ハイデルベルク は、バーデン ヴュルテンベルク州にある人口16万人程度の街。
他の街と違うのは、毎年350万人もの観光客が訪れるドイツでも指折りの観光地である点です。
単純に計算をすれば、毎日1万人近い観光客が街を訪れている計算になります。
この中に相当数の日本人団体観光者が含まれており、
ハイデルベルクはドイツの観光名所の
「鉄板」
的な存在です。
でもドイツには世界遺産都市に指名された、バンベルクのようなもっと綺麗な街があるのに、何故、ハイデルベルクが独り勝ちしているのでしょう?
街の紹介 ハイデルベルク
ハイデルベルクが独り勝ちしている理由は、
- アクセスの良さ
- 観光インフラの整備
の二つです。
この街は、
「ドイツの空の玄関」
と呼ばれるフランクフルト空港から電車、あるいはバスで南に1時間ほどの距離にあります。
空港からのアクセスのよさは、団体旅行を計画する旅行代理店にはとても大事なポイントです。
もうひとつの観光インフラの整備ですが。
バイエルン州の大学町のヴュルツブルクは同じように綺麗ですが、山の上の要塞に上るには階段だけ。
ハイデルベルクには名物のケーブルカーが設置されており、体の不自由な方でも安心して観光することができます。
こうした点が功を奏して、ハイデルベルクは世界遺産都市を差し置いて、一人勝ちしています。
古城街道 / Die Burgenstrasse
「ドイツの観光名所はロマンチック街道だけ!」
と思っているアナタに吉報!
ドイツの観光名所は他にもあります。
そのひとつが
“Die Burgstrasse”( 古城街道 )
です。
ドイツの城下町を結んだ観光ルートで、その要所がハイデルベルクです。
もっとも厳密に言えば、ハイデルベルクの城は
“Schloss”(居城)
で
“Burg”(要塞)
ではありませんが、そこはご愛敬。
行き方
行き方は簡単です。
最寄り空港のフランクフルト空港から、電車に乗り換えてください。
平日であれば30分置きに電車が出ており、1時間ほどでハイデルベルクに到着します。
通常であれば、フランクフルト中央駅かマンハイムで一度、乗り換えが必要です。
ドイツが珍しく日本よりも優れているのが、電車の乗り換え方法。
乗り換える電車は向かいのホームに来るので、長い階段を上る必要がないんです!
もっともその電車が
「ほぼいつも遅れる」
のがドイツ。
費用はドイツの新幹線 ICE でも30ユーロほど。
冒険好きな方は、ルフトハンザのシャトルバスで移動することもできます。
到着先はハイデルベルクの駅の近く。
費用は片道32ユーロ
もっとも1日に6便しか出てない上、要事前のチケット購入。
飛行機が遅れたら乗車券はパーです。
日本人は大人気!!
日本人はハイデルベルクで大人気です!
旧市街を歩いている無防備な日本人観光客を見かけると、ジプシーのローマ人の3人組が気が付かれぬように追尾を開始!
一人は警察をチェックしています。
警察の尾行がないと判断すると、実行犯に
「Goサイン」
を出します。
電光石火の早業で財布か携帯を盗むと、足の速い仲間に獲物をパス!
