エスリンゲン それともウルム?
エスリンゲンなら片道2時間、ウルムなら片道1時間。
「まずは近場のウルムから攻めるか。」
と走り出すと、1時間も経たないで、
「ウルムはここで降りてね。」
という看板。まだ持病の腰痛は発症してないし、先まで行っちゃえ!
と急遽、行先をエスリンゲンに変更。するとたっぷり2時間かかって、やっと到着。この決定が良かったのか、乞う、ご期待。
目次
街の紹介 エスリンゲン
まずは街の紹介から。この街は、バーデン ヴュルテンベルクの州都、シュトゥットガルトから見て
「8時の方向」
わずか10数キロところにある。
正式名称は、”Esslingen am Necker” / ネッカー河畔のエスリンゲン。
アウグスブルクから向かうと、渋滞で泣かされる高速8号線をひたすら東に走ること155Km。町の人口は9万人。シュトゥットガルトに観光に行っても、史跡なんかほぼゼロ。
どうせなら電車で15分足を延ばして、エスリンゲン行ったほうが正解です。
名前の由来
エスリンゲン市内からは、紀元前1000年の石器時代の居住跡が見つかっている。
1世紀なるとローマ帝国がライン川を越えて拡大、この地域を支配下に置いた。ゲルマン民族の大移動でこの地方にやってきたのはアレマーネン。
6世紀になると西のゲルマン民族国家、フランケン王国が勢力を拡大してきて、8世紀に町は Merowinger 朝の支配下に入る。9世紀の書簡で始めてこの町に関しての記述があり、“Hetsilinga”という名前で呼ばれいる。
これが名前の由来で、語尾に町(村)を表記する(日本で言えば○○町に相当)”-lingen”がついて、現在の町の名前、エスリンゲンになったと言われている。
街の歴史
街の歴史を見ていこう。エスリンゲンが発展を始めたのは、宗教が原因です。
8世紀にキリスト教の殉職者の屍が、イタリアから運ばれて埋葬されます。これをきっかけにお遍路さん / “Pillger”の旅程にエスリンゲンが載ります。今でいえば、ロマンチック街道のようなもの。
お陰で数多くの教徒がエスリンゲンを訪問するようになります。するとこの地を支配していた領主が、お遍路さんに十分な食料を提供できるように、市を開催する権利を付与します。
これをきっかけに商人や農民もやってきて、街が栄え始めます。
帝国都市 / Reichsstadt
12世紀になると神聖ローマ帝国の皇帝バルバロサが、エスリンゲンに皇帝の命令を遂行する官僚を派遣、町は帝国都市 /”Reichsstadt”に昇進する。
この称号は自治権を許された町に与えられるもので、土地の権力者ではなく、直接、皇帝から町の治世を任される。
自由都市との違い
日本では「自由都市」と呼ばれることもありますが、自由都市と帝国都市は全くの別物です。
自由都市 /”freie Stadt”とは、当時絶大な権力を持っていた司教、地方の豪族、それに皇帝、どの支配者からも支配されていない街を、自由都市と呼んでいました。
ドイツ国内ではリューベック、ケルン、アウグスブルク、レーゲンスブルクなど。
一方、帝国都市は皇帝に直属しており、税金を皇帝に払う義務があり、戦争の際には皇帝側で戦いに加わる義務を課されていました。エスリンゲンはこの帝国都市です。
その後、自由都市と帝国都市を一言で表現する、”freie und Reichstädte”という言葉が出来上がり、自由帝国都市、あるいは帝国自由都市と呼ばれるようになり、区別が難しくなりました。
シュタウファー家の支配
13世紀、神聖ローマ帝国のフリードリヒ二世が殉職者の屍を祭る”St. Dionys”教会を寄贈(建立)します。さらには修道院や看護施設までも寄贈されて、街は一気に宗教上の中心地になります。
当時、神聖ローマ帝国の皇帝を出していたのは、ドイツ最古の貴族のひとつシュタウファー家。この街に宮廷を構えると、エスリンゲンで国会が開かれるなど、は当時は有名な町だった。
ヴュルテンベルク家との抗争
