今回紹介する街は ランズフート 。

と言っても、

「えっ、ラン何だって?」

という反応しか返ってこない哀しい無名の街。

ロマンチック街道から外れているので、観光ガイドブックに載せてもらえないのが原因です。

その証拠に当店のホームページで

ランツベルク

のページは、ランズフートの2,4倍の閲覧者があります!

でも観光名所の数で言えば、ランズフートはランツベルクの比ではない。

そこで5回もランズフートに足を運んで、隅々までチェックしてきました。

街の紹介 – ランズフート

街の正式名前は”Landshut” 。

ミュンヘンと同じく、イザー河畔に築かれた街。

そのイザー河が町を西化から東に縦断。

ここで紹介する旧市街は、標高の高い南岸に築かれています。

その南岸にはちょっとした小山があり、その頂上にお城が聳え立っています。

人口はわずか7万人。

でもランズフートは北バイエルン伯爵領(*1)の首都だった街。

かってはミュンヘン大学だって、繁栄していたこの街に引っ越してきたほどです!

あの小さな伯爵領のハイデルベルクが古都として宣伝されるなら、ランズフートは正真正銘の古都です。

旧市街には交易で富を蓄えた豪商の見事な家屋が建ち並び、かっての栄華を偲ばせます。

参照 : Landshut

地勢

地勢上、ランズフートは

“Niederbayern”

という県あります。

おまけに県庁所在地です。

「ニーダーバイエルン」

と聞くとつい、

「南バイエルン県」

と訳してしまいそうですが、地理上は

「中部バイエルン」

のほうが正しいです。

わかり難いこの地名は、ドナウ川の上流か下流かで名前が決まっているからです。

すなわち!

ニーダーバイエルンとは、ドナウ川の上流地域という意味なんです。

 

わかりやすく言えば、ランズフートはミュンヘンから東北に70Km。

皆まで言えば、さらに70Km東に行けば、世界遺産都市のレーゲンスブルクがある。

標高は393mとバイエルン州では低め。

参照 : Niederbayern

行き方

知ってます?

ミュンヘン空港とは言うものの、実は隣町の

“Erdinger Moos”(エアデイングの沼地)

という町の畑の中にあります。

ちょうど成田空港のようなもの。

お陰で

「ミュンヘン空港」

からミュンヘン市内まで38Kmもあります。

ランズフートはそのミュンヘン空港から、(北東に)35Kmしか離れていません。

すなわち!

ミュンヘン空港からミュンヘン市内に向かうよりも近いんです!

 

距離の上では。

残念ながらコロナ禍で、ミュンヘン空港からランズフート行きのバスが運休。

現在も回復していません。

そこで電車で向かうしかありません。

乗り換えのない電車で35分、乗り換えが必要だと50分ほどかかります。

ミュンヘン市内からランズフートに向かわれる場合は、1日乗り放題の”Bayern-Ticket”(*2)を使って、ミュンヘンからかっきり1時間で行けます。

この距離なら十分に日帰りが可能です。(*3)

中央駅から

ランズフート 中央駅

ランズフートの中央駅に着いたら、駅の正面にバス乗り場があります。

ここから3番,6番,あるいは12番のバスに乗れば町の中心地 & 観光名所である旧市街 /”Altstadt”まで、たったの5分でいけます。

「いやいや、(元)自衛隊員の俺は歩くよ!」

と歩き出した私は道に迷い、1時間彷徨いました。

名前の起源

ランズフートという愉快な町の名前は、12世紀の書簡に登場、

“Landeshuata”

すなわち、

„Hut und Schutz des Landes“

と書かれています。

日本語で言えば

「御国の庇護と守護」

です。

でもなんで

“Landeshuata”

と呼ばれるようになったのか、そこは不明です。

街の歴史

街の歴史

折角なので、街の歴史も少し見ておきましょう。

発掘調査で石器時代の居住跡も見つかっていますが、あまりにも大昔なのですっ飛ばします。

この辺りは深い森の中にあり居住には不向きだった為、ランズフートへの入植はかなり遅れて始まります。

500年あたりに、

“Bajuwaren”(バユヴァーレン)

と呼ばれる一派が、今のチェコ地域から移住を始め、現在の南ドイツからオーストリアにかけて住み着きます。

他のゲルマン民族と違い、バユヴァーレンは主に農耕で自給生活をしていたのが特徴です。

このバユヴァーレンが現在のバイエルン人(族)です。

参照 : Bajuwaren

 

