今回紹介する街の名前は ドナウヴェアト 。

そう、好評のドイツの秘境、誰も知らない街シーリーズ です。

ランツベルクネルトリンゲンなど、近場で有名な観光名所はひとまず制覇。

次はもっと知られていない観光名所探しに入り、見つけた街のひとつがドナウヴェアトです。

ネットで調べても、(綺麗な)写真は少なし。

「ハズレれかもしれない。」

という一抹の不安はありましたが、アウグスブルクの自宅から1時間もかからない距離。

「ハズレても話のネタになる?」

と思い切って、いってみることに。

街の紹介 ドナウヴェアト

まずは街の紹介から。

ドナウヴェアトは北から流れてきたヴェルニッツ河(*1)が、ドナウ川に合流する場所に築かれた街です。

二つの河川が自然の障害になっているので、あとは丘の上に陣地(城)を築けば、難攻不落の要塞が出来上がります。

政治上の区分で言えば、バーデン ヴュルテンベルク州に接したドナウーリース県 / Landkreis Dnaou-Ries の県庁所在でもある。

人口は2万人にも満たない。

当然、町を訪れる観光客(カメラを抱えているかどうかで判断)の数は、片手で数えられる程度。

でもちゃんと事前に調べてから街を歩いてみると、観光名所や史跡が随所に残っています!

行き方

ドナウヴェアトはアウグスブルクから北に50km少々の距離にあります。

アウグスブルク ロマンチック街道の発祥地は見所盛り沢山

自宅からはひたすら国道(でも制限速度は100kmh)を北信するだけ。

なのに道中、何故かナビゲーションは右折を指示!

