カイザースベルク はアルザス地方のワイン村。
かっては交易で(そこそこ)栄えた街で、神聖ローマ帝国時代には帝国都市になり、みごとな家屋が数多く建てられました。
その後、工業化から取り残されたお陰で、当時の貴重な古い家屋が数多く残っています。
とりわけ美しいのは、川沿いにならぶ家屋の織りなす景色。
その景観に惹かれ、
「実物を見てみたい!」
と行ってみることに。
実物は写真で観るよりも全然、ステキでした。
半日かけてカイザースベルクを見てきたので、その魅力を紹介したいと思います。
目次
街の紹介 カイザースベルク / Kaysersberg
カイザースベルクの正式名称は、Kaysersberg 。
ドイツ語の皇帝 /”Kaiser”+ 山 / “Berg”からなる名前なので、街を作った(名付けた)のはドイツ人に違いない。
フランス領になったのに、街の名前がフランス語になっていないのは珍しい。
フランス人はなんと発音してるんだろう。
街は
“Weiss”(ヴァイス川)
が山間部を削ってできた谷間にあります。
そのヴァイス川が、村を縦にS字型に縦断しています(*1)。
普通なら防御を考えて、集落は標高の高い岸に築かれます。
が、カイザースベルクでは川の両岸に築かれています。
山肌が迫っているので、居住に使える面積が狭かった為です。
人口は2500人にも満たない小さな村。
朝、人気のない村を歩いていると、どの家屋も中世の頃の姿のままで、まるでタイムスリップしたような気分になります。
行き方
次いで行き方を解説します。
カイザースベルクは、アルザスの観光名所として有名なコルマールの北西に位置している。
その距離はわずか12km。
ワイン街道の有名な観光地リクヴィールからは、車で20分しか離れていない。
田舎なので電車は走っていません。
唯一、コルマーからバスの145番が出ていますが、日曜日は運休。
でもコルマーからタクシーで15分程度なので、すぐに着けます。
駐車場
自家用車で向かわれる方、町の周囲に複数の駐車場が設けられています。
ここで車を止めてから、村の中に入りましょう。
問題は駐車チケットの買い方。
使用方法の説明は、フランス語オンリー。
四苦八苦していると村人が、
「今日は月曜日で市場が開かれる日だから、無料だよ。」
と教えてくれました。
ラッキー!
ワイン街道
車で移動すると、見渡す限りワイン畑。
思わず車を止めて撮影したほど。
そのワイン畑の中の一本道が、カイザースベルクまで伸びていました。
まさに
「ワイン街道」
というキャッチフレーズが、ピッタリです。
街の歴史
折角なので、カイザースベルクの歴史も見ておきましょう。
この村の起源は、ローマ帝国の植民地であったと推測されています(*2)。
集落は山間部の谷間にあり、右(つまり東側)にはライン平野が広がっています。
この平野部はアルザスとロートリンゲンを結ぶ交易路で、人の往来が盛んでした。
すなわち!
すなわち!
関税で大儲けできます!
