アウグスブルク と言っても、「アウ、、何だって?」と聞き返されるくらい日本では無名な町。
しかしアウグスブルクはミュンヘンとニュルンベルクに次ぐ、バイエルン州で3番目に大きな都市。
今や29万人もの人口を抱えている。日本なら
「たった29万人?」
だが、ドイツなら立派な大都市で、ロマンチック街道の城砦都市です。
日本では知られていないので、テレビで紹介されることはまずないですが、ネット上では街の観光情報が錯乱しています。
残念なことにその内容は間違っていたり、見当違いな物が多くなっています。そこでアウグスブルクに住むドイツの達人が、街の本当の姿を紹介いたします。
街の紹介 アウグスブルク
まずは街の紹介から。アウグスブルクの人口増加の原因、それとも原動力?はふたつ。
最初のひとつは大都市ミュンヘンのお陰です。ミュンヘンの発展と共に、家賃が高騰。こんな高い場所には住めないと、移り住む人が増えました。
もうひとつの理由、そして最大の理由は生産業です。アウグスブルク発祥の大企業が多く、市内には大学が2つあり、優秀な学生を育成しています。
企業はこの優秀な学生を求めて、この地に会社の本社、研究所、工場を建設。お陰でとっても景気がいいです。
さらにこの街はフライブルクに並ぶ、日照時間の多い街。ミュンヘンほど物価が高くなく、訛りはあるが人が優しいので、とっても住みやすいです。
難点は、日本食が手に入りにくい点と、ミュンヘン空港までちと遠い点。
レヒ河とヴェアタッハ河に囲まれた街
「日本では知られていない」
と冒頭で書きましたが、
「いや、そんなことはない。アウグスブルクなら知っている。」
って稀有な方に遭ったら、
「じゃ、どの河畔に築かれた街なの?」
って、知らないフリをして聞いてみよう。まず正解は望めない。
アウグスブルクはレヒ河と、ヴェアタッハ河のふたつの河畔に囲まれている中州のような地理が特徴です。
ヴェアタッハ河は街の北でレヒ川に流れ込み、そのレヒ河は街の北にあるドナウヴェアトで、ドナウ川に流れ込んでいる。
この二つの河川が天然の障害になっており、ここに城塞都市を築くのには都合がよかった。
世界遺産に登録された水路網
二つの河川に囲まれているので、アウグスブルクは水に恵まれた街です。
町中に水路が巡らされています。それもフライブルクのような、ケチな水路じゃない!何も知らない人が見れば小川です。この水路網が2019年、世界遺産に登録されました!
旧市街地は丘の上。ここに水を配給するため、給水塔や水車が施され、街の隅々まで水が行き渡っています。数々の噴水も、この水路があったから設置が可能になりました。
そしてアウグスブルク市がこれを、「水道があるからもう要らない。」と埋め立てず、今日まで大金をかけて保護している点が評価されました!
観光に行ったら、是非、見てください。そこら中で水が流れてます!噴水の数もとっても多いです。
街の歴史 – ローマ帝国の植民地
次ぎに街の歴史を見ていきましょう。
アウグスブルクは、トリアーに次いで2番目に古い歴史を持つドイツの街です。
ミュンヘンがまだ小さな集落だった頃、ローマ帝国の植民地の首都として栄えていました。この植民地がAugusta Vindelicorum と呼ばれたのが、名前の起源です。
アウグスブルクの表象(ドイツ語で”Wappen”)になっている”Zirbelnuss”(松ぼっくり)は、この地方には自生しないので、ローマ帝国の植民地だった頃の名残ではないかと言われています。
参照 : Stadt Augsburg
アウグスブルク の発展
10世紀、東フランク帝国の王様、オットー1世が街の南で東からの脅威であったマジャール人を、要塞の南、レヒ河畔の戦いで撃破します。
これをきっかけに、アウグスブルクの発展が始まります。12世紀には帝国都市 /”Reichsstadt”に昇格(ミュンヘンよりも2年早い)。これが市民の自慢です。