指示された道はして大回り。

く~。

二回目はナビを信用せず、標識見て走ると車で40分ほどで到着。

電車で行っても30~40分。

ミュンヘンからバイエルン チケットが使える電車で向かうと、1時間45分。

ミュンヘン 徹底解説!街の歴史からお勧め観光名所まで

ちょっと微妙な距離です。

名前の由来

街の正式名称は”Donauwörth”。

始めて街の名前を聞くと、

「ドナウ何?」

と聞かずにはおられない。

日本人には発音不可能な名前を持つ街。

無理やり日本語で書くなら、ドナウヴェアト。

「ドナウヴェルトじゃないですか。」

とおっしゃる方もおられるが、ヴェルトは”welt”と書く。

すなわちドナウヴェルトだと「ドナウの世界」という意味になり、ドイツ人は

「一体、何が言いたいの?」

と目を丸めます。

日本では”r”は「ル」と発音すると学校で誤って習うのが原因です。

皆まで言えば16世紀まで街の名前は、”werd”と表記されてました。

その後”wörth”と改名されたので、素直にヴェアトと読んであげよう。

街の歴史

街の歴史

名前の謎が解けたら、街の歴史を見てみよう。

ドナウ河とヴェルニッツ河が交わるこの部分は、敵の侵入を阻む自然の要害に恵まれた地。

小さな集落はかなり昔からありましたが、その小さな集落が街に発展するきっかけになったのは、

「東からの脅威」

が原因です。

10世紀、当時、東ヨーロッパでぶいぶい言わしていたのは、ハンガリー大帝国。

ちょくちょくドイツに略奪にやってきました。

「これは将来、決戦になる。」

と判断した東フランク帝国(*2)の皇帝が

「天下分け目の戦」

に備えてドナウヴェアトに要塞を築きます。

ドナウ河に橋がかけられて、その橋を眼下に見下ろせる小山の上に “Burg Mangoldstein”(マンゴルトシュタイン要塞)の建築が急ピッチで始まります。

ハンガリー軍の猛攻

伝説によれば数万人の巨大な軍を抱えるハンガリー帝国がドイツ領内に侵入、略奪を繰り返しながら怒涛の勢いで快進撃を続けた。

当時、軍隊といえばせいぜい数千人程度の集団です。

ドイツの地方都市にはこの巨大な軍に抵抗する手立てはなかった。

オットー一世

強大なハンガリー軍はようやくアウグスブルク要塞の前で停止。

アウグスブルクを包囲してまさに襲い掛かろうとしていた。

ここに救済にやってきたのが東フランク帝国の皇帝、オットー一世だ。

ハンガリー帝国はオットー一世に使者を送り、

「東フランク帝国に侵入する企図はありません。」

と誓ったが、この使者が帰るや否やすぐに進軍を開始。

こうしてオットー一世率いる寄せ集めの軍1万余りが、ハンガリーの大軍とアウグスブルクの南で決戦を挑むことになった。

レヒヶ原の決戦

こうして995年に今日のアウグスブルクの南のレヒヶ原で起こった決戦が、レヒヶ原の決戦、”Schlacht auf dem Lechfeld” です。

圧倒的な優勢を誇るハンガリー軍の前で、オットー一世の軍隊は苦戦します。

次々に指揮官をハンガリー軍の複合弓の犠牲になって失います。

ここで「神風」が吹く。

夏の空がいきなり真っ暗になり、豪雨に見舞われると複合弓の接着部分が剥がれて、役に立たなくなる。

この機会に、オットー一世の装甲騎士がハンガリー軍に襲い掛かかかります。

「買ったも同然」

の気分だったハンガリー軍は反撃を受けて総崩れ、退却を始める。

しかし雨で膨れ上がったレヒ河が撤退渡河を阻み、立ち往生。

ここで退却するハンガリー軍を追撃してきたオットー一世率いる連合軍に、背後を衝かれる。

ハンガリー軍は逃げ場をなくして、完膚なきまでに壊滅される。

この戦いの後、ドイツはオットー一世の下に統一され、オットー一世はオットー大帝として神聖ローマ帝国の王座に君臨することになる。

Reichsstadt

要塞の周辺に築かれた集落は、12世紀に街に昇進します。

当時の街の名前は ”Schwäbischwerd”。

意味はシュヴァーベンのヴェアド/”werd”です。

“werd”はこの地方の貴族、”Mangold von Werd”から派生しています。

13世紀になると(日本の天皇家のような)ドイツ最古の貴族であるシュタウファー家が、お家断絶。

ドナウヴェアトはバイエルン公爵に売却されます。

14世紀にはバイエルン公爵領から独立、帝国都市/”Reichsstadt”に昇格して、神聖ローマ帝国の直属の治世を受ける街になる。

最盛期

ドナウヴェアトの最盛期は15世紀~16世紀にかけて訪れる。

交易で財を成した街は15世紀に聖母教会を建設。

その後、アウグスブルクでフッガー家がヨーロッパ一の大金持ちになると、ドナウヴェアトはフッガー家の庇護下に入る(*3)

