街の紹介 ランツベルク

ランツベルク の街、正式には、Landsberg am Lech(レヒ河畔のランツベルク)と言います。アウグスブルクから南に43km、ミュンヘンからだと西に50kmの距離にある人口は3万人にも満たない小さな町。地勢上ではシュバーベン地方とかっての古バイエルン地方の境にあります。

名前の由来

町は小さくてもその歴史は古い。12世紀、ザクセン公爵のハインリヒ獅子公が当時の「金のなる木」である塩のルートを安全にするため、レヒ河が狭くなっている場所に橋を設けた。

同時に貴重な積荷を守るため、要塞を建設した。この要塞を„Castrum Landespurch“と呼んだのが町の名前の起源となる。安全な要塞の付近に住民が住み始めて、次第に町に発展していく。

街の歴史

ランツベルクまで行くなら、史跡と共に簡単な街の歴史を理解しておこう。歴史がわかれば、街の発展、史跡の謂れが理解しやすい!さらにもっと大事なことに、順序よく理解していると、頭に残ります!

「この建物は15世紀に建造されて、、。」なんて聞いても、1分後には忘れていますよね。それは前後関係を理解していないから!

なんでここに街が築かれることになったのか、どうして街が栄えることになったのか、その原因から理解していると、史跡を見ても感動が深く、何年経ってもしっかり頭に残ってます!とはいっても、街の完全な歴史を書くのは不可能。

ここでは中世以降の歴史に関して、できるだけ簡潔に紹介しておきます!

中世

14世紀にバイエルン公爵とオーストリア公爵との間で戦争があり、この町は戦禍に巻き込まれて焼け落ちてしまう。街は戦術的に重要な場所にあったので、バイエルン公爵は町の復興を命じ、同時にこの町に「塩の関税」を徴収する権利を与える。

15世紀には「渡り税」を徴収することを許される。

交易で栄える

当時、レヒ河を利用して穀物や木材が取引されていたので、関税は町のおいしい財源となる。町は交易で稼いだ金で町の東端にバイエルン門を建設、ミュンヘンから運ばれている塩は、この門を通って市内に運ばれた。

ちなみに当時は、この門がバイエルンと隣のシュバーヴェンの境界線でもあった。

スウエーデン軍 住民を皆殺し

16世紀、バイエルン公爵が当時広がりつつあったプロテスタントの動きを封じ込めるため、カトリック教の都市でランツベルク同盟を発足させる。

参照 : wikipedia

当時、プロテスタント派はお隣の大都市アウグスブルクを席巻、ますますその勢力範囲を南に拡大しようとしていた。これはカトリックの総本家、ハープスブルク家とバイエルン公爵にはゆゆしき事態だった。

血なまぐさい30年戦争が勃発すると、プロレスタント派のスウエーデン軍は町を包囲、陥落させる。プロテスタント派のザクセン公爵は、500人を残して町の住民を皆殺しにする。500人は改修してプロテスタント軍として戦うことを誓ったので、命だけは助かった。

監獄

ランツベルクには、今も、昔も監獄がある。それも著名な人物が収容される監獄が。現代でも政治家や経済人が犯罪を犯して収容されているが、一番の有名なかっての収容者 /”Insassen”と言えば、あのアドルフ ヒトラーだ。

ミュンヘン一揆で懲役刑になり町の刑務所に座っていた際、”Mein Kampf”(の一部)を口述した。ここれは街の住人にはタブーなので、間違っても当時のことにはふれないように。

同じタブーが、この街の郊外に巨大な強制収用所があったこと。ミュンヘン郊外のダッハウにもあったが、あそこは政治犯の収容所だった。ここにあったのはユダヤ人絶滅収容所。普通、この種の施設はドイツ人の目にふれないように占領地に作られたが、ここだけは例外だ。

戦争中、ランツベルクは連合国による爆撃がなかった幸運な街。一度だけミュンヘンに向かう戦闘機が小型の爆弾を投下したのが唯一の爆撃の経験だ。お陰で古い建造物が多く残っている。

ランツベルク 観光 – レヒ河畔の隠れた観光名所

きっと電車で行かれる方の方が多いだろうから、観光案内はランツベルクの駅から始めます。駅はレヒ河の「向う」にあるので、旧市街に行くには橋を渡っていく必要があります。

駅からどっちに行けばいいの?

ちゃんと看板が出ているので、看板の指す方向に向かってください。

看板が読めません!

とお嘆きの貴兄は、他の観光客についていきましょう。

でも橋の手間に、大事な見所が2つある。これを見てから、先に進もう!

