日本で アウグスブルク と言っても、
「アウ、、何だって?」
と聞き返されるくらい無名な町。
しかしアウグスブルクはミュンヘンとニュルンベルクに次ぐ、バイエルン州で3番目に大きな都市。
今や29万人もの人口を抱えている。日本なら
「たった29万人?」
だが、ドイツなら立派な大都市で、ロマンチック街道の城砦都市です。
日本では無名な事も手伝って、ネット上では見当違いな
「解説」
が多く存在しています。
この嘆かわしい状況を救うため、アウグスブルクに住むドイツの達人が真実を紹介いたします。
目次
街の紹介 アウグスブルク
アウグスブルクの人口増加の原因、それとも原動力?はふたつ。
最初のひとつは大都市ミュンヘンのお陰です。
ミュンヘンの発展と共に、家賃が高騰。
「こんなに家賃の高い場所には住めないっ!」
と、移り住む人が増えました。
もうひとつの理由は地場の製造業です。
アウグスブルク発祥の大企業が多く(*1)、市内には大学が2つあり、優秀な学生を育成しています。
企業はこの優秀な学生を求めて、会社の本社、研究所、工場を建設。
日本の
“Fujitsu”
も、パソコン事業から徹底するまでアウグスブルクで製造してました。
半導体大手のインフィニオンも、アウグスブルクに研究所を設置。
お陰でとっても景気がいいです。
さらにアウグスブルクはフライブルクに並ぶ、日照時間の多い街。
ミュンヘンほど物価が高くなく、訛りはあるが人が優しいので、とっても住みやすいです。
難点は日本食が手に入りにくい点と、(鈍行で行くと)ミュンヘン空港までちと遠い点。
レヒ河とヴェアタッハ河に囲まれた街
「日本では知られていない」
と冒頭で書きましたが、
「いや、そんなことはない。アウグスブルクなら知っている。」
って稀有な方に遭ったら、
「じゃ、どの河畔に築かれた街なの?」
って、知らないフリをして聞いてみよう。
まず正解は望めない。
ヴェアタッハ河は街の北でレヒ川に流れ込み、そのレヒ河は街の北にあるドナウヴェアトで、ドナウ川に流れ込んでいる。
この二つの河川が天然の障害になっており、ここに城塞都市を築くのには都合がよかった。
世界遺産登録!
二つの河川に囲まれているので、アウグスブルクは水に恵まれた街です。
が、問題がひとつ。
旧市街地は丘の上にあるんです。
アウグスブルク旧市街の隅々まで水を配給するため、あちこちに給水塔や水車が施されました。
旧市街の数々の噴水も、この水路があったから設置が可能になりました。
それもフライブルクのような、ケチな水路じゃない!
何も知らない人が見れば小川です。
市がこの中世の水路網を、
「水道があるからもう要らない。」
と埋め立てず、今日まで大金をかけて整備している点が評価されました!
アウグスブルクに観光に行ったら、是非、見てください。
最も橋の多い街?
「アウグスブルクはもっとも橋の多い街なんだよ!」
と、ドイツに詳しい方から聞かされて留学されたお客さん。
「本当なんですか。」
と聞かれました。
デマです。
ドイツ&ヨーロッパで最も橋の多い街はハンブルクです。
自称、
「ドイツに詳しい人」
から聞く話、まずデマです。
街の歴史 – ローマ帝国の植民地
アウグスブルクは、
ミュンヘンがまだ小さな集落だった頃、ローマ帝国の植民地の首都として栄えていました。
この植民地が
“Augusta Vindelicorum”
と呼ばれたのが、名前の起源です。
アウグスブルクの表象(ドイツ語で”Wappen”)になっているのは”Zirbelnuss”(松ぼっくり)です。
ところがこの地方には松ぼっくり自生しないので、ローマ帝国の植民地だった頃の名残ではないかと言われています。
ローマ帝国時代の銀貨ざっくざっく!!
