街の紹介 レーゲンスブルク

レーゲンスブルク はバイエルン州の東北、もっとわかりやすく言えばミュンヘンの「右上」に位置しており、ミュンヘン空港から電車で1時間半の距離にある。チェコとの国境までわずか40kmだ。ドイツでは国内屈指の観光地、そして大学町として知られている。

ここで取り上げるのは、観光地のレーゲンスブルク。何せあのユネスコから世界遺産都市に指名されている。日本ではローテンブルクミュンヘンばかりが観光地として人気だが、これらの都市は世界遺産都市には指定されていない。これらの都市を見て、「綺麗!」と思った方は、是非、レーゲンスブルク まで足を延ばしてください。綺麗を通り越して、感激します。

街自体が史跡なので、旧市街をあてもなく歩いても、すぐに史跡にぶつかります。あとはそこに書かれている史跡の説明を読めばいいので、観光ガイドを節約できます。とはいっても現地で英語(あるいはドイツ語)の解説を読むのはしんどいので、あからじめレーゲンスブルクの有名な観光場所は日本語で解説しておきます。ではまずは街の歴史から。

レーゲンスブルク の歴史

拡張を続けるローマ帝国がこの地に植民地を築いたが、ゲルマン民族の襲来で全滅させられてしまう。ローマ帝国は蛮族の成敗に軍隊を派遣して、この地を制圧。さらなる襲来にそなえて175年、ローマ皇帝のマーク アウレリウスの命令でここにローマ帝国の駐屯地、”Casta Regina”が築かれた。

駐屯地には第三旅団の司令部が置かれ、ゲルマン人の襲撃に耐えれるように、ローマ人は駐屯地を10mもの高い石壁で囲った。最盛期には6000人もの歩兵が駐屯していた軍事拠点だった。ドイツ国内のローマ帝国の植民地は”Raetia”と呼ばれ、首都はアウグスブルクに置かれていたが、軍の主力は首都ではなく、ゲルマン民族の襲撃にさらされているレーゲンスブルクに駐屯していた。

名前の起源

8世紀の書簡で”Radaspona”と呼ばれているのが、レーゲンスブルクに関する最古の記述となる。これはローマ兵がやってくる前の先住民、ケルト人の呼び名から由来していると言われている。ここから派生した名前が(フランス語)が”Ratisbonne”で、城壁の街という意味だ。

 交易で大発展

当時の城壁の一部は、今でも遺跡として残っているので是非、目をこらして探してください。ローマ帝国が崩壊すると、カール大帝のフランク王国の一部となり、これが分裂するとオットー一世の東フランク王国の一部になる。

この時代に(10世紀)レーゲンスブルクは、東フランク帝国の交易の要所として栄えだす。西はパリ、南はベニス、東はキエフまで交易路が拡大、13世紀にはドイツで最も裕福かつ、最大の人口を持つ町に発展、今日まで町に残っている歴史的建造物の多くはこの時代に建造が始まっている。

街の衰退

まずは交易ルートの移動で、レーゲンスブルクを訪れる商人が少なくなり、次第に経済に陰りが出始める。これをさらに加速させたのが、街の権力争い。町人の間で争っているとバイエルン公爵が軍を進めてきて、戦争に。幸い、堅強な防壁で攻撃は撃退したが、バイエルン公爵は腹いせにレーゲンスブルクの生命線の交易をブロック。これが効いた。

再び軍を進めてきたバイエルン公爵は、ワイン畑など街の収入源を破壊するも、今度も堅強な守りを破れずに講和条約に。戦争被害の修復で街は税金を上げるが、レーゲンスブルクの経済力は疲労しきってしまった。チェコで戦争が起きると、大事な交易路が遮断され、商人やお金持ちは他の街、とりわけ織物の交易で栄えているニュルンベルクやアウグスブルクに移っていった。

