今回紹介するのはネッカー河畔の大学町、 テュービンゲン です。
「ネッカー河畔の大学町って、ハイデルベルクじゃないの?」
と思われた方。
ネッカー河畔の大学町は、ハイデルベルクだけではありませぬ。
テュービンゲンはネッカー河畔に並ぶ家屋と、ずんぐりむっくりの教会の尖塔が織りなす景色が有名です。
「実物を見てみたい!」
と思っても遠距離のため、なかなかいく機会(勇気)がありませんでした。
気が付けばもう10月初旬で紅葉の真っただ中!
もう先送りにできないっ!
意を決して撮影に行ってきました!
いい写真が撮れたので、紹介したいと思います。
街の紹介 古都 テュービンゲン
テュービンゲンの旧市街は、ネッカー河畔の標高の高い北岸に広がっている。
街の発展のきっかけは、ここにローマ教皇が修道院をふたつも寄贈したのがきっかけです。
その後、新興勢力のヴュルテンベルク一家がテュービンゲンを占領して、ここにその居を構えます。
するとお城が提供する安全を求めて商人が集まり始め、交易で街が発展。(*1)
お金になった商人や役人が、旧市街に見事な屋敷を建ててその富を自慢していました。
第二次大戦中には二度の爆撃をうけたが、幸い、被害はそれほど大きくなかったので、当時の骸骨屋敷が数多く残っています。
戦後フランスの占領下になり、フランスは新しい州、ヴュルテンベルクーホーエンツォラー州を設立。
テュービンゲンに州都が置かれた。
現在の街の人口は9万人程度。
ドイツでは知らない人はいない大学街だが、日本では誰も知らない秘境として紹介されている。
行き方 – アクセス悪し!
テュービンゲンはバーデン ヴュルテンベルク州の州都であるシュトットガルトから、南へ30kmの場所にあります。
日本風に言えば、テュービンゲン県 / Landkreis Tübingen の県庁所在地でもある。
地勢上は黒い森の北端、あるいは地元の人の言い方を真似ると、
“Schwäbisch Alp”(*1)
のほぼ中間に位置します。
州都のシュトットガルトから電車で1時間ほど。
バイエルン州のアウグスブルクから車で向かうと、ひたすら西に走ります。
片道、2時間もかかりました!
フランクフルトから電車で向かうと2時間半。
これが理由で日本では「秘境」と呼ばれているのかもしれません。
最寄り空港
街はシュトットガルトから、南へ30kmの場所にあるので、最寄り空港はシュトットガルト空港です。
空港は
「国際空港です。」
と言っていますが、故郷の岡山空港のような立派な地方空港です。
無理にシュトットガルト空港まで飛ばす、フランクフルトから電車で行った方が早いです。
市内交通
人口9万人ですから、路面電車は走っていません。
そもそも旧市街の道路は狭く、かなりの標高差があるので、電車の走行には向いていません。
そこで路線バスが、比較的広い道路を走っています。
旧市街の中に行くなら徒歩か、タクシーのみ。
街の歴史 ローマ帝国の植民地
テュービンゲンの歴史も
「さらっと」
紹介しておこう。
近郊からは氷河期時代のさまざまな道具が見つかっているが、最初にテュービンゲンを含むこの地方一帯に入植したのはローマ人。
当時は
“Tuwo”
という名前で呼ばれていた。
ゲルマン人がこの地を占領すると、彼らの言葉で発音しやすいように語尾が
“-ing(en) ”
と変化して
“Tuebingen” (テュービンゲン)
になったと言われている。
街の名前が初登場
1078年の書簡にてザイラー家の王様 & 神聖ローマ帝国である皇帝ハインリヒ4世が、小高い山の上にある城砦
“Hohentuebingen”
を包囲したと記述されている。
これが、この地方に関する最初の記述になる。
と思ったアナタはドイツの達人級。
そう、あの息子に王位を奪われたハインリヒ4世です。
ちなみにその包囲がどうなったのか、不明。
ただそれ以降、ハインリヒ4世の名前が出てこないので、攻略には失敗した様子。
ツォラー伯爵家の支配
書面で確認できる最初のテュービンゲンの支配者は、ツオラー伯爵家です。
そう、後にドイツの皇帝になるホーヘンツオラー伯爵家と名前が似ていますが、別らしいです。
こちらはシュヴァーヴェンのツオラー伯爵家。
11世紀中ごろにはツオラー伯爵家がテュービンゲンを含めた、この地方一帯を支配。
1198年には
「テュービンゲンの市」