紀元後1~2世紀に鋳造された銀貨で、あの悪名高いネロ皇帝時代のものです。
総重量が15Kgもあり、
「バイエルン州では過去最大の発見」
です。
現在の旧市街はもっと南にあるんですがローマ帝国の植民地時代には、
「ここに駐屯地があった。」
そうです。
アウグスブルク の発展
10世紀、東フランク帝国の王様、オットー1世がアウグスブルクの南で、
「レヒ河畔の戦い」
にて、東からの脅威であったマジャール人を、撃破します。
これをきっかけに、アウグスブルクの発展が始まります。
12世紀には街に昇格、13世紀に税金を徴収する権利が与えられると、税金で潤います。
14世紀には帝国都市 / Reichsstadt”に昇格すると、カトリック司祭に代わり、大地主や商人からなる評議会 / Patriziat がアウグスブルクの実権を掌握します。
15世紀にはヨーロッパの出版業の中心地になり、16世紀には株式市場までオープンしている。
フッガーの町
アウグスブルクが誇る有名人と言えば、フッガー家をおいて他にない。
フッガー家は14世紀からイタリアの織物を輸入して販売、最初の富を築いた。早い話が商社ですね。
15世紀にヤコプ フッガーが経営を引き継ぐと、銀行業に事業を拡大。(*2)
カトリック教会、ハープスブルク家などを顧客に数え、事業は順調に拡大した。
儲かった金を銀、銅鉱山に投資、その後は水銀、鉛などにも事業を広げ大成功。
膨大な富を抱え、
という異名を頂戴した。
フッガー家が凋落した今日でもアウグスブルクは、
「フッガーの町」
と呼んで、かっての盛況ぶりを偲んでいる。
アウグスブルク の和議
16世紀には宗教闘争が表面化する。
アウグスブルクは福音派(ルター派)の砦となり、他の宗派、特にカトリック宗派を弾圧し始めた。
これにオーストリア帝国が怒り、軍を派遣して街を焼き払おうとした。
ここで上述のヤコプ フッガーが介入、街の身代金をオーストリア皇帝に払い、アウグスブルクは救われた。
1555年に有名な「アウグスブルクの講和」が締結されて、どの宗派も自由に信仰をする事が可能になった。
しかし紛争はくすぶり続け30年戦争に発展。
30年戦争
市民はプロテステント派だったが、30年戦争が勃発するとカトリック系のバイエルン軍がアウグスブルクに駐屯して、敵側に寝返らないように見張っていた。
ここでプロテスタント派のスエーデン軍がアウグスブルクを包囲、街の譲渡を要求する。
すると、バイエルン軍は、
「多勢に無勢」
と白旗を上げて撤退、スエーデン軍は解放者として迎えられる。
が、17世紀にはバイエルン軍に短期占領されて、アウグスブルクの経済は衰退する。
この頃にアウグスブルクで望遠鏡が発明されて、欧州全域から注文が殺到。
これまでになかった栄華を迎えることになる。
バイエルンのシュバーベン(人)
アウステリッツの戦いでナポレオンがロシア、オーストリア連合軍を撃破すると、ナポレオンに加担したバイエルン王国は戦勝国。
その褒美として、バーデン ヴュルテンベルク州に属していた経済的に重要な東シュバーベンが割譲された。
これが原因で、本来はバーデン ヴュルテンベルク州に住んでいるシュバーベン人が、
「バイエルン人」
になるという悲劇が!
そこで混乱を避けるため、アウグスブルク(とその近郊の)シュバーベン人は、
「バイエルンのシュバーベン(人)」
と呼ばれている。(*3)
アウグスブルク 観光 – ロマンチック街道の発祥地は見所盛り沢山
日本でも有名なロマンチック街道。
実はコレ、アウグスブルクが発祥です。
戦後、観光客を誘致するための大掛かりなキャンペーンを始めることに。
ただアウグスブルクだけでキャンペーンを打っても、効果は限定的。
そこで近郊の観光名所、ネルトリンゲンやデインケルスビュールなどと一緒に、
「ロマンチック街道」
と命名してキャンペーンを打つことに。
これが大ヒット。
そのアウグスブルク、かって欧州一の大金持ちでブイブイいわしただけに旧市街はでかいっ!
城塞都市の遺跡を見に行くなら、旧市街の端っこまで行かなきゃみれません。
これには電車を駆使するか、自転車でもないと、観光名所を全部を1日で見て回るのは不可能。
どちらにしても、土地勘がなければむずかしい。
そこで現地人の強みを生かして市内各地を歩き回り、他の観光案内では紹介されない名所を撮影してきました。
アウグスブルク観光をご計画されている方、参考にしてください。
アウグスブルク 市役所 / Augsburger Rathaus
まずは絵葉書のモチーフになっているアウグスブルク市役所 / Augsburger Rathaus から始めよう。
最初の感想は、デカイっ!