エスリンゲンは13世紀から、その後200年以上にわたって、ヴュルテンベルク家との絶え間ない争に巻き込まれる。
領主だったヴュルテンベルク家は、支配地域の拡大を目指して、神聖ローマ帝国、すなわちシュタウファー家と小競り合いを繰り返す。
帝国都市だったエスリンゲンは、皇帝(シュタウファー家)側についた。これが目と鼻の先のシュトゥトガルトに居城を置くヴュルテンベルク家にとっては、目の上のたんこぶ。
ヴュルテンベルク家によって何度か占領されるが、16世紀の最後の戦いではヴュルテンベルク家は敗北を喫し、一家は亡命する羽目になる。
宗教抗争
プロテスタントが信仰地域を広げ始めると、エスリンゲンでもカトリック教徒と プロテスタント教徒の間で、
「俺の方が正しい。」
宗教抗争が勃発。当初はプロテスタント派が主導権を取るが、これが原因でカトリックのオーストリア軍に侵攻されて、エスリンゲンは再びカトリック教徒の町になる。
16世紀にアウグスブルクの和議が結ばれてから、プロテスタント派も許されることになる。が、宗教抗争はさらに激化、30年戦争に発展する。
近郊で行われた戦いでは、1万2000人もの難民がエスリンゲンに流れ込み、さらにはペストが発生、人口は半分にまで激減する。
エスリンゲンの大火事
17世紀にはフランス軍がやってきて、町を占領する。
18世紀初頭には、エスリンゲンの大火事で中心部は焼け落ちてしまう。
この機会に、焼け落ちた中心部はバロック様式で再現される。何処まで大火事で焼け落ちたか、その境界線は今日でも町の中心部で見ることができる。
焼け落ちなかった側には骸骨屋敷の家屋が並び、そのすぐ後ろには、バロック式に建築物が並んでいる。第二次大戦では貴重な家屋が損傷を受けたが、幸い、被害はそれほど大きくなかった。
完全に焼失した家屋を除き、エスリンゲンの中心部はかっての姿で再建されたので、美しい家屋を鑑賞することができる。
エスリンゲン 観光 – 街の随所に観光名所が目白押し!
では次はいよいよエスリンゲンの観光名所を紹介していきます。
最大の見所は山之上にある城壁と、旧市街の木枠で組まれた見事な骸骨屋敷です。
一般には、
「エスリンゲンとネルトリンゲンが骸骨屋敷のメッカ。」
と言われていますが、私の贔屓はエスリンゲン。でかい、見事な骸骨屋敷がそこら中に!
週末に車で行く場合は、ど~んと中心部まで行けます。平日は市場になっている場所を、駐車場として利用できるからです。
電車で来ると中央駅の右手(立つ方向により左手)に、防壁の一部だった塔が見えてくる。まずはここから見ていこう。この塔を背にしてまっすぐ歩いていけばエスリンゲンの中心部にいけます。
プリーエンザオ塔 / Pliensauturm
エスリンゲンの中央駅から見える、駅の路線脇にある塔はプリーエンザオ塔 / Pliensauturm です。
ちょうどエスリンゲンの街がある部分、ネッカー河に岩礁があり浅瀬になっていました。この岩礁を利用して、13世紀に石橋がかけられます。
アルプスの北では、レーゲンスブルクに続き、2番目に古い石橋だったと言われています。便利になったのはいいのですが、いつヴュルテンベルク家が軍勢をあげて押し寄せてくるかわかりません。
そこでネッカー河沿いに防壁を築き、その橋には監視塔を3つもこしらえました。現在まで残っているのは、このピリーエンザオ塔だけです。
ちなみにプリーエンザオ橋のアーチ型の南側には、城壁の土台だけは残っているそうです。私には何処にあるのか、発見できませんでした。
監視高台 / Die Hochwacht
プリーエンザオ塔の横の橋から、旧市街に入れます。道を直進していくと、まもなく有名な監視高台 / Die Hochwacht(高い場所から見張るという意味です。)が丘の上に見えてきます。
近辺からの侵略が絶え間なかった頃は、エスリンゲンは三重の城壁で囲まれ、支配者は丘の上に城塞を築いて、敵軍の進軍を監視していました。
下界から丘の上の斜面に作られた城壁をみると、(小さな)万里の長城のように見えます!