トルコの快進撃で南の交易路も失うと、レーゲンスブルクは存続の危機に。ここでユダヤ人の迫害を始めると神聖ローマ帝国の怒りを買い、高額な罰金を課されるが街はこれを払えずに遂に破産。ここでバイエルン公爵が救世主として登場、武力ではなく、財力で街の評議会を説得。15世紀には街はバイエルン公爵領となる。もっともその後すぐにハープスブルク家の圧力で、レーゲンスブルクは再び自由都市になる。

30年戦争で被害甚大

レーゲンスブルクにはカトリックの司祭がその居城を構えていたが、町の権力者は早くからプロテスタントを支持して、カトリック教会と仲が悪かった。30年戦争では当初、プロテスタント派のスウエーデン軍に占領される。お膝元でそんな暴挙を許せないカトリック派のバイエルン軍が反撃に出て、レーゲンスブルクを奪還する。

工業化で活況を取り戻す

スペイン王位継承戦争でもレーゲンスブルクは戦争の舞台になる。フランス側についたバイエルン選帝侯が進軍してきたのだ。レーゲンスブルクはさっさと降伏して被害を逃れるが、フランス革命ではロシア軍、次いでは反撃に出たナポレオン軍が駐屯、その重圧で街は経済破綻する。街がかっての栄華を取り戻すのは、近代になって工業化が進んでから。

街の人口は19世紀に3倍になったが、同時期、ミュンヘンやニュルンベルクは人口が10倍、ライバルのアウグスブルクでさえ、人口が4倍になった事を考えれば、かっての栄華を取り戻すには至っていない。しかしそのお陰で旧市街地区には古い建造物の多くが残っており、今ではこれがレーゲンスブルクの資産になっている。

市内にはメッサーシュミットの工場があった為、第二次大戦中は爆撃の目標となり、数多くの歴史的建造物が破壊された。しかし戦後、見事に復興され、2006年にはユネスコから世界遺産都市に指定された。戦後はレーゲンスブルクの工場基盤を利用すべく多くの工場(有名な所ではBMW,ジーメンスや東芝など)が建てられ、街は再び戦前の活気を取り戻している。

レーゲンスブルク 観光 – 世界遺産都市の観光名所19選!

レーゲンスブルクの数多い観光名所の中でも、とりわけ有名な19の観光名所を選抜して挙げておきました。郊外のヴァルハラとドナウ下りを除けば、ほぼ1日で制覇できます。朝から歩き始めれば。是非、前知識として読んでおいてください。現場で英語書かれた説明を読む手間が省けます!ではまずは一番有名な観光名所から始めます。

1. 石橋 / Steinere Brücke

石橋ちょうどレーゲンスブルクの旧市街の前に中州があり、ドナウ川はこの部分で三手に分かれている。お陰で街への出入り、とりわけ商人にとっては、市内への商品の運搬が大変だった。橋があれば便利だが、ドナウ側の水量に阻まれて、この場所に石橋を作るのは不可能だった。ところが1135年の夏、日照りが続き河の水位がかってないほどまでに沈んだ。

「今がチャンス!」とばかりに橋の建設が始まった。完成したのは11年後。上流(川幅が狭い)ウルムと(下流)ウイーンの間では、ドナウ河にかけられた唯一の橋で、12世紀に最先端の技術を駆使して建造された石橋 / Steinere Brücke だ。公式にはヴュルツブルクではなく、レーゲンスブルクの石橋がドイツ最古の石橋とされている。以来900年に渡って、ドナウ川の3つの支流を超える橋は、ここだけ。

この橋の袂には塩の倉庫 “Salzstadel”と、街の入り口となる門が、当時のままの姿で保存されている。そしてこの門のバックには同じ時期に建造されたゴシック様式のSt.Peters Dom が聳え立っており、誰が撮っても絵葉書のようなレーゲンスブルクの記念写真が撮れる。本当にいい写真を撮るには、逆光を避けて朝一番(9時前)、あるいは午後16時以降石像(夏)に中州から撮るのがベストです。