13世紀にオーストリアのハープスブルク家が、街に税金を徴収する権利を与えると、税金で潤います。15世紀にはヨーロッパの出版業の中心地になり、16世紀には株式市場までオープンしている。
街が誇る有名人 – フッガー家
アウグスブルクが誇る有名人と言えば、フッガー家をおいて他にない。
フッガー家は14世紀からイタリアの織物を輸入して販売、最初の富を築いた。15世紀にヤコプ フッガーが経営を引き継ぐと銀行業に事業を拡大、カトリック教会、ハープスブルク家などを顧客に数え、事業は順調に拡大した。
儲かった金を銀、銅鉱山に投資、その後は水銀、鉛などにも事業を広げ大成功。膨大な富を抱え、“Jakob Fugger der Reiche”(金持ちのヤコプ フッガー)という異名を頂戴した。
フッガー家が凋落した今日でもアウグスブルクの街は、「フッガーの町」と呼んで、かっての盛況ぶりを偲んでいる。
参照 : Wikipedia
アウグスブルク の和議
16世紀には宗教闘争が表面化する。
アウグスブルクは福音派(ルター派)の砦となり、他の宗派、特にカトリック宗派を弾圧し始めた。これにオーストリア帝国が怒り、軍を派遣して街を焼き払おうとした。
ここで上述のヤコプ フッガーが介入、街の身代金をオーストリア皇帝に払い、街は救われた。
1555年に有名な「アウグスブルクの講和」が締結されて、どの宗派も自由に信仰をする事が可能になった。しかし紛争はくすぶり続け30年戦争に発展。
戦争中はスウエーデン軍に占領され、17世紀にはバイエルン軍に短期占領され、経済は衰退する。この頃に街で望遠鏡が発明されて、欧州全域から注文が殺到して、これまでになかった栄華を迎えることになる。
バイエルンのシュバーベン(人)
アウステリッツの戦いでナポレオンがロシア、オーストリア連合軍を撃破すると、ナポレオンに加担したバイエルン王国は戦勝国。
その褒美として、隣の州に属していた経済的に重要な東シュバーベンが割譲された。
これが原因で、今日までアウグスブルクはバイエルン州に帰属している。
シュバーベン人は本来、隣接するバーデン ヴュルテンベルク州に多く住んでいるので、バイエルンに住むシュバーベン人は混乱を避けるため、
「バイエルンのシュバーベン(人)」
と呼んでいる。
アウグスブルク 観光 – ロマンチック街道の城砦都市
アウグスブルクがその他の観光名所、ネルトリンゲンやデインケルスビュールなどと大きく異なるのは、街の規模。
かって欧州一の大金持ちでブイブイいわしたアウグスブルクの旧市街はでかいっ!
最大の観光名所は中心部にあるものの、城塞都市の遺跡を見に行くなら、旧市街の端っこまで行かなきゃみれません。
これには電車を駆使するか、自転車でもないと、観光名所を全部を1日で見て回るのは不可能。どちらにしても、土地勘がなければむずかしい。
そこで現地人の強みを生かして市内各地を歩き回り、他の観光案内では紹介されない名所を撮影してきました。
アウグスブルク観光をご計画されている方は、観光プランの参考にしてください。
アウグスブルク 市役所 / Augsburger Rathaus
まずは絵葉書のモチーフになっているアウグスブルク市役所 / Augsburger Rathaus から始めよう。
最初の感想は、デカイっ!街の人口はデユッセルドルフの半分ほどだが、市役所は倍の規模がある。
1624年、アウグスブルクの黄金時代に完成したこの市役所は、57mの高さを誇る2つの塔を持つ。1917年にベルリンに”Behrensbau”が建造されるまで、
「ドイツで一番高い建造物」
の地位を300年近く守ってきた。建造された17世紀には、6階以上の改装を持つ建物は、世界広しといえどここだけ!
市役所の正面上部に描かれているのは、神聖ローマ帝国象徴である双頭の鷲です。
又、この市役所は後ろから見てもほぼ同じ形をしているので、是非、後ろからもチェックしていこう!