街の人口はデユッセルドルフの半分ほどだが、市役所は倍の規模がある。
1624年、アウグスブルクの黄金時代に完成したこの市役所は、57mの高さを誇る2つの塔を持つ。
1917年にベルリンに”Behrensbau”が建造されるまで、
「ドイツで一番高い建造物」
の地位を300年近く守ってきた。
建造された17世紀には、6階以上の改装を持つ建物は、世界広しといえどここだけ!
市役所の正面上部に描かれているのは、神聖ローマ帝国象徴である双頭の鷲です。
又、この市役所は後ろから見てもほぼ同じ形をしているので、是非、後ろからもチェックしていこう!
金の間 / Goldener Saal
市役所にはいろんな見所があるが、一番の見所は金の間 / Goldener Saal だ。
クルミの木(硬い)に施された見事な彫刻を、金箔で覆った間で、まさにアウグスブルクの金閣寺。
残念なことに第二次大戦で爆弾が命中して破壊されたが、80年代から当時の姿に再現させる工事が始まり、完成したのは1996年。
入場料、2.50ユーロを払えば、入ってみることができます。
ペルラッハ塔 / Perlachturm
市役所の横に建っているのは、監視塔として建造された ペルラッハ塔 / Perlachturm だ。
アウグスブルクでも最古の建造物のひとつ。
火事で中心部の家屋が焼失した後、ここに監視塔を設置することに。
というのも旧市街地は丘の上にあり、見張り塔を設置するには絶好の場所でした。
建設当時は30mしかなかったそうですが、そんなに高い建造物のない当時、はるか彼方から押し寄せる敵軍を察知できました。
後から横に教会を建て、独自の塔を節約。
塔のてっぺんに設置されている鐘は、教会のように時刻を伝えるものではなく、火事や危険を伝えるものです。
度々改築され、今では70m+の高さがあります。
入場料が2ユーロかかりますが、てっぺんからのアウグスブルクの見晴らしはとっても良好です。
見晴らし台には金網が張られていますが、その隙間から写真が取れますので、是非、登ってください。(*4)
汗をかいて上るだけの見ごたえがあります。
マリアドーム/ Dom St. Maria
市庁舎の前を左に行くと、通りの終わりに立派なカトリック教会、マリアドーム/ Dom St. Maria が見えてくる。
なんと8世紀に建立されたというから、日本で言えば奈良の大仏と同じ時代の建造物だ。
しかも敷地内を発掘すると4世紀に建造された教会の土台が出てきたというから、まるでイタリアのように掘れば遺跡が出てくる街だ。
その後、戦災や建設ミスで何度が壊れたので、現在の形に再建されたのは15世紀。
ドーム噴水 / Dom Brunnen
マリアドームの前にドーム噴水 / Dom Brunnen がある。
ここに謂れのありそうな銅像、アウグスブルクの守護神三体が、それぞれのポーズで陳列されている。
一番哀れな姿なのは右側の女性像。
名前はアフラ。
なんでも逃亡中の宣教師をかくまった罪で、火あぶりにされて殺された。
その後、キリスト教の殉教者、聖人としてあちこちで祭られている。(*5)
真ん中の威勢のいい銅像は、オットー一世が援軍を率いてアウグスブルクの救援に来るまで、ハンガリーの大軍の侵入を阻止したという伝説の牧師像だ。
もうひとつの像は司教、ジンペルト/ Simpert の像だ。
言い伝えではカール大帝の命をうけて町の復興に尽力、最初のマリアドームを建立した。
この3人が街の守護神とされているので、アウグスブルクに住むなら知っていても損はしない。
カトリック司教様の宮殿 / Reseidenz
マリアドームの奥にレジデンツ(宮殿)/ Residenz があります。
ミュンヘンでレジデンツと言えば王様の住んでいた城だが、アウグスブルクではカトリック司祭の宮殿だ。
それはアウグスブルクはカール大帝の時代から、司祭が王様として君臨するカトリック司教国だったから。
まさに王様にふさわしい立派な作りです。
宮廷の庭 / Hofgarten
中世の頃、宮殿と言えば王様の散歩用の宮廷の庭 / Hofgarten が付き物です
宮殿の目と鼻の先にある宮廷の庭は市民に解放されており、憩いの場になっています。
夏には(若い)女性はビキニ姿で、これみよがしに寝転がってます。
誤ってカメラを向けて警察に通報されたら、赤っ恥。
細心の注意を払って撮影!!