2. 石像 / Bruckmandl

橋の一番高い所に、石像、”Bruckmandl “(小さな石の男という意味)が建っているが、その意味は伝えられていない。一説では橋を建設したマイスターが、巨大なドームを建設しているマイスターと、「どっちが先に完成するか」と賭けをした。そこでこの小男はドームがまだ完成していないか右手で日差しを遮って、ドームの方向を注視している橋のマイスターを模倣していると言われている。ちなみに賭けには、勝ったそうです。

3. ドイツ最古のソーセージ屋 / Wurstkuchl

石橋を建設する労働者に飯を提供する目的で、橋の袂に簡易食堂が建設されました。水位が増すとすぐに水没してしまうこの場所は他に使い道もなかったので、この簡易食堂は今でも残っています!

ソーセージ

参照 : Wurstkuchl    営業時間 9時~19時

当時、労働者に食されたソーセージを提供しています。もっとも観光名所になり過ぎて、昼には座る居場所がない大盛況。これに加えてソーセージと酸っぱ~いキャベツの小さな皿+水で13ユーロという立派なお値段。「旨い!」というものでもないので、無理して食べる必要はありません。

4. ブリュック門と塩の倉庫

石橋の袂(街の入り口)にあるのが、レーゲンスブルクの入り口となるブリュック門と塩の倉庫です。街が城壁で囲まれていた当時は、塔の下にある小さな門が唯一の街への入り口でした。19世紀になると近代化に伴い、城壁が取り壊されます。幸い、塔だけは残されましたが、門が小さくて車も電車も通らない!

そこで門の横に新しい大きなブリュック門(ちなみに橋の門という意味です。ヴァッサーブルクの門と同じ名前です。)を設け、地下鉄がこの門を通って石橋を渡れるようにしました。そうなんです、昔は石橋の上を自動車や電車が走っていたんです!橋へ負荷がかかり老朽化するので、戦後、歩行者道路になりました。

ブリュック門と塩の倉庫

中世の頃、塩は貴重品。南の岩塩鉱で採掘した塩を街に運ぶ込む前に、税金を払わなくてはなりません。そこでこの場所に倉庫を建てて、関税を払うまで塩を保管していました。皆まで言えば、ここには艀から荷物を倉庫に運ぶクレーンもあり、まさに波止場そのものでした。

今では倉庫はお土産屋、資料館になっていますが、無料トイレもあるので近くを通ったら是非、「用を足して」次の観光名所に行きましょう。

5. ゴリアトハウス / Goliathhaus

ゴリアトハウス橋から直進して市内に向かうと、大きな壁画が見えてくる。12世紀ここに宿があり、ゴリアーデン / Goliarden と呼ばれる官僚を目指す学士がここに泊まって職探しをしていた。これが原因でこの宿はゴリアトハウス  / Goliathhaus という異名が付いた。

そして16世紀には、聖書に載っている”David vs. Goliath”の逸話が壁に描かれたという勘違いなお話だ。ちなみにこの壁画の向かいの建物は高級(☆☆☆☆)ホテル。

6. スペインの海軍提督 ドンフアン銅像 / Don Juan

壁画の前を右に行くと、石炭市場が見えてくる。かっては石炭の市場だが、今日では小さな噴水とルネッサンス様式の建築物に囲まれた市民の憩いの場だ。ここから時計台が見えるが、右手にはスペインの海軍提督の Don Juan の銅像が建っている。ここで質問。海の無いレーゲンスブルクで、しかもスペイン海軍提督が、何故こんな辺鄙な場所建っているのだろう?これを知っている人は、レーゲンスブルクの住人だけ。

スペインの海軍提督 ドンフアン銅像 / Don Juan秘密を明かすと神聖ローマ帝国、およびスペイン皇帝のカール5世がレーゲンスブルクに滞在中、町の娘に一目ぼれ。「お殿様、いけませぬ。」となり、この情事から生まれたのが Johann Hieronymus だ。もっともお殿様は、子供が生まれると知らん振り。4歳のときにスペインに引き取られて教育を受ける。お殿様は遺書で始めて子供がいることを告白、王位を継いだフィリップ2世の計らいで、Don Juanとしてオーストリアの宮廷入り。

