エスリンゲンの紹介

骸骨屋敷の名所として、「知る人ぞ知る」有名な観光地、エスリンゲン。一度騙されたと思って、足を運んでください。観光名所が随所にあり半日経っても、まだまだたくさん残っています。とりわけかっての下町の風景、山の上の城砦から見下ろすエスリンゲンはどこの観光案内でもトップページを飾れます。

町の地理

バーデン ヴュルテンベルクの州都、シュトゥットガルトからわずか10数キロところに、”Esslingen am Necker”という町がある。アウグスブルクから向かうと高速8号線をひたすら東に走ること155Km。町の人口は9万人。「聞いた事ない。」という方が圧倒的だが、町にはドイツ最古の骸骨屋敷もあり、ネルトリンゲン、ゲッテインゲンと並ぶ骸骨屋敷の観光名所だ。

町の名前の起源

市内からは、紀元前1000年の石器時代の居住跡が見つかっている。1世紀なるとローマ帝国がライン川を越えて拡大、この地域を支配下に置いた。ゲルマン民族の大移動でこの地方にやってきたのはアレマーネン。6世紀になると西のゲルマン民族国家、フランケン王国が勢力を拡大、8世紀に町はMerowinger朝の支配下に入る。9世紀の書簡で始めてこの町に関しての記述があり、“Hetsilinga”という名前で呼ばれいる。これに町(村)を表記する(日本で言えば○○町に相当)”-lingen”がついて、現在の町の名前、エスリンゲンになったと言われている。

町の歴史

12世紀になると神聖ローマ帝国の皇帝バルバロサが、この地に皇帝の命令を遂行する官僚を派遣、町は”Reichslandstadt”に昇進する。この称号は自治権を許された町に与えられるもので、土地の権力者ではなく、直接、皇帝から町の治世を任される。この地はもともとキリスト教の聖人が埋葬されている巡礼地として発展を始めたが、13世紀にはライヒススタットにふさわしい”St. Dionys”教会がフリードリヒ2世によって寄贈(建立)される。15世紀にはこの町で国会が開かれるなど、エスリンゲンは当時は有名な町だった。

エスリンゲンは13世紀からその後200年以上にわたって、ヴュルテムベルク家との絶え間ない争に巻き込まれる。一領主だったヴュルテムベルク家は、支配地域の拡大を目指して神聖ローマ帝国の皇帝を選出していた”Staufer”家と小競り合いを繰り返す。

エスリンゲンはライヒススタットだったので、皇帝、すなわちシュタウファー家側についたのが、目と鼻の先のシュトゥトガルトに居城を置くヴュルテムベルク家にとっては目の上のたんこぶ。エスリンゲンは何度か占領されるが、16世紀の最後の戦いではヴュルテムベルク家はエスリンゲンに敗北、ヴュルテムベルク家は亡命する羽目になる。

プロテスタントが信仰地域を広げ始めると、エスリンゲンでもカトリック教徒とプロテスタント教徒の間で「俺の方が正しい。」と争いになる。エスリンゲンではプロテスタント派が主導権を取るが、これが原因でカトリックのオーストリア軍に侵攻されて、町は再びカトリック教徒の町になる。16世紀にアウグスブルクの和議が結ばれてから、プロテスタント派も許されることになる。30年戦争では近郊で行われた戦いで12000人もの難民がエスリンゲンに流れ込み、さらにはペストが発生、人口は半分にまで激減する。

17世紀にはフランス軍がやってきて町を占領、18世紀初頭には大火事で中心部は焼け落ちてしまう。この機会に、焼け落ちた中心部はバロック様式で再現される。その境界線は今日でも町の中心部で見ることができる。焼け落ちなかった側には骸骨屋敷の家屋が並び、そのすぐ後ろには、バロック式に建築物が並んでいる。第二次大戦では貴重な家屋が破壊されたが、幸い、被害はそれほど大きくなかった。完全に焼失した家屋を除き、町の中心部はかっての姿で再建されたので、美しい家屋を鑑賞することができる。

エスリンゲン観光

電車で来ると中央駅の右手(立つ方向により左手)に”Pliensauturm”が見えてくる。まずはここから見ていこう。かってはここが町の南端で、町は城壁に囲まれていた。この塔を背にしてまっすぐ歩いていけば中心部にいける。まもなく有名な”Die Hochwacht”(警戒塔)が丘の上に見えてくる。近辺からの侵略が絶え間なかった頃は、この塔で敵軍の進軍を監視していた。その先にある古風な家屋はなんとスターバックス!