この頃に、バイエルン族がランズフートにも住み始めたと考えられています。

しかし当時はまだ小さな集落でしかなく、歴史には全く登場していません。

街の起源

2002年の発掘調査により、10世紀ころに最初の城塞が山之上に建設されたとわかっています。

1150年の書簡でランズフートの城塞が初めて書簡に登場しているので、この頃には

「領主」

が存在していたようです。

ランズフートの起源は、バイエルン伯爵とレーゲンスブルクの大司教の権力争いが原因です。

バイエルン伯爵は大司教の強大な権力基盤を崩すべく、1203年、兵を進めて司教の所有する城砦を破壊します(*4)

そして司教の動きを牽制するために、新たな城塞の建築に適した場所を探します。

当時、ランズフートはイザー河畔にある小さな村落でしたが、イザー河の真ん中に大きな中州が広がっていました。

この中州を利用すれば、長い橋の変わりに、短い二つの橋で済みます。

費用と時間が大幅に節約できるメリットがあった上、イザー河を使っての交易にも最適。

こうして1204年この土地に、街が建設されることとなった。

経済の発展

街が建設されると、

「いい商売]

を期待して多くの商人、職人がランズフートに移住してきます。

何しろランズフートは、アルプス(イタリア)からミュンヘンを経由してレーゲンスブルクへと向かう通商ルート上にあったからです。

かなり交易で栄えていたようで、街の建設からわずか50年後の1253年、バイエルン伯爵はこの地に城を構えます。

すると

「経済上のバイエルン王国の首都」

としてさらに発展します。

南北バイエルン領時代の始まり

旧市街の瀟洒な家屋群

1255年、バイエルン伯爵が領土を二人の息子に二分して与えます。

南バイエルン領の首都はミュンヘンに、北バイエルン領の首都はランズフートに置かれます。

1340年、バイエルン領はルートビヒ4世によって統一され、統合後の首都はミュンヘンに置かれます。

ランズフートの政治的な発展は、これにて終わってしまうかのように見えた。

バイエルン ランズフート 伯爵領の誕生

ところがまさにそのルートビヒ4世の死により、バイエルン領は三人の息子に分散相続されます。

この三つの伯爵領の中で一番裕福になったのが、ステファン二世の治下の

“Bayern-Landshut”(バイエルン ランズフート伯爵領)

です。

血を分けた兄弟が先に逝くとその領土を併合、バイエルン領をほぼ昔の領土に復活させます。

が、そのステファン二世が死ぬと、またバイエルン領はまた三人の息子に分散相続されます。

「歴史は繰り返す。」

とは、この事です。

その三つのバイエルン領の中でも一番裕福になったのが、

「賢いフリードリヒ」

との異名をいただいた

“Friedrich der Weise” が納めるバイエルン ランズフート伯爵領でした。

 

「賢い」

という異名ではありますが、どちらかと言えば

「悪賢い」

という方が正確で、

  1. 金持ちから理由もなく財産を没収
  2. 近隣の街を軍隊で包囲して、身代金をかしめとる

という、いかにも中世の専制君主らしいもの。

お陰でランズフート伯爵領は

14世紀から15世紀にかけて、最盛期を迎えます。

 

まずレンガ建築では世界で一番高い(131m!)聖マルチン教会の建設が始まると、同時に聖心教会の建築も始めるというお金の使い振り。

街の有名な建築物の多くのは、この時代の建築物です。

お金持ちのルートビヒ

賢いフリードリヒの没後、その子供達は3代続いて、

“der Reiche”(大金持ち)

という呼称をいただいたほど、バイエルン ランズフート伯爵領は栄えます。

その富の代名詞になっているのが、1450年から始まる

“Ludwig der Reiche”(お金持ちのルートビヒ)

の治世です。

 

その息子

“Georg der Reiche”(金持ちのゲオルク)

の結婚には、今日まで語り草になっている超~豪華な結婚式を開催。

伯爵領の消滅

伯爵領の消滅

盛大な結婚式で祝ってもらった

「お金持ちのゲオルク」

ですが、

 