金の間 / Goldener Saal
市役所にはいろんな見所があるが、一番の見所は金の間 / Goldener Saal だ。
クルミの木(硬い)に施された見事な彫刻を、金箔で覆った間で、まさにアウグスブルクの金閣寺。
残念なことに第二次大戦で爆弾が命中して破壊されたが、80年代から当時の姿に再現させる工事が始まり、完成したのは1996年。
入場料、2.50ユーロを払えば、入ってみることができます。
参照 : アウグスブルク市役所
ペルラッハ塔 / Perlachturm
市役所の横に建っているのは、監視塔として建造された ペルラッハ塔 / Perlachturm だ。
この塔、なんと10世紀建造です。アウグスブルクでも最古の建造物のひとつ。
火事で家屋が焼失した後、ここに監視塔を設置することに。というのも旧市街地は丘の上にあり、ここはその丘の上でも最も標高の高い場所。見張り塔を設置するには絶好の場所でした。
建設当時は30mしかなかったそうですが、そんなに高い建造物のない当時、はるか彼方から押し寄せる敵軍を察知できました。あとから横に教会を建て、独自の塔を節約。
塔のてっぺんに設置されている鐘は、教会のように時刻を伝えるものではなく、火事や危険を伝えるものです。
度々改築され、今では70m+の高さがあります。入場料が2ユーロかかりますが、てっぺんからのアウグスブルクの見晴らしはとっても良好です。
見晴らし台には金網が張られていますが、その隙間から写真が取れますので、是非、登ってください。汗をかいて上るだけの見ごたえがあります。
マリアドーム/ Dom St. Maria
市庁舎の前を左に行くと、通りの終わりに立派なカトリック教会、マリアドーム/ Dom St. Maria が見えてくる。
なんと8世紀に建立されたというから、日本で言えば奈良の大仏と同じ時代の建造物だ。
しかも敷地内を発掘すると4世紀に建造された教会の土台が出てきたというから、まるでイタリアのように掘れば遺跡が出てくる街だ。
その後、戦災や建設ミスで何度が壊れたので、現在の形に再建されたのは15世紀。
ドーム噴水 / Dom Brunnen
マリアドームの前にドーム噴水 / Dom Brunnen があり、謂れのありそうな銅像、守護神三体が、それぞれのポーズで陳列されている。
一番哀れな姿なのは右側の女性像。名前はアフラ。なんでも逃亡中の宣教師をかくまった罪で火あぶりにされて殺された。その後、キリスト教の殉教者、聖人としてあちこちで祭られている。
アウグスブルクからミュンヘンまで電車(鈍行)で行くと、「聖アフラ」という町で電車が止まるので、この名前を聞いたら思い出して欲しい。
真ん中の威勢のいい牧師は、オットー一世が援軍を率いてアウグスブルクの救援に来るまで、ハンガリーの大軍の侵入を阻止したという(おそらくは謂れのない)伝説だ。
もうひとつの像は司教、ジンペルト/ Simpert の像だ。言い伝えではカール大帝と縁があり、大帝の支援で町に教会を建立した。
この3人が街の守護神とされているので、アウグスブルクに住むなら知っていても損はしない。
カトリック司教様の宮殿 / Reseidenz
マリアドームの奥にレジデンツ(宮殿)/ Residenz があります。
ミュンヘンでレジデンツと言えば王様の住んでいた城だが、アウグスブルクではカトリック司祭の宮殿だ。なんで?それはこの街はかって、司祭が王様として君臨するカトリック司教国だったから。
まさに王様にふさわしい立派な作りです。中世の頃、宮殿と言えば王様の散歩用の宮廷の庭/Hofgarten が付き物です。宮殿の目と鼻の先にある宮廷の庭は市民のに解放されており、憩いの場になっています。
メルクーア噴水 / Merkurbrunnen
市役所の前を右に行くと、見事に復興された建物が見えてくる。ここにメルクーア噴水 / “Merkurbrunnen”という噴水がある。16世紀にお金が余って仕方がないフッガーが作成を依頼した。
彫刻のモチーフはフッガーらしく、商売の神様”Merkur”なのでこの名前です。