レヒヴェーア / Lechwehr

ランツベルクの象徴となっているのが、レヒヴェーア /”Lechwehr”だ。日本語に直し難いが、”Wehr”とは「守り」という意味。なのでそのまま訳せば、レヒ河の守りとなる。これでは意味がわからないので、解説しておこう。

街の名前にもなっているレヒ河は、この部分に急な高低差があり、ちょっとした滝になっていた。お陰で流されてきた木材などが滝底に溜まり、河川を水路として利用する障害となっていた。そこで15世紀なって「渡り税」で稼いだ金で”Wehr”(堤防)、正確には階段のような形に河川工事を施した。

以来、この河川階段はランツベルクの象徴となっている。

歩く手間を省いて、橋の上からこのレヒヴェーアの写真を撮る人が多い。しかしいい写真を撮りたいなら、橋を降りて、レヒの堤防から撮るのが一番。三脚があれば、長時間撮影で綺麗な写真が撮れる絶好のポイントだ。

目をこらしてみると、下で紹介する「脂肪塔」もここから見えますよ~。探してみてください。

母の塔 / Mutterturm

レヒの守りを見たら、すぐに旧市街に向かわないで、河畔を300mほど先に歩いてみよう。その先に、母の塔 / Mutterturm があるからだ。

一見すると街の防壁に組み込まれて作られていた監視塔のようにみえるが、芸術家が死去した母親をしのんで19世紀に建設したもの。「母を偲ぶのと何故、塔になるの?」と、私も思いましたが、回答はなし。塔の横には芸術家のアトリエが、これまた凝った彫刻で飾られています。

現在は博物館として利用されており、塔もアトリエも入場料を払わないと、中を見ることはできません。

参照 : herkomer.de 開館時間 13時~18時 週末12時~18時 入場料 5ユーロ

ランツベルク旧市街

レヒ河畔の家屋と紅葉母の塔を見たら来た道を引き返して、橋まで戻ってこよう。秋になると川向こうの木々が色づいて綺麗な景色を醸し出す。ドイツの紅葉は早く8月末から始まるので、9月に来られたら、是非、対岸から記念写真もお忘れなく。

街の旧市街は、橋の向こう側に広がっている。レヒ河が自然の堤防になって、かっては旧市街は城壁で囲まれ、橋の袂には門もあったが、今日ではその面影もない。

ランツベルクの支配者は、山の上にお城を建てて住んでいた。城はもうなく、かって城があった場所は駐車場兼建築資材置き場になっており、殺風景で超~残念。城はないが、監視塔と城壁は残っており、かってはどんな城があったのだろうかと、昔をしのばせる。

ではまずは下町から紹介していきます。

脂肪塔 /”schöner Turm”

街の中心部に来て最初に眼を引くのは、脂肪塔だ。おかしな名前の由来は、かって天気がいい日(ein schöner Tag)には、ここで動物から採取した脂肪が売られていたので、この名前が付いた。別名、”schöner Turm”(綺麗な塔)とも呼ばれており、本当に何処から見ても綺麗です。

この塔は街の最も古い建造物のひとつで、14世紀に建造されている。

でも、街の中心部に塔なんておかしい!

と思った方は、かなりのドイツ通だ。そう、かってはここが街の境界線で、この塔は城壁で繋がっていた。ところが街の人口増加により、城壁はもっと(かなり)後ろに再築された。

本来なら塔も壊される筈だが、塔だけ残ったので、街の中心部に塔があるという珍しい形になっている。

市役所 / Rathaus

現地に行かれたことがある人から、「違いますよ!歴史的市役所 /”histrorisches Rathaus”ですよ!」というチェックが入る前に、説明しておいた方がいいかもしれない。

17世紀末にボロボロになった市役所を取り壊して、市場の井戸の前に新しい市役所を建設した。建設された当時には装飾はなかったが、1719年に宮廷建築家を招いて見事な装飾が施された。街の住人はこの市役所を大変誇りにしているので、「歴史的市役所」という名前をつけました。

この調子で名前を付けると、ドイツ中の市役所が歴史的市役所になってしまいます。そこでここでは、市役所と記載しておきます。2018年までは肝心要の表面が修復中でした。今はもう終わっている筈なので、街の人が誇りの市役所を眺めることができる筈!