と書簡で記述されているので、交易で栄え始めた様子。
1231年に街に昇格。
するとローマ教皇がテュービンゲンに二つもの修道院を寄贈。
13世紀には有名なラテン語学校も建てられて、宗教の中心地として栄えます。
ヴュルテンベルク家の支配
神聖ローマ帝国の皇帝を出していた地元のもうひとつの貴族が、シュタウファー家。
12世紀、お世継ぎがすべて戦死。
以降、シュバーベン地方の支配者になったのが、11世紀になって初めて歴史に登場したヴュルテンベルク家です。
1342年、テュービンゲンはヴュルテンベルク伯爵の支配下に移ります。
すると伯爵は山の上にあった城塞に居住地を移します。
以来、伯爵家の首都として街は文化的にも栄えることになる。
大学創設 & 奨学金制度導入
16世紀に宗教改革の波がやってくるとヴュルテンベルク家は、カトリック系の修道院を閉鎖する。
修道院に代わって人々の啓蒙の役目を負うことになったのは、新設されたテュービンゲン大学。
大学で教えられたのはプロテスタント派のキリスト教。
もっとも当時の大学校舎は、教会の横の小さな家だった。
ついでヴュルテンベルク伯爵は奨学金制度を導入した。
これにより神学(プロテスタント)を学ぶ優秀な学生は、出身、身分に関係なく就学できることになった。
30年戦争とペスト
30年戦争時には、プロテスタント派が栄えていたテュービンゲンは、カトリック派の攻撃目標になる。
バイエルン軍を主力にするカトリック連合軍に街は占領され、ヴルテムベルク伯爵は居城を明け渡すことになる。
カトリック連合軍の占領下、ペストが発生する。
1年間で1500人も死去するほど猛威を振るった。
2年後、プロテスタント派のスウエーデン軍が町を攻めたが、バイエルン軍はこれを撃退した。
スウエーデン軍が引き上げると、今度はフランス軍が侵攻してきた。
テュービンゲンは包囲されたが、守備隊はこれに長く抵抗する。
フランス軍はトンネル作戦で塔を爆破して街の中への侵入路を開くと、
「もうあかん」
とバイエルン軍は降伏した。
お陰で軍旗を保持したままの撤退が許された。
その後、フランス軍は30年戦争が終結するまで、テュービンゲンに駐屯した。
近代から現代まで
18世紀には二度も火事がありテュービンゲンの一部は焼け落ちます。
その後、長い時間をかけて街は再建された。
19世紀、職人とワイン農家が、警察の横暴に抵抗して一揆をおこすと、街の権力者はこれまで禁止されていたテュービンゲン大学の学生連盟に助けを要請する。
150人の学生には銃が支給されて、反乱を収めることに成功する。
これがきっかけで、テュービンゲン大学の学生連盟は、今日でも町で幾つかの利権を所有している。
第二次大戦の戦禍
テュービンゲンは軍の駐屯地が三っつもある軍隊の拠点だった。
が幸いなことに、戦争遂行に欠かせない産業がなかった。
お陰で空爆こそあったが、焼け野原になる運命を逃れることができた。
さらにはフランス軍が進軍してくると、テュービンゲンは無抵抗で降伏したことから戦渦を免れることができた。
お陰で旧市街地には見事な建築物が数多く残っている。
テュービンゲン 観光 – ネッカー河畔の風光明媚な大学町
テュービンゲン観光の最大の魅力は、ネッカー河畔に並ぶ綺麗な家屋と
「ずんぐりむっくり」
な尖塔を持つ教会の織りなす光景です。
何処から撮っても絵になりますが、川面に移る家屋も一緒に撮ると、絵のような写真になります。
観光名所だけあって、街の至る所に花が活けられている。(*3)
ネッカー河にかかる橋は、中世の頃から同じ場所にかかっており、かってはこの入り口は塔(門)と城壁で守られていた。
今日では城壁と塔は取り壊されて残っていないが、堤防のように見える石垣はかっての城壁の一部です。
テュービンゲン 渡し船 / Stockerkahn
テュービンゲンの名物のひとつは、
“Stockerkahn”
と呼ばれる渡し舟。
棒(Stock)で漕ぐので、この名が付いた。
ネッカー河畔に沿って歩いていくと、100mほどで渡し舟の乗り場が見えてきます。
この渡し舟を運営しているは学生連盟で、他の業者はここで渡し舟を経営してはらないという独占権益を有している。
私が見ていると、観光客が集まり次第、スタートしてました。
今、ホームページでチェックすると、
「13時からのみ」
となってました。
コロナ禍のせい?