が、男子のお世継ぎを作るのに失敗。

この千載一遇のチャンスに南バイエルンの領主が、

「バイエルン ランズフート領は俺の物!」

と主張、その領土を巡って継承戦争が勃発。

この継承戦争に勝ったのが南バイエルン伯爵でした。

結果、ランズフート伯爵領はバイエルン伯爵領に吸収されてしまいます。

戦争で敗れた一族は領土を失います。

でもそこは親戚内の争い、

「王様が路頭に迷うのは可哀そう」

とノイブルクを首都におくファルツ伯爵領を設置され、子孫はこの領主に収まります。

合併後、ランズフートの政治的な価値は低下していく。

30年戦争の荒廃

ランズフートは30年戦争で、三度もスウエーデン軍に包囲されます。

最初は

「身代金」

を払って包囲を解いてもらいます。

わずか2年後、スウエーデン軍がまたランズフートを包囲すると、

「もう身代金は払わない!」

と戦いを決定。

がスウエーデン軍に防衛線を突破され、降伏。

スウエーデン軍は

「罰」

として8日間、兵隊に好き放題させます。

ランズフートの街はボロボロになりました。

14年後、今度はフランスの司令官が率いるスウエーデン軍が街を包囲。

1648年、やっと30年戦争の講和条約が結ばれるも、1704年にはオーストリア帝国軍が進駐。

8つあった城門の7つを破壊していった。

結果、かっての城塞都市を彷彿させるのは、山の上のお城とこれを取り巻く城壁だけ。

唯一、イザー河畔にはかっての城壁の一部や見張り台など、かってランズフートが城塞都市だった頃の史跡を見る事もできる。

ミュンヘン大学設置

19世紀になると町は再び表舞台に戻ってくる。

バイエルン伯爵が、

「ミュンヘン一極化は避けたい。」

と、大学をミュンヘンからランズフートに移動させると、1000人もの学生もこの町に引っ越して、また栄華を取り戻した。

が、次の領主になるとまたしても大学はミュンヘンに戻されて、現在に至っている。

ランズフート 観光 – 世界一高いレンガ作りの尖塔は圧巻!

ランズフート 観光 - 世界一高いレンガ作りの尖塔は圧巻!

次は皆さん、お待ちかねのランズフート観光です。

街は12世紀に建立されました。

すなわち!

街の作りは、同じ時代に健立されたデインケルスビュールと似たような作りになっています。

質問
どんなの?

 

街の中心部に広場がなく、

「大通り」

がこれを代用する形です。

その大通りの入り口は巨大な聖心教会が建っており、圧巻。

その教会を超えてメインストリートに入ると、

「おお!」

っと息を呑みます。

まさに古都にふさわしい見事な装飾を施された建物が、道の両脇に立ち並んでいます。

その先には巨大な教会の尖塔が、天まで伸びてます!

ジャックと豆の木みたいに。

ランズフートの魅力はそれだけじゃない!

山の上には建造された当時の姿のままで、お城が聳えています。

そのお城を守る城壁は、山の斜面をクネクネと見渡す限り続いており、まるで万里の長城のようです!

街歩きをして疲れる前に、まずは山の上にあるお城を見学するのをお忘れなく!

聖心教会 / Heilig-Geist-Kirche

聖心教会

ランズフートの旧市街に入るには、イザー河にかかっている橋を渡っていきます。

この橋からイザー河畔に聳え立つ、レンガ作りの巨大な建造物が見えます。

これが聖心教会 / Heilig-Geist-Kirche です。

この巨大なカトリック教会は、天まで届きそうな尖塔を持つ聖マルチン教会から数百メールしか離れていません。

「こんな狭い間隔で、二つも巨大な教会を建てる必要があったの?」

と問うと同時に、その大きさに圧倒されます。

余程の(無駄にできる)お金がない限り、でかい教会を作れるわけもないので、当時のランズフートの財力をうかがわせます。

この聖心教会は現在、教会としての機能を失っています。

というのも、ランズフートは人口7万人程度。

なのに27ものカトリック教会があるんです。

これにプロテスタントを入れれば、40近い教会が!

名古屋の寺並み!