「あっ!」
という間に人込みに紛れて消え失せます。
お財布を盗まれた日本人はお買い物をするまで気が付かず、
「どこかに落としたのかしらん?」
と思うほど。
ハイデルベルク の歴史
折角なので、ハイデルベルクの歴史も手短に見ておきましょう。
紀元後、ケルト人を制圧してこの地を征服したのは、ローマ帝国です。
ローマ人は今日、ハイデルベルク大学があるネッカー河の北岸
“Neuheim”
に砦を築きます。
しかしローマ人の時代は長続きしません。
3世紀になるとゲルマン民族の4大種族のひとつアレマーネンがローマ人を追い出して、ハイデルベルクを含むこの地方に入植します(*1)。
もっともその後、ゲルマン民族の4大種族のひとつの出世頭であるフランケン族が、現在のフランスで強大なフランケン王国を建立。
506年、西から勢力範囲を広げてきたフランケン王国が、ハイデルベルク一帯を占領。
アレマーネンは南に追いやられます。
もっともハイデルベルクは長い間小さな集落でしかなく、街の名前が初めて登場するのは12世紀になってから。
ファルツ / Pfalz 伯爵領
12世紀、神聖ローマ帝国の皇帝バルバロッサが、腹違いの兄弟をファルツ / Pfalz 伯爵に命名します。
こうして誕生したのがファルツ伯爵領です。
ハイデルベルクは当時、ヴォルムスの強大なカトリック司祭国の領土でしたが、皇帝の命令でファルツ伯爵領に組み込まれます。
その後、ファルツ伯爵領は神聖ローマ帝国内で最も大きな領主に発展します。
このファルツ伯爵領を支配していたのは、ヴィッテルスバッハ家。
そう、あのバイエルン公爵家(の親戚)です。
こんな場所まで権力(親戚)を持っていたんです。
その後、ファルツ伯爵は14世紀にファルツ選帝侯へと格上げされます。
当時、ファルツ選帝侯は首都を置かず、領土内の地を巡回して領土を支配していました。
これがおっくうだったのか、ファルツ選帝侯は次第にハイデルベルクに滞在することが多くなり、実質上のファルツ選帝侯の首都になりました。
ハイデルベルク大学
1386年、そのファルツ選帝侯であるループレヒト1世が、ハイデルベルク大学を創設します。
お陰で敗でハイデルベルク大学はドイツ最古の大学です。
当時の神聖ローマ帝国内でも、プラハ、ウーイーンに次いで3つめの大学をでした。
この為、大学の正式名称はファルツ選帝侯の名前を冠して、カール ループレヒト大学と呼ばれます。
最盛期
14世紀末、ハイデルベルクの街は大工事の末、街の規模が倍増します。
これが現在まで残っている旧市街で、当時としては大都市でした。
旧市街のど真ん中にあるでかい聖心教会も、この頃に建造されました。
16世紀には栄華を極め、旧市街には見事な屋敷が林立していました。
なのに今はほどんど残っていません。
何故?
ファルツーノイブルク選帝侯領
17世紀、ファルツ選帝侯がお世継ぎなく死去します。
するとその領土はヴィッテルスバッハ家系の親戚、ノイブルクを首都としていたファルツーノイブルク選帝侯領に併合されます。
新しい領主の名前はカール三世。
するとカール三世は首都を、これまで住んでいたノイブルクからハイデルベルクに移します(*2)。
ファルツ伯爵領後継戦争
ところがフランスの王様が、
「ファルツ伯爵領は俺の物」
と主張して軍を進めてきたのが、ファルツ伯爵領後継戦争です。
名前だけ聞くと局地戦のようですが、神聖ローマ帝国の他にスペイン、オランダ、イタリアそしてイギリスまで巻き込んだ世界大戦でした。
ハイデルベルク城もフランス軍に破壊され、
「王様のような暮らし」
をするのは不可能になります。
そこでカール三世は市内に新しい城を建てようとしますが、今度は市民の抵抗に遭います。
遷都
最後にはカール三世はプロテスタントの住民と仲違いして、首都をマンハイムに移してしまいます。
以後、マンハイムは都として栄えます。
こうしてハイデルベルクは昔の趣を残した古都、そしてドイツ有数の大学町として存在することに。
ハイデルベルク 観光 – 日本人に人気の観光名所大特集!
ではいよいよハイデルベルク観光です。
楽しみにしている方をがっかりさせるかもしれないが、
その原因は上述のファルツ伯爵領後継戦争。
戦争で綺麗な家屋が破壊されて、市内の建造物の多くは17世紀に再建されたもの。
戦争の後でお金がなかったので、再建された家屋は戦前のような
「豪華絢爛」
な家屋ではなく、質素な家屋に。
だからお城以外には、決して見所の多い街じゃない。
なのに旅行代理店がこぞって、
「古都ハイデルベルク!」
とやったので大人気に。
幸い観光名所は
- お城
- 石橋とその周辺
に集中しており、半日で見て回れます。
時間がない日本人には、かえってこれが好評に。
以下に日本人に人気の観光先を紹介しておきます。
ハイデルベルク 城 / Heidelberger Schloss
朝起きたら、まずはハイデルベルク城 / Heidelberger Schloss に登ろう!
