テュービンゲン

街の紹介 Tübingen

テュービンゲンは、バーデン ヴュルテムルベルク州の州都のシュトットガルトから南へ40kmの場所にある大学町。それもただの大学じゃない。ドイツ(欧州)でも最古の大学のひとつで、ゲッテインゲン、ハイデルベルク大学に並ぶエリート大学のひとつ。町の人口は9万人程度だが、3万人近い学生が住んでいる。ドイツでは知らない人はいないが、日本では誰も知らない秘境として紹介されている。

地理

テュービンゲンは地勢上、黒い森の北端と”Schwäbisch Alp“(シュバーベンのアルプス)の中間に位置します。アウグスブルクから車で向かうと、片道、2時間もかかりました!フランクフルトから電車で向かうと2時間半。これが理由で日本では「秘境」と呼ばれているのかもしれません。

テュービンゲンの歴史

町の歴史をざっと紹介すると、近郊にローマ人が1世紀に入植した痕跡が見つかっている。当時は”Tuwo”という名前で呼ばれていたが、ゲルマン人がこの地を占領すると、彼らの言葉で発音しやすいように語尾が-ing(en) と変化してTuebingenになったと言われている。11世紀の書簡では神聖ローマ帝国の皇帝ハインリヒ4世が、小高い山の上にある城砦”Hohentuebingen”を包囲したと記述されているので、この頃には立派な城砦が建造されていたようだ。

商人が交わした12世紀の書簡に、この地に市場が開かれていると記載されている。当時、この地はその後ドイツ第二帝国の皇帝を出すホーエンツッオラー家の親戚にあたる、ツッオラー家の支配可にあった。13世紀には街に昇格。この頃からこの地に幾つもの修道院が建設されて、カトリック教の砦になる。13世紀の終わりにはヘッセの小説に登場する、ラテン語学校が創設されている。14世紀にはこの街はヴルテムベルク伯爵の支配下に移り、伯爵の居住地として町は文化的にも栄えることになる。

15世紀には町の象徴になっている”St. Georg”教会、それに大学が建設される。もっとも当時の大学は教会の横のこの小さな家だった。宗教改革の波がやってくると、ヴルテムベルク伯爵は奨学金制度を導入した。これにより神学(プロテスタント)を学ぶ優秀な学生には、出身、身分に関係なく就学できることになった。

30年戦争時には、プロテスタント派が栄えたこの街はカトリック派の攻撃目標になる。テュービンゲンはバイエルン軍を主力にするカトリック連合軍に占領され、ヴルテムベルク伯爵は居城を明け渡すことになる。カトリック連合軍の占領下ペストが発生、1年間で1500人も死去するほど猛威を振るった。2年後、プロテスタント派のスウエーデン軍が町を攻めたが、バイエルン軍はこれを撃退した。スウエーデン軍が引き上げると今度はフランス軍が侵攻してきて、テュービンゲン包囲されてしまう。フランス軍はトンネル作戦で塔を爆破して町の中への侵入路を開くと、「もうあかん」とバイエルン軍は潔く降伏した。お陰で軍旗を保持したままの撤退が許された。その後、フランス軍は30年戦争が終結するまで、この地に駐屯した。

18世紀には二度も火事があり町の一部は焼け落ちたが、長い時間をかけて町は再建された。19世紀、職人とワイン農家が警察の横暴に抵抗して一揆をおこすと、町の権力者はこれまで禁止されていたテュービンゲン大学の学生連盟に助けを要請。150人の学生には銃が支給されて、無事、反乱を収めることに成功する。

テュービンゲンには軍の駐屯地が三っつもある軍隊の拠点だったが、戦争遂行に欠かせない産業がなかったことから空爆こそあったが、焼け野原になる運命を逃れることができた。さらにはフランス軍が進軍してくると、テュービンゲンは無抵抗で降伏したことから戦渦を免れることができた。お陰でテュービンゲンの旧市街地には見事な建築物が数多く残っている。

テュービンゲン観光

まずは町の有名な橋から。観光名所だけあって、綺麗に装飾されている。中世の頃からこの同じ場所に橋がかかっており、町への入り口は塔(門)と城壁で守られていた。今日では塔は取り壊されて残っていないが、堤防のように見える石垣はかっての城壁で、中性の頃にはこの城壁の後ろにさらに大きな城壁が築かれていた。ネッカー河の真ん中には中州があり、綺麗な並木道が整備されているので、是非、対岸の綺麗な家屋を見ながら散策してみよう。

ネッカー

テュービンゲンの名物のひとつは、”Stockerkahn”と呼ばれる渡し舟。棒(Stock)でこぐのでこの名が付いた。この部分のこの渡し舟の乗り場がある。対岸に並ぶ綺麗な家屋とネッカー川は何処から撮っても絵になりますが、ここ角度から撮ると水面の反射がなく絵のような写真になります。

聖ゲオルグ教会

テュービンゲンは防御に適した丘の上にあるので、坂道を登っていきます。もっとも坂道と言っても、マールブルクのような急坂ではありません。でもアウグスブルクよりは傾斜が厳しいです。撮影に来たのは10月中旬。撮影の時間が限られているので、すぐに左折して町の中心部、聖ゲオルグ教会に向かいます。尖塔が低くて、「ずんぐりむっくり」です。教会の前(それとも横?)には綺麗な家屋が並んでいますが、如何せん、北欧の秋。太陽が低くて完璧な影。

ゲーテが酔って吐いた?