大人の乗船料は12ユーロとちと高い。
ネッカー河の中州
ネッカー河の真ん中には中州があり、綺麗な並木道が整備されている。
是非、対岸の綺麗な家屋を見ながら散策してみよう。
木材市場 / Holzmarkt
それではいよいよテュービンゲン旧市街を見に行きます。
ネッカー河にかかる橋を渡ったら、すぐに左手にネッカー通り / Neckergasse が見えてきます。
ここから旧市街に入るのが、一番の近道です。
そのまま歩いていると、聖ゲオルグ教会の影に覆われて日の当たることが滅多にない場所、木材市場 / Holzmarkt に出てきます。
ここにある噴水はゲオルグ噴水で、聖ゲオルグが竜を退治している石像が飾られています。
いつも日陰で逆光になっており、なんどやってもいい写真が撮れません。
現地で現物を確認してくださいまし。
個人的にはアウグスブルクのゲオルグ噴水が、ドイツで一番素敵。
ヘルマン ヘッセが働いた書店
木材市場に赤く壁が塗られた家が建っています。
ヘルマン ヘッセが、初めて仕事についたのが、ここテュービンゲンで、この赤い家に入っていた本屋です。(*4)
テュービンゲン 聖ゲオルグ教会 / St.Georg
テュービンゲンの風景を決定的にしているのが、
「ずんぐりむっくり」
の聖ゲオルグ教会 / St.Georg です。
この場所に最初に教会が建てられたのは、発掘調査の結果、11~12世紀の間と考えられています。
現在の聖ゲオルグ教会の建築が始まったのは、15世紀初頭です。
かなり壮大な建築案だった為、途中で金が尽きて建設が中断するというお決まりのパターンです。
紆余曲折の末、1490年に完成しましたが、この時点でも尖塔は未完成のまま。
そこで初期の計画を放棄して、建設途中で終わってていた尖塔に屋根を付けて無理やり完成したのが1529年。
現在ではプロテスタント系の主要教会(”Stiftkirche”)です。
司祭台 / Alter
教会の中は、思ったより狭かったです。
十字架の前が、Altarと呼ばれる牧師様の仕事場。
ドイツ語で、
“zum Altar führen”(司教台に連れて行く)
と言うと、結婚式することを指します。
彼女と一緒に行くときはご注意あれ!(*5)
長椅子 / Chorgestühl
これまでドイツ各地で教会の長椅子に座って夏の暑さをしのんだり、撮影してきました。
が、こんなに見事な長椅子 / Chorgestül は見たことない!
15世紀末に作られたこの長椅子は、テュービンゲン大学設立当時は大学生の座る椅子として使用されていたんです。
権力者のお墓 / Grablage
そもそも教会は、権力者が自身のお墓 / Grablage を作る目的で建造させました。
この聖ゲオルグ教会も例外ではありません。
教会の一番奥の部分には立派な棺桶が並んでいます。
「男性ばかりか。」
と思いきや、女性のお墓もあります。
テュービンゲンを支配していたヴュルテンベルク一族のメンバー、それにその親族の貴族がここで眠っています。
教会の尖塔に登ってみよう!