観光客が少なくて、いい写真が撮れます。
加えて城は東にあるので、朝ならちょうど背中にお日様があり、市内を見下ろす綺麗な写真が撮れます。
午後になると次第に太陽が西に移動、モロ逆光になります。
すると教会や橋が影になって、細部が見えません。
一方、朝一番に撮ったのは、このページのトップの写真です。
細部まではっきり見えて、色抜けしていない綺麗な写真になります。
ハイデルベルク旧市街を見下ろす高台は無料で入れる場所にあるので、前日、撮り損ねた方は、翌日、早起きすればリベンジできます。
私は朝一番、坂道を駈け上りました!
ケーブルカー
ハイデルベルク城は山の中腹にあります。
歩いて登ると、体力によりけり15~20分。
と聞けば、
「なんだそんなに近いの?」
と思いますが、急坂なのでかなり体力を使います。
いいえ、ちゃんとケーブルカーが設置されています。
ケーブルカーの乗車費用は、城の入場料込みで9ユーロ。
550mの高低差を5分もかからず、
「あっ」
という間に到着します。
運行時間 8時~18時
ぶっとい塔 / Dicker Turm
写真スポットになっている崖の横に建っているのが、ぶっとい塔 / Dicker Turm”だ。
ハイデルベルク城の外壁の角にあたる部分なので、とりわけ丈夫な作りになっている。
敵の攻撃/砲撃に備えてなんと7mも厚さの石垣で作っています。
おまけに随所に彫刻を飾る手の凝りよう!
ただの防壁なのに。
日本のお城の壁はせいぜい30cm程度の厚さで、それも土塀。
ドイツの防壁とは比べ物になりません!
イギリス式建造物 / Englischer Bau
ハイデルベルク城の中に入らなくても無料で見れるのが、イギリス式建造物 / Englischer Bau と呼ばれる廃墟だ。
17世紀にフリードリヒ5世が、后のエリザベスのために作った建造物。
防御の為のお堀を埋めて建造したので、いざ敵が来ると簡単に攻略されてしまいました。
それでもまだ15mもあるお堀が残ってたんですけどね。
唯一壊れずに残っている時計塔、実は監獄塔です。
ここで囚人の拷問が行なわれ、
“Seltenleer”(滅多に空にならない)
という皮肉な名前がついています。
フリードリヒの建造物 / Friedrichsbau
監獄塔を越えてお城の中に入るには、入場券を提示してください。
すると真っ先に正面に見えてくるのが、フリードリヒの建造物 / Friedrichsbau という名前の建物です。
ハイデルベルクの城で唯一、壊れずに現存しているのがこの建物です。
名前からもわかる通りフリードリヒ4世(*4)が、17世紀初頭に壊れかけていた礼拝堂を撤去して、建造させました。
建物の表面には祖先の像が祭られており、その見事な外観に圧倒されます。
オットハインリヒの建造物 / Ottheinrichsbau
フリードリヒの建造物の右側にあり、建物の表面だけ残っている建造物がオットハインリヒの建造物 / Ottheinrichsbau だ。
オットハインリヒは ノイブルクの公爵だったが、出世して選帝侯に命名される。
すると本拠地のノイブルクで御殿を建てるだけでは飽き足らず、ここハイデルベルクにも自身専用の御殿を建設させたので、この名前になっている。
火薬塔
無料で散歩できる広大なハイデルベルク城の庭園内に、無残に破壊された塔がある。
元々は、火薬庫として使われていた火薬塔だ。
フランス軍が城を占領後、地雷で破壊を試みたが失敗。
石と石を結びつける石膏が頑丈で、爆破にもびくともしなかった。
4年後、フランス軍はありったけの火薬をもってくると、再度、爆破に挑戦。
今度は塔は二分された(*5)。
この塔は午前中に来るとモロ逆光なので、午後の撮影が最適。
ゲーテはスパイ?
火薬塔はハイデイベルク城の象徴的な存在で、何度も絵のモチーフになっている。
その中でも一番有名なのは、ゲーテが描いたスケッチ。
ではなぜ、ゲーテはこの街にやってきたのだろう?
