお探しでしたら、ぴったりです。見かけた観光客(カメラを抱えているかどうかで判断)の数は片手で数えられる程度。 被写体を遮る観光客も少ないし、探検気分になるし、結構楽しいです。是非一度、お越しください。

ドナウヴェアトの名前の起源

「ドナウ何?」と聞かずにはおられない、日本人には発音不可能な名前の町。無理やり日本語で書くなら、ドナウヴェアト。「ドナウヴェルトじゃないですか。」とおっしゃる方もおられるが、ヴェルトは”welt”と書く。すなわちドナウヴェルトだと「ドナウの世界」という意味になり、ドイツ人は「一体、何が言いたいの?」と目を丸めます。日本では”r”は「ル」と発音すると学校で習うのが原因です。皆まで言えば16世紀まで町の名前は、”werd”と表記された。その後”wörth”と改名されたので、素直にヴェアトと読んであげよう。

ドナウヴェアトの歴史

名前の謎が解けたら、町の歴史を見てみよう。995年、今日のアウグスブルクの南で「天下分け目」の決戦、”Schlacht auf dem Lechfeld” (レヒフェルトの決戦)があった。伝説によれば数万人の巨大な軍を抱えるハンガリー帝国がドイツ領内に侵入、略奪を繰り返しながら怒涛の勢いで快進撃を続けた。当時、軍隊といえばせいぜい数千人。ドイツの地方都市にはこの巨大な軍に抵抗する手立てはなかった。

強大なハンガリー軍はようやくアウグスブルク要塞の前で停止、アウグスブルクを包囲してまさに襲い掛かろうとしていた。ここに救済にやってきたのが東フランク帝国の皇帝、オットー一世だ。ハンガリー帝国はオットー一世に使者を送り、フランク帝国に侵入する意図がないことを誓ったが、この使者が帰るや否やすぐに進軍を開始、こうしてオットー一世率いる寄せ集めの軍1万余りが、ハンガリーの大軍とアウグスブルクの南で決戦を挑むことになった。

天下分け目の戦い

圧倒的な優勢を誇るハンガリー軍の前で、オットー一世の軍隊は苦戦する。次々に指揮官をハンガリー軍の複合弓の犠牲になって失う。ここで「神風」が吹く。夏の空がいきなり真っ暗になり、豪雨に見舞われると複合弓の接着部分が剥がれて、役に立たなくなる。

この機会にオットー一世の装甲騎士がハンガリー軍に襲い掛かると、ハンガリー軍は大きな被害を受けて、退却を始める。しかし雨で膨れ上がったレヒ河が撤退、渡河を阻み、立ち往生。ここで退却するハンガリー軍を追撃してきたオットー一世率いる連合軍に背後を衝かれる。ハンガリー軍は逃げ場をなくして、完膚なきまでに壊滅される。この戦いの後、ドイツはオットー一世の下に統一されて、オットー一世はオットー大帝として神聖ローマ帝国の王座に君臨することになる。

この天下分け目の戦いに備えて、ドナウ河を渡る橋がかけられて、 “Burg Mangoldstein”(マンゴルドシュタイン要塞)が建設される。これがドナウヴェアトの町が建設されるきっかけになる。13世紀に町は当時の支配者シュタウファー家から、バイエルン公爵に売却される。14世紀には”Reichsstadt”に昇格、神聖ローマ帝国の直属の治世を受ける町になる。

その後、戦略上重要な拠点にあるこの町を巡って、オーストリアのハープスブルク家、スウエーデン軍、バイエルン軍との間で何度も戦闘が繰り返される。18世紀にバイエルン軍が連合軍に敗北してからこの町はバーデン家の支配下にあった。しかしナポレオン戦争の結果、ドナウヴェアトはバイエルン州に割譲されて、今日に至っている。

第二次大戦中、ちいさなこの町はほとんど被害を受けていなかったが、米軍の進軍に備えて1945年4月、戦争終結の2週間前に大規模な空襲があり、街の中心部は大きなを受ける。幸いなことに焼け落ちた町並みは(町の中心部に限られるが)復興され、かって繁栄していた頃の”Reichsstadt”の姿を見ることができる。

ドナウヴェアト観光

ドナウヴェアトはロマンチック街道の隠れた見所。人口は1万8千人。アウグスブルク(29万人)のような大きさはないし、ネルトリンゲンのように町自体が史跡というわけではない。それでもそこそこ見所があり、これが小さな町の中にあるので3時間もあれば歩いて見て回れるのがこの町の魅力だ。まずはこの町の一番の見所の帝国街道から始めよう。