お墓の横に尖塔へ上る階段があります。
通常、10月になると観光客が少ないので閉鎖されますが、
「尖塔、オープン中!」
と看板が出ていました。
天気がいいので、臨時オープンしたようです。
入場料、なんと1ユーロ。
ただしお金を払っても切符はもらえませんでした。
ここからネッカー河にかかる橋が見渡せます。
尖塔の高さは56mあり、テュービンゲンを一望できます。
おまけに以外とスペースがあるので、見晴らし台でカメラのレンズ交換も可能。
お日様が左から指して斜め逆光で解像度が落ちていますが、これが市庁舎とお城を見渡す光景です。
コッタ本屋店 / Cotta-Haus
教会の入り口の対面に綺麗な家屋が並んでいます。
注目して欲しいのはその端っこの家。
これはコッタ本屋店 / Cotta-Haus です。
コッタとは、テュービンゲンで150年以上も本屋を営んだ有名な人物。
ゲーテ、シラーを筆頭に、当時の人気作家と個人的なつながりがあり、新作を独占して販売していたそうです。
Hier kotzte Goethe / ゲーテがここで吐いた
コッタ本屋店の隣の家の2階部分に、看板が出ています。
そこには、
“Hier kotzte Goethe,”(ゲーテがここで吐いた。)
とあります。
なんでもゲーテは1797年、スイスに向かう途上でテュービンゲンのコッタ氏を訪問。
別の町に行こうとしたんですが、大雨。
ここで足止めをくらい、大好きなワインを飲みすぎて窓から吐いたという伝説です。
面白いですが、証拠はありません。
ジョークと考えたほうがよさそうです。
旧 テュービンゲン 大学講堂 / alte Aura
聖ゲオルグ教会の入り口の右側にある小さな家屋は、16世紀に建造された旧テュービンゲン大学講堂 / alte Aura です。
屋根の部分は倉庫になっており、教授に払う穀物が保管されていました。
18世紀なってからバルコニーや装飾が施され、今の姿になりました。
でも19世紀にこの大学に通った学生の手記には、講堂は暗くてみじめな有様だと、散々な評判でした。
21世紀になってから大規模な改修が行われ、今でも大学の教育学部の施設として使用されています。
大学病院 ブルゼ / Burse
旧大学講堂の裏、ほぼネッカー河沿いにピンク色の大きな建物があります。
窓が多いのでてっきり病院かと思いきや、これはブルゼ / Burse と呼ばれる建物。
大学入学前の優秀な生徒が勉強、そして生活をした宿舎でもあります。
もっともテュービンゲン大学に医学部が設置されてからは、大学病院として使用されたというから、最初の推測は間違っていませんでした。
テュービンゲン 市場 / Marktplatz
始めてテュービンゲンに来たら、上述の木材市場を横目に見たら教会に入らず、そのまま直進しよう。
すぐ先に街の中心である市場 / Marktplatz があります。
お昼に近くなると観光客が続々と集結して、シャッターチャンスを失います。
それに肝心要の市役所は午後になると影になり、いい写真が撮れません。
テュービンゲンに午前中に来て真っ先に行くのは、この市場です。
お城と教会は、いつ行っても大丈夫!
とっても綺麗なので息を呑みますが、感心している時間はないっ!
木組みが美しい骸骨屋敷
テュービンゲン市庁舎前の広場に並ぶ”Fachwerkhäuser”(骸骨屋敷)が見事です。
こんなに多くの骸骨屋敷はネルトリンゲンかエスリンゲンまでいかないとお目にかかれません。
もっともあえてケチをつければ、市庁舎の向かいにある家屋が新しい。
どうみてもここ数十年で新築されたようです。
それがちょっと残念。
ネプチューン噴水
ドイツ中にあるネプチューン噴水。リンダウにも、バンベルクにもありました。
でもこのネプチューン噴水が一番立派。
足元の4つの女性像は、四季を表現しているそうです。
テユービンゲン 市庁舎
15世紀にこの場所に建っていた家屋を町が買収、全部取り壊して新しく建設させたものがテュービンゲン市役所です。
建造当時は3階建てだったのに、一階、追加されました。
通常の時計の上にあるのは天文時計です。
もっとも16世紀のオリジナルは博物館に移されて、今、設置されているのはコピーです。
壁画が施されたのは、大学創設400年を祝った1877年。
19世紀まではヴルテンベルクの裁判所としても利用されてました。
市役所を撮影するには正午までが旬です。
午後になると影になりますので、テュービンゲンに着いたら真っ先にここを撮影しましょう。
建物の影も、観光客の姿もない写真が撮れます。
テュービンゲン 城 / Schloss Hohentübingen
市役所の左側にお城に向かう坂道があります。
左右に並ぶ綺麗な骸骨屋敷に感心しながら歩いていくと、5分ほどでテュービンゲン城 / Schloss Hohentübingen の「正門」が見えてきます。
これが実に立派!
“Hohentübingen”を日本語に直すと、テュービンゲン高地です。
その名の通り372mの高地に建てられた城です。
撮影に一番いい角度を探して歩きまわっていると、大学生がお城の中に入っていきます。
そう、お城の中に大学の考古学部と博物館があるんです。
入場料はなし。
学生が昼飯を持参して、町を見下ろしながらあちこちでピクニックしています。
第二の門
この先に見事な装飾を施された第二の門があります。
幅10mほどのお堀と、頑強な城壁で囲まれています。
この先が領主の家。
ニュルンベルクのお城のように二重の城壁で囲まれています。
トゥヴィンギア城塞 / castrum twingia
この城塞が、11世紀の文書でトゥヴィンギア城塞 / castrum twingia と呼ばれている城塞です。
ヴュルテンベルク伯爵によって、住み心地のいいお城に改築されました。
長い建物が中庭をコの字型で囲んでいます。
ここで1日中探してた、トイレを発見!