聖モーリッツ教会 / St. Moritz
この交差点に聖モーリッツ教会 /”St. Moritz”教会が建っている。
11世紀にアウグスブルク司教が聖モーリッツ(騎士の守り神だそうです。)を祭る宗教団体を創設。その死後は、司教の遺体もここに埋葬されました。
13世紀に火事で焼け落ちで、14世紀に再建。その後、なんども改築、増築されて、内部は豪華絢爛な装飾が施されてます。16世紀になるとお金持ちのフッガー家がローマ教皇から許しを得て、教会の主導権を得て、フッガー家の教会となりました。
第二次大戦で焼け落ちたので、今の姿に再建されたのですが、お金がなかったので装飾などはなし。とっても質素なカトリック教会です。
この場所はモーリッツ広場といい、アウグスブルク旧市街のど真ん中。レストランやカフェが立ち並び、スーパーもあるので、電車を待っている間にお買い物もできてしまう(値段は高めの設定です)。
織物師の家 / Weberhaus
モーリッツ広場の交差点にカラフルな壁画で有名な織物師の家 /”Weberhaus”が建っている。
最初に建造されたのは14世紀。手工業者の組合が置かれました。16世紀にはアウグスブルクの発展の原動力となった、織物の市場として利用されます。
この為、織物師 /”Werber”の家 /”Haus”で”Weberhaus”です。
当時から壁画が描かれていましたが、今のような立派なものになったのは18世紀になってから。何度か家は所有者を変え、20世紀初頭、市がバイエルン王立博物館から買い取り、立派な装飾を施します。
なのに第二次大戦で全焼。長い年月と大金をかけて、1959年に再建されました。
レヒ地区 / Lechviertel
ペルラッハトゥルム横にある、真っ赤な建物の脇道入ってみよう。
この辺は上述の戦争で焼け残った、昔の家屋が残るレヒ地区 / Lechviertel だ。見て歩くのが楽しい。
レヒ地区から少し北に行くとヤコブ地区になり、あのフッガライもこの地区にあります。
ゲオルグ噴水 / Georgsbrunnen
まずは近場から。この坂道を降りると見えてくるのが有名な聖ゲオルグ噴水 / Georgsbrunnen だ。
竜退治をモチーフにした銅像と噴水で製造されたのは1565年。当初は市役所前に展示されていたが、19世紀にこちらに移動された。
ゲオルグ噴水の後ろの景色は、(私が)写真でよく撮るモチーフ。皆さんもお試しあれ。
アウグスブルク 市営中央肉屋 / Stadtmetzg
17世紀初頭、アウグスブルクの人口は1万6000人を超える大都市でした。
なんども城壁を外側に作り直したのですが、住民への肉の供給が難しくなります。何よりも衛生問題に頭を悩ませます。そこでお金持ちのアウグスブルク市は、市営の中央肉屋 / Stadmetzg を建て、質のいいお肉を市民に提供することに。
都市計画の責任者が探してきたのは、運河が流れていて、血やくず肉を捨てるのに都合がいいこの場所でした。このため建物の軒下には、牛の頭が石像があります。是非、観てください。
聖ヤコプ教会 / St. Jakob
市営中央肉屋の前の道路、素足通り / Barfüßestraße と言います。
多分に角にある素足教会から来ている名前です。素足通りを歩いていくと、交差点から先はヤコプ地区になります。その名前は、ここにあるプロテスタント系の聖ヤコプ教会 / St. Jakob から。
この聖ヤコプ教会、理由は不明ですが、アジア人の信者が多いんです。
フッガライ/ Fuggerei
そのヤコプ地区にあるのが、フッガライ / Fuggerei 。
ドイツに興味のない方曰く、「何、食べ物なの?」。恐るべし、ゆとり教育。
フッガライは、あの大金持ちのヤコプ フッガーが恵まれない方のために建てた当時の「私営住宅」だ。
城壁の中に建設されたので、現在でもアウグスブルクの真ん中。路面電車の駅は目の前。この絶好の立地の良さのアパートの賃貸料、幾らだか知ってますか?なんと1ユーロです!それとも1年間。
なのに入場料は6.50ユーロ。ちょっと高くありません?