マリア噴水 /”Marienbrunnen”

市役所の前には”Marienbrunnen”(マリア噴水)がある。そもそも市場の噴水だったが、市役所の新築に伴いこちらも新築されて、名前が変わった。広場の片隅(入り口)には見取り図もあるが、初めて来ると何処が見所なのかわからない。

修道院教会 / Klosterkirche

市庁舎の前を左に行くと、市場は先に進むに従い細くなり、先にはでかい建物がど~んと建っている。これはかっての修道院、”KlosterKIrche”という18世紀の建造物だ。

男子はイエズス修道会にて厳しい宗教教育をうけたが、「女子の教育はどうする?」と心配になった有志が、女子のための修道院を作ろうと資金集めをして、市内の家屋を買い取り建築したのが、この巨大な修道院だ。

修道院の完成後、アウグスブルクから壁画の名人を呼び寄せて、壮大な壁画を施した。この修道院の先で道が右に折れている。そのまま進むと駅に戻ります。

そこで今度は市庁舎の前を右に行ってみよう。

Stadtpfarrkirche

広場の端っこにあるデカい教会は、”Stadtpfarrkirche”だ。ドイツの教会の仕組みは日本の寺のように複雑で部外者には理解しがたいが、名前はカトリック系の主要教会という意味です。

オリジナルは12世紀にここに建っていた教会ですが、今の教会は15世紀に建造されたもの。

その後、何度も改修されて、今の姿になりました。

魔女の塔 / Hexenturm

主要教会の先が三次路になっています。少し寄り道してここを左に行くと、魔女の塔 / Hexenturm が建っており、未だに中世の頃からの城壁とつながっています。短い区間だけですが。

「お前は魔女だ!」といいがかりをつけられた男女(圧倒的に女性が多い)がここに「収容」されていたので、この名前。街の主張をそのまま引用すれば、「処刑されたという記録はない。」そうです。もっともそれはかなり好意的な見方。

間違いなく数多くの無実の人間が、ここで拷問された挙句に殺害されています。この前をちょうど水路(お堀)が流れており、典型な魔女の見分け方、「鉄の檻に入れて水の中に沈める。それでも生きてたら、魔女。死んだら御免ね。」に最適な場所。

パン屋の塔 / Bäckerturm

来た道を戻り、主要教会の横の道を歩いていくと、今度は左手にパン屋の塔 / Bäckerturm が見えてきます。建造されたのは15世紀。名前はかってここにパン屋があったから。

ちょうど横を水路が流れており、かってはお堀と城壁、そして監視塔で防御のひとセットになっていた。

パン屋の塔を歩いて先に進むと、さらにもうひとつの小さな塔が見えてきます。

染屋の塔 /”Färbertor”

その塔の名前が染屋の塔 / Färbertor です。なんでも染め物をする職人が住んでいて、お堀の水を使って染め物をしていたので、この名前がつきました。

かっては街は二重の城壁とお堀で防御されていたんです。今はかっての城壁とお堀は埋められて、その上に道路が建設されています。

よっく見ると、その道路が街の輪郭に沿っており、「かってはここに城壁があったんだな。」と推測することができます。

ザンダオアー門 / Sandauertor

来た道を戻り、メイン道路を進むとすぐにかっての街の境界にやってきます。ここにある街への入り口となる門が、ザンダオアー門 / Sandauertor 。門の名前はこの地区ザンダオアーから由来。この塔は未だに城壁と繋がっており、山肌に沿って城壁がずっと連なっている。

門の外には博物館もあるので、時間のある人は是非どうぞ。

丘の上の建造物

下町の主要な建造物の紹介は、この程度にしておきます。全部上げたらこのページ、5万語くらいの長文になってしまいます。ここで紹介されていない建物は、実際に観光に行った際のお楽しみ~。

次は貴族や商人が住んでいた丘の上を見に行こう。丘の上には脂肪の塔をくぐって、その際の坂道をあがっていくのでわかりやすいです。

ドイツで唯一の左側走行の道

この坂道、かっては塩を積んだ人力車、牛車が横行していたので、ドイツで唯一の左側走行の道です。坂道沿いの家屋は、玄関のドアに鍵をかけるのを禁止されていそうです。何故?

それはブレーキが壊れて狭い坂道を下りだした車に引かれないように、通行人が家屋に逃げ込めるようにするため。

坂道を登りながら、振り返ってみるのをお忘れなく。この狭い道から見える脂肪の塔は、とってもいいアングルです。

魔女地区 / Hexenviertel

書き忘れる前に先に挙げておきます。この坂道の右側に、ほぼ平行して走っている道路があります。なんとなく雰囲気の違う場所です。それもその通り、魔女地区 /Hexenviertel と呼ばれています。えっつ、魔女が住んでいるの?