流石にここにトイレを作らないと、敷地内でそそうをする人がいるからです。
建造物の中に入るには要入場料。
でも中庭を歩きまわるのはタダ。
見晴台
裏側に行くと、そこは見晴台になっています。
ここにはまだ城壁が残っており、その厚さ、有に2メートル半はあります。
スウエーデン軍の攻撃を撃退できたのも納得。
入場料を払って中に入ると、地下には巨大なワイン樽があります。
そう、ハイデルベルクのお城にあるやつです。
街の観光案内によるとテュービンゲン城の大樽は、1549年に製造されたもので、
「世界最古の大樽」
だそうです。
見晴らしがいいので、テュービンゲンまで来たら是非、お城まで足を延ばしてください。
ウエブサイトには
「入場料なし」
とありますが、私が行った際は入場料を取るようになってました。
街の博物館 / Stadt Museum
テュービンゲン城の中には、テュービンゲン大学の考古学部があるんです。
その考古学部には、発掘した「作品」を飾っている通称、街の博物館 / Stadt Museumがあります。
そこにはシュバーベンのアルプスで発掘された氷河期時代の「像」が展示されています。
これが世界で最古の人が作った像物として認定され、世界遺産に指名されました。興味のある方は以下のサイトで情報収集できます。
- 開館時間 : 11時~17時
- 閉館日 : 月曜日
- 入場料 : 5ユーロ
穀物倉庫 / Kornhaus
市役所を背にして左に曲がると、テュービンゲンの下町に行けます。
ここには水路が流れており、地元民のためのカフェやレストランが並ぶ地区です。
ここにひときわ目を引く大きな木組みの骸骨屋敷があります。
建造されたのは15世紀。かってここで穀物の売買が行われたので穀物倉庫 / Kornhaus と呼ばれています。
上の階ではテュービンゲン市民の舞踏場や催しの場として利用されていました。
現在は街の歴史を紹介する博物館が入っています。
- 開館時間 : 11時~17時
- 閉館日 : 月曜日
- 入場料 : 5ユーロ
テユービンゲン の建築様式
テュービンゲンの家屋は、シュヴェービッシュ ハルの家屋と建築様式が似ています。
地上階は石造り、その上に木造の家屋。
そしてこの立派な出っ張り。
距離的にもまあ、さほど遠いわけじゃないので、この地域の特徴ですね。
生活と物価 – 生活費は安いの?高いの?
テュービンゲンは人口が10万人にも満たないので、
「物価は安いんじゃない?」
と思いがちですが、それほど安くないです。
30㎡までのアパートの家賃が、13.44ユーロ/㎡。
バーデン ヴュルテンベルク州の平均が13.87ユーロ/㎡なので、州の平均よりわずかに安い程度。
これがデユッセルドルフだと、15,04ユーロ/㎡です。
思ったほど家賃が安くない原因は、テユービンゲン大学です。
大学生だけで2万7千人+。
これに職員を加えれば、ほぼ3万人もの関係者と学生がテュービンゲンに住んでいる計算になります。
これに加えて風光明媚で、州都シュトットッガルトから電車で1時間しか離れていない。
都会の喧騒を離れて住んでみたい人には人気が高いです。
テュービンゲン に留学!
物価がとっても安いっ!
わけではないですが、まあ、我慢できる範囲。
何よりも治安がいいです。
街も綺麗だし、名声の高い大学もあるので留学にお勧めしたいですが、問題は語学学校探し。
人口9万人ですから選択肢は多くありません。
いろいろ探しましたが、宿泊施設まで手配してくれるテュービンゲンの語学学校は、Sprachinstitut Tübingen だけでした。
注釈
*1 テュービンゲンを征服したのは、フーゴ三世公爵。占領後、名前をテュービンゲン公爵と替えた。大きな修道院の建設で借金苦に陥り、この地をヴュルテンベルク公爵に売却した。
*2
日本語でシュバーベンのアルプス。幅40km、長さ200km、(最高)標高1000mほどの山地が、シュトットガルトの南東60kmの地域に広がっている。
*3
フランスでは観光地を花で飾っていますが、ドイツでは私の知る限りテュービンゲンだけ。
*4
本屋の仕事をクビになり、執筆活動に専念。意外と早くその文才を認められるも、戦争に反対したのでドイツから追い出されます。ノーベル文学賞も受賞しています。
*5
手をつないでアルターの前に言った日には、もう言い訳できません!