意外と人気のドイツの秘境の街シリーズ、 今回は マルクトブライト という街にやってきました。
ドイツ人に言うと、
「何処に行ったんだって?」
と、聞き返してくるほど知名度のなさ。
日本人でこの町に行ったのは、私が初めて?
と思われるほどの秘境。
どんな街なのか、訪問する価値があるのか、マルクトブライトの街についてじっくり解説していきます。
目次
街の紹介 マルクトブライト
マルクトブライトの正式名称は、”Marktbreit”。
街の名前を無理やり日本語に直すなら、市場域。
後で説明しますが、これが意外と当たらずとも遠からずなんです。
人口は4千人にも満たないので、どんなに分厚い観光ガイドを読んでも載ってません。
マイン河を使っての交易で栄えて、16世紀に最盛期を迎えている。
が、30年戦争とペストで荒廃。
マルクトブライトの
「旬の時期」
は去ったかと思いきや、18世紀に経済が復活。
「第二の人生」
を謳歌するも、鉄道の発達でマイン河の重要性が激減、街の経済も衰退した
でも街の中心部には街が栄えていた頃の建造物が多く残っており、マニアックな観光地を探す人の間では
“geheim Tipp” (*1)
のひとつだ。
地勢
マルクトブライトはバイエルン州の左肩、ウンターフランケンという地域にあります。
もっとわかりやすい言い方をすれば、観光名所のヴュルツブルクとローテンブルクの中間です。
街が築かれたのはマイン河畔。
そのマイン河が、ちょうど大きな弧の字を描いて曲がっている部分にあります。
言い換えれば集中豪雨が降れば、街は一気に洪水に飲み込まれてしまう危険な場所。
実際、これまで何度も洪水に合い、市役所の壁には過去の大洪水の高さが刻まれています。
標高はたったの191m。
その一方でこの地方はフランケン地方ではもっとも暖かく、かつ降水量が少ない町と言われています。
その好天気を利用して、近郊ではワインの栽培が盛んです。
市内のワイン農家でお土産にワインを買う事もできるし、お昼ご飯を食べる際は地元のワインを飲んでみよう。
行き方
まさかマルクトブライトのために日本から観光に来る人は居ないと思いますが、一番近い空港はフランクフルト空港です。
フランクフルト空港から電車で行くと、ヴュルツブルクを経由して(乗り換えて)2時間~2時間半もかかります。
ローテンブルクで観光を済ませたについでに寄ると、電車で45分の距離です。
マルクトブライトの駅は、旧市街の南(東)にある。
旧市街からたったの200mしか離れていないので、
“Altstadt”(旧市街)
と言う標識を頼りに歩けば5分ほどで到着できる。
アウグスブルクから行くと、ローテンブルクを超えてさらに30分、合計3時間くらいかかりました。
街の歴史
では街の歴史を見ていこう。
とは言ってもマルクトブライトに関する多くの記録が残っているわけではない。
1262年に近郊の諸侯が書き残した書類に
“broite inferior”
という街の名前が出ている。
これをドイツ語で言えば
“Niederbreit”
いう名前になり、マルクトブライトに関する最古の記述となる。
実は、
マルクトブライト に改名
16世紀に神聖ローマ帝国の皇帝がフランケンの支配者
„Georg Ludwig von Seinsheim“
に市場を開く権利、”Marktrecht”を与えた。
これがきっかけで1567年、街の名前はマルクトブライトに変更された。
市場(メッセ、宴会、市場)が開かれるようになると町は次第に豊かになっていき、敵の侵入を拒む城壁や見張り塔が建設された。