ドイツ各地の観光地を回ってきましたが、山の斜面にまで城壁が残っているのは、エスリンゲンだけです!そのまま歩ていくと、街中の建物で城壁が見えなくなるので、その前に写真を1枚撮っておきましょう。
そのまままっすぐ歩くと立派な骸骨屋敷が見えてきます。地上階には、なんとスターバックスが入ってました!(当時は)アウグスブルクにもなかったのに!
内陸部の橋 / Innere Brücke
スタバの先は、もう街の中心部。すぐ先に最初の観光名所、内陸の橋 / Innere Brücke が見えてくる。
橋とは言うものの、川の上にかかっている部分は一部だけ。だから内陸部の橋と呼ばれている。
橋が建造された13世紀は、この橋の下をネッカー河の源流が流れていたんです。エスリンゲンに入るにはこの橋を渡る必要があり、橋の両脇には料金所があり、通行税を徴収していました。
というのもエスリンゲンはイタリア北部から、ベルギー(フランダース地方)に向かう交易ルート上にあり、交易で栄えていました。
地元の人曰く、「このような見事な湾曲した石橋はフィレンツかエアフルトの石橋だけ。」との事。ちょっと威張りすぎな感じがしますが。
当時エスリンゲンの真ん中を流れていた河川には湾岸工事が施され、もっと右側を流れています。結果、陸の橋になってしまったわけです。
橋の上には3つのかわいらしい建物が建っており、左はニコラオス礼拝堂。13世紀の建造物で、町のもっとも古い建造物のひとつだ。その隣はドイツ人の大好きなアイスカフェ、そしてお菓子(チョコレート)屋が並んでいる。
時間と気力があれば、この橋を下って、ネッカー河沿いに300mほど歩いてみよう。すると左手に橋が見えてくる。
この橋の上からの眺めは、エスリンゲンが誇る教会の尖塔が3つ同時に収まる貴重なアングルだ。ここから撮った写真は、絵葉書で使えます!
本当は三脚を使って川面に移る家屋を取りたかったのですが、橋が木製で人が通ると揺れるので、長時間撮影は無理でした!残念。
エスリンゲン 旧市役所 / altes Rathaus
内陸の橋を渡ってそのまま直進すると、銅像と噴水が見えてくる。その先に見事な骸骨屋敷がある。建物のお尻の部分しか見えないので、何の建物なんだか。でもこの部分だけでもかなり立派。
実はこれが街の象徴になっているエスリンゲン旧市庁舎 / altes Rathaus のお尻の部分。
15世紀に税金を徴収して、その後、商品を販売するデパートとして建てられたもの。
ちぐはぐな感じがあるのは、16世紀になってルネッサンス様式で北側の建物が増築されたから。後ろの部分は裁判所としても使用され、そのバルコニーからは処罰が発表された。
この市役所の(お尻の部分)は、”alemannischen Fachwerkbaus”(アレマン式骸骨屋敷様式)としてとりわけ貴重なもの。
と、されていたんですが、最近になって、「アレマン式骸骨屋敷様式なんてない。」という意見が主流になっており、余計なウンチクは避けた方が良さそう。
とっても見事な作りなので一周してみよう。正面はお化粧されて綺麗だが、横から見ても立派なもの。
正面にある大きな噴水の真ん中には、帝国都市の象徴である鷲が飾られている。8時、12時、15時、それに18時になると、24の鐘が奏でる演奏を聴くことができる。
正面から見ると時計の下に、もうひとつおかしな時計がある。これは天文時計 / astronomische Uhr と呼ばれ、太陽と月、地球の位置を示すもの。鍛冶屋が作った機械式の天文時計ではドイツ最古です。
エスリンゲン旧市役所は北向きなので、早朝を除くとず~っと日陰になっている。そこで太陽が西に下り始め、やっと影が取れるまで待って撮影してきました!