その後、押し寄せるトルコ海軍を迎撃するため、仲の悪いベニスとスペインが同盟を結び、神聖軍 /”Heiligen Liga”を結成。211隻を擁する連合軍の提督に指名されたのが、わずか24歳の Don Juan だ。フアンは260隻もの軍艦を擁するトルコ海軍をイオニア海戦で破り英雄になる。そこでフアン出世の地では町の有名人を誇りに思い、生家の近くに銅像を立てた。以来、何も知らない人が来ると、「彼はスペイン人じゃなくて、レーゲンスブルクの人間だよ。」と自慢話を聞かされる羽目になった。

参照 : Wikipedia

7. 旧市役所

旧市役所来た道を持って時計台の方向に向かって歩くと、13世紀に建設され、16~17世紀に神聖ローマ帝国の国会が開催された旧市役所が見えてくる。高さ55mの時計台のある建物も、市役所の一部。帝国議会が開かれたのは、黄色い建物のほう。

折角だから、石の階段を上って中も見物していこう。石の兵隊が、おかしな輩が入ってこないように階段の上から見張っている。踊り場にあるステンドグラスが綺麗です。肝心の国会議場は有料、それも決まった時間にしか入れないというので、ここで撤退。

8. ハイド広場 / Haidplatz

この先が旧市街の中心部にあるハイド広場 / Haidplatz だ。ローマ兵が駐屯していた頃、ここは駐屯地の外の原っぱで草が生えていた。そこで野原を意味するハイド広場と呼ばれるようになった。十分なスペースがあったので、中世(13世紀以降)はここには街を代表する建造物が建造された。その一つが13世紀に建造されたまるで城砦のような、”Goldenes Kreuz”(金の十字架)だ。

9. 金の十字架 / Goldenes Kreuz

金の十字架 / Goldenes Kreuz町の有名人(権力者)が代々引き継いできた。16世紀から宿として使用され、国王や皇帝が宿泊してきた由緒ある宿だ。今でも(一部)ホテルとして利用されている。日本で言えば鹿苑寺金閣か、それよりもさらに古い歴史的建造物だ。

10. 正義の女神噴水 /Justitiabrunnen

広場の中心部には、石造りの正義の女神噴水 / Justitiabrunen がある。!住民に飲み水を供給する目的で17世紀に建造された。普通、正義の女神というと、目隠しをされて、天秤を差し上げているものだが、この女神はもっと直接的で、天秤の変わりに剣をふりかざしている。「悪さをするとブッスリ行きますよ!」とでも言ってるようだ。

11. 新計測所 / Neue Waag

正義の女神噴水 / Justitiabrunnen女神像の後ろにある真っ赤な建物は、13世紀にお金持ちがその権力を誇示するために建てた民家 。これを後に街が買い取り、街で売買される品物も重さを公式に図る計測所が置かれたので新計測所 / Neue Waag”と呼ばれる。今日では行政裁判所として使用されている。

12. 金の塔 / Goldener Turm

ここから通りを隔てた場所に、高い塔が街中にぽつりと建っている。これは金色の塔 / Goldener Turn と呼ばれるもので、なんと50mもの高さ。町の真ん中にあるので見張り塔ではない。お金持ちが権力を見せ付けるために建造させたもの。13世紀建造で、とっても古い。

13. アルヌルフス広場 / Arnulfsplatz

アルヌルフス広場 / Arnulfsplatzハイド広場から直進すると、街の西端に位置するアルヌルフス広場 / “Arnulfsplatz”が見えてくる。ここはかっては城壁の外にあった場所で、中世の頃は倉庫街、そして処刑場でもあった。ローマ帝国の植民地だった頃から、アウグスブルクからレーゲンスブルクを通って、オーストリアまで続く交易路だった。今日でもバスの駅になっており、レーゲンスブルクの交通の要所だ。