30年戦争では町は占領、略奪された挙句にペストに見舞われて、マルクトブライトは壊滅的な被害を受ける。
町がかっての活況を取り戻すのは、18世紀になってから。
マイン河畔の最南店にあるこの町は、再度、交易のルートとして栄えることになる。
鉄道の発達で落ち目に
19世紀、ナポレオン戦争でドイツの領土図が書き変えれることになった。
フランケン地方はバイエルン州になり、1819年、マルクトブライトが正式に
「街」
になった。
その後、鉄道が発達するとマイン河を使っての交易は、急速に下火になる。
これまで街の経済発展に貢献していた商人がマルクトブライトを去ると、街は一気に落ち目になった。
マルクトブライト の有名人 アロイス アルツハイマー
日本では誰も知らないマルクトブライトですが、日本でも知られている有名人がこの街で生まれています。
その名は神経 & 心療内科医のアロイス アルツハイマー。
1901年、アルツハイマーの診療所にある女性患者が、夫に連れられてやってきます。
アルツハイマーは、数分前のことが思い出せないこの女性の容態を
「忘却症」
と診断します。
女性の死後、脳を解剖すると脳のあちこちに死んだ脳細胞と、これに付着するたんぱく質を発見。
この発見をテユービンゲンで開かれた学会で発表しました。
これがアルツハイマー症の発見とされています。
アルツハイマーの生家、石造りの3階建ても家屋は今でもマルクトブライトに現在です。
家屋の壁に「アルツハイマーの生家」と書かれた表札が埋め込まれています。
が、私は見落としました。
マルクトブライト 観光 – 城門と運河が織りなす景色が素敵!
では次はお待ちかねのマルクトブライト観光です。
最大の見所は、壁門と運河が織りなす光景です。
加えて旧市街には、見事な石作りの家屋が連なっています。
その代表は市役所。
6階まで全部、石を組んだ見事なもの。
その作りは、同じフランケン地方のシュヴェービッシュ ハルとそっくりです。
基本は石造り。
これが民家になると、土台と地上階の部分は石づくりで、その上に木枠を組み合わせた骸骨屋敷。
街がマイン川が弧を描く部分にあったので、マルクトブライトは何度も洪水に見舞われれました。
洪水に流されないように、家屋を丈夫な石造りにしたのか、そこは不明。
ブライト小川
旧市街はかって、そのマイン河から水をひいた運河と城壁に囲まれていました。
今でも城壁と監視塔が残っています。
その運河は
“Breitbach” (ブライト小川)
と呼ばれ、この小川に沿って歩いていくと、街で一番の観光名所に辿り着けます。
その小川沿いに、観光客用の駐車場があります。
旧市街まででわずか300mしか離れていないので、街中に路駐しないようにしよう。
というのも旧市街地の道路の幅は、馬車がなんとかすり抜けられる幅があるだけ。
そんな狭い街中で路駐すると激迷惑です。
折角、無料駐車場があるので、そちらをご利用あれ。
が、公衆トイレはなし。
画家のモチーフ / Malerwinkel
駐車場の横にブライト小川が流れています。
この小川に沿って歩いていくと、(遅かれ早かれ)マルクトブライトの最大の観光名所、
“Malerwinkel”(画家のモチーフ)
と呼ばれる場所に出る。
小川にかかっているマイン門、”Maintor”と骸骨屋敷が織成す光景で、町の象徴になっています。
とりわけ綺麗な景観を出すために家屋を建てたわけでもないのに、出来上がってみたら見事な景観になっていたというもの。
写真を撮っている観光客はゼロ。
というか路上に人影無し。
一体、住人は何処?