内陸部の橋

ここがもう町の中心部。すぐに最初の観光名所、内陸の橋が見えてくる。橋の上にある小さな礼拝堂、ニコラオス礼拝堂は13世紀の建造物で、町のもっとも古い建造物のひとつだ。橋とは言うものの、川の上にかかっている部分は一部だけ。だから内陸部の橋と呼ばれている。

旧市役所

そのまま直進すると、銅像と噴水が見えてくる。その先に見事な骸骨屋敷がある。これが町の象徴になっている旧市庁舎のお尻の部分。15世紀に建てられたこの市役所は、”alemannischen Fachwerkbaus”としてとりわけ貴重なもの。ドイツにはネルトリンゲンと、ここにしか残っていない。とっても見事な作りなので一周してみよう。正面はお化粧されて綺麗だが、横から見ても立派なもの。噴水の前の鷲は、自由都市の象徴だ。8時、12時、15時、それに18時は24の鐘が奏でる演奏を聴くことができる。

新市役所

その向かいの新市庁舎は、18世紀に建造されたもの。新市役所の左手は市場があり、見事な骸骨屋敷が軒を連ねている。平日に来るとお買い物をする住民で大賑わいだ。真ん中のとりわけ大きくて立派な建物は”Spitalkelter”でかっての病院の別棟だった。ここで果汁を絞っていた(”Kelter”)ので、この名前が付いている。16世紀に建造されたが、焼け落ちたので18世紀に再建されている。

Frauenkirche

骸骨屋敷の後ろに見える白い教会は、”Frauenkirche”。14世紀に建築が始まり、16世紀に完成した。丘の上にあるので火事の被害にも遭わなかった。「もっといいアングルはないものか?」と汗をかきながら丘の上まで上ってみましたが、なし。市場から撮るのが一番です。

城壁

ここまで来たら、覚悟を決めて城壁の上まで上ってみよう。城壁の長~い階段への入り口は、見事な骸骨屋敷の手前にある。半端じゃない階段を昇っていくと、白髪の70代のドイツ人のおばあちゃんが降りてくる。ドイツ人は若くてもほぼ肥満体系だが、健康な人は驚くほど健康だ。観光客で一杯かと思いきや、全然空いてます。見晴らしも「絶景」とはいきませんが、十分に綺麗です。13時頃に登りましたが、逆光でした。いい写真を撮るなら早朝か、夕方がいいです。

記念写真を撮って一息ついたら、城砦の内部を見に行こう。この城壁の分厚いこと。ハイデルベルクの城を見学された方は、破壊された塔を見ただろう。エスリンゲンにくると、完全な形で残っている塔と城壁を見ることができる。城壁の中にはさらに見晴台が作られている。見晴台は押し寄せる敵軍を狙って砲撃するには最適の場所。

水路

城壁を見終えたら、もう一度市場に戻り、エスリンゲンの有名な水路を見に行こう。かって皮なめし商があった場所は、綺麗な喫茶店&レストランになっている。その先には”das Schelztor”がある。建造は13世紀で、日本で言えば鎌倉幕府の頃の建造物だ。この塔は駅の近くにあった”Pliensauturm”とかっては城壁で結ばれており、かってはここに”Tor”(門)があったので、実際には塔なのにシェルツ門と呼ばれる。

Kupfergass

街中にはトイレがないので、スターバックスで一休み。元気を取り戻してから町の外れにある”Das Wolfstor”まで。この塔(門)は、残存している塔の中で最も古いもので、シュタウファー家の紋章である二匹のライオンが飾られている。ここまで来たら、”Die Kupfergasse”も見ていこう。15~16世紀に建造された見事な骸骨屋敷が建っている。

町の中心部は何処を向いても史跡が所狭しと並んでおり、どっちに行けばいいのかわからない。旧市役所の左手に狭い”Gasse”があり、その先にはこれまた見事な14世紀の骸骨屋敷が並ぶ”Hafenmarkt”がある。ここにはドイツ最古の骸骨屋敷が建っているので、お見逃しなく。

丘の上まで登って城壁も見て回ると、たっぷり5時間かかります。見所が多いので見ておきたい史跡をチェックしてから行くと、肝心の見所を見逃すことがないです。

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