そこで現在は教会ではなく、展示場(博物館)として使用されています。

参照 : 聖心教会

建造史

聖心教会の建造が始まったのは、15世紀初頭。

ここにあった小さなロマンチック教会(*5)の立て直しが、その始まりです。

完成したのは16世紀にになってから。

その聖心教会はイザー河沿にあった為、ランズフートが攻撃される度に、被害を受けます。

最後の被害は第二次大戦末期、撤退するドイツ軍がたんまりと爆弾を橋に仕掛けて爆破。

橋は木っ端みじんになりましたが、教会も被害をうけます。

戦後、教会は修復されて外部からは建設当時の面影を見ることができます。

聖心病院 / Heilig-Geist-Spital

聖心病院

聖心教会の向いにある大きな建物は、教会が経営していた聖心病院 / Heilig-Geist-Spital です。

オリジナルは13世紀に建造されましたが、老朽化により18世紀に柱などを除き、内部を全部取り壊して再建されました。

今では、ランズフートの老人介護ホームとして利用されています。

日本の老人介護施設は線路の横とか、土地の安い場所にあります。

この老人介護ホームは、イザー河を見下ろす一等地!

参照 : 聖心病院

ランズフート 旧市街(通り) / Altstadt

ランズフート 旧市街(通り)

ランズフートのメイン通りは、旧市街(通り) / Altstadtと言います。

その旧市街(通り)は、イザー河を渡ってから始まります。

聖心教会の先でゆるいカーブがあり、これを抜けるとでかい聖マルチン教会が見えて、圧巻!