メルクーア噴水 / Merkurbrunnen
市役所の前を右に行くと、アウグスブルクの目抜き通りです。
見事に復興された建物が並んでいます。
ここにメルクーア噴水 / Merkurbrunnen がある。
16世紀にお金が余って仕方がないフッガーが作成を依頼した。
彫刻のモチーフはフッガーらしく、商売の神様”Merkur”なのでこの名前です。
聖モーリッツ教会 / St. Moritz
メルクーア噴水の向かいに建っているのは、聖モーリッツ教会 /”St. Moritz”。
11世紀にアウグスブルク司教が、聖モーリッツ(騎士の守り神だそうです。)を祭る宗教団体を創設。
その宗教団体の本部として建設された教会です。
13世紀に火事で焼け落ちで、14世紀に再建。
その後、なんども改築、増築されて、内部は豪華絢爛な装飾が施されていました。
16世紀になるとお金持ちのフッガー家がローマ教皇から許しを得て、フッガー家の教会となりました。
第二次大戦で焼け落ちたので、今の姿に再建されました。
でもお金がなかったので装飾などはなし。今ではとっても質素なカトリック教会です。
この場所はモーリッツ広場といい、アウグスブルク旧市街のど真ん中。
レストランやカフェが立ち並び、スーパーもあるので、電車を待っている間にお買い物もできてしまう(値段は高めの設定です)。
織物師の家 / Weberhaus
モーリッツ広場の交差点に、カラフルな壁画で有名な織物師の家 /”Weberhaus”が建っている。
最初に建造されたのは14世紀。手工業者の組合が置かれました。
16世紀にはアウグスブルクの発展の原動力となった、織物の市場として利用されます。
当時から壁画が描かれていましたが、今のような立派なものになったのは18世紀になってから。
織物師の家は何度か所有者を変え、20世紀初頭、市がバイエルン王立博物館から買い取り、立派な装飾を施します。
なのに第二次大戦で全焼。長い年月と大金をかけて、1959年に再建されました。
レヒ地区 / Lechviertel
ペルラッハトゥルム横にある、真っ赤な建物の脇道に入ってみよう。
この辺は戦争で焼け残った、昔の家屋が残るレヒ地区 / Lechviertel だ。
見て歩くのが楽しい。
通りを直進すると300mほどでヤコブ地区になり、あの有名なフッガライが右手に見えてきます。
ゲオルグ噴水 / Georgsbrunnen
この坂道を降りると見えてくるのが、有名な聖ゲオルグ噴水 / Georgsbrunnen だ。
竜退治をモチーフにした銅像と噴水が製造されたのは1565年。
当初は市役所前に展示されていたが、19世紀にこちらに移動された。
ゲオルグ噴水を入れたアウグスブルク旧市街の景色は、(私が)写真でよく撮るモチーフ。
皆さんもお試しあれ。
アウグスブルク 市営中央肉屋 / Stadtmetzg
17世紀初頭、アウグスブルクの人口は1万6000人を超える大都市に成長。
成長に伴い城壁を外側に作り直したのですが、住民への肉の供給が難しくなります。
何よりも衛生問題に頭を悩ませます。
そこでお金持ちのアウグスブルク市は、市営の中央肉屋 / Stadmetzg を建て、質のいいお肉を市民に提供することに。
都市計画の責任者が探してきたのは、運河が流れていて、血やくず肉を捨てるのに都合がいいこの場所でした。
このため建物の軒下には、牛の頭の石像があります。
是非、近くから観てください。
聖ヤコプ教会 / St. Jakob
市営中央肉屋の前の道路、素足通り / Barfüßestraße と言います。
多分に角にある素足教会から来ている名前です。
素足通りを歩いていくと、交差点から先はヤコプ地区になります。
その名前は、ここにあるプロテスタント系の聖ヤコプ教会 / St. Jakob から。
この聖ヤコプ教会、理由は不明ですが、アジア人の信者が多いんです。
アウグスブルク フッガライ/ Fuggerei
そのヤコプ地区にあるのが、フッガライ / Fuggerei 。
フッガライは、あの大金持ちのヤコプ フッガーが恵まれない方のために建てた当時の
「私営住宅」
だ。
城壁の中に建設されたので、現在でもアウグスブルクの真ん中。
路面電車の駅は目の前。
この絶好の立地の良さのアパートの賃貸料、幾らだか知ってますか?