参照 : Fugger.de 開館時間 夏 8時~20時 冬 9時~16時 入場料 6.50ユーロ
日本人共通の勘違い
このフッガライに関して、日本人に共通する勘違いが存在しています。
フッガライを日本語に直すとフッガー長屋。ところが日本では、フッガー屋敷と紹介されています。見てください、どうみても屋敷じゃありませんよね。
本当のフッガー屋敷は”Fuggerhäuser”といい、マキシミリアン通りにあるフッガー家の大きな屋敷を指します。
この誤解は日本の教科書が、「フッガー長屋」を「フッガー屋敷」と紹介したが原因。お陰で日本人のほとんどは、フッガー長屋をフッガー屋敷と呼んでいます。
日本には「ドイツ伝説」が数多く存在していますが、これもそのひとつです。
元祖フッガー屋敷 / Fuggerhäuser
モーリッツ広場まできたら、アウグスブルクの目ぬき通りマクシミリアン通り / “Maximilianstr.”を歩いてみよう。
参照 : google map
ここに有名な元祖フッガー屋敷 /”Fuggerhäuser”が建っている。見ればわかる通り、巨大でまさに屋敷という名前にふさわしい。
ちなみにフッガー屋敷は今日でもフッガー家の所有物で、(お金持ちだけがお客さんになれる)フッガー銀行も入っている。
ヘラクレス噴水 / Herkulesbrunnen
街で一番の高級ホテル、”Drei Mohren”の前にあるのが、ヘラクレス噴水/ Herkulesbrunnen です。
アウグスブルクの「三大噴水」のひとつ。ここから目ぬき通りを撮った写真は絵になるが、車にはねられないように注意して写真を撮ろう。このヘラクレス像は17世紀の初頭に鋳造されたもの。
7つの頭を持つヒドラをヘラクレスが燃え盛るこん棒で退している様子がモチーフだ。噴水の下部には水に関する神々が鋳造されている大作品。
シェッツラー家の宮殿 / Schaezlerpalais
シェッツラー家の宮殿 / Schaezlerpalais を日本に直すとお宝の宮殿という意味になるだが、本当の意味は少し違う。
ミュンヘンがピナコテークなら、シェッツラー家の宮殿はアウグスブルクを代表する美術館だ。マクシミリアン通りから見ると比較的小さな入り口の部分しか見えないが、奥行き107mもある立派な宮殿だ。
15世紀に神聖ローマ帝国の皇帝、マキシミリアン皇帝の命令で建設され、皇帝も何度かここで宿泊したこともある。その後、銀の取引でお金持ちになった銀行家がこの建物を買い取った。
19世紀に大金持ちの銀行家、シェッツラ一家がこの宮殿を購入して一家の自宅になっていたので、「シェッツラー家の宮殿」と呼ばれる。
アウグスブルクの大金持ちはヤコプ フッガーがそうだったように、死ぬまでに使えない富は使ってしまうか、寄贈する。
シェッツラ一家もこの宮殿を、「売却しない事。」を条件にアウグスブルクに寄贈した!今だったら何十億という資産になったのに!
時間のある方、雨で観光ができない方は、ここで美術館見物をしてはどうだろう。
参照 : Kunstsammlungen und Museen Augsburg 開館時間 10時~17時 月曜日休館 入場料 7ユーロ
ウルリヒ教会 / St. Ulrich
通りの終わりに建っているのは、プロテスタント系のウルリヒ教会 / St.Urlichだ。
そのすぐ後ろにある巨大な教会は、カトリック系の聖ウルリヒ & 聖アフラ教会 / Basilika St. Ulrich und Afra。よっく見ないと、同じ建物のように見える。
聖ウルリヒ & 聖アフラ教会は尖塔が高く、ほぼ旧市街全域から見えるので、アウグスブルクの象徴になっている。
この場所には街の守護神、聖人アフラを祭る教会が建っていたが、ハンガリー軍が街を包囲した際に攻撃で破壊されてしまった。その後、再建、増築が何度も行われ、今の姿になったのが15世紀。
旧鍛冶屋 / alte Schmiede
教会に近くには砦のような飾りを施された建物など、見事な装飾を施された建物が多い。
通りをそのまま進むと聖ウルリヒ地区 / St. Ulrich 地区になり、古い建物が多く残っている。
ここはかってのかじや / alte Schmiede です。家の壁にはまだ昔の看板がかかっており、まるでタイムスリップしたような気分になる。
アウグスブルク 赤い塔 / Rotes Tor