でも夕方になると、今度は市役所の周りの建物に影が落ちてくるので、なんとも撮影の難しい建造です。
エスリンゲン新市役所 / neues Rathaus
旧市庁舎の向かいにあるのは、エスリンゲン新市庁舎 / neues Rathaus です。
18世紀に初頭の大火事でここに建っていた建物が焼け落ちたので、貴族がここに個人の住まいとして宮殿を建造させた。雨の日も濡れずに屋内に入れるように、入り口は馬車がそのまま通れる大きさになっている。
ヴュルテンベルク公爵が街を占領した際は、この建物を徴収して、公爵家として使用。ヴュルテンベルク公爵が戦争で負けて街から追い出さると、町長がこの家を仕事場兼市役所として徴収、今日に至っている。
病院の果汁絞り工場 / Spitalkelter
新市役所の斜め向かいにエスリンゲンの市場があります。
平日はここでエスリンゲンの農家や酪農家が農産物、酪農品を販売している。週末に行くと店舗は撤収されているので、撮影するには絶好です。市場の周囲には見事な骸骨屋敷が軒を連ねている。
真ん中のとりわけ大きくて立派な建物は病院の果汁絞り工場 / Spitalkelter です。
かっての病院(”Spital”)の別棟だった。ここで果汁を絞っていた(”Kelter”)ので、この名前が付いている。日本語にそのまま訳すと、果汁絞りの病院の別棟となるので、敢えて病院と書きました。
13世紀に建造された病院の本棟はなくなり、残ったのはこの別棟だけ。現在の建物は19世紀初頭に再建されたもの。その理由が面白い。
18世紀といえば、迷信の栄えた中世がやっと終わった時代。
当時、この別棟に地下には黒い男 / Schwarzen Männle が住んでおり、果汁を絞る徒弟が手抜きをしたり果汁を自分で飲むと、この男が何処からともなく出現、徒弟を散々殴ると言われていた。
さらには地下室にはワニがおり、徒弟が皮のエプロンと一緒に食われてしまったと大真面目に信じていた。これがきっかけで19世紀に改築されました。
その後、キールマイヤー一家がこの家に住んでいたので、キールマイヤーの家とも呼ばれています。
聖母教会 / Frauenkirche
市場から見える白い教会の尖塔は、聖母教会 / Frauenkirche です。
14世紀に建築が始まり、16世紀に完成。すでにたくさん教会があるのに、何故、もうひとつ?
それは街にあった主要教会が、シュパイヤーの司教の管轄下にあったから。エスリンゲンの住民にはこれが気に入らず、200年もの歳月をかけて新しい主要教会を、丘の斜面に建設しました。
これが幸い。丘の上にあるので火事の被害にも遭わなかったので、16世紀の姿のまま残っています。
「もっといいアングルはないものか?」
と汗をかきながら丘の上まで上ってみましたが、なし。市場から撮るのが一番です。
ワイン畑 & 見晴台
聖母教会の横から、エスリンゲンのワイン畑を見ながら見晴らし台に登れます。
坂道がしんどいですが、ここから見える聖デイオニス教会 / St. Dionys は、障害物なく全体を見渡せる唯一のポイントです。
もっとも坂道がしんどく、これからまだたくさん歩くので、ここで体力を消耗してもいいものか?見晴らしのいい途中まで歩いて、数枚の写真を撮って引き返してきました。
エスリンゲン 城塞 / Esslinger Burg
ここまで来たら、覚悟を決めてエスリンゲン城壁 / Esslinger Burg に上ってみよう。
聖母教会の横の歩道を道路に沿って直進、すぐ左に曲がると、城塞へと続く長~い階段への入り口が見えてくる。
半端じゃない階段を昇っていくと、白髪の70代のドイツ人のおばあちゃんが降りてくる。ドイツ人は若くてもほぼ肥満体系だが、健康な人は驚くほど健康だ。
実はもうひとつ、ワイン畑を迂回して、城塞に後ろからアクセスする道もあります。
階段に比べれば多少は楽ですが、迂回する分、歩く距離は倍。坂道は長く急なので、どっちを選んでもしんどいです。
見晴らし台は観光客で一杯かと思いきや、全然空いてます。見晴らしも「絶景」とはいきませんが、十分に綺麗です。13時頃に登りましたが、逆光でした。いい写真を撮るなら早朝か、夕方がいいです。
記念写真を撮って一息ついたら、城砦の内部を見に行こう。この城塞は16世紀に建造された。もっとも街の人は、
「いや、違うよ、14世紀だよ。」と主張する。
町人曰く、以前からここには城塞があり、これが16世紀に今の姿に増築されたのだという。
エスリンゲン城塞は、他の街、例えば同じ帝国都市ニュルンベルクの城塞とは大きく異なる特徴がある。
ニュルンベルクの城塞には皇帝が住んでいたが、エスリンゲンは帝国都市だったので、権力者の居住として建造されたのではなく、純粋に防衛的な意味を持って建造された。
もっとわかりやすく言えば、苦労して登っても堪能できるお城がないっ!そこにあるのは防衛施設だけ!