当時、軍事大国として台頭してきたプロイセン。
この脅威に対抗するため、こっそり選帝侯を訪問して対プロイセン同盟の可能を探る密命を受けて、ハイデルベルクを訪問したと言われている。
でかい樽 / Groess Fass
入場料が必要なハイデルベルク城の中にはかっての図書館、薬局博物館などがあります。
その中で一番の人気はでかい樽 / Großes Fass”です。
なんと12万7000リットルも入りました。
そう、過去形です。
オリジナルは30年戦争で破壊され、木材は焚火で使用されて文字消え去りました。
その後、最初の樽よりも大きな樽が作られますが、やはり木材ですので、年月が経つと漏れ始めます。
そこで修復と作り直しを何度も行い、現在展示されている樽は18世紀に再建され4作目です。
作成を命じたのは、古い橋の再建設を命じたカール テオドーア選帝侯です。
なんと22万リットルもの収容能力を有しています。
ハイデルベルク近郊は、山の斜面を利用したワインの産地でもあります。
城の入り口にある立ち飲みレストランで、ワインを試すこともできます。
このでかい樽はお城の観光名所の目玉なので、常に観光客でいっぱい。
いい写真が撮れるまで15分もかかりました!
ネッカー河 / Necker
ハイデルベルクの旧市街は、ネッカー河 / Necker が切り開いた谷間に築かれています。
すぐそこまで山が迫って十分な土地がありません。
このため、この貴重な土地に建っているのは、お金持ちの瀟洒なお屋敷ばかり。
近代になって街がこの山の後ろに広がったため、今ではネッカー河が街の真ん中を流れています。
ちなみにネッカーの名前はケルト語から派生しており、
「激しく根性の悪い早い河」
という意味。
雨が降ると濁流に変わり、何度も橋を壊した根性の悪い河でした。
古い橋/ Alte Brücke
ネッカー河のこの部分に橋を最初にかけたのは、ローマ人です。
12~13世紀になって始めて石作りの橋が駆けられますが、何度も洪水で破壊されます。
ハイデルベルク城を破壊したフランス軍は、この橋も破壊していきます。
その後、残された橋の支柱を利用して橋がかけられますが、冬の洪水で氷が橋を破壊。
18世紀になって橋の再構築を命じたのが、選帝侯のカール テオドーアです。
今度は洪水になっても壊れないように高くして建造され、今日まで現存することに。
このため正式名称はカール テオドーア橋ですが、ハイデルベルク市民は古い橋と呼んでいます。
橋門 / Brückentor
その古い橋の上にあるのが橋門 /Brückentor です。
この門から街に入るには、
「橋税」
を払い、鎖で繋がれた橋が下ろされて街に入れる構造でした。
この落とし橋はカール テオドーア橋の建築で廃止され、橋を渡ってそのまま街に入れるように作り直されました。
西側の塔の中には牢屋で、東側の塔には門番の住んでいました。
3体の石像
橋の上には3体の石像が飾られています。実はコレ、コピーです。
オリジナルは博物館に陳列されています。
そもそも橋の完成時、ここに建っていたのは選帝侯のカール テオドーアの石像だけ。
「ひとつだけじゃ寂しいな。」
ということで、女神ミネルバとアテネ像が追加されました。
橋の猿
橋の猿とよばれる銅像は復刻版です。
オリジナルは、古い橋の北側にあった橋の門に刻み込まれていた猿のレリーフです。
片手でお尻を触り、片手で鏡を差し出すもレリーフで、
「猿の塔」
と呼ばれていた門を、フランス軍が破壊していきます。
現代になってから
「猿の塔を復元しよう!」
ということになり、応募で入選した作品(1979年)が飾られています。
ハイデルベルク 聖心教会 / Heiliggeistkirche
お城から街を見下ろした際に、ど~んと街の真ん中にあるのがこの聖心教会 / Heiliggeistkirche 。
ハイデルベルクで最大の教会で、14世紀末にファルツ選帝侯のお墓を埋葬する場所として建造された。
当初は今のような大きな教会にするつもりはなかったが、建設に100年以上もかかり、その間に依頼主も変わり、計画拡大。