その旧市街(通り)は、下で紹介する居酒屋アインミラーの先にある郵便局まで続いています。

「ゆっくり観光している時間がない!」

という方は、旧市街(通り)をズンズンと直進、その勢いで山之上のお城に登って、見晴らし台から記念撮影をすれば2時間で完了です。

以下にどんな観光名所があるのか、詳しく紹介しておきます。

道化の噴水 / Narrenbrunnen

道化の噴水

まずは通りの右手に噴水があり、ここに道化の銅像 / Narrenbrunnen が立っている。

かってここは魚市場 / Fischmarkt だった場所。

そう、かってはイザー河にはたくさんの魚が生息しており、ランズフートでは漁業も盛んだった。

今ではその面影もない。

この道化は下で登場する、ランズフートの結婚式からとったモチーフだそうです。

戦前は噴水があったそうですが、その土台を

「廃物利用」

して銅像の土台にしたんです。

言われてみれば、丸い噴水の跡が確認できます。

道化の噴水の先がランズフートの中心部で、バスの停車場になっています。

この辺りからマルチン教会の聳え立つ旧市街、それに振り返って精霊教会の写真を撮ると綺麗に撮れます。

ランズフート 市役所 / Rathaus

ランズフート 市役所

ランズフートのメイン通り中ほどに、薄緑色の3棟からなる立派な建物が。

これはランズフート市役所 / Rathaus です。

14世紀に街の評議会が、会議場として中央の建物を購入。

その後、左の建物、それから右の建物を購入して、今の形になりました。

左にある

「出窓」

に施された彫刻が見事でした。

通常、13~14世紀の建物と言えば保存物ですが、この建物は今でも市役所として利用されています。

参照 : 市役所

パッペンベルガーの家 / Pappenberger Haus

パッペンベルガーの家

ランズフート市役所の対面にあり、幾つもの塔が建物の表面を飾っているのは、パッペンベルガーの家 / Pappenberger Hausです。

建造されたのは15世紀初頭。

教会を建てるマイスターが建設したので、手の込んだ作りになっています。

17世紀にこの家を買った公爵が権力と富をみせつけるために、壁画や装飾を施し、今の姿に。

19世紀後半になると、ペッペンベルガー一家がこの家を購入。

それから20年ほど住んでいたので、この名前で呼ばれてます。

宮殿 / Stadtresidenz

宮殿

パッペンベルガーの家の家の先にある四角いレゴのよういな家。

「なんだカフェか。」

と写真だけ撮って素通りしたんですが、後で調べてみると

宮殿 / Stadtresidenz でした。

山の上に住む王様、それも

「お金持ちのルートビヒ」

が下界で過ごす際の居住地として建設させた宮殿です。

部屋の装飾は豪華絢爛。

中庭もななかのもの。

参照 : 宮殿

ジルバーナーゲル居酒屋 / Gasthof Silbernagel

ジルバーナーゲル居酒屋

ランズフート市役所の先、通りの右側にバロック式の装飾を施された建物が建っています。

地上階にパン屋が入っており、日曜日は大盛況。

私もここで朝飯を調達。

この建物は14世紀にお金持ちが建てた屋敷です。

ランズフートの結婚式に参列した馬車の馬、90頭がここの納屋に収納されたほど、大きな納屋を持つ屋敷でした。

現在では裏の部分は解体され、残っているのは正面の綺麗な装飾だけ。

その後、ジルバーナーゲル居酒屋 / Gastfof Silvernagel が入っていたので、街の人はこの名前で呼んでいます。

聖マルチン教会 / St.Martinskirche

聖マルチン教会

ランズフートのランドマークが聖マルチン教会 / St.Martinskirche です。

敢えて

「正式名称を知りたい。」

という人の為に紹介しておくと、

“Die Landshuter Stadtpfarr- und Kollegiatstiftskirche St. Martin und Kastulus”

と、とっても長いです。

13世紀に建造が始まり、完成したのはちょうど1500年。

教会建設のきっかけは、14世紀に街を荒廃させた大火事が原因です。

火事で大量の瓦礫が発生。

これを街にまき散らすと、街の道路は3mも高くなり、古い教会への出入りが不便になりました。

ちょうどランズフートの街は繁栄期を迎えていたので、新しい教会を建設するには絶好の理由です。

尖塔

尖塔

後期ゴシック様式で建設された聖マルチン教会の最大の見所は、その尖塔。

赤レンガをひとつづつくみ上げて、その高さなんと130.1m!

焼きレンガの塔としては世界一の高さ。

今でも崩壊しないで建っているのが不思議。

ほぼバベルの塔。

でもやはり少し傾いているのか、登頂はできません。

毎年、夏に行っていましたが、教会の中に入ると気温が全然違う!

まるでクーラーが効いてるように快適です。

夏に訪問される方は、是非、中に入って一休みしていきましょう。

カフェで一休み

カフェで一休み

今回も朝一番にやってきて、トイレ休憩を除いて16時過ぎまで歩き詰め。

自宅まで2時間かかるので、車に乗る前に一休みすることに。

トイレ & 水分補給を目的に、カフェで飲む冷たいドリンクは格別でした。

ただし値段は5ユーロと少々”happig”。(*6)

ランズフート 町議会 / Landschaftshaus

ランズフート 町議会

ランズフートには、貴族、教会、それに市民の代表で構成されていた評議会が存在していました。

この評議会の承認なくしては、税金を徴収することもできないほど、権力を持っていました。

その評議会が入っていた建物を、”Landschaftshaus”と呼んでいました。

町議会ですね。

これはバイエルン州、それも南バイエルン州独特の表現なので、他の街では通じません。

その権力を象徴するのが、この建物のルネッサンス調の壁画です。

深い緑色の外壁に、びっしりと壁画が描かれているので、見逃すことはありません。

かって国営郵便局が入っていたので、旧郵便局 / “alte Post”と呼ぶ人もいます。

マルチン教会の斜め対面にあるので、お忘れなく。

参照 : 町議会

居酒屋 アインミラー / Gasthaus Ainmiller

居酒屋 アインミラー

マルチン教会の先にある、市役所のような3棟の立派な建物は居酒屋アインミラー / Gasthof Ainmiller です。

建造されたのはランズフートの黄金期の15世紀。

当時は金の葡萄 /”Zur goldenen Traube”という酒場だった。

19世紀にビールの鋳造でお金持ちになった商人アインミラーが、この家を購入すると豪華な装飾を施しました。

それだけでは不十分だったらしく、右と左に新棟を増築して今の形に。

とっても見栄えがいいので、マルチン教会と写真に収めるのがコツ。

特に午後になるとさんさんと太陽光が降り注ぎ、綺麗に撮れます。

今はレストランが入ってます。

新しい街 / Neustadt

新しい街

ランズフートのメイン通りの

「ひとつ後ろの通り」

は、新しい街 / Neustadt と言います。

街が手狭になったので13世紀に新しく開拓されたので、この名前です。

当時は倉庫が建ち並び、市が開催されていました。

新しい街といっても、13世紀建造ですから、ここに並ぶ家屋も他の街なら観光名所になるような建物ばかり。

ここから山の上の城が綺麗に撮れる(要望遠)なので、是非、足を運んでみましょう。

戦士の記念碑

戦士の記念碑

新しい街の通りの真ん中に

“Kriegersdenkmal”(戦士の記念碑)

という石像があります。

この名前はきっと何かの誤解で、

“Mahnmal”(慰霊碑)

にすべきなでは?