ぶっとい塔 / Dickerturm
城塞の入り口の壁が凄い!この城壁の分厚いこと。3mはあります。
城塞の中の最大の見所は、角にあるぶっとい塔 / Dicker Turm と呼ばれる防御用の塔。
ハイデルベルクの城を見学された方は、破壊された塔を見ただろう。エスリンゲンにくると、完全な形で残っている塔を見ることができる。
以前はレストランがこの塔の中にあったのですが、とっくに廃業になり、中に入ることができません。
大砲台 / Kanonenbuckel
エスリンゲン城壁の中には、石を積み上げた見晴台、正確には大砲台 / Kanonenbuckel が作られている。
大砲台は押し寄せる敵軍を狙って砲撃するには最適の場所。昔の大砲も展示されています。確かに見晴らしはいいですが、個人的にはトイレに行きたくして仕方がないっ!
この大砲台、土台はトイレにもなっているんですが、いつ行っても施錠されて使用不能。
エスリンゲンはトイレ探しの難所です。城塞にはトイレがないので、上がる前に要を足しから、あがりましょう。
城塞広場 / Burgplatz
城塞の中は、建造物が少なくて城塞広場 / Burgplatz が広がっています。
きっと16世紀に建設された当時は、もっと建造物が多かった筈。
今では芝生が引かれ、あちこちに花が栽培されているので、エスリンゲン市民は広大な敷地内の芝生に寝ころんで、リラックスしていました。
監視小屋
城塞広場の端っこに、街中から見えた高台監視 / Hochwacht が建っています。
近く(裏)から見ると、全く別の建物に見えますね。
Mélac 小屋/ Mélac-Häuschen
城塞広場の住居用の建造物と言えば、Mélac 小屋 / Mèlec-Häuschen と、これに続く別館のレストランくらい。
このMélac 小屋には逸話がありあます。
Mélac はフランスのルイ14世の将軍。エスリンゲンを陥落させると、町を破壊すると脅します。
「それが嫌なら、町で一番の美人を差し出せ。」
と将軍。流石、フランス人。
そこでエスリンゲンの女性が町を救うために、将軍の欲求を満たすことに。その舞台に使われたのが、このMélac 小屋。
将軍は欲望が満たされると、約束を破って町を破壊。このMélac はハイデルベルクを攻撃して、城を破壊した人物です。
ライン河畔の壊れている古城は、その大半がこの将軍の仕業です。
シェルツトーア / das Schelztor
城塞を見終えたら、旧市街の残る観光名所を見に行こう。
旧市街には、他の街では見ることできない見事な骸骨屋敷がそこら中に散らばっている。
まずはシュエルツトーア / das Schelztor から。
建造は13世紀で、日本で言えば鎌倉幕府の頃の建造物だ。この塔は駅の近くにあった”Pliensauturm”とかっては城壁で結ばれていた。
かってはここに”Tor”(門)があったので、実際には塔なのにシェルツ門と呼ばれる。
エスリンゲンはかって三重の城壁で囲まれ、28の門があり、50を超える塔があったが、現在まで残っているのはわずかに数本だけ。
現在はイタリアのカフェが入っており、夏はアイスが大人気。この塔のてっぺんには、面白い人形が飾られているので、お見逃しなく。
聖デイオニス教会 / St. Dionys
ここまで来たら無視していないで、エスリンゲンの発展の原動力となった聖デイオニス教会 / St.Dionys を見ていこう。
デザインが違う教会の尖塔が二本あり、これが頂上近くの回廊で繋がっている、他では見ることがない建築様式だ。
冒頭で述べた通り、最初の教会が建造されたのは8世紀。街の人は、「777年だよ。」と教えてくれる。
エスリンゲンが栄えていた13世紀、にゴシック様式での3度目の改築が始まった。塔と塔をつなぐ回廊は17世紀に、塔を安定させるために付く加えられた。
と~っても大きな教会なので、内部には博物館も設置されており、過去の発掘作業で出土したさまざまな品が陳列されている。町人の自慢は13世紀に製造され、今日まで壊れていないステンドグラス!