なんと1ユーロです!それとも1年間。
なのに入場料は6.50ユーロ。ちょっと高くありません?
フッガライ 開館時間 : 夏 8時~20時 冬 9時~16時 入場料 6.50ユーロ
日本人共通の勘違い
このフッガライに関して、日本人に共通する勘違いが存在しています。
フッガライを日本語に直すとフッガー長屋。
ところが日本では十中八九、フッガー屋敷と紹介されています。
見てください、どうみても屋敷じゃありませんよね。
「おかしい。」
と思いませんか。
お陰でほとんどの日本人が、フッガー長屋をフッガー屋敷と呼んでいます。
元祖フッガー屋敷 / Fuggerhäuser
モーリッツ広場の先に続く通りが、アウグスブルクの目ぬき通りのマクシミリアン通り / “Maximilianstr.”です。
ここに有名な元祖フッガー屋敷 /”Fuggerhäuser”が建っている。
見ればわかる通り、巨大でまさに屋敷という名前にふさわしい。
ちなみにフッガー屋敷は今日でもフッガー家の所有物で、(お金持ちだけがお客さんになれる)フッガー銀行も入っている。
旧兵舎 / Zeughaus
フッガー屋敷の裏、いささか隠れた場所にあるのが、旧兵舎 / Zeughaus。
正面入り口はルネッサンス様式の装飾が施されており、聖ミヒャエルの竜退治の銅像は、とても見事な出来栄え。
その名の通り建設された17世紀初頭は、3000人の兵隊が寝泊まりできる兵舎だった。
ナポレオン戦争後、アウグスブルクがバイエルン王国に割譲されると、この兵舎の所有権もバイエルンの王様に移る。
ドイツ第二帝国樹立後、市がバイエルン州に大金を払って買い戻し、消防署として利用。
60年代、市がこの旧兵舎をデパート経営者の売却すると、アウグスブルク市民が大反対。
裁判闘争の結果、市民が勝利した。
現在は市がさまざまな催し物を開催したり、一部博物館になっている。
Zeughaus Stuben
「アウグスブルクではどこで食事をすればいいの?」
とお嘆きの貴兄、ドイツ飯を食べたいなら旧兵舎の一部を借りて営業しているZeughaus Stuben(兵舎飯屋)をお試しあれ!
ウマイかって?
ドイツ飯、それもバイエルン飯です。
おいしさよりも、帰国した際の土産話が主眼です。
ヘラクレス噴水 / Herkulesbrunnen
街で一番の高級ホテル、”Drei Mohren”の前にあるのが、ヘラクレス噴水/ Herkulesbrunnen です。
アウグスブルクの「三大噴水」のひとつ。
ここから目ぬき通りを撮った写真は絵になるので、車にはねられないように注意して写真を撮ろう。
このヘラクレス像は17世紀の初頭に鋳造されたもの。
7つの頭を持つヒドラをヘラクレスが燃え盛るこん棒で退している様子がモチーフだ。
噴水の下部には水に関する神々が鋳造されている大作品。
シェッツラー家の宮殿 / Schaezlerpalais
シェッツラー家の宮殿 / Schaezlerpalais を日本に直すとお宝の宮殿という意味になるだが、本当の意味は少し違う。
ミュンヘンがピナコテークなら、シェッツラー家の宮殿はアウグスブルクを代表する美術館だ。
マクシミリアン通りから見ると比較的小さな入り口の部分しか見えないが、奥行き107mもある立派な宮殿だ。
15世紀に神聖ローマ帝国の皇帝、マキシミリアン皇帝の命令で建設され、皇帝も何度かここで宿泊したこともある。
その後、銀の取引でお金持ちになった銀行家がこの建物を買い取った。
19世紀に大金持ちの銀行家、シェッツラ一家がこの宮殿を購入して一家の自宅になっていたので、
「シェッツラー家の宮殿」
と呼ばれる。
アウグスブルクの大金持ちはヤコプ フッガーがそうだったように、死ぬまでに使えない富は寄贈する。
シェッツラ一家もこの宮殿を、
「売却しない事。」
を条件にアウグスブルクに寄贈した。
今だったら何十億という資産になったのに!