落ち着いて写真を取れます。
博物館
水路の右側の家屋、ひとつのように見えますが、実は3棟が隙間なくびっしり並んで経っています。
この角度から見ると小さな家ですが、横から見ると大きくて立派です。
マルクトブライトがまだ交易で栄えていた18世紀の初頭に、商談用の家屋として建造されました。
健在では(そのひとつに)街の博物館が入っています。
マイン門 / Maintor
マルクトブライトの入り口にあるのが、石造りの城門マイン門 / Maintor です。
ここかから100mほど離れた場所をマイン川(*2)が流れているので、この名前。
建造されたのは16世紀。
中世の時代に建造された門は、敵の侵入を阻むため、馬車が一台通れる幅しかない。
車の通行には不便なので、通常は近代化の一環で城門は城壁と一緒に取り壊されます。
このマイン門は、中世の城門を今でもそのまま使っています。
当然、車は一台しか通れません。
マルクトブライト 市庁舎
石作りの見事なマイン門と一体になっているのが、マルクトブライト市庁舎です。
町の支配者、フォン ザインスハイム伯爵が町に市場を開く権利を与えられた際に築かせた、石作の立派な建物ものです。
完成したのは1580年。
地上階では市場が開かれ、二階には飲み屋 / Ratsstube 、そして3階で会議が催されました。
今でも市役所として利用されています。
伯爵の石像
市役所の角に、ザインスハイム伯爵の石像が立っています。
2mを越える洪水の記録もあります。
道理で家屋が石作りになっているわけです。
ヴェルトハイマー家 / das Wertheimer Haus
市役所の通りを挟んで斜め向かいに、玉ねぎ屋根の出窓のある屋敷が建っている。
ヴェルトハイマー家 / das Wertheimer Hausと呼ばれています。
18世紀にマルクトブライトの豪商、ゲオルグ ギュンターがわざわざウイーンから宮廷建築家のヴェルトハイマーを呼び寄せて、建設されました。
ここでは主にギュンター家の取引用の市場で、町の発展の原動力となりました。
ライオン軒 / Hotel Löwen
マルクトブライト市役所の先の角に建つ見事な屋敷はライオン軒 / Hotel Löwen です。
バイエルン州で二番目に古いホテルで、14世紀に貴族や王様の宿でした。
今でもレストラン & ホテルとして営業中です。
グルメレストラン 老ロバ軒 / alter Esel
ライオン軒の向いには、(少ない)観光客を目当てにしているマルクトブライトのグルメ レストラン、alter Esel(老ロバ軒)がある(*3)。
コロナ禍でも廃業せずに営業中。
頑張れ!
ご予算のある方は、お試しあれ。
お城広場 / Schlossplatz
市役所の前の道をそのまま直進すると、マルクトブライトで唯一の広場(実際には広くない)、お城広場 / Schlossplatz があります。
他の街なら教会や市役所、それにお金持ちの家屋が並んでいるんですが、マルクトブライトでは城がある(だけ)。
マルクトブライト 城 / Schloss Marktbreit
そう、お城です(*4)。
名前もそのまんま、マルクトブライト城 / Schloß Marktbreit。
ウサギの耳のような日本の塔が目印です。
この城を建設させたのは、市を開く権利を街にもたらしたフォン ザインスハイム伯爵です。
アウグスブルクの
フッガー屋敷を建築した建設家を呼び寄せて、16世紀に建造されました。
もっともここに住んでいたのは伯爵ではなく、その奥方。
マルクトブライトがバイエルン州に吸収されてからは裁判所が入っていました。
その後、学校になったり、図書館になったり、ナチスの時代には監獄になったりと、いろ~んな歴史を体験してきました。
今ではレストランが入って営業中。
聖ニコライ教会 / St. Nicolai
マルクトブライト城の先にあるのが、聖ニコライ教会 / St. Nicolai です。
こちらはプロテスタント系。
通常、バイエルン州ではカトリック系が強くて、街で一番立派なものはカトリック教会。
なのにこの街では、プロテスタント教会が一番立派という珍しい例(*5)。
何処からでも見える尖塔がトレードマーク。
