日本で一番有名なドイツの芸大 デュッセルドルフ芸術アカデミー 。

19世紀に有名な画家を輩出したことで、欧州でも名前が知れ渡りました。

これが日本にも波及したようで、

「私も入学したい!」

という方が多いです。

そこで今回はデュッセルドルフ芸術アカデミーへの入学要綱を紹介したいと思います。

大学の紹介 デュッセルドルフ芸術アカデミー

デュッセルドルフ芸術アカデミーは旧市街の端っこ、ライン河畔の壮大な建物に入っています。

ライン川を超えて向こう岸に行く際は、必ず横を通るので、

「何じゃろ?」

と長く思ってました。

その正体がやっと分かったのは、お客さんの作品と願書を大学まで持参する際。

車のナビが、デュッセルドルフ芸術アカデミーまで導いてくれました。

その時始めて、

「これは芸大だったのか!」

とわかりました。

20年近く住んでいたのに、、、。

ここは確か昔、デュッセルドルフの領主の城があった場所。

ひょっとしてかっての城を大学に使ってるの?

この機会に大学創設について調べてみました。

大学創設

そのデュッセルドルフ芸術アカデミーの起源は、1773年に創設された

“Kurfürstlich-Pfälzische Academie der Maler, Bildhauer- und Baukunst”(ファルツ選帝侯の画家、彫刻、建築アカデミー)

というこれまで見た中で、もっとも長い名前の大学です。

質問
なんでファルツ選帝侯がデュッセルドルフに芸大を創設?

 

と思ったあなたは才能あり!(*1)

デュッセルドルフで

「ケルンから来た。」

と言った途端に、嫌でも聞かされるのが1288年の

「ケルンとの戦い(*2)」

です。

この戦いに勝ったのが、デュッセルドルフのベルク侯爵家。

その公爵家も1609年に断絶。

すると

「その領土は俺の物」

と名乗りをあげたのがブランデンブルク家とファルツ家。

小競り合いの後、勝ったのがファルツ家だったんです(*3)。

これが原因で、デュッセルドルフを含むこの一帯はファルツ選帝侯が支配していました。

そのファルツ選帝侯がデュッセルドルフに芸大を創設したんです。

消滅した芸大

そのファルツ選帝侯、

1805/6年、18世紀末、プロイセン王国と領土交換を行います。

 

その結果、デユッセルドルフを含めたルール地域はプロイセン領になります。

領土交換の際ファルツ選帝侯は、

「プロイセンにくれてやるのはもったいない。」

と芸大ばかりか、芸術作品までミュンヘンに持っていったんです。

そこでプロイセンが1819年、

“Königlich-Preußische Kunstakademie”(プロイセン王立芸術アマデミー)

を設立。

これが現在まで続くデュッセルドルフ芸術アカデミーの

「前身」

です。

大学校舎の建設

大学校舎の建設

設立当時、デュッセルドルフ芸術アカデミーはベルク侯爵家の城に入っていました。

 

ところが1872年、火事でお城が焼け落ちます。

もっともまだ修理可能な状態だったのに、プロイセンは焼けた部分をすべて取り壊し。

お陰で今でもデュッセルドルフの城で残っているのは、火事に遭わなかった監視塔だけ。

その城の跡地に新しく建てられたのが、今の大学校舎だったんです。

完成したのは1879年。

当時流行っていた

「ルネッサンス様式」

で建設されので、まるでお城のような風情を備えています。

学長 ヨーゼフ・ボイス

日本語で、

「ヨーゼフ・ボイスが教授を務めたことで有名な芸術アカデミー」

というデュッセルドルフ芸術アカデミーの紹介を目にしたことがあると思います。

日本ではいい意味で

「有名」

と語られていますが、

彼が在籍中はトラブルメーカーとして有名でした。

 

「芸術をすべての人に」

という心情を持つ彼は、志願者ほぼ全員に入学許可を出して、大学は大混乱に陥ります。

博物館が数千万円の芸術作品の作成を依頼すると、届けられたのは大学で使われていた学生の座る椅子,,,.

とにかく話題には事欠きませんでした。

大学の学部と専攻

デュッセルドルフ芸術アカデミーのホームページは

「これぞ芸大!」

というもので、実に見難いです。

そこで簡単に学部と専攻を紹介しておきます。

その学部は、

  • 芸術学部
  • 芸術学
  • 建築学部

のみ。

その芸術学部の下に

  • 彫刻
  • 部隊演出
  • 印刷
  • フィルムと動画
  • 絵画
  • 絵画とグラフィック
  • 写真

という皆さんが興味のある専攻があります。

この専攻は、さらに芸術過程と教師過程に分かれています。

デュッセルドルフ芸術アカデミー 入学後

デュッセルドルフ芸術アカデミーの名前が知れ渡っているので、志願者の数がとても多く、入学許可を取るのは至難の業です。

運よく入学許可が下りても、最初の1年は

「仮の入学」

となります。

1年の学業で学んだ成果を作品にして、大学の審査委員会がこれを評価します。

委員会が、

「学業にて才能を伸ばすことができる。」

と判断された場合に限り、やっと正式な学生になることができます。

卒業まで

正式な学生になっても中間試験をクリアしないと、先に進めません。

そして最後には卒業試験があります。

すべて順調に進んでも卒業まで7ゼミが必要です。

無事、卒業すると

“Akademiebrief”(大卒証明)