ここまできたら「アウグスブルクで一番綺麗な塔」と誉れの高い、 “Rotes Tor”(赤い塔)まで目と鼻の先。
15世紀に建造されたこの塔は、給水塔と一緒になっている。市内の中心部は小高い丘にある。この標高差にもかかわらず、市内に水を供給する目的で、丘になっているここに給水塔が建設された。
この場所はかってのアウグスブルク要塞の角にあたるので、付近には巨大な防壁が残っている。城壁に沿って散歩するのは気分がいいが、ホームレスの自宅となっているので、女性の一人歩きは禁物です。
アウグスブルク 人形劇 / Augsburger Puppenkiste
ドイツ人がアウグスブルクと聞いて最初に連想するのは、アウグスブルク人形劇 / Augsburger Puppenkiste 。
赤い塔の目と鼻の先にあり、いつも子供連れの両親が開演を待ってるほど、ドイツでは「知らない者はいない。」有名物。
この地区に隣接しているのがレヒ地区で、運河が流れて雰囲気のいい地元民の憩いの場。レストランやさまざま店舗が店を構えている。
レヒ地区の建物には趣があり、理髪店や皮なめし商の看板も、町の景観を崩さない看板になっている。
また教会の多い事。教会の密集度は、名古屋 & 京都並み。
城壁 / Stadtmauer
アウグスブルクはかって二重の城壁 / Stadtmauer とお堀が街を囲み、要所には巨大な要塞があり、敵の侵入から守られていました。
工業化に伴い城壁は取り壊され、お堀のほとんどは埋められて道路になりました。しかし市内東部では、当時の姿でお堀が残ってます。グーグルマップで検索してください。
中世の頃のお堀がしっかり残っているのがわかります。これが実にデカい!こんなお堀を手作業で、しかもでかい街の周囲をぐるりと掘るんだから、とても大変な作業でした。
日本でも城を守るためにお堀と城壁がありましたが、所詮は城の周りだけ。欧州では街の周囲を囲んでいたので、そのスケールには圧倒されます。
この城壁は、スウエーデン軍がアウグスブルクを攻略した際に、陥落に成功した場所。ここに階段が設けられており、スウエーデン階段と呼ばれています。
石の男 / der Stoinerne Ma
旧市街の各所には、城壁や見張り塔などがまだ随所に残されている。
そのひとつの塔の中には石の男 / Der Stoinerne Ma が祭られている。伝説によれば30年戦争中、アウグスブルクは何度も包囲されて兵糧攻めに遭う。
市内では食べ物が尽きたが、パン職人はおが屑でパンを焼くと、
「アウグスブルクにはまだパンが十分あるぞ。」
といわんばかりに城壁超えに(食べれないおが屑)パンをお堀にひょいひょいと投げ込んだ。これを見た包囲軍は怒って、このパン職人を弓で撃った。
弓は右腕に命中してパン職人は腕を失ったが、
「包囲しても効果がない。」
と勘違いして兵を引き上げた。お陰で住民は餓死の運命から救われたという伝説だ。
ボート乗り場 / Kahnfahrt
その一角にボート乗り場 / Kahnfahrt があり、お堀ではボートに乗ることができます。
近くには電車の駅がなく、観光名所とも離れているので、アウグスブルクの地元民しか知らない隠れた観光名所です。
ドイツの寒い冬にボートに乗ってお堀に落ちたら、ショック死します。ですから冬は閉まってます。オープンしているのは、お堀に落ちても平気な4月~9月まで。
冬にいくと見事に閉まっており、写真も撮れませんでした~。城塞だけに侵入不可。
リュークインスランド要塞 / Lueginsland
読み方が難しいですがリュークインスランド要塞 / Luesginsland です。
当時の方言では”Lueg”は注意してみることを指していたそうです。15世紀から8角形の要塞が建っていましたが、15世紀初頭に雷が落ちて焼け落ちたので、大急ぎで再建されました。
するとまた雷が落ちて壊れます。この場所は隆起した小山のような地形だったので、ここに塔を作ると雷のいい目標。そこで今度は塔を作らずに、要塞に作り直されました。
かってはこの要塞の前にはお堀があり、吊り橋がかかっていたんです。今では想像が難しいです。
1866年に「アウグスブルク城塞解禁例」が出て、要塞としての役目が終わり、お堀は埋め立てられました。
要塞はほったらかし(朽ちるに任せる)にされていたのですが、戦後、アウグスブルク市が大金をかけて補修、保存してます。最後の補修工事は2018年。もう終わってるかな?
