町の紹介

ニュルンベルクはフランケン地方、それも中央フランケン地方の大都市。フランケンは4大ゲルマン民族のひとつ、フランケン族とその居住地域を指す言葉だ。大雑把に言えばフランクフルトから東南のドイツの中心部に、フランケン族が多く住んでいる。バイエルン州で言えば北半分がフランケン地方。人口は50万を突破して、バイエルン州で第二の規模を誇り、さらに(赤字)空港、大学、大学病院など、インフラも整っている。

ニュンベルク 名前の起源

町の名前が始めて登場するのは15世紀になってからで、書簡にはラテン語で„noris amoena“と書かれていた。城砦の基礎となっている岩を指している言葉で、これが後に”Norimberg”に代わり、今のニュルンベルクになったと言われている。もっともフランケン族は、「ネルンベヒ」と言うので、外国人には何を言っているのかわからない。

町の歴史

この場所はザクセン(東ドイツ)から、バイエルンに向かう交易ルートにあり、9世紀にここに集落が築かれて、次第に発展していった。10世紀には神聖ローマ帝国の皇帝がこの地に兵を駐屯させると、町はさらに発展、13世紀に自由都市になる。度々の権力争いにもかかわらず、14~15世紀に町の繁栄期を迎え、ケルン、プラハ、そしてニュルンベルクは神聖ローマ帝国の三大都市として栄えた。

30年戦争では町は何度も包囲されるが、町の防御が鉄壁であったため、陥落する事がなかった貴重な町。ナポレオン戦争ではフランス軍に占領される。ナポレオンは戦争中、側面を守ってくれたバイエルン王国にニュンベルクを寄贈。これが原因で今日までニュルンベルクはバイエルン州に帰属している。

ナチスが政権を奪取すると、ニュンベルクの郊外に巨大な党大会会場を建設、毎年、派手な党大会を開催した。悪名高いニュルンベルク法でもわかる通り、ニュルンベルクはミュンヘンと並ぶナチスの本拠地だったため、対戦中は執拗な空爆の目標となった。30年戦争で破壊されなかった貴重な建築物は、この空爆の犠牲になって破壊された。空爆でまだ木っ端微塵になってないものは、1945年4月の「ニュルンベルク攻防戦」と呼ばれる地上戦で破壊された。

あまりにひどく破壊された為、戦後、町を放棄して別の場所に新ニュルンベルクを建築するか検討されるとほど、町は徹底的に破壊された。しかし結局は、同じ場所に戦前前と同じように町を再建設することが決まり、今日ではそのお陰で有名な観光地になっている。

ニュルンベルク観光

では見事に復興された町を見ていこう。まずは町の名前の起源になった城砦から。岩をうまく利用して城砦を築いており、どこが境目なのかわからない。神聖ローマ帝国の皇帝の住居地として使用されたので、この城砦は”Kaiserburg”(皇帝の城砦)と呼ばれている。では砦の中に入ってみます。万が一に備えて、城砦の中にさらに城壁を設けています。

Kaiserburg

城砦の中を歩き回るのは無料なんですが、監視塔やら、他の建物に入ろうとするとトイレまで、毎回、入場料がかかります。それが興冷めでした。見晴らし台からの眺めは、まあまあ。3mくらいある分厚い門の内側が皇帝のお住まい。門には神聖ローマ帝国の紋章が描かれてます。もっとも内部は工事中で、見れる場所はたいした事ありませんでした。長いトンネルとくぐると、お堀が見えてきました。

城壁を下って市街地を見に行きます。まずは一番立派な市役所。オリジナルはルネサンス式で16世紀に建造されました。戦後、見事に再建されています。正面入り口は3つありますが、それぞれの入り口に異なった見事な飾りが施されています。市庁舎の対面には有名な「ソーセージ屋」があるんですが、日曜日だったせいかお休みでした。裏に建っているのが”Sankt Sebaldus”教会。

Hauptmarkt

市役所の先に”Hauptmarkt”(メイン市場)があり、ここでドイツで一番大きなクリスマス マーケットが開かれます。ここに有名な”Der Schöne Brunnen”(綺麗な噴水)があります。見ていると女性が次から次へと柵に登ってます。最初は賽銭しているのかと思いましたが、上っているのは女性だけ、それに何かに触っているようです。

伝説によると柵を作ったマイスターにマーガレットという娘がいた。容姿端麗だったので徒弟からの求愛が絶えなかった。しかし貧乏な徒弟に大事な娘をくれてやる気はなく、「柵に回せる鉄輪をつけてみろ。できないだろう。」と言い、仕事場から追い出します。マイスターはそのまま出張、旅から帰って来ると、首にした徒弟が柵に回せる輪を取り付けていました。その輪は溶接の後も見えない見事な出来栄え。これを見たマイスターは首にしたことを後悔したが、徒弟は二度と戻ってこなかったという伝説です。でも何故女性が輪を回したいのか、そこは未だに不明。

