ハノーファー は日本では知名度がとても低いドイツの大都市。その証拠に、「ハノーファー」と聞いても、とりわけ何もイメージが浮かんでこないばかりか、「何処にあったっけ?」という人も少なくない。

しかしかってはプロイセンとドイツの覇権をかけて争ったほど、名声と権力を有していた。戦争の行方次第ではドイツの首都になったかもしれない街。

ドイツ留学されるなら、多少の知識を備えていても損はしない。

街の紹介 ハノーファー

ハノーファー は北ドイツにある、ニーダーザクセン州 / Niedersachsen の州都です。ドイツにはザクセン州もあるので、名前がこんがらがると思いますが、こちらが本家で、東ドイツのザクセンは分家です。人口は50万人を超え、ドイツを代表する大都市のひとつ。

長く国が分裂されてたいたドイツには、数多いドイツ王家が残っています。その中でももっとも有名なのがハノーファー王国のヴェルフェン王家。イギリス王家と親戚関係にあり、かっては日本で言えば天皇家に匹敵するほどの強大な権力を有していた。

なのに国外での知名度は、同じほどの大きさのブレーメンやライプチッヒにも劣ります。その発展と没落について、詳しく見ていきましょう。

名前の由来

「ハノーファーはね、、」と言った途端、「それを言うならハノーヴァーでしょ。」とご指南を受けますが、ドイツ人はハノーファーって言いますので、こちらを採用します。アクセントを「ノ」に置いて発音すると、さらにドイツ語っぽい発音になります。

名前の起源(原因)になったのは、町を流れるライネ川。一見すると穏やかな川ですが、雨が降るとすぐに氾濫して一帯が水没するので、住むには都合が悪い場所。

そこで先住民は岸が高くなって浸水から守られている場所、ライネ側の東側に街を築きました。そこでこの町は”Honovere”、すなわち “Hohes Ufer”(高い岸)と読ばれたという説が一般的。

しかし、「それは違う。古典ドイツ語の”Hahnenufer”が訛って、ハノーファーになった。」という説の方が言語学的には正しい気がしますが、これを語り始めると終わりがないので、この辺でご愛嬌。興味のある方はドイツ語を勉強されてから、文献を紐解いてください。

ハノーファー伝説

ハノーファーにも、「ハンバーグはハンブルクが起源」という伝説に近い、ハノーファー伝説が存在しています。それは、「ハノーファーで話されているドイツ語が標準語。」というものです。ドイツ語を学習された経験のある方は、聞いた事がある筈です。

「聞いた話」で満足せずに調べてみると、事情は少々異なってるようです。

低地ドイツ語 / Plattdeutsch

北西ドイツでは独特のドイツ語、”Plattdeutsch”を話すことで有名です。何を言っているのか、全くわかりません。19世紀の中ごろ、オストファーレン、ブラウンシバイク、それにハノーファーに住む上級階級層が、無教養の階層と区別をするために、書かれたドイツ語の通りに発音する「お上品なドイツ語」を話し始めます

まさに話し方で「お里が分かる。」というものですね。これをその他の階層も真似をすることにより、この地域だけは、方言を話さなくなる不思議な現象が起こりました。

その結果、この地域で話すドイツ語が”Hochdeutsch”(標準語)に近くなったわけです。この地域で話すドイツ語が、標準になったわけではありません。

正しいドイツ語を身につけるなら、ハノーファーに行けといわれました。本当ですか。

現代のドイツ人は(バイエルン人を除き)、書かれた通りに発音するので、別にハノーファーに留学しなくても、標準語を学ぶことができます。ハノーファー伝説を広める人の意見はご慎重に。往々にしてドイツ語も話さない人が、語っています。

街の歴史

次に街の歴史を見ていきましょう。ハノーファーの建設者として歴史に残っているのは、近郊に所有地を持っていた貴族のローデン公爵。公爵はこの場所に聖ゲオルグ教会を寄贈して、市場を開設します。これによりこの市の近くに人が住み始めたのが、街の始まりです。