フィッシャー門 / Fischer Tor
未だに城壁と繋がっているのは、アウグスブルクの北西にあるフィッシャー門 / Fischer Tor 。
とても小さくてかわいいですが、これでは敵の侵入を防げないことは明白。実はここにあった城門は、スペイン王位継承戦争で破壊されました。
その後、「門がないと寂しい。」という農民の訴えで、建造されたもの。防御目的ではなく、飾りです。
フィッシャー門の外、ちょうど道路になって車が走っている場所が、かってお堀のあった場所。アウグスブルク市内に入るには、お堀にかかっている木橋を渡って、城門をくぐって入る必要がありました。
散歩道
フィッシャー門の横から、階段を上って城壁に沿って歩く散歩道が設けられている。
観光でアウグスブルクに来ているとそんな時間はないが、住んでいると景色が良く、実に便利な散歩道。
小高い場所には低い城壁が、くぼ地には高さ7~8Mもの高い城壁が、延々と続いている。時折、城壁に沿って家屋が建っているが、城壁が家の壁になっているのが面白い。
城壁沿いには見張りをしていた兵士と、その家族が住んでいた小さな住居が残っており、現在でも家屋として使用されている。
7人の子供 / Die sieben Kindeln
お堀の周辺には趣のある建物が多いので、時間のある方は城壁沿いに歩いてみてください。
家の壁に埋め込まれている彫刻は7人の子供 / “Die sieben Kindeln”と呼ばれている。
伝説によればかってアウグスブルクに駐屯していたローマ軍の将校が、溺れ死んだ子供を悲しんで作成させたといわれている。
天使の宴 / Engelsspiel
最後は毎年、クリスマスの前に開催される天使の宴 / Engelsspiel です。
1977年からほぼ半世紀にわたって続けられるこの宴は、街の自慢でこれを目当てに近郊の都市から人が集まり凄い人手になります!
宴は音楽に合わせて市役所のバルコニーで上演されますが、上演後は出演者が市庁舎前に設けられた舞台に降りてきます。
が、一番前の席を抑えていないと、すごい群衆で何も見えませんです。日本ではまだ誰も紹介していないので、現地人だけが知っている名物です。
是非、クリアスマーケットを見にドイツに行く際は、アウグスブルクも終われなく。
まだここで紹介できなかった観光名所がアウグスブルクには山のようにあります。
紹介できなかった分は、観光に来た際のお楽しみ!
アウグスブルク 何処に泊まる?
アウグスブルクで何処に泊まる?
ローケーションを重視して泊まるなら、中央駅前の“Intercity Hotel”。
部屋は典型的な三ツ星だが便利なロケーションにあり、安価、そして宿泊費に市内の電車、バスのチケット込み。自動販売機の前に立って、「どのチケットを買えばいいの?」という悩みを省略できます。
何よりも空調機を備えているので、夏の猛暑時期でもほのかに涼しい風が出てくるので、夜、寝れます。
予算に余裕がある方には、街で一番の高級ホテル、フッガー屋敷の横にある“Drei Mohren”をお勧めします。
生活、物価、治安、天気
アウグスブルクはミュンヘンより物価、家賃が安い。
中心部の家賃は1平米あたり10ユーロ+。これがミュンヘンなら18ユーロで、ほぼ倍だ!市内には路面電車やバス網がくまなく走っており、生活、通学にはとっても便利。さらに治安がと~ってもいい。
デユッセルドルフから来ると、「ほっ。」とします。
ただし本当の日本食レストランは、アウグスブルク市内に一軒だけ。その他の日本食はタイ人やベトナム人の経営する日本食なので、日本食レストランでのアルバイト探しには向いていません。
日本食の買い出しに行こうにも、日本食を置いている店舗が(ほとんど)ない。
その代わり日照時間はフライブルクと並んで、ドイツの都市の中でトップ。雨の多いデユッセルドルフと比べると、雲泥の差です。
そしてロマンチック街道など、観光名所へのアクセスが素晴らしい。ロマンチック街道制覇の拠点には最適です。観光重視の方には、これ以上適した町はありません。
公共交通機関 無料で乗り放題 !
数あるドイツの都市の中でも、一番乗りにならないと気が済まないアウグスブルクは2019年、旧市街地 /”City-Zone”に限り、公共交通機関の無料化を決定、2020年1月1日から実施しました。
参照 : sw-augsburg.de
その目的は、
- 空気の浄化
- 街中商店街の活性化
です。
「無料なんだから車を置いて来て欲しい。それも頻繁に。」
という目論見です。批判しないと気が済まない方は、
「たった9駅じゃ、それほど大きな効果はない。」
と言います。多分、当たっていますが、それでもどこの街で9駅もただで、それも罰せられずに堂々と乗れますか!?とりわけ旧市街地しか移動しない観光客には、大きな魅力です。
アウグスブルク 留学
大きな町ではないので、語学学校の数は限られています。
アウグスブルクでは”Augsburger Deutschkurse“、通称、ADK をお勧めします。理由は良心的な値段。
クラスの定員が大きく、会話の練習をしたい方には不向きですが、留学費用を安く抑えたい方には向いています。