いえ、住んでいません。

角になる大きな建物は木造で、通りに回廊がぐっと突きでています。独特な構造で、壁に絵が描かれています。どうもこの建物が、魔女地区の名前の由来になった様子。

調べてみると、「かってこの建物に赤毛の女性が住んでいたのが語源。」だそうです。というのも、赤毛は魔女の印。無罪で処刑された女性(男性)の多くは赤毛だったんです!

この魔女の家の裏道を歩くと、坂道の両脇に隙間なく並んでいる建物を裏側から見渡すことができます。時間があれば、この裏通りも歩いてみてください。いかにも魔女が出てきそうですよ!

バイエルン門 /”Bayertor”

坂道を登り切ったら、道路がゆるやかに左にカーブしている。その先に街で一番見後な門(塔)である、バイエルン門 / Bayertor が見えてくる。2017年は修復中でしたが、2018年は修復(ほぼ)完了。ペンキも塗りたてでぴかぴかでした

バイエルン塔は城壁と一緒に15世紀に建造された。この塔はちょうどミュンヘンからやってくると、まず到着する場所。旅人を「おお、流石はランツベルク、立派な門だ!」と感嘆させる目的で、手の込んだ作りと装飾が施されています。

監獄に使っていた魔女の塔とは大違い!

城壁

このバイエルン塔から延々と城壁が延びているので、城壁ファンは是非、城壁に沿って歩いてみよう。お堀にまだ水があれば、さぞかし綺麗だったろうに。全部歩いて写真もたくさん撮ってきましたが、このページ、すでに7000文字を超えちゃいました。

詳しい紹介は次回の更新に割愛します!

丘の上は面白い家屋が多いので、是非、登ってみてください。あるいはバイエルン塔の周辺は駐車場になっているので、ここに車を停めれば便利な上に無料!

聖十字架教会 /”Heilig-Kreuz-Kirche”

丘の斜面にど~んど建っているのが、聖十字架教会 / Heilig-Kreuz-Kriche です。よくもまあ、この狭い場所に、こんなでかい教会を建てたもんです。あまりに場所が狭いので、撮影する場所にも困るほど。

「資材を運ぶだけで大変だったろうな~。」と感心したり、あきれたり。建造されたのは、街が税収入で潤っていた18世紀。

内部はロココ調の建築様式で豪華絢爛。ドイツの教会は古くゴシック様式が多いので、この教会の装飾は(ドイツでは)目新しく新鮮です。

教会内部への入り口は丈夫な柵で閉鎖されてます。教会の装飾品を盗む輩がいるので、仕方ありません。でも策の合間から写真は撮れます。周辺には古い家屋がたくさん残っています。

新博物館 / Neues Stadtmuseum

聖十字架教会の前にある立派な屋敷は、新博物館 / Neues Stadtmuseum です。かってはイエズス会宣教師の修道院だったものを街が買い上げて、博物館に。もっとも2019年の今は工事中。外から見ることしかできません。

皆まで言えば、ホームページも工事中でした。

参照 : museum-landsberg.de

城の跡地

防御に適した丘の上はランツベルクの主要部分で、ここには領主の城が建っていた。残念ながらかっての城はもう残っていない。「ここに城があったんだろうな。」と思われる塔や城壁だけが残っている。

かって城があった場所は駐車場として利用されており、端っこには”Schlossbergschule”(城砦学校)が建っている。学校の木陰から博物館とその裏にある”Heilig-Kreuz-Kirche”が見えます。

レヒ河畔

全部歩いて回るとたっぷり3時間かかるので、「足が痛い。」、「トイレに行きたい。」、「腹が減った。」と言うお友達は、レヒ河畔に連れて行こう。この近辺は原住民の憩いの場で、ケーキ屋、カフェの密集地帯。

お堀も流れており(工事中でなければ)、とっても雰囲気のいい場所です。このカフェの裏手に延々と続くのは、ランツベルクがお金持ちなった塩を貯蔵した”Salzstadel”(塩倉庫)。現在は家屋、店舗として利用されている。

総評

ランツベルクは日本人観光客の姿は言うに及ばず、中国人観光客も姿もみかけない知られていない名所。でもそこそこの観光資源を備えており、半日観光にはぴったり。ミュンヘンから近いので、ミュンヘン、アウグスブルクにドイツ留学中の方には、「見ておくべき場所」のひとつ。

「城はこの前見た。」という方は、一度お試しください。歩きやすい靴は必修です。

« 1 2 »