この目的で丘の上には早くから城砦が築かれて、この交易路を監視していたようです。
13世紀の書簡で、
”Castrum Keisersberg” (カイザースベルク要塞)
と記述されているのが、この地に関する最古の記述となる。
帝国都市 カイザースベルク
カイザースベルクの発展は13世紀になってから。
神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ2世がこの地を地元の権力者から買い入れると、要塞化したんです。
商人にとって一番の危険は盗賊です。
その盗賊から大事な品を守ってくれる要塞化された街ほど、有難いものはありません。
交易でカイザースベルクは栄えだし、14世紀には帝国都市になった。
町の大事な収入源である交易路と街の自由を侵略者から防衛するために、街は近郊の村コルマーなどと10都市同盟を組んだ。
30年戦争
ドイツ全土に荒廃をもたらした30年戦争は、片田舎のカイザースベルクにもやってきました。
記録の上では包囲に持ちこたえたようですが、度重なる戦禍に
「これはたまらん!」
と商人や住民が逃げ出し、ゴーストタウンになります。
再び人が住み始めたのは、30年戦争講和条約が結ばれてから。
一般に30年戦争は、
「プロテスタントのスウエーデン軍の侵略戦争」
と思わています。
あながち間違いではありません。
でもスウエーデン軍の総司令官が戦死後、プロテスタント軍を率いたのはフランス軍だったんです。
これが原因で、30年戦争の講和条約でカイザースベルクはフランス領となる。
するとこれまで帝国都市として享受していた特権を失い、開発から取り残される。
お陰で16~17世紀のままの姿で街が保存されることになった。
カイザースベルク 観光 – まるで絵葉書のようなワイン村
カイザースベルクは小さな村なので、隅々まで歩いても、3時間で制覇できます(山に登ると+1時間半)。
時間がない方は、まずは山を目指してメイン通りを歩いていきましょう。
大丈夫、メイン通りは一本しかありません。
山の麓にはヴァイス川が流れており、カイザースベルクの一番の見所もここにあります!
そのメイン通りには石造りと木枠の見事な家屋が立ち並んでおり、おフランスらしく花が生けられて、映えます!
インスタ映えすること間違いなし!
小さな村ですので適当に歩いていても、10分後には川に直面します。
カイザースベルク 絵画のような場所
カイザースベルクの真ん中を流れているヴァイス川。
そもそも最初から綺麗な景観を計画して建造されたわけではなく、後から家屋が追加されて、
「気が付くと」
現在のような見事な景観になりました。
ドイツ人は
“Malerischer Winkel”(絵画のような場所)
と読んでます。
晴れの日にはヴァイス川の水深は、数十センチメートル。
でも大雨が降ると、山に降った雨がこの川になだれ込み、濁流と化します。
このお陰で堤防が高く建設されており、家屋が半分しか見れないのが残念。
この場所はカイザースベルクの
- 観光案内所
- 無料トイレ
- 村で唯一のパン屋兼ケーキ屋
がある観光の要所。
日陰の対岸
いつも日陰になっている対岸の家屋も綺麗です。
ヴァイス川が増水したら、すぐに浸水しちゃいそうなのが心配ですが。
この家屋の反対側は
「Forgernos 通り」
です。
やっと車が一台通れる狭い道の両脇に、家々がびっしり!
そしてすべての家の形、設計が違う!
中世の建築家の創造性には、毎回、感心です!
石橋 / Pont Fortifie
街の案内でも書きましたが、ヴァイス川がカイザースベルクをS字に縦断しています。
そのヴァイス川にかかっている石橋が”Pont Fortifie”。
この川を使って町に敵が侵入することに備えて、橋の欄干は銃眼付き。
さらには衛兵の詰め所から防壁まで設けられています。
「1514年建造」というプレートが埋め込まれています。
舞踏場 / Salle des Fêtes
ヴァイス川は村を縦断して流れているので、時間があれば少し川の流れを追ってみよう。
河沿いに並ぶ民家のどかな景色を見ることができます。
ヴァイス川沿いに建つ大きな屋敷、これはかっての舞踏場 / Salle des Fêtes です。
こんな小さな村でも舞踏場を作るほど、需要があったんですねえ。
今ではツーリストインフォが入っており、裏手には観光客用の無料トイレもあり~。
パン屋 & ケーキ屋
橋の袂にケーキ屋あります。
もっとも
”Boulangerie – Patisserie”
とは、
「パン屋 & ケーキ屋」
という意味。
外観だけみれば普通の民家。
店の名前さえない。
ただ大きな窓があり、そこにはおいしそうなケースがずらり!