19世紀末、自転車の販売でお金持ちになったユダヤ人がここに土地を買い、立派な屋敷を建てたことから、又、横には劇場もあったので、上流階級が交流する場所となった。2005年、街は「アルヌルフス広場をもっと近代化しよう!」と25万ユーロもの賞金を設けて建築家から改造案を募集。

最優秀賞に選ばれた案に沿って改造しようとすると、ドイツ特有の長いバスが通行できないことが判明。お金を無駄に使った挙句、工事は中止。レーゲンスブルク市民から非難轟轟だった。

14. 新主要教会 / Neupfarrkirche

新主要教会 / Neupfarrkirche次はドームを見に行こう。途中に”Neupfarrkirche”が見えてくる。教会の前に噴水があり(現在は噴水はなくなりました。)、夏は子供が遊んでいる。てっきり子供の遊び場と思ってたら、この地域はかってのユダヤ地区。16世紀にユダヤ人を保護していた皇帝が死去すると、町の牧師が先頭になってユダヤ人の迫害を開始、ユダヤ人は町から追い出され、家屋とシナゴークは焼き払われた。

当時はお遍路さん / “Wallfahrt” が大流行。街や教会にとっては、まさに金の生る木。空いた土地に盛大なカトリック教会を建てる予定だったが、急に流行が下火になり教会の建設は途中で中止。そのうちに宗教改革が起こり、この教会は福音派(プロテスタント)教会に移行して、新主要教会という名前に。教会が完成したのは、19世紀も中ごろ。

15. ドーム / Dom St. Peter

ドーム / Dom St. Peterカトリック教会の権力を誇示するこのドーム の正式名称は、聖ペータードーム/ Dom St. Peter だ。7世紀に建築が始まり、何度か焼けて再建されて、やっと19世紀に完成した代物。近くでみると、とてつもなく大きい。レーゲンスブルクのドームはケルンに次ぐ高さを誇っている。

ここまで来たら、ドームの後ろも忘れずチェック。石作りの塔は”Römerturm”。4mもの厚い壁に囲まれて、入り口は地上9mの渡り橋だけ。金庫として使用された。横には17世紀に建造された修道院も建っている。

ドナウ河沿いに歩くと塩倉庫の近くに、石壁と井戸が見えてくる。壁は植民地時代の礼拝堂の遺跡で、その前の井戸は市民に飲み水を提供するために17世紀に掘られた。ドナウ河畔のこの通りには、綺麗な建物が多い。お化粧直しをした建物は勿論、綺麗だが、カビが生えて、色がくすんだ壁もしぶい。

16. 駐屯地の正門 / Porta Praetoria

ドームの近くに、ローマ兵が駐屯していた駐屯地の入り口だった石の門、Porta Praetoria が残っている。なんと2000年も前の建造物だ。アルプスの北側で残っているローマ帝国の門は、トリアーの黒い門とここだけ。道路が新しく設置されると、この門の意味が失われた。石門に使われていた石材は、街の建造物に流用され、最後には17世紀にこの場所に修道院がビール工場を建てると跡かたなく消えた。

駐屯地の正門 / Porta Praetoria立派な石門があったことさえ市民の記憶からもすっかり消えていた19世紀の終わり、ビール工場の取り壊しが始まった。すると大きな石材がゴロゴロ出てきて、「これは何だ?」と大騒動。「書簡に記述されている駐屯地の門じゃないか。」説が有力で、長い年月をかけて発掘、修復。最後の修復作業は2017年に終わり、かっての立派な駐屯地門の面影をうかがわせてくれる。

17. 宮廷の街 / Stadtamhof

石橋の向こう岸は、”Stadtamhof”という地区。地区の名前は、”Stadt am Hof”(宮廷の街)から派生。かっては「レーゲンスブルクの前の町」と呼ばれていた。今でこそレーゲンスブルクの一部だが、この地区は長くバイエルン公爵領だった。これが街にとっては目の上のたんこぶ。宿敵の領土が城壁のすぐ外にあるので、防衛上好ましくない。そこで何度かこの地区を併合しようと画策したが、成功したのは短期間だけ。