戦災

17世紀以降、戦略上重要な拠点にあるドナウヴェアトを巡って、何度も戦闘が繰り返される。

まずは30年戦争時。

スウエーデン軍に占領されると、防御に適したこの地にプロテスタント軍の本陣が置かれ、ドイツ各地へ遠征。

しかしレーゲンスブルクの戦で敗北を喫すると、バイエルン軍が反撃に出てドナウヴェアトを占領。

その後、講和条約が結ばれて

「これで落ち着いた。」

と思えば、18世紀には今度はスペイン王位継承戦争に巻き込まれる。

バイエルン軍は連合軍に敗北、この町はバーデン家の支配下に移った。

しかしナポレオン戦争の結果、ドナウヴェアトはバイエルン王国に割譲されて、今日に至っている。

第二次大戦

第二次大戦中、小さなドナウヴェアトはほとんど被害を受けていなかった。

が、米軍の進軍に備えて1945年4月、戦争終結の2週間前に大規模な空襲があり、街の中心部は大きなを受ける。

幸いなことに焼け落ちた町並みは(町の中心部に限られるが)復興され、かって繁栄していた頃の”Reichsstadt”の姿を見ることができる。

ドナウヴェアト 観光 -帝国街道が見所 史跡盛り沢山の帝国都市

ドナウヴェアト 観光 -帝国街道が見所 史跡盛り沢山の帝国都市

ドナウヴェアトの一番の「誇り」は、帝国街道と呼ばれる街の中心を貫く300mほどの坂道。

街の最盛期の15~16世紀、交易で儲けた商人や権力者がその富と権力を見せつけるために、立派な屋敷を競って建てたのがこの帝国街道。

始めて車で通ると、いきなり瀟洒な家屋が建ち並ぶ光景に出ぐわして、

「立派じゃない!」

と少し感激。

個人的には城壁が一番気に入りました。

アウグスブルク(29万人)のような大きさはなく、3時間もあれば歩いて見て回れるのがいい。

皆までいえば、街のど真ん中の駐車場の料金がとっても良心的。

まずはこの街の一番の見所の帝国街道から始めよう。

ドナウヴェアト 帝国街道

ドナウヴェアト 帝国街道

かって南ドイツの交易ルートは、アウグスブルクニュルンベルクを結ぶルートで、神聖ローマ帝国の主要街道だった。

この街道は “Reichs(帝国)”Straße”(街道)と呼ばれている。

ドナウヴェアトの真ん中を、この帝国街道が通っている。

この道はちょうど市役所の前から始まり、一番高い場所に建っている「ぎざぎざの建物」フッガー屋敷まで続く坂道。

通りの両側には見事な屋敷が目白押し。

フッガー屋敷 / Fuggerhaus

フッガー屋敷

16世紀、お金持ちのフッガーは神聖ローマ帝国の”Reichspfleger”(代理人)となり、ドナウヴェアトの実質上の権力者になった。

その権力を誇示するために作られた宮殿のような建物がフッガー屋敷 / Fuggerhaus だ。

内部には見事な装飾品があったが、街がバイエルン王国に帰属すると、バイエルンの王様はまるで植民地のようにこれを接収。

装飾品はミュンヘンの国立博物館で展示されており、ドナウヴェアト市民にとってはゆるせないミュンヘンの横暴。

戦争で被害を受けたので、戦後、修復されました。

撮影にいくとピカピカだったので、最近、修復された様子。現在では県議会として利用されている。

聖母教会 / Liebfrauenmünster

 ドナウヴェアト 聖母教会

少し坂道を下った先にはドナウヴェアトの自慢の聖母教会 “Liebfrauenmünster”が建っている。

ドナウヴェアトが交易によりお金持ちになったので、同じ場所に建っていた教会を取り壊し、さらに大きな教会の建設が始まったのが15世紀。

もっとも建設工事はうまくいかず、教会の屋根が倒壊してしまう。

そこで建築家をクビにして、アウグスブルクから一流の建築家を呼び寄せ、23年後に無事完成。

そのせいか、尖塔がずんぐりむっくり。

途中で建設を辞めて屋根をのっけて完成させた経緯が、一目でわかります。

この教会(塔)は、ランズフートの教会のように、レンガで建立されている。

もっとも高さは比較にならないが。

元気があれば塔の上まで上ってみよう(4月~9月に限られます)。

この教会からの見晴らしはすばらしい。

帝国都市噴水 / “Reichsstadtbrunnen”

帝国都市噴水

聖母教会の向かいには、帝国都市噴水 /”Reichsstadtbrunnen”という銅像で飾れあれた噴水(井戸)がある。

古いものでなく、20世紀に建造された。

モチーフはドナウヴェアトがシュタウファー家の支配下にあった頃の紋章の鷲だ。

舞踏場 / Tanzhaus

ドナウヴェアト 舞踏場

帝国街道通りの中ほどにあり、真っ赤な色で目に付く大きな屋敷が舞踏場 / “Tanzhaus”だ。

正確な建造の年代はわかっていないが、ドナウヴェアトが栄えてた14世紀あたりだと考えられている。

その名の通りかってはここで踊りが上演されて、宴会が引かれた。

16世紀からは穀物倉庫として使用されたがスペイン王位継承戦争、それに第二次大戦で消失したが、1975年に再建された。

最近では建物の基礎がもろくなり、聖母教会のように屋根が抜落ちる可能性も出てきた為、

「取り壊す(安い)」

か、

「修復する(高い)」

が議論され、住民投票。

投票結果は、

「取り壊しが決まった。」

という報道と

 

「修復票が取り壊し票を上回った。」

 