かっては南ドイツのシルクロード、アウグスブルクとニュルンベルクを結ぶ神聖ローマ帝国の街道だったので、”Reichs(帝国)”Straße”(街道)と呼ばれている。この通りは坂道になっているが、一番高い場所に建っている「ぎざぎざの建物」は、フッガー屋敷だ。16世紀、お金持ちのフッガーは神聖ローマ帝国の”Reichspfleger”(代理人)となり、この町の実質上の権力者になった。その権力を誇示するために作られた宮殿のような建物だ。現在では町議会として利用されている。

Liebfrauenmünster

少し坂道を下った先には町の自慢の”Liebfrauenmünster”が建っている。15世紀に建立されたこの教会(塔)は、ネルトリンゲンのミヒャエルには負けるが、この教会からの見晴らしはすばらしい。元気があれば塔の上まで上ってみよう(4月~9月に限られます)。塔の向かいには、”Reichsstadtbrunnen”という噴水がある。古いものでなく、20世紀に建造された。モチーフは町がシュタウファー家の支配下にあった頃の紋章の鷲だ。

通りの中ほどにあり目に付くのが”Tanzhaus”で、14世紀に建築された。その名の通りかってはここで踊りが上演されて、宴会が引かれた。16世紀からは穀物倉庫として使用されたがスペイン王位継承戦争、それに第二次大戦で消失したが、1975年に再建された。

隣の黄色い塗装の立派な建物は町の指揮官の家で、マキシミリアン王の后が住んでいた。なんで奥さんを数百キロも離れたこの町に住まわせたのだろう。通りの終わりには綺麗な骸骨屋敷、”Baudrexlhaus”が建っている。向かいにあるのが市役所で、最初に建設されたのは13世紀。その後、何度か消失したがその度に再建され、また大きくなり、現在の姿になったのは19世紀。

リーダー門

市役所前の通りを右に曲がると、かっての町への入り口になっていたリーダー門が見えてくる。こんな小さな町なのに立派過ぎる。流石は”Reichsstadt”。この門から昔の城壁が延びているで、お堀に沿って少し歩いてみよう。この城壁の「外」にあたる部分は実は中洲になっている。門の周辺にはカフェが連なっており、地元民の憩いの場だ。

お堀に沿って歩き出すと、「真っ赤」な家が見えてくる。これは”Hintermeierhaus”と呼ばれているが、早い話、かっての漁師の家。15世紀に建造された。中世の漁師というと貧乏なイメージがあるが、なんと立派な家だろう。現時は町の博物館として利用されている。城壁に沿って薔薇や「その他の花」が咲いており、とっても綺麗。観光に行くならやっぱり夏。その先には綺麗に修復された”Färbertörl”という塔が建っている。

Klosteranlage Heilig Kreuz

ここでお堀を渡って市内の方向に戻ることもできるが、元気があればもうちょっと先まで歩くと、”Klosteranlage Heilig Kreuz”が見えてくる。この馬鹿でかい建物は、12世紀に建造された修道院。ここでひとつクイズ。来た道を戻り、中洲をチェックしてみよう。ここに石作りの高層ビル(6階建て)の建物がある。これでドナウヴェアトの主要観光名所はこれでおしまい。次は町の周囲を巡っている、城壁を探してみよう。

「あ、ドナウ河」と思ってしまうそうだが、実は“Wörnitz”河だ。河に沿って市内方向に戻ると、「あ、発見。」駐車場の片隅に城壁が。まるで日本のお城の城壁のよう。この道には散歩道という名前が付いている。しばらく歩いていくとシュールな彫刻が。ドナウヴェアトは芸術に力を入れているので、あちこちにシュールな彫刻、銅像が建っている。ここにある門(塔)は、牛)。塔をくぐると”Alte Kanzlei”の立派な建物、その先には昔の関税局、 そして左手には市役所が見えてきます。

Mangoldfelsen

帝国街道はもう見たので、その裏の通りを歩いてみると、あら綺麗。赤と白は目が刺ささります。塔をくぐってまた散歩道に戻ると、先に”Mangoldfelsen”が見えてきます。ここにかってのマンゴルドシュタイン要塞が建っていた。今日では城壁の一部として利用された岩と城砦の一部のみ見る事ができる。建造は10世紀なので1000年物だ。その先の見晴らし塔は、ネルトリンゲンで見たものとそっくり。

城壁はここで切れており、先に長屋のような建物が見えてくる。これは兵隊用の病院で、かっての城壁の壁に沿って建造されています。城壁を追っていくと、先に最後の塔が見えてきます。この塔のお隣はフッガー屋敷なので、これでちょうど町を一周したことになります。かれこれ3時間も歩きまわって観光名所はほぼ制覇。駐車場に向かって歩き出すと太陽の位置が変わって、帝国街道はまた違った雰囲気になってました。ミュンスターのすぐ近くの駐車場に戻り清算すると、たったの1.50ユーロ。3時間+ですよ。すごく良心的な値段です。

 

« 1 of 2 »