30年戦争時、スエーデン軍はまずはここを占領、それから街を陥落させた。その後、バイエルン軍の反撃に備えてこの地区を要塞化した。予想通り反撃にやってきたバイエルン軍とスエーデン軍の間で激戦が交宮廷の街 / Stadtamhofわされ、この地区は壊滅したがバイエルン軍は奪還に成功する。壊された建造物は見事に再建され、この地区もユネスコから堺遺産都市に指定されている。

時間が残っていれば、是非、歩いてみてください。観光客の少ない現地人の憩いの場です。入り口の石門は今日では使われていないが、かっての歴史を物語っている。第一次大戦後、「こんな小さな集落だけでで独立していても意味がない。」とこの地区はレーゲンスブルクの街に合併されました。

18. ヴァルハラ 宮殿 / Walhalla

ここまで来たら、レーゲンスブルク郊外に建つヴァルハラ宮殿 / Walhalla に言ってみよう。ドイツの伊勢神宮であるこの宮殿は、ドイツ人の民族意識高揚の為、バイエルン王国のLudwig1世によって建設された。 建物の内部にはゲルマン民族の神話に登場する人物の彫刻が数多く展覧されている。神話なんかに興味は無くても、神殿から見下ろすドナウ河の眺めは素晴らしいので、是非、一度は見ておこう。

参照 : Wikipedia 営業時間(夏)9時~18時、入場料4.50ユーロ

19. ドナウ下り

ドナウ下り観覧船ドイツ観光と言えば、ライン川、ライン下りを想像される方が多いですが、ドナウ川でも観光船に乗って景色をのんびりと楽しむことができます。いろいろなコースがありますが、一番の人気は上述のヴァルハラ宮殿までのコース。レーゲンスブルクを出発して、およそ40分で到着します。

その後、徒歩で15分ほどで宮殿に到着。入場料は船の乗船料に含まれていないので、現地で別途払う必要がありますが、天気のいい日にはとっても気分がいいです。観覧船のチケットは大人の往復チケットで14.80ユーロ。食事などは付いていないので、食べ物を持参するか船のレストランで食事をとることもできます。

新婚旅行やデートで利用されたい方には、週末の夕食ビュッフェ付きのコースもあります。こちらのコースは49.50ユーロからで事前の予約が必要です。

参照 : donauschifffahrt.eu

レーゲンスブルク の生活と物価

「ミュンヘンから東は家賃が安い。」と言われている通り、レーゲンスブルクまで来ると物価が安くなります。アウグスブルクはミュンヘンへ通勤圏内にあるので家賃の上昇が止まりませんが、この街ならミュンヘンによる波状効果は薄い。お陰で大都市と比べると、物価は安いです。

現在の街の人口は14万人。レーゲンスブルク大学の大学生だけで1万6千人を占めます。日本企業では東芝、ドイツ企業では半導体でドイツの最大のインフィニオン、ジーメンス、BMW、コンチネンタルなど、名だたる大企業が工場を持っているので景気がよく、部屋探しは結構大変だ。

でも街は綺麗だし、物価は大都市に比べれば安く、治安も良く、ドイツ留学するには理想的な街のひとつです。

レーゲンスブルク 留学

この風光明媚な町にドイツ語専門の語学学校、”Horizonte“があります。学校に併設される学生寮が人気です。朝が苦手な方でも通学に2分しかかからないので、助かります。学校とは屋根続きなので、雨の日、寒い日でも外に出る必要なし!他の街だったら必要な定期券も節約できます。

生徒の国籍も何処かの国に偏ることがなく、学校は国際色にあふれる学校です。一度、レーゲンスブルクに留学すると、皆さん、他の街にいきたくなるものうなずけます。日本食のインフラは(少)ないので、留学する際は、鞄にカレーのルーを入れて持っていくと、重宝します!

 

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