Frauenkirche

綺麗な噴水の後方に有名な “Frauenkirche” があります。14世紀に建造された教会で、戦争中は甚大な被害を受けます。幸い、貴重な飾りや、有名な仕掛け時計はあらかじめ避難してあったので、戦災を生き延びた。お陰で当時の職人芸を堪能できます。

ニュルベルクで一番有名な教会はゴシック様式の聖ローレンツ 教会です。上述の聖ゼバルド教会を見本して12世紀に工事が始まり、15世紀に完成。戦後、小さな彫刻まで細部に拘って見事に再建された。この教会の向かいに写真のモチーフになっている”Nassauer Haus”がある。この塔は居住空間を備えた構造になっており、12世紀にお金持ちが建造させたもの。名前は15世紀の王様のナッサウ王から来ているが、建物とは関係はなし。大衆が何かの理由でそう呼び始め、これが定着、今でも(間違って)ナッサウの家と呼んでいます。ここは旧市街の中心地なので、お買い物客で日中は賑わっています。

Spital

この近くに有名な”Spital”(病院)があります。絵葉書のモチーフになっているので、「あ、見たことがある。」という方も居る筈だ。14世紀に建造されたこの病院は、帝国自由都市の中で最も大きな病院だった。病院の隣に防御塔があり、現在はカフェ兼レストランとして利用されており、天気のいい日は空席がないくらい人気です。市内を流れるペグニッツ河には多数の橋がかかっており、それぞれに個性があります。

肉橋

“Fleischbrücke”(肉橋)はここに肉屋が並んでいたのが名前の由来で、門は牛門と呼ばれています。ペグニッツ河に沿って歩いていくと、間もなく先に塔が見えてきます。これが物騒な名前の処刑塔です。町の処刑人が住んでいたのでこの名が付いた。横の橋は処刑人の橋。向かいにある橋の上から撮ると全部収まります。橋の袂には見事な骸骨屋敷。川面に移る家屋が綺麗なので、長時間露出すると渦巻く川面が綺麗に撮れます。この先にある橋が、”Kettensteg”(鎖の橋)です。老朽化の為2009年に閉鎖、2010年に寄付金で再建されました。

白革なめし商通り

このすぐ先に有名な”Weißgerbergasse”(白革なめし商通り)がある。かっての職人の綺麗な家屋が建ち並んでいる。どっちらを向いても綺麗な家屋が並んでいるのに、観光客の姿はほとんどない。ペグニッツ河の散歩に出かけたら、是非、ここまで歩いてみよう。内堀の外には”Albrecht Dürer”の家が立っています(赤い家)。皆まで言えば有名な画家です。ここにとってもシュールな彫刻、”Der Hase”(うさぎ)があります。デユ-ラーの作品に、「野うさぎ」って作品があるので、そのパロデイーかと思われます。

ナチス党の党大会会場跡

ニュルンベルクの郊外にはまだナチス党の党大会会場跡が残っています。一番有名なのはツェペリン広場。20年前に訪れると朽ち果てるにままになっていましたが、今回はそこそこ手入れがされていました。パレード用の”die große Strasse”も、この通り整備されてます。現存するナチスの建造物として最大の規模を「誇る」のが、”Die Kongresshalle”だ。近くまでくると、その大きさに圧巻。これが綺麗に修復されていて、つい回廊を歩いてみたくなります。一般人用の入り口は裏にあり、内部は未完成。何かに使われている様子はなく、唯一の意味のある使い道は市の音楽団のオフィスのようです。

アウグスブルクからニュンベルクまで車で1時間45分ほど。案外、近いです。電車で行くと2時間ほどかかります。大都市だけあって、半日では史跡を全部見て回る事はできませんでした。ナチスの党大会会場が大き過ぎて、ここで2時間近く歩き回りまわったのが原因です。バンベルクレーゲンスブルクには勝てませんが、史跡が多いのでバイエルン州に留学されたら、是非、一度行って見ましょう。フランケン地方はワインの産地でもあるので、お土産にフランケンワインをお忘れなく。そうそう、ニュンベルク大学はお隣のエアランゲン大学と組織上合体、”FAU”という名前になりました。何のことだかわかりませんよね。正式名称は”Die Friedrich-Alexander-Universität Erlangen-Nürnberg”。省略するのもわかります。

 

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