という報道があり、よくわかりません。

次回、行った際にまだ建っているか(修復中)、取り壊されているか(新築される)、見てきます。

街の指揮官の家 / Stadtkommandantenhaus

街の指揮官の家

舞踏場の隣の黄色い塗装の立派な建物は、ドナウヴェアトの指揮官の家 / Stadtkommandantenhaus。

16世紀にはバイエルン公爵 マキシミリアン王の后が住んでいた。

なんで奥さんを数百キロも離れたドナウヴェアトに住まわせたのだろう。

その後、ミュンヘンから派遣された司令官が住んでいたので、この名前。

戦争で全焼。

戦後、以前の姿に復興されました。

Baudrexlhaus

Baudrexlhaus

帝国通りの終わりには、綺麗な骸骨屋敷、”Baudrexlhaus”が建っている。

16世紀に建造された”Fachwerkhaus”(骸骨屋敷)で、上述のフッガー屋敷と並ぶ、ドナウヴェアトを代表する建造物だ。

ドナウヴェアト 市役所

ドナウヴェアト 市役所

帝国街道の初めにあるのが、

「どっちが正面?」

と思わせる二面性のドナウヴェアト市役所です。

最初に建設されたのは13世紀。

その後、何度か消失したがその度に再建され、16世紀には3階(日本で言えば4階)が増築されたので、ちょっとちぐはぐな感じがします。

18世紀に屋根が作り直されて、そのちぐはく感はさらに完璧に。

見所は両方から登れる階段、”Freitreppe”と、ドナウヴェアトが帝国都市へ昇進した記念に取り付けたハープスブルク家の象徴である双頭の鷲。

リーダー門 / Rieder Tor

リーダー門

市役所前の通りを右に曲がると、かっての街への入り口になっていたリーダー門 / Rieder Tor が見えてくる。

ドナウヴェアトは最初から要塞都市として建築されたので、街は立派な城壁と水路で守られ、街に入るには4つの正門(塔)がありました。

近代化により次々に門が取り壊される中、唯一残ったのがこのリーダー門です。

現在はドナウヴェアトの資料館になっています。

ドナウヴェアト の離れ小島 リート島 / Insel Ried

ドナウヴェアト の離れ小島 リート島

リーダー門の

「外」

には、ヴェルニッツ河に浮かぶ島がある。

名前はリート島 / Insel Ried。

島とは言っても狭い部分の川幅は2mなので、誰にも言われなければ、島とはわからない。

島の部分は城壁の外ではあるものの、ヴェルニッツ河が自然の要塞になっていたので、島の部分は昔からドナウヴェアトの第二の核として発展していました。

門の周辺にはカフェが連なっており、地元民の憩いの場所。

ドナウ河、それとも ヴェルニッツ河?

ドナウ河、それとも ヴェルニッツ河?

河が見えると、

「あ、ドナウ河だ」

と思ってしまうそうですが、ヴェルニッツ河 /“Wörnitz”です。

写真中、中央部分が上述した中州のリート島 / Insel Ried です。

ドナウ河はこの写真の30m手前で、大きくコの文字を描いて迂回しており、観光中にまずお目にかかることはない。

ヒンターマイヤー家 / Hintermeinerhaus

ヒンターマイヤー家

城壁に沿って歩き出すと、リート島に「真っ赤」な家が見えてくる。

そこで橋を渡って見に行くと、これはヒンターマイヤー家 /”Hintermeierhaus”と呼ばれるかっての漁師の家。

15世紀に建造された。

中世の漁師というと貧乏なイメージがあるが、なんと立派な家だろう。

現在はドナウヴェアトの歴史を伝える博物館として利用されている。

墓場 / Friedhof

墓場

ヒンターマイヤー家の横(裏)の、運河との間の狭い場所に墓石が並んでいます。

なんでここに墓場 / Freidhof が?

墓石に刻まれたその年代が、とっても古い!

昔は死者を教会の敷地内に葬ることが一般的だったので、こにはドナウヴェアトの教会があったようです。

調べてもそんな記述がないので、まだ発掘作業がされていないようです。

大海原飯屋 / Gasthof zum Hohen Meer

大海原飯屋

リート島にドナウヴェアトの誇る高層建築物がある。

それが中華料理屋のような名前の大海原飯屋 / Gasthof zum Hohen Meer だ。

建造されたのは17世紀。

当時、大海原飯屋が入っていたのでこの名前。

今ではアパートになっても、同じ名前で呼ばれています。

主要部分は3階建てだが、屋根が4階もある。

中世の建築家でしか思いつかない、奇抜な構造です。

聖十字架修道院 / Kloster Heilig Kreuz

聖十字架修道院

元気があれば城壁に沿って先まで歩くと、馬鹿でかい建物が見えてくる。

これは聖十字架修道院 /”Kloster Heilig Kreuz”。

ドナウヴェアトに要塞が築かれた際に、要塞の中に築かれた修道院です。

落成式ではエギスハイム出身のローマ教皇レオ11世から、イエズスが処刑された十字架の一部が贈られたという

それは由緒のある修道院(*4)。

落成式では教皇みずからが、落成式を祝ったという。

もっとも当時はそれほど大きくはありませんでした。

こんなにでかいと要塞の中に納まりません。

12世紀にこの場所に移動され、このように巨大化しました。

19世紀には修道院は閉鎖になり、所有権はこの地方の豪族、エッティンゲン公爵の所有に移ります。

飾られていた装飾品は公爵の宮殿の飾りになり、建物はカトリック系の全寮制の学校に(*5)。

ドナウヴェアト要塞

ドナウヴェアト 要塞

聖十字架修道院の横にかって、ドナウヴェアトの街が要塞だった事が一目でわかる要塞の一部が残されています。

今はなんと幼稚園として利用中!

ドナウヴェアト 城壁

ドナウヴェアトの城壁

夏には是非、リーダー門から続く城壁に沿って歩いてみよう!

薔薇や「その他の花」が咲いており、とっても綺麗。

観光に行くならやっぱり夏。

Färbertor

Färbertor

しばらく歩くと見えてくるのがかわいらしいFärbertor。

日本語に訳せば、

「染屋の門」。

近くに染屋があったのか、それとも染屋が入っていたのか?