ドイツの都市に必ずある戦没者の慰霊碑だと思いますが、かなり異様です。

聖イグナチウス教会 / St.Ignatius

聖イグナチウス教会

新しい街のメイン通り、奥までいくと山の斜面で行き止まりです。

その山の斜面にへばりつくように経っているのが、聖イグナチウス教会 / St.Ignatiusです。

デカい!

大雨が降って山崩れが起きたら、永遠に埋もれてしまいそう。

でも壮大な作りに、行く度に感心。

扉が閉まっていたので素通りしましたが、ホームページで見ると内部はかなり立派。

レントーア / Ländtor

レントーア

街のメイン通りを右に曲がるとイザー河に出れます。

ここにかってランズフートの街を守っていた城壁に設けられた塔のひとつ、レントトーア/ Ländertor が建っています。

名前の由来はここで筏で運ばれてきた資材を陸揚げ(Landen)したのがきっかけ。

本当はこの塔の後ろにはもっと立派な門があったのに、

「車が通らない。」

と撤去されてしまいました。ランズフートの観光案内を読むと、

「道が狭いので取り壊さざるを得ませんでした。」

と、これを正当化しています。

と~っても残念。

イザー河沿い

そうそう、数少ない公衆便所はここにあります。

観光客はメイン通りの高いカフェ、レストランに行きますが、イザー河沿いは原住民の憩いの場。

カフェやレストランが所せましと並んでいる中、昔の城壁の一部や倉庫などが、昔の姿で残っています。

フライウンク/ Freyung

フライウンク / Freyung とは、新しい街のさらに後ろに街を拡大した際に作られた地区の名前です。

この地区は沼地で、居住には適していませんでした。

しかし旧市街にはイザー河と山に囲まれて他に土地がなかったので、

「沼地を乾かせて、住めるようにしたら10年間税金の支払いから解放する。」

との市からの約束で、ランズフートの住民が開拓したのが起源です。

今では綺麗なお金持ちの大きな屋敷が並んでいます。

聖ヨードックス教会 / St. Jodokskirche

聖ヨードックス教会

フライウンクの真ん中には、またしてもレンガ作りの巨大な聖ヨードックス教会 / St. Jodokskirche が建っています。

教会の前には広大な庭園が設けられており、かっては市場としても利用されていました。

ルートビヒ9世 / Ludiwg IX.

ルートビヒ9世像

マルチン教会の先の、ゆるやかな坂道になっています。

通りの最後に郵便局があり、その後ろには街の有名人、ルートビヒ9世伯爵 / Ludwig iX. の銅像があります。

ルートビヒ9世は

「街の歴史」

で紹介した“Friedrich der Weise” (賢いフリードリヒ)です。

周辺の街にいちゃもんをつけて身代金をかしめとるか、これを拒むと占領して、大きな領土を支配することになりました。

近隣の都市には暴君ですが、ランズフートの住人には名君です。

その銅像の後ろには、山の上にど~んと領主の城砦が建ってます。

ランズフート トラオニッツ城塞 / Burg Trausnitz

ランズフート トラオニッツ城塞

車でランズフートに向かうと、いきなり城が目の前の山頂にドーン!と出現して圧巻です。

これがトラオニッツ城塞 / Burg Traunitz です。

車でも城にいけますが、今回は歩いて登ってみます。

中世の頃の古い家屋がこの辺りもたくさん残ってますので、歩いていく価値アリ。

城塞門 / Burghauser Tor

城塞門

汗を流しながら坂を上ると城塞門 / Baurghauser Tor が見えてきます。

かってはここで近衛兵が出入りを監視していました。

ここから左手にトラオニッツ城塞まで階段がちゃんと整備されており、道に迷う心配なし。

レンガ造りの城壁

レンガ造りの城壁

上まで登って、トラオニッツ城塞をみるとその防壁に圧巻。

これ、ひとつひとつレンガを組み合わせたレンガ作りの城壁です。

写真で見えるのはせいぜい100m少々ですが、トラオニッツ城塞の建つ山頂はすっぽりこの防壁で囲まれています。

それも二重の!!