時間のある方、雨で観光ができない方は、ここで美術館見物をしてはどうだろう。
シェッツラー家の宮殿 開館時間 10時~17時 月曜日休館 入場料 7ユーロ
ウルリヒ教会 / St. Ulrich
通りの終わりに建っているのは、プロテスタント系のウルリヒ教会 / St.Urlichだ。
そのすぐ後ろにある巨大な教会は、カトリック系の聖ウルリヒ & 聖アフラ教会 / Basilika St. Ulrich und Afra。
よっく見ないと、同じ建物のように見える。
聖ウルリヒ & 聖アフラ教会は尖塔が高く、ほぼ旧市街全域から見えるので、アウグスブルクの象徴になっている。
この場所には街の守護神、聖人アフラを祭る教会が建っていたが、ハンガリー軍が街を包囲した際に攻撃で破壊されてしまった。
その後、再建、増築が何度も行われ、今の姿になったのが15世紀。
旧鍛冶屋 / alte Schmiede
教会に近くには砦のような飾りを施された建物など、見事な装飾を施された建物が多い。
通りをそのまま進むと聖ウルリヒ地区 / St. Ulrich 地区になり、古い建物が多く残っている。
ここはかってのかじや / alte Schmiede です。
家の壁にはまだ昔の看板がかかっており、まるでタイムスリップしたような気分になる。
アウグスブルク 赤い塔 / Rotes Tor
ここまできたら
「アウグスブルクで一番綺麗な塔」
と誉れの高い、 “Rotes Tor”(赤い塔)まで目と鼻の先。
15世紀に建造されたこの塔は、給水塔と一緒になっている。
小高い丘にある旧市街に水を供給する目的で、ここに給水塔が建設された。
この場所はかってのアウグスブルク要塞の角にあたるので、付近には巨大な防壁が残っている。(*6)
城壁に沿って散歩するのは気分がいいが、ホームレスの自宅となっているので、女性の一人歩きは禁物です。
アウグスブルク 人形劇 / Augsburger Puppenkiste
ドイツ人がアウグスブルクと聞いて最初に連想するのは、アウグスブルク人形劇 / Augsburger Puppenkiste 。
赤い塔の目と鼻の先にあり、いつも子供連れの両親が開演を待ってるほど、ドイツでは
「知らない者はいない。」
有名物。
もっとも
「オリジナル」
はフランスの人形劇。
第二次大戦中、フランスに駐留していたドイツ兵がカレーで人形劇を初体験。
「アウグスブルクに帰ったら、子供たちに人形劇を披露したい!」
と思ったのがきっかけ。
奥さんと一緒に人形をこしらえて、まだ戦争中の1943年に初上演。
1944年の空襲で劇場も人形もすべて焼けてしまいますが、1948年に復活。
以来、コロナ禍での休演を除き、半世紀以上に渡って上演中。
城壁 / Stadtmauer
アウグスブルクはかって二重の城壁 / Stadtmauer とお堀が街を囲み、要所には巨大な要塞があり、敵の侵入から守られていました。
工業化に伴い城壁は取り壊され、お堀のほとんどは埋められて道路になりました。
しかし市内東部では、当時の姿でお堀が残ってます。
グーグルマップで検索すると、中世の頃のお堀がしっかり残っているのがわかります。
これが実にデカい!