ショーウインドウの前にはお腹を空かした家族が陣取って、家族会議中。
長くかかりそうなので、撮影は後回し。
早速中に。
店内撮影は許可が居るので自粛。
早速、二つ買って、川沿に設けれたベンチに座ってブランチ。
気分最高です。
見ていると結構な売れ行き。
村で唯一の店だから、それは儲かるよね!
2時間おきに車が止まって、ケーキを補給してました。
「カフェを開こう!」
と考えている方!
こんな競争相手が少なくて、人の行き来が多い場所を選びましょう!
間違っても、さびた商店街で店なんか開くもんじゃない。
ヘルツアー家 / Maison Herzer
舞踏場の横に建つ木枠が美しい骸骨屋敷はヘルツアー家/ Maison Herzer と呼ばれています。
建造されたのは1592年で、カイザースベルクを代表する骸骨屋敷。
窓枠が石ので出来てますね。
3階部分には、村を訪れる観光客のために盛大に花を活けています。
Forgerons 通り
ヴァイス川と山の斜面の狭い場所にある回廊が Forgernos 通りです。
びっしりと家屋が並んでいます。
所々にしょぼい店舗、もとい、地場の特産物を売る店もあります。
時間がある方は、是非、こちらも歩いてください。
ヴァイス川にかかる石橋を渡って、左に曲がればこの回廊に、右に曲がれば旧市街の中心部に行けます。
Poterie de kaysersberg
Forgernos 通りのほとんどは、カイザースベルクの住人の民家です。
あるいは休暇用の貸しアパート。
ここにある店舗は
“Poterie de kaysersberg”
という店で、陶器のお店です(*4)。
まさかここで壊れ物の陶器を買って、家まで持ち帰る人がいるのかしらん?
それよりも見て欲しいのは、画面右側の岩。
山の斜面がここまで迫っているんです。
この店舗はその岩盤に、ぴったり密着して建てられてます!
カイザースベルク 中心部
石橋を右に折れると、カイザースベルク中心部に出てきます。
それは先に教会と市役所があるからです。
道は一本だけなので、間違える心配なし。
まるで映画のセットのような古めかしい家屋が通りの両脇にびっしり!
Maison Loewert
写真中、右側の立派な骸骨屋敷は、Maison Loewertです。
1739年建造。
実はここもパン屋。
が、この日は休日。
それとも廃業?
そこが不明。
壁にかかっている宗教画が有名です。
聖なる十字架教会 / Eglise Sainte Croix
噴水、それにカイザースベルクで唯一の尖塔を備えた大きな建物は、聖なる十字架教会 / Eglise Sainte-Croix です。
ドイツ語では”Heilig-Kreuz-Kirche”。
十字架教会の一番古い部分は、入り口の石の彫刻。
なんと12世紀のものです。
その後、何度も増築を重ね、3つの棟を持つ現在の形になりました。
一番古いのは写真で見える部分です。
当時はガラスは貴重品で、大きなものは製造不可能。
だからそもそも窓が少なくて、細いのが特徴です。
教会の後ろの部になると16世紀の建造なので、ちょっと手の込んでいるゴシック様式。
四角い立派な教会の尖塔は、19世紀になってから新しく建造されたものです。
コンスタンチン噴水 / Konstantinbrunnen
十字架教会の前(正確には横)の広場には、立派な噴水 / Konstantinbrunnen があります。
噴水の中央の像は、十字架を背負っているコンスタンチン(キリスト教の聖人)なので、この名前。
噴水(井戸)作られたのは、1520年。
まだちゃんと水が出ているから凄い。
旧市役所 / Hotel de Ville
その後ろの建物、”Hotel de Ville”という看板がかかっています。
「ホテルなの?」
と思いましたが、おフランス語では市役所なんですね。
正確には旧市役所です。
現在ではカイザースベルクの資料館(博物館)になっています。
建造されたのは関ヶ原合戦の後、1604年。
人口2500人もない村の市役所なのに、立派すぎません?