を取得できます。

その後、教授のお勧めがあれば更にマイスター過程を履修することも可能になります。

デュッセルドルフ芸術アカデミー 有名過ぎて入学困難

デュッセルドルフ芸術アカデミー 有名過ぎて入学困難

次いでデュッセルドルフ芸術アカデミーの、出願要綱について解説します。

ここでドイツ人向けの出願要綱を説明しても意味がないので、

「EU外の外国人の出願要綱」

について解説します。

質問
EU外の外国人?

 

日本人の事です。

ドイツの大学入学資格

ドイツの大学に入学するには、ドイツの大学入学資格をクリアしていることが条件です。

すなわち!

日本の大学入学資格では駄目なんです。

 

何がドイツの大学入学資格なのか、こちらで詳しく解説しております。

是非、ご覧ください。

ドイツの大学に正規留学 – 日本人がこぞって犯す失敗とは?

出願要綱一覧

わかりやすいように出願要綱を一覧表にしておきました。

Freie Kunst Lehramt Studiengangkunst Baukunst
専攻 Malerei / Bildhauerei / Grafik /
Bühnenbild / Fotografie
Malerei / Bildhauerei / Grafik /
Bühnenbild / Fotografie
 Baukunst
入学資格 ドイツの大学入学資格に匹敵する学歴がある事。特別な才能が認められる場合は、これがなくても入学できる。 最低でも 日本の4年生大学に入学して、35単位(クレジット)以上獲得していること。  日本の大学で建築を専攻して、卒業してる事。
出願書類 出願サポートにお申し込みいただいた方にご案内しております。
出願時期 出願サポートにお申し込みいただいた方にご案内しております。
審査の結果 出願後、大学からご自宅に直接審査結果が届きます。
 大学での講義 大学では講義は、夏ゼミ(SS)と冬ゼミ(WS)に分かれて行なわれます。
夏ゼミ  4月1日~9月30日
冬ゼミ 10月1日~3月31日
入学後 当初の入学許可は、仮の入学許可証です。この入学許可証にて2ゼミ(1年)大学にてオリエンテーションを受けます。

この期間中に作成した作品にて、正式に入学が許可されるかどうか決定されます。

審査料 30ユーロ
その他 外国から出願された作品は返送されません。

個人で大学まで取りにいくか、ドイツ国内の知人宅まで送ってもらうように大学側と交渉が必要です。

学費

学費はありません。

でも学生になると

“Studienbeitrag”(学生登録費)

というものを支払う必要があります。

これが340ユーロ/ゼミほど。

交通機関の定期券も込みでこの価格なので、お安いです。

大学出願サポート

デュッセルドルフ芸術アカデミーへの出願、学業に関して不明な点は、大学に直接問い合わせる必要があります。

しかしながら英語で問い合わせをしても、返事が全く来ないか、

「ホームページを見てね。」

と書かれています。

そこで当社では、出願案内 & 出願代行サポートを提供しております。

大学出願サポート – ドイツの達人があなたの出願をお手伝い

こちらは有償のサポートになります。

 

出願に関して不明な点などは、経験豊富な当社までお問い合わせいただければ、当社にて回答させていただきます。

これまで2001年以来、何度もお客様の出願をしてきましたので、大学が出願者に何を要求しているか、熟知しております。

出願サポートの詳細はこちらをご欄ください。

大学出願に関する 質問集

皆さん、初めてデュッセルドルフ芸術アカデミーへ出願されるので、同じ疑問を抱えておられます。

そこでお問い合わせいただくのが、その内容はいつも同じもの。

そこで問い合わせの手間を省くため、頻繁に寄せられる質問集を作成しました。

お問い合わせいただく前にご覧いただければ、ほとんどの疑問は解決すると思います。

大学出願質問集 – 正規留学 & 入学資格に関して

* 注釈

1        聞いたことを鵜吞みにせず、聞き返すことができるのはごく一握りの人だけ。

2   正確には”Schlacht von Worringen”(ヴォリンゲンの戦闘)といい、ケルンの大司教軍とデュッセルドルフのベルク公爵軍との戦いです。

3      ハイデルベルクとノイブルクの領主です。

ノイブルク – 強固な城壁で守られたドナウ河畔の古都