教会の入り口前に綺麗な家屋が並んでいますが注目して欲しいのは左側の家。2階部分に看板が出ています。なんでもゲーテはテュービンゲンがお気に召さず、別の町に行こうとしたんですが、大雨。ここで足止めをくらい、大好きなワインを飲みすぎたので窓から吐いたという伝説です。面白いですが、証拠はありません。ジョークと考えたほうがよさそうです。

教会の中は、思ったより狭かったです。横に展示されている長椅子の彫刻の見事なこと。十字架の前がAltarと呼ばれる牧師様の仕事場。ちなみにドイツ語で、”zum Altar führen”(司教台に連れて行く)というと、結婚式することを指します。このAltarの裏に「墓場」があります。立派な棺おけが並んでいます。さぞかし有名な人だったに違いない。ほとんど男性ばかりですが(中世ですからね)、女性も唯一、カラフルな棺桶で祭られてます。

教会尖塔

通常、10月になると観光客が少ないので閉鎖されますが、「尖塔、オープン中!」と看板があちらこちらに出ていました。天気がいいので、臨時オープンしたようです。入場料、なんと1ユーロ。ただしお金を払っても切符はもらえませんでした。ここからネッカー河にかかる橋が見渡せます。もう紅葉まっさかりです。もっとも紅葉ではなく黄葉かな。こちらからはお城が見えます。お城は大学の一部で、博物館になっています。その手前、右にあるのが有名な旧市庁舎です。なんだかもうすでに影になっています。折角来たのに、ちょっと残念。これ以上真っ暗にならないように、急いで市庁舎に向かいます。

骸骨屋敷

市庁舎前の広場に並ぶ”Fachwerkhäuser”(骸骨屋敷)が見事です。こんなに多くの骸骨屋敷はネルトリンゲンエスリンゲンまでいかないとお目にかかれません。中央には町の象徴になっている市庁舎。15世紀に町がこの場所に建っていた家屋を買収、全部取り壊して新しく建設させたもの。19世紀まではヴルテムベルクの裁判所としても利用されてました。この日は「二酸化炭素の排出をストップせよ!」と集会があったので、警察が出動して警戒してました。集会が終わると大道芸人が出てきて、芸を披露。してくれるのはいいんですが、写真を撮るには最悪の環境でした。市役所を撮影するには正午までが旬のようです。市役所を背にして左側は、午後でも日が当たってます。

お城に向かいます。綺麗な骸骨屋敷が並んでいます。ドイツ人はあまり興味がないようで、レストランのメニューの前に列を作ってます。丘の上まで来ると建物が少ないので、日が差しています。駐車場は最後のひとつまで埋まってますので、旧市街に入る前に駐車場に車を停めておきましょう。これを知ってか、テユービンゲンの駐車場は料金が高かったです。

お城への入り口(門)、お見事です。入場料なし。学生が昼飯を持参して、町を見下ろしながらあちこちでピクニックしています。この先に見事な装飾を施された第二の門があり、この先が領主の家。ここにようやくトイレを発見。この建物の裏は見晴台になっています。まだ残っている城壁を見ると、その厚さ、有に2メートル半はあります。見晴らしがいいので、テュービンゲンまで来たら是非、お城まで足を延ばしてください。

宿題を済ませた後は、街中のチェック。市役所まで戻って脇道に入ると、立派な骸骨屋敷が並んでいます。この先を左に曲がると、地元民のお台所。古風な家屋を商店に使っていたり、博物館になっていたり、建築ファンには見逃せない場所。この地区はフライブルクのように運河が掘られており、とっても雰囲気がいいです。この運河が作られた当時は、住人のゴミ捨て場として使用されていました。ここまで来ると、まだ15時半なのに、もう夕方のようです。撮影を終えて駐車場に向かいました。

テュービンゲン留学

橋の上からの光景、市役所、お城などは行く前からわかっていましたが、市内に立ち並ぶ綺麗な骸骨屋敷の保存のよさに感心。あまり期待していなかったので、得した気分。世界遺産都市のバンベルクレーゲンスブルクには適わないけど、ハイデルベルクのような綺麗な町でした。物価も安いので、留学するにはいい町です。ただし!テュービンゲン大学は、他の大学のように”Campus”(大学の広い敷地)がない!建物が街中に散在しているので、講義から講義への移動が大変です。テュービンゲンの語学学校をお探しの方は、こちらをご参照ください。

« 1 of 2 »