ハノーファー市街地

ヴェルフェン家 vs. シュタウファー家

公爵の死後、この地を治めたのはフランク族の”Welfen”(ヴェルフェン家)のハインリヒ獅子公 です。ハインリヒ公爵はザクセン伯爵の称号を得て、ハノーファーを拡張、整備させて、街を城壁で囲みます。

12世紀末、ドイツ最古の貴族、シュタウファー家とヴェルフェン家との権力争いがクライマックスに達します。神聖ローマ帝国の皇帝、バルバロッサに権力争いで負けたハインリヒ公爵は国外に亡命。結果、ザクセン伯爵の称号がはく奪されて、別の貴族に付与されます。

その貴族が東ドイツの王家だった為、東ドイツにもザクセン王国が誕生することになりました。その後、ハインリヒ公爵は亡命先からこっそり帰還して、ブランシュヴァイクの城に籠城。シュタウファー家は軍を進めますが、城を攻めあぐねて退却。

その際、ハノーファーに放火していきます。その後はヴェルフェン家とシュタウファー家のにらみ合いが続きます。

自立都市

本来、街を統治すべき貴族は権力争うにあけくれて、常に金銭難。ハノーファーは13世紀に貴族から独立して、自立都市になります。同時に税を課す権利、硬貨を鋳造する権利を取得すると、街は交易で栄え始めます。

しかしお金持ちの街は、その富を横取りしたい諸侯の標的になります。14世紀には防衛の為に街を8mの高さの城壁で囲み、幾つもの見張り塔を建造、町は難攻不落の城塞都市となります。この頃に建設された見張り塔は、まだ市内の随所で見かけることができます。

正確な年代はわかっていませんが、その後ハノーファーはお金持ち同盟のハンザ同盟にも参加、織物、毛皮、魚、バターなどの輸出入で街は栄華を享楽します。

17世紀にはハノーファーはハンザ同盟から離脱しますが、ヴェルフェン家がハノーファーにその居を構えたことから、王家のお膝元として発展を続けます。街の史跡の多くは、この時代に建設されたものです。

ハノーファー選帝侯領

30年戦争でも被害とほとんど受けず、17世紀には広大な地域を支配するハノーファー選帝侯領となる。このままますます発展するかに思えたハノーファーだが、選帝侯のゲオルグ1世がジョージ1世として英国の君主に君臨すると、居住地をロンドンに移した為に、ハノーファーを放ったらかしにして、街は衰退を始める。

ハノーファー王国 vs. プロイセン

この隙を利用して東方からやってきたのが、プロイセン。規模の上では小国であったプロイセンは、世界で始めて徴兵制度を導入して、小国ながら大規模な軍隊を保有していた。

当時のドイツはハノーファーに象徴されるように小国の集まりで、”Deutscher Bund”と呼ばれる烏合の衆だった。これを利用してハープスブル家、すなわちオーストリア帝国がドイツ連盟 /”Deutscher Bund”の宗主国としてドイツを実質上支配していた。

このオーストリアの支配を崩すため、ビスマルクはオーストリアを挑発すると、「ドイツ戦争」として歴史に残ることになるプロイセン+ 同盟軍 vs.”Deutscher Bund”+オーストリア帝国との戦争になる。

ヴェルフェン家の敗戦

ドイツ連盟軍の総指揮官になったのが、選帝侯領から王国と名前を変えていたハノーファー王国の王様だった。対するプロイセン軍はたかが13個師団で数の上では劣勢だったが、軍を指揮するのはモルトケ元帥。

元帥はドイツ連盟軍が集合する間隙を与えず、次々に小国を各個撃破していった。ハノーファー王国は、当時は強大だったデンマークは同盟を組んでプロイセンに抵抗したが、歯が立たなかった。

1000年も続いたヴェルフェン家は財産没収されて、王様はドイツ追放の憂き目に遭い、オーストリアに亡命した。ハノーファー選帝侯領とデンマーク人の多く住む北ドイツは、プロイセン領となった。