こんなお堀を手作業で、しかもでかい街の周囲をぐるりと掘るんだから、とても大変な作業だったに違いない。
日本でも城を守るためにお堀と城壁がありましたが、所詮は城の周りだけ。
欧州では街の周囲を囲んでいたので、そのスケールには圧倒されます。
この城壁は、スウエーデン軍がアウグスブルクを攻略した際に、陥落に成功した場所。
ここに階段が設けられており、スウエーデン階段と呼ばれています。
石の男 / der Stoinerne Ma
スウエーデン階段の近くの塔の中に、石の男 / Der Stoinerne Ma が祭られている。
伝説によれば30年戦争中、アウグスブルクは包囲されて兵糧攻めに遭う。
市内では食べ物が尽きたが、パン職人はおが屑でパンを焼くと、
「アウグスブルクにはまだパンが十分あるぞ。」
といわんばかりに城壁超えに(食べれないおが屑)パンをお堀にひょいひょいと投げ込んだ。
これを見た包囲軍は怒って、このパン職人を弓で撃った。
弓は右腕に命中してパン職人は腕を失ったが、
「包囲しても効果がない。」
と勘違いして兵を引き上げた。
お陰で住民は餓死の運命から救われたという伝説だ。
ボート乗り場 / Kahnfahrt
城壁の周囲に掘られたお堀には、まだ(部分的に)水が溜まっている。
このお堀を利用したボート乗り場 / Kahnfahrt があります
近くには電車の駅がなく、観光名所とも離れているので、アウグスブルクの地元民しか知らない隠れた観光名所です。
ドイツの寒い冬にボートに乗ってお堀に落ちたら、ショック死します。ですから冬は閉まってます。
オープンしているのは、お堀に落ちても平気な4月~9月まで。
冬にいくと見事に閉まっており、写真も撮れませんでした~。
城塞だけに侵入不可。
リュークインスランド要塞 / Lueginsland
城壁の要所、要所には、塔が建設されて、敵の侵入を見張っていました。
当時の方言では”Lueg”は注意してみることを指していたそうです。
15世紀から8角形の塔が建っていましたが、15世紀初頭に雷が落ちて焼け落ちたので、大急ぎで再建されました。
するとまた雷が落ちて壊れます。
この場所は隆起した小山のような地形だったので、ここに塔を作ると雷のいい目標。
そこで今度は塔を作らずに、要塞に作り直されました。
それがこのリュークインスランド要塞 / Luesginsland です。
かってはこの要塞の前にはお堀があり、吊り橋がかかっていたんです。今では想像が難しいです。
1866年に
「アウグスブルク城塞解禁例」
が出て、要塞としての役目が終わり、お堀は埋め立てられました。
要塞はほったらかし(朽ちるに任せる)にされていたのですが、戦後、アウグスブルク市が大金をかけて補修、保存してます。
最後の補修工事は2018年。もう終わってるかな?
フィッシャー門 / Fischer Tor
未だに城壁と繋がっているのは、リュークインスランド要塞の先にあるフィッシャー門 / Fischer Tor 。
とても小さくてかわいいですが、これでは敵の侵入を防げないことは明白。
実はここにあった城門は、スペイン王位継承戦争で破壊されました。
その後、
「門がないと寂しい。」
という農民の訴えで、建造されたもの。
防御目的ではなく、飾りです。
フィッシャー門の外、ちょうど道路になって車が走っている場所が、かってお堀のあった場所。
かってアウグスブルク市内に入るには、お堀にかかっている木橋を渡って、城門をくぐって入る必要がありました。
散歩道
フィッシャー門の横から、城壁に沿って歩く散歩道が設けられている。
観光でアウグスブルクに来ているとそんな時間はないが、住んでいると景色が良く、実に便利な散歩道。
小高い場所には低い城壁が、くぼ地には高さ7~8Mもの高い城壁が、延々と続いている。
時折、城壁に沿って家屋が建っているが、城壁が家の壁になっているのが面白い。
この家屋はかって城壁沿いには見張りをしていた兵士と、その家族が住んでいた小さな住居です。
現在でも家屋として使用されている。
7人の子供 / Die sieben Kindeln
お堀の周辺には趣のある建物が多いので、時間のある方は城壁沿いに歩いてみてください。
その建物の壁に埋め込まれている彫刻は、7人の子供 / “Die sieben Kindeln”と呼ばれている。
伝説によればかってアウグスブルクに駐屯していたローマ軍の将校が、溺れ死んだ子供を悲しんで作成させたといわれている。
石碑には6人の子供が刻まれていますが、
「7人の子供」
と呼ぶことで、死んだ子供を偲んでいます。
アウグスブルク 天使の宴 / Engelsspiel
最後は毎年、クリスマスの前に開催される天使の宴 / Engelsspiel です。
1977年からほぼ半世紀にわたって続けられるこの宴は、アウグスブルクの自慢でこれを目当てに近郊の都市から人が集まり凄い人手になります!
宴は音楽に合わせて市役所のバルコニーで上演されますが、上演後は出演者が市庁舎前に設けられた舞台に降りてきます。
が、一番前の席を抑えていないと、すごい群衆で何も見えませんです。
日本ではまだ誰も紹介していないので、現地人だけが知っている名物です。
クリアスマーケット目当てドイツに行く際は、アウグスブルクもお忘れなく。
まだまだ観光名所が目白押し!