ファルツ選帝侯代々の最後の埋葬場所となった。
30年戦争では大被害を受ける。
選帝侯の墓場まで荒らされて、ここに眠っているのは、30年戦争以降に死去した選帝侯の屍だ。
宗教改革が始まると、教会の中で喧嘩にならないように、壁を作りふたつに分けていた歴史がある。
胴体の大部分部分はプロテスタント(福音派)用で、教会の頭(塔)の部分はカトリック教徒用に。
1936年以降は公式にプロテスタント教会になったので、カトリック教徒は大学広場にあるイエズス会教会を本拠にしています。
ハイデルベルク 市庁舎
14世紀以降に建設されたドイツの街の構造は、どこも同じです。
街の真ん中に広場(市場)を置くと、これを取り囲むように教会や市庁舎を建て、さらには金持ちや貴族の見事な屋敷が立ち並んでいます。
ハイデルベルクも例外ではなく、聖心教会の前は広場、そして市庁舎が建っています。
この市庁舎は30戦戦争の災禍で壊れたので、同じ場所に18世紀初頭にバロック様式で再建されました。
その後、何度も改築され、19世紀には火事で大きな被害を受けた後、新バロック様式で再建されました。
ここは市場なので、周辺にはお金持ちが建てた綺麗な建物が多い。
とりわけ、
「おお、凄い!立派な市役所だ!」
というわけでないので、「これが市役所」と知っていなければ、そのまま見過ごしてしまいそうです。
ヘラクレス噴水 / Herkulesbrunnen
市庁舎の前にあるのはヘラクレス噴水 / Herkulesbrunnen 。
ファルツ継承戦争にてハイデルベルクはフランス軍に略奪され、住人は虐殺され、ほとんどの家屋は焼き払われます。
戦争後、街の人口は150人だったと言わてます。
選帝侯はデユッセルドルフに避難しており、城が焼かれた事を除けば、特に被害はなかった。
戦争後、選帝侯はハイデルベルクを再建する事を決意。
まずは手始めに市役所の前に噴水、それもヘラクレスの彫刻の噴水を作ることで、市民を街の再建に勇気づける事を期待。
噴水が完成したのは1706年。
以降、噴水はハイデルベルク市民の憩いの場になっている。
依怙贔屓するわけじゃないが、ドイツで一番立派なヘラクレス噴水は、アウグスブルクのヘラクレス噴水です。
穀物市場のマドンナ像
ハイデルベルク市役所からさほど離れていない場所に、穀物広場 “Kornmarkt” がある。
その中心部に建っているのがマドンナ像だ。
18世紀、宗教改革と30年戦争の嵐が過ぎ去ると、市民の多くはプロテスタントに改宗してしまった。
街で一番大きくて見事な教会もプロテスタント派の教会になったのを、悔しい思いで眺めていたのがカトリック教徒の選帝侯。
そこでカトリック教の布教目的で、ここにマドンナ像を建てる事を命令。
そんなカトリックのシンボルが、市場の真ん中に建てられて怒るプロテスタント市民。
その後は長い間、このマドンナ像はカトリック教徒とプロテスタント教徒の争いの種でした。
Hotel Ritter
聖心教会の向いにある立派な建物は、”Hotel Ritter”です。
今の姿になるまでの長~い話があるんですが、かいつまんで説明します。
ことの始めは宗教改革。
あるオーストリアの商人がプロテスタントに改修します。
オーストリアと言えば、ガチガチのカトリック。
その信仰の為に、国を追われてしまいます。
亡命先として選んだのが、プロテスタント派が多勢を占めるハイデルベルク。
街の中心部にある家屋を買い上げると、この豪華絢爛な装飾が施された。
ファルツ伯爵領後継戦争では大被害に遭い、唯一、表の装飾された部分だけ残った。
長くホテルとして利用されていましたが、コロナ禍で倒産。
今ではもぬけの殻です。
馬小屋 / Marstall
ハイデルベルク最古の建造物が、この馬小屋 / Marstall だ。
場所はネッカー河沿い。唯一、街を囲んでいた城壁の一部が残っている場所だ。
130mもの石造りの長くて大きな建物で、内側には武器庫 / Zeughaus も設けられている。
今はなんと大学の学食が中に入ってます!
何処に泊まる?
個人旅行される方の大きなテーマが、何処に泊まる?