狼門 / Das Wolfstor
街中にはトイレがないので、スターバックスで一休み。元気を取り戻してから、町の外れにある狼門 / Das Wolfstor まで。
この塔(門)は、エスリンゲンに残存している塔の中で最も古いもの(13世紀の建造)で、シュタウファー家の紋章である二匹のライオンが飾られている。
写真は内側から撮ったものなので見えません。外側に二匹のライオンの紋章が入ってます。
門の名前は、この二匹のライオンが由来。ライオンが狼のように見えたので、狼門と呼ばれることになった。この辺りにはレストランも多く、エスリンゲン原住民の憩いの場。
おまけに一番綺麗な塔なので、散々歩き回った後でも、是非、街の端まで足を延ばしてみよう!
狼門の内側からエスリンゲン市内方向に向かう道は、現地に住む人の台所。
通りの両側はお手頃な価格のレストランやテイクアウト専門の飯屋 / Imbiss が所狭しと並んでいます。安く食事するのなら、迷わずココ。もし雰囲気を大事にするなら、別の場所をお勧めします。
銅通り / Kupfergasse
エスリンゲンの端っこ、狼門まで来たら近くにある銅通り / Kupfergasseも見ていこう。
15~16世紀に建造された見事な骸骨屋敷が建っている。
その中でもこの家屋は装飾が一番綺麗でした!
ドイツ最古の骸骨屋敷
エスリンゲンの中心部は、何処を向いても史跡が所狭しと並んでおり、どっちに行けばいいのかわからない。
旧市役所の左手に狭い”Gasse”があり、その先にはこれまた見事な14世紀の骸骨屋敷が並ぶ”Hafenmarkt”がある。ここにはドイツ最古の骸骨屋敷が建っているので、お見逃しなく。
エスリンゲン ワイン倉庫
これまた見事な骸骨屋敷は、”Speyrer Zehnthof”と言います。”Zehnt”は中世の時代の税金。これが10%だったので、「1/10」という名前で呼ばれていました。
“Zehnthof”とは、その税金を徴収する役所ですね。全部合わせて、「シュパイヤーの税務署」です。
建造当初は税務署だったようですが、この建物はエスリンゲンの”Pfleghof”として使用されていたんです。”Pfleghof”をそのまま訳すと介護施設ですが、実際にここで介護していたのはワイン。
なのでワイン倉庫と名前を付けました。この立派な建物はドイツで最古のシャンパン会社、die Kessler Sekt が1988年に購入、今ではシャンパンを介護しています。
木材屋 / alte Zimmerei
エスリンゲン市内を流れる水路の中州にある家は、かっての木材屋 / alte Zimerei 。
1998年まで4代に渡って続いてきましたが、時代の流れには逆らえず、廃業。
めざとい投資家がこの家を買い、記念建築物なので、役人と戦いながらレストランに改造。ようやく2015年にオープンしたばかり!お安くはないのに、ロケーションがいいので、いつも庭の席は満席です。
参照 : alte-zimmerei.de
エスリンゲン 観光 まとめ
写真がたくさん余っているのですが、この辺でやめておきます。
と~っても長い記事を書いて、写真もたくさん載せると、グーグルのランキングが低下して、誰もページを見にこないためです。
残りの観光名所は現地に行かれた際のお楽しみに。
エスリンゲンは観光名所、史跡が多いので丘の上まで登って城壁も見て回ると、たっぷり5時間かかります。見所が多いので見ておきたい史跡をチェックしてから行くと、肝心の見所を見逃すことがないです。