まだここで紹介できなかった観光名所が、アウグスブルクには山のようにあります。
紹介できなかった分は、観光に来た際のお楽しみ!
「全部観れるか自信がない!」
という方は、ドイツの達人がガイドになってアウグスブルクを紹介します!(*7)
アウグスブルク 何処に泊まる?
アウグスブルクで何処に泊まる?
ローケーションを重視して泊まるなら、中央駅前の”Intercity Hotel”。
部屋は典型的な三ツ星だが便利なロケーションにあり、安価、そして宿泊費に市内の電車、バスのチケット込み。
自動販売機の前に立って、
「どのチケットを買えばいいの?」
という悩みを省略できます。
何よりも空調機を備えているので、夏の猛暑時期でもほのかに涼しい風が出てきて、夜、寝れます。
予算に余裕がある方には、街で一番の高級ホテル、フッガー屋敷の横にある”Hotel Maximilian’s”をお勧めします。
生活と物価
アウグスブルクはミュンヘンよりかなり家賃が安い。
中心部の家賃は1平米あたり11ユーロ+。
これがミュンヘンなら22ユーロで、ほぼ倍だ!
市内には路面電車やバス網がくまなく走っており、生活、通学にはとっても便利。
さらに治安がと~ってもいい。
デユッセルドルフから来ると、
「ほっ。」
とします。
ただし本当の日本食レストランは、アウグスブルク市内に一軒だけ。
その他の日本食はタイ人やベトナム人の経営する日本食なので、日本食レストランでのアルバイト探しには向いていません。
ラーメンが食べたくなったら、ミュンヘンまでいかないと食べれません。
又、日本食の買い出しに行こうにも、日本食を置いている店舗が(ほとんど)ない。
その代わりアウグスブルク日照時間はフライブルクと並んで、ドイツの都市の中でトップ。
雨の多いデユッセルドルフと比べると、雲泥の差です。
そしてロマンチック街道など、観光名所へのアクセスが素晴らしい。
ロマンチック街道制覇の拠点には最適です。観光重視の方には、これ以上適した町はありません。
公共交通機関 無料で乗り放題 !
数あるドイツの都市の中でも、一番乗りにならないと気が済まないアウグスブルク。
2019年、市は旧市街地 /”City-Zone”に限り、公共交通機関の無料化を決定、2020年1月1日から実施しました。
その目的は、
- 空気の浄化
- 街中商店街の活性化
です。
「無料なんだから車を置いて来て欲しい。それも頻繁に。」
という目論見です。批判しないと気が済まない方は、
「たった9駅じゃ、それほど大きな効果はない。」
と言います。
多分、当たっていますが、それでもどこの街で9駅もただで、それも罰せられずに堂々と乗れますか!?
とりわけ旧市街地しか移動しない観光客には、大きな魅力です。
アウグスブルク 留学
大きな町ではないので、語学学校の数は限られています。
アウグスブルクでは”Augsburger Deutschkurse”、通称、ADK をお勧めします。
アットホームな経営で、他の学校はどこも週20レッスンなのに、週25レッスンを良心的な値段で提供。
その分、クラスの定員が大きいですが、留学費用を安く抑えたい方には向いています。
注釈
*1
デイーゼルエンジンを発明したあのデイーゼルも、ここアウグスブルクで活躍したシュバーベン人だ!
*2
ヤコプ フッガーはかなりの変人。結婚はするものの、奥さんと寝た証拠はなく、当然、子供もなし。同性愛者だったという話も。
*3
話す言葉も当然、シュベービッシュです。生粋のアウグスブルク人は、外国人と話すとできるだけ標準語を話す努力をしてくれますが、やはり限度があります。
“ich”が「イシュ」になるんです!
*4
老朽化により修繕中。現在、立ち入り禁止です。工事終了(予定)は、2022年。
*5
アウグスブルクからミュンヘンまで電車(鈍行)で行くと、「聖アフラ」という町で電車が止まるので、この名前を聞いたら思い出して欲しい。
*6
広大な敷地が余っているので、アウグスブルクではかっての城塞を野外劇場 & コンサート会場として利用しています。
*7
有料っす。