その後、プロイセンがドイツを統一すると、ハノーファーはドイツ第二帝国の一都市になりさがってしまうが、産業革命の波に上手く乗り、街は発展を続けた。

王家復活

ヴェルフェン家にとって幸いだったのは、亡命中のハノーファー皇太子が許しを得てドイツの皇帝に表敬訪問した際、皇帝の娘がハノーファー皇太子に一目惚れしたこと。その後、めでたくご成婚となり、ヴェルフェン家は再びハノーファーに帰国して、かっての領土を復活させることに成功した。

第一次大戦

ヴェルフェン家にとって災いだったのは、義理のお父さん、ヴィルヘルム二世が、イギリスに住む親族を相手に戦争をおっぱじめたこと。第一次大戦はドイツの敗戦に終わり、ヴェルフェン家の王は、義理のお父さん同様、退位させられてしまう。

「ただの」大金持ち

ヴェルフェン家にとって幸いだったのは、ワイマール共和国が接取された王家の財産の大部分を返却したこと。お陰でヴェルフェン家は本拠を親戚の住むロンドンに移して、今日までまるで王様のような生活を送っている。

第二次大戦 – ナチス支配下の惨劇

20世紀には街の人口が40万人を越え、ドイツ有数の大都市になった。ハノーファーの象徴となっている新市庁舎もこの時期に建設され、除幕式にはドイツ皇帝も訪れている。30年代には北ドイツの都市の中で、ナチスが真っ先に台等した。

この街でのユダヤ人迫害は熾烈を極める。市内には強制収容所が建設されて6万人もの捕虜が強制労働に就かされていた。戦争末期、連合軍に席捲されそうになると600人が「安全な」強制収容所に向けて死の行進に駆り出され、250人が途上で射殺されている。

さらに150名は共同墓地に連れていかれ、ここで射殺された。米軍がハノーファーを開放する4日前の出来事である。

復興

交通の要所だったハノーファーを破壊すれば、戦争遂行に欠かせない物資の移送ができないので、街は何度も爆撃に遭い、市内中心部はなんと90%が破壊されて瓦礫の野原となった。戦後、歴史的な建造物が再建されているので、見所は多い。

戦後、ハノーファーは新しく創設されたニーダーザクセン州の州都となる。ドイツを代表する二つの週刊誌、”Spiegel”と”Stern”は、この地で発行されており、経済活動は相変わらず盛んだ。

ハノーファー 生活と物価

まずはあまりよくない点から始めよう。多くの雇用を創出する政府機関と大学に加えて、ドイツを代表する大企業もあるのに、失業率が高い。その結果、犯罪率も高くなってる。ドイツで最も犯罪率が高いのはベルリン、フランクフルト、それにハノーファー。

通常はこの三都市が順位を入れかえることはあっても、トップ3から外れることは滅多にない。

次にいい点をあげよう。失業率と犯罪率が高いので、「ハノーファーに住みたいっ!」という人は多くなく、家賃は州都なのにそれほど高くない。30㎡までのアパートで11.82ユーロ/ 平方メートルで、デユッセルドルフの15.33ユーロ/ 平方メートルよりもかなりお得。

ハノーファー名物

ドイツ人がハノーファーと聞いて思い浮かべるものが二つある。そのひとつはクッキー/クラッカーで、1889年操業の”Leibnizkeks“だ。2013年、文字通り店の看板だった看板が盗まれる。犯人は、”Krümelmonster”。会社に脅迫状を送り、看板と引き換えに動物愛護団体に1000ユーロの寄付を要求した。

会社はこれを拒否、その代わりに福祉機関に5200箱のクラッカーを送ることを提案。犯人はこれに同意して、看板は無事、返還された。

もう一つのハノーファーの名物は見本市。世界一でかいコンピューター関連の見本市、Cebit が開催されることで知られる通り、ハノーファーは見本市の町。これに加えてハノーファー大学、ハノーファー医大、音(芸術)大、その他数多くの大学がある。

語学学校

これまでは「ハノーファーに留学したい。」というご要望はかなり稀でした。1年にお一人いるかどうか。やはり知名度が低いので、留学先としても人気も低いようです。語学学校も「ここがお勧め!」という学校は見つかりませんでした。

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