語源を探すも見つからず、、。

並木道 / Promenade

残りの城壁は一体、何処に?

ネットで調べた限りでは、見張り用の監視塔も残っている筈。

城壁はそもそも街の周辺を囲んでいるので、街の端っこに行けば見つかる筈!

ドナウヴェアトの裏手を目指して歩いていると、あ、発見。

城壁はドナウヴェアト旧市街の東側にが残ってます。

かっては城壁に沿ってお堀が掘られていた筈ですが、現在では川幅1mほどの小川が残っているのみ。

この城壁に沿って並木道 / Promenadeが儲けられている。

並木道に行くには市役所の前を左折して、100m直進するだけ。

シュールな彫刻

しばらく歩いていくとシュールな彫刻が。

ドナウヴェアトは芸術に力を入れているので、あちこちにシュールな彫刻、銅像が建っている。

あ、その先に見つけました、新らたな門(塔)を!

牛門 / Ochsentor

牛門

リーダー門ほど立派(綺麗)ではないですが、レンガがむき出して中世の趣があるこの門は、牛門 / Ochsentor です。

牛舎が通ったので、この名前になったんでしょうね。

牛門の前、お堀があった場所は埋め立てられて畑になってました。

「もう十分に見た!」

という方は、牛門をくぐればドナウヴェアト中心部に戻れます。

でもドナウヴェアト本当の見所はこの先にあるので、城壁沿いにもう少し歩いてみます。

マンゴルトシュタイン要塞 – Burg Mangoldstein

マンゴルドシュタイン要塞

城壁を見ながら並木道を歩いていくと、ドナウヴェアトの街が建設されることになったマンゴルトシュタイン要塞 /” Burg Mangoldstein”が見えてきます。

もっとも残っているのは、マンゴルトシュタイン要塞の土台になったでかい岩(マンゴルト岩)と、これに繋がっている(いかにもあとで作り直した)城壁だけ。

かってはこの岩の上に要塞、すなわち城壁に囲まれた都市が築かれていたんです!

今は土台しか残っていないので想像できないです。

建造は10世紀なので、1000年物。

この要塞からドナウ川にかけられた橋を監視していました。

14世紀初頭、オーストリア公爵は軍を進めてマンゴルトシュタイン要塞を陥落させます。

要塞を築くのに使われていた石材は、数百年にも渡ってドナウヴェアト市民が街の建造物の建設に流用。

それでもまだ1818年には要塞の跡があったそうですが、これも撤去されて、今は土台になった岩しか残っていません。

ドナウヴェアト 旧兵舎 / alte Kaserne

ドナウヴェアト 旧兵舎

城壁はマンゴルト岩の先で突然、終わっています。

「もう終わりなのかな?」

と通りを渡ると、先に長屋のような建物が見えてきます。

これは18世紀に建造されたドナウヴェアトの兵隊用の病院で、野戦病院 / Lazarett として利用されました。

地元の人は旧兵舎 / alte Kaserne と呼んでいます。

今は長屋として利用されており、どのアパートも住民がはいっています。

かなり人気があるみたい。

よっく見るとこの長屋、城壁の壁に沿って建造されています。

監視塔

監視塔

旧兵舎から城壁を追って歩いていくと、先に監視塔が見えてきます。

この塔のお向かいにあるのが、帝国街道にあるフッガー屋敷。

これでちょうどドナウヴェアトを一周したことになります。

かれこれ3時間も歩きまわって、観光名所はほぼ制覇。

駐車場に向かって歩き出すと太陽の位置が変わって、帝国街道はまた違った雰囲気になってました。

聖母教会のすぐ近くの駐車場に戻り清算すると、たったの1.50ユーロ。

3時間+ですよ。

すごく良心的な値段です。

注釈

*1     ヴェルニッツ河 /”Wörnitz”は デインケルスビュールハーブルクそしてエッテンゲンを経由して、ドナウヴェアトに到達。

通常はライン川のように標高の高い南から低い北に流れるのに、逆光している珍しい河川。

*2      ドイツ人で最初の皇帝カール大帝の帝国、フランク王国が分離して843年に出来た国。

*3      本来なら街はハープスブルク家や神聖ローマ帝国の庇護下に入るもの。街が一家の庇護下に入るのは、かなりの例外。

*4   ドイツ中に「キリストが磔刑になった十字架の一部が贈られた。」と称する聖十字架修道院があります。仏舎利と同じ原理です。

*5     学校内で生徒への性的な虐待が長年行われていたことが明らかになり、かっての名声は消散しました。

 

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