まるで万里の頂上のように延々と続いています!

その長さ、規模ではどんな日本の城も叶いません。

城塞正面門

城塞正面門

ではトラオニッツ城塞に入っていきます。

みてください、この立派な正門。

写真ではわかり難いですが、城塞の周囲はお堀が巡らされています。

今でこそ立派な橋がかかっていますが、当時は吊り橋。

城塞中庭

城塞中庭

トラオニッツ城塞の中庭はこんな感じ。

どこかで見たことのある景色、、。

そう!ノイブルクの城と瓜二つ!

それもその筈で、ノイブルクの領主は戦争で負けて

「島流し」

になったランズフートの領主だったんです。

この城は博物館、そしてランズフート市民の結婚式の撮影場所として使われています。

博物館に入らずに、領主の居城を回りから眺めるだけなら無料。

見晴らし台

ランズフート見晴らし台

中庭の横を歩いて先に進と、ランズフートの町を一望に見下ろせる見晴台にたどり着きます。

ノイシュバインシュタインみたいな白い城の前に、その見晴らし台があります。

見晴らし台といってもせいぜい10mほどの狭い場所。

団体が来るといい場所の取り合いになりますが、私が行ったのは日曜日なのに、居たのは(自分を入れて)わずか3名だけ。

人気な~い!

登ったのはお昼過ぎでしたが、ちょうど太陽が背中にありマルチン教会をいい具合で照らしており、いい写真が撮れました。

ランズフート 旧市街

ランズフート の結婚式 /”Landshuter Hochzeit”

ランズフートの一番の見所は、

4年に一度開かれるランズフートの結婚式 /”Landshuter Hochzeit”というお祭りです。

 

これは町の領主であった”Georg der Reiche”(ゲオルクお金持ち伯爵)の息子の結婚式を再現するお祭り。

この結婚式は1475年に行われたが、

  • 320頭の牛
  • 1500頭の羊
  • 500頭の子牛
  • 4万羽の鶏

が振舞われたという伝説の結婚式だ。

1880年、ランズフートはミュンヘンの芸術家に当時の結婚式の様子を市庁舎に描くように依頼した。

その出来栄えがあまりにも素晴らしいので、

「結婚式を復活させて、町で祝おうじゃないか。」

ということになり、1903年から当時の結婚式を復元して祝うこととなった。

もっともあまりに費用がかさむで、4年に一度しかも開催されない貴重なお祭りだ。

期間は6月末~7月末まで、ほぼ1ヶ月もの間続く。

誰もがお目当てなのは、結婚式のいつ終わるともしれない行列だ。

この日だけで人口6万6千人の町に、10万人もの観光客がやってくる。

次回のお祭りまでは2023年なので、今から準備されたし!

花嫁の選抜

ランズフートの結婚式では、道化、騎士、旗振り人から大道芸人まで、さまざまな役を演じる役者が大量に必要だ。

これらの役は募集しているので、自信のある人は応募することができる。

その中でも一番人気がお姫様の役。

女性に生まれたなら、誰でも一度はお姫様の役を演じてみたいもの。

今回お姫様の役を演じているのは、20年前、ランズフートの結婚式の最中に(病院で)生まれた地元の女学生。

まさにランズフートの結婚式のために生まれたような彼女の履歴と写真は、選考委員会を説得した。

結婚式がなくとも一度は見て置く価値があるので、ミュンヘンまで来たら、是非ランズフートを訪れてください。

注釈

*1   伯爵領とは日本で言えば、備前、備中、尾張、三河のような藩のような存在です。後に伯爵領の中でも権力のある領は選帝侯領となり、王国となりました。

*2    バス、路面電車、鈍行”S-Bahn”と快速電車”RB”に乗車可能。EC, IC ,ICE は不可。

*3   ランズフートはミュンヘンから世界遺産都市のレーゲンスブルクに向かう途上にあります。どちらの町からも、ちょうど70km離れています。

*4    司教様のお城は、今日のランズフート旧市街の北東にあったそうです。名前はシュトラースブルク/Straßburg でした。

*5     1000年頃から流行った教会の様式。その後にゴシック様式が続く

*6    俗語で、「お高い。」という意味。英語の”happy”の書き間違いでありませんです。念のため。

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