昔はかなり羽振りがよかったようです。
芸術作品
市役所の前にはカイザースベルクではすっかり有名になった、自転車の芸術作品が飾られています。
お見逃しなく。
洗濯屋 / Ancien Lavoir
この自転車を見たら、ここがカイザースベルクの端っこ。
ここから先に歩いても、とりわけ目ぼしい物はありません。
そこで右に曲がって旧市街の散策しましょう。
しばらくするとヴァイス川に出くわします。
ご覧の通り川が増水すると、すぐに家屋が水没するような作り。
「集中豪雨がやってきたら、一発で水没するよ!」
と心配になっちゃいました。 😯
実はこの角の家、かっての洗濯屋 / Ancien Lavoir なんです。
川に降りて洗い物ができるように、わざとこのような作りになっていました。
城壁塔 / Torre difensiva
洗濯屋のわずか30mほど先に、神聖ローマ帝国の時代に築かれた城壁の一部と防御塔 / Torre difensiva が見えてきます。
今では道路になっている部分が、カイザースベルクの城壁が走っていた場所です。
ここから山の斜面までせいぜい150mしかありません。
なんと狭い街だったんでしょう!
カイザースベルク 城塞
カイザースベルク発展の原動力になった、
「山の上の城塞」
に行くには、市役所の前を右に進みます。
先に十字路がありますので、ここで左に曲がり200mほどで城塞まで行けます。
街の名前の起源にもなっている城塞が築かれた正確な年代は、わかっていません。
1227世紀の書簡で名前が出ているので、
「もっと古いはず」
と言われていましたが、近年になって翻訳間違いとされています。
もっとも当時はそれほど立派な要塞ではなく、木造の柵で囲まれた数棟の小屋があっただけ。
その後、カイザースベルクは神聖ローマ帝国の皇帝 vs. ローマ教皇との戦争に巻き込まれます。
1261年にハープスブルク公爵が街を占領すると、この後の戦争の備えて、木造の砦を壊して石造りの要塞に作り替えます。
16世紀にはシュヴェンデイ大尉の指揮の下、さらに増築、改築が勧められます。
大砲や銃眼が設置され、押し寄せる敵を山の上から狙い撃ちできるようになりました。
お陰で30年戦争では二度の包囲に耐えることができました。
しかし戦争(砲撃)で、要塞は大きく壊れてしまいます。
その後、フランスの王様が要塞の修理を許可しなかったため、今のような廃墟になりました。
地元出身の有名人
カイザースベルク出身の有名人は二人。
最初の一人はオスマントルコの欧州侵入を妨げる義勇軍に参加したシュヴェンデイ大尉です。
帰国に際してアルザスにワインの苗木を持ち帰り、アルザスがワインの産地となったわけです。
もう一人は日本でも知られているのは近代医学の父、アルバート シュバイツアー。
医師としてアフリカに渡り、フランス領、ガボンのジャングルで病院を開業します。
ところが第一次大戦が起きると、ドイツ国籍を持っていたので、逮捕されてしまいます。
戦後、アルザスに帰ってくると、フランスに併合されたので、フランス国籍を取得。
第二次大戦前にはナチスの危険を警告。
戦後、ノーベル平和賞を受賞。
シュバイツアー自身は、ドイツ人でもフランス人でもなく、
「アルザス人」
「世界市民」
という呼び方を好んでいました。
アルバート シュバイツアーの生家
村の中にはシュバイツアーの生家が大切に保存されています。
市場が開かれる広場には、大きなシュバイツアーの銅像まで。
その向かいにはアルバート シュバイツアーの生家と博物館があります。
* 注釈
1 通常なら防御しやすいように、村は標高の高い側の岸辺に作ります。
2 発掘調査による証明が欠けています。
3 谷間を通る品に税金を課せば大儲けできます。
4 もっとも店頭には日本の観光名所のようにガラクタ、もとい、安っぽいお土産も陳列。