オリジナルはこの場所に13世紀からあった礼拝堂です。
これが14世紀に教会に格上げされると、ザインスハイム伯爵が教会に建て直します。
それには理由があって、この教会はザインスハイム伯爵一家の屍を葬る場所とする目的がありました。
15世紀に宗教改革がマルクトブライトにやってくると、伯爵は真っ先にプロテスタントに改宗して、この教会もプロテスタント系になったわけです。
(ちょっと)可哀そうなカトリック教徒は、自費で小さな教会を街の端っこに建ってました。
戦没者慰霊碑
ドイツの街なら欠かせないのが、戦没者の慰霊碑です。どんな街にもあります。
マルクトブライトでは、聖ニコライ教会の前にありました。
マルクトブライト 城壁と監視塔
大きな産業もなく戦争の被害に遭わなかったので、マルクトブライトにはまだかっての城壁と監視塔が(部分的に)残っています。
ブライト小川沿いと、それから聖ニコライ教会の向かいにある共同墓地のあたりに残っています。
かって町を外敵から守った城壁は、民家の壁として廃品利用されており、中世の頃の町の境界線を今日でもはっきりとみてとるころができます。
白い塔 / weißer Turm
ブライト小川沿いにある塔が白い塔 / weißer Turm です。
旧市街の角にある塔で、16世紀初頭の建造。
かってはここが街の境界線で、城壁と一緒になっていました。
写真を見ると、城壁がちょん切られているのがよくわかります。
マルクトブライトにやっと到着して、この塔の前を車で左折しようとしたら、道が狭くて、切り返しが必要でした。
朝なので対向車も後続車のなかったので、よかったですが、ヒヤっとしました。
フルーラー塔 / Flurersturm
白い塔から道が勾配しています。
その坂道を50mほど行くと、多分、マルクトブライトで一番見栄えのいい塔、フルーラー塔 / Flurersturm が見えてきます。
フルーラーとは古典ドイツ語で畑、小道などを見張る人を指す言葉です。
この塔から城壁の跡に沿って歩いていくと、カトリック教会が見えてきます。
Stegturm
まだ城壁と一緒に建っているのは、Stegturm です。
その奥には同じ形をした Fallmeisterturumが。
城壁をそのままの家の壁に使って、そのまんまアパートになってますね~。
この城壁の右がマルクトブライトの旧市街です。
共同墓地
城壁の左側は旧市街の外で、共同墓地になっています。
入り口のアーチと、その上の風化した装飾が、年代を語ってます!
黒い塔 / schwazer Turm
白い塔があれば、黒い塔もあります。
上述のマイン門の横にあるのがこの黒い塔です。
木枠で組まれた骸骨屋敷
マルクトブライトのあちこちに、木枠で組まれた見事な骸骨屋敷が建っています。
一番見事なのはマルクトブライト城と聖ニコライ教会の間の小道、通称、牧師通り / Pfarrgasse にあるこの建物。
「1583年に建造される。」
と刻みこまれている以外は、詳細はわからず。現在では民家(アパート)です。
まとめ
写真を撮りながら、全部見ても1時間半。
ここだけ見に行くのは、ちょっともったいない。
折角、マルクトブライトまで行くなら、どれかの町と合わせて観光すると便利だ。
お隣には見事な骸骨屋敷で有名な、オクセンフルト/”Ochsenfurt”の町があります。
その距離わずか10km。
あるいはちょうど今回のように、ヴユルツブルクでの撮影と組み合わせてもいい。
今回は割愛せざるを得ませんでしたが、車でマルクトブライトまで来られる方は是非、オクセンフルトにも寄ってください。
注釈
*1 知る人ぞ知る秘境という意味。
*2 源流はドイツとチェコの国境にある山岳部。ドイツを東から西に縦断して、ライン川に流れ込んでいる。
*3 “alter Esel”は、「どうしようもない大馬鹿者。」という意味でつかわれることもあります。
*4 ドイツ語で城は”Burg”と”Schloß”のふたつがあります。前者は防御を目的とした城塞。後者は王様や司教様の居住目的の屋敷を指します。
*5 ちなみにカトリック教徒には、聖ルートビヒ教会という、全然小さい教会があるので、時間のある方は探してみてください。