移動の便利さを重視して駅の近くで探す場合、ハイデルベルクの交通要所はふたつあります。
それは中央駅とビスマルク広場(駅)です。
観光名所へ近いのは、街の真ん中にあるビスマルク広場の方ですが、ホテルはやっぱり高いです。
お値打ちなホテルは、中央駅の周辺にあります。
ビスマルク広場の近くの交差点にある伝統の高級ホテルが ホテル バイリシャー ホーフ 。
実はこのホテルを経営しているのは、ハイデルベルクで最大の私立の学校、F+U グループ。
が、ちと高い。
部屋も広いとは言えない。
そこで私が泊ったのはお値打ちな
“The Heidelberg Exzellenz Hotel”
駅から10分歩きます。
夏に泊るとクーラーがないので寝れません。
でも部屋がありえないくらい広かった~。
全部で3部屋もあったよ。
キッチンと浴槽付き。
生活と物価
最後にハイデルベルクに留学される方の為に生活と物価を見ておきます。
まずはいい点から。
それほど大きな街ではないので、物価、家賃はそれほど高くはありません(安くもないです)。
観光客を狙ったスリが多いですが、治安はよいです。
知り合いの韓国人はベルリンに住んでいましたが、
「治安が今一つ、、。」
と、治安のいいハイデルベルクに戻ってきていました。
ネックは、日本関連のインフレの少なさ。
日本食ブームで日本食のレストランは多いですが、その多くはなんちゃって日本食堂の部類。
市内には数件の本当の日本食レストランがあるだけなので、日本人を利用したアルバイトを探すには向いていません。
また学生が多いので、市内の数少ない安価なアパート、シェアハウスの部屋は取り合いです。
市内で空き物件が見つからない場合は、市外の部屋を確保して、大学に通いながら引っ越し先を探したほうがよさそうです。
ハイデルベルク公共交通機関
ハイデルベルクは人口16万人の中規模の街なのに、路面電車が走ってます!
路面電車を維持するにはかなりのコストがかかるので、
「採算が取れる」
のは、人口が20万人以上の街。
これ以下だと赤字経営になるので、通常は16万人程度の街ではバスだけ。
なのにハイデルベルクに路面電車があるのは、この街を訪問する大量の観光客のお陰です!
個人旅行の移動手段で欠かせないのが、公共交通機関の1日乗り放題チケット。
バスでも電車でも使えます。
ハイデルベルクでは5.2ユーロから。
日本の値段と比べると格安です。
二人、三人と一緒に移動する人数が増えると、団体割引が効いてもっとお安くなります。
でも、正直に告白するとハイデルベルクの電車の値段表は何度見ても理解不能。
なんでこんなわけのわからない料金表に?
ハイデルベルク留学
ハイデルベルクはフランクフルト空港から(一度乗り換えして)、電車で1時間以内の距離にあります。
長い空の旅の後でも、なんとか辛抱できる(一人でも移動できる)距離です。
天気はいいし、ワインはうまい、安い。
おまけに買物する場所、観光場所には困らない。
ただし大都会ではないので、都市派の方には向いていません。
どちらかと言えば、田舎志向の方向きです。
ハイデルベルク大学はとりわけ医学部が有名ですが、その他の学科も優秀でドイツでトップ10に入る名門大学です。
街で一番人気の語学学校はF + U Academy。
「日本語が通じる。」
と大人気です。
注釈
*1 スペイン語では今日でもドイツを、アレマニア(アレマーネンの国)と呼びます。
*2 お陰でノイブルクは一気に落ち目になり、今日では「誰も知らない古都」として、ひっそりと存在しています。
*3 ファルツ伯爵領後継戦争で破壊されたのは、ハイデルベルクだけではありません。エスリンゲンを含む伯爵領の多くの町が破壊されました。
*4 ファルツ伯爵領を欧州での指折りの王家にすべく、神聖ローマ帝国を敵に回してチェコに進軍。1年間チェコの王様に君臨するも、神聖ローマ帝国軍に敗北。
罰として選帝侯のタイトルも失います。短いプラハの王様の期間を皮肉り、ついたあだ名が「冬の王様」
このフィリードリヒ4世の身勝手な戦争が、三十年戦争の引き金になったと言われています。
*5 観光案内を読まずに親子で観光に来ていたドイツ人、「爆破されたような壊れ方だ。」と言うんです。
「その通り!」と思わず、講釈を垂れてしまいました。