リートリンゲン はドイツ人でも知らない、どの観光案内を読んでも絶対に載ってない、正真正銘のドイツの秘境です。
こちらでドイツの観光名所をたくさん紹介していますが、一番人気がないのがこのリートリンゲンです。
わざわざ言うまでもなく、ローテンブルクや世界遺産都市のレーゲンスブルクには、逆立ちをしても勝てません。
でもマイナーな観光地にしては、見所たくさん。
何よりも美しい家屋が経ち並ぶドナウ河畔の景色は、有名な観光名所にもひけをとりません。
こんなに綺麗なのに、辺鄙な場所にあるので観光客の数が少なく、史跡を独り占めできます。
腰痛に耐えながら、車で(片道)ほぼ2時間半もかけて訪問してきたので、以下に詳しく紹介します。
目次
街の紹介 リートリンゲン / Riedlingen
まずは街の紹介から始めます。
街の正式名称は
“Riedlingen”。
地図で見ると、ドナウ川が街のほぼ真ん中を縦断しています。
旧市街は標高の高い、左岸に建設されています。
町の人口はかろうじて1万人を突破している小さな町。
中世には交易でそこそこ栄えて、羽振りが良かった街。
が、30年戦争がその繁栄に終止符を打ちました。
辺鄙な場所にあるので工業化の波にも乗り損ね、お陰で旧市街は中世の趣をまだ残しています。
その旧市街の家屋のお陰で、ロマンチック街道の向こうを張って誕生した、
「骸骨屋敷街道」
に載っているほど、綺麗な家屋が自慢です。
地勢
バーデンヴュルテンベルク州の東南にちょっとした
「山岳地帯」
がある。
これを
「シュバーベンのアルプス 」
ドイツ語で
“Schwäbische Alp”
と呼ぶ。
その裾野を沿うように流れているのがドナウ河。
リートリンゲンの街は、そのシュバーベンのアルプスのほぼ中央部、南側にある(*1)。
もっとわかりやすく言えば、バーデンヴルテンベルク州とバイエルン州の境にある町。
標高は540m。
あのミュンヘンの標高が520mなので、ほぼ同じ。
近郊にある大きな街は県庁所在地のビーバラッハで、30Kmほど離れた場所にある。
もしビーバラッハまで行くなら(行かないと思うけど)、是非、こちらの町も見ていこう。
リートリンゲン 行き方
秘境だけあって行くのは一苦労。
リートリンゲンはバーデン ヴュルテンベルク州、ウルムの左下(西南)70Km。
高速道路なし。
自宅のアウグスブルクから田舎道を延々を走り、2時間半でリートリンゲンに到着。
もしウルムに住んでるなら電車で50分。
州都のシュトットゥガルトからでも電車で2時間。
まさに秘境。
こんな街まで来る日本人は私だけ。
街の歴史
街の歴史にも軽く触れておきます。
リートリンゲンに関する最古の記述は835年の書簡です。
その書簡では、ドナウ河畔の小さな集落について触れられている。
その集落が町に発展したのは、13世紀になってから。
ヴェリンゲン公爵領
近郊を支配下に置いていたのは、
“Grafen von Velingen”(ヴェリンゲン公爵)
です。
侯爵は収入を増大させるために、幾つもの新しい町を建設します。
そのひとつがリートリンゲンで、1247~1255年の間に町が築かれたようです。
というのもドナウ河がここで大きく弧を描いており、中州が形成されて、橋をかけるには絶好の場所。
当時、ドナウ河は商品を輸送する大事な交易路。
「ここに街を築けば、交易(税金)で儲かる!」
と、橋と街を築かせたせたのがリートリンゲンの始まりになる。
そしてこれが大当たり!
所有者を転々と変える
街が市で栄えると、すぐにオーストリアのハープスブルク家に売却される(*2)。
まるで投資家ですね。
ところがハープスブルク家は、別の借金の返済ですぐに街を転売。
その後、街は何度も所有者を変えて、14世紀に神聖ローマ帝国を築いたシュタウフアー家の親戚であるヴァルトブルク /”Waldburg”家の支配下に収まる。
宗教改革の波
16世紀になると宗教改革の波が、リートリンゲンにもやってくる。
支配階層はカトリックだったが、貧乏な市民はプロテスタントを支持して、支配階級と仲たがいする。
もっとも強大なヴァルトブルク家に抵抗するには、市民だけでは非力。
そこでドナウ河畔の近隣の町と
「プロテスタント同盟」
を組んで抵抗。
1680年にはヴァルトブルク家の支配を離れ、再びハープスブルク家の支配下に戻ってくる。
もっともハープスブルク家もカトリック教なので、リートリンゲンの帰属の変更にどんな利点があったのかは不明。
興味のある方は調べてみてください。
ヴルテムベルク家の支配下
神聖ローマ帝国に
「最後のとどめ」
をさしたのがナポレオン。
ハープスブルク帝国 & ロシア連合軍がナポレオンに完敗して、神聖ローマ帝国が消滅。
するとこれまでは選帝侯だった領土が、王国へと名前を変えます。
そのひとつがヴルテンベルク王家。
ハープスブルク帝国の敗戦でリートリンゲンは新しく誕生したヴルテムベルク家の支配下に移り、今日に至っている。
リートリンゲン 観光 – ドナウ河畔の秘境 & 骸骨屋敷街道街
それでは次はお待ちかね、リートリンゲン観光です。
町には基幹産業がないため、第二次大戦でもほとんど被害を受けなった運のいい町のひとつ。
折角、戦火を逃れたのに戦後、
「もっとモダンな作りにしたい。」
と、古い家屋が取り壊されてしまう(*3)。
幸い近代化の波に抵抗する市民も居て、随所にかっての古風な家屋が残っている。
もっとも14世紀の建物の隣にモダンな建物が建っており、ミスマッチ感が興ざめ。
ちょうどこの日は、日本のゴールデンウイークの真っ最中。
なのに、日本人はゼロ。
というか、観光客はほぼいない秘境的な存在だ。
マスコットのコウノトリの彫刻が、街の随所に建っている。
街の入り口にはちゃんと無料の大きな駐車場もあり、インフラも整備されてます。
ドナウ河畔
リートリンゲンの最大の見所が、最初にやってきます。
それはドナウ河畔の眺め。
まるで絵葉書のよう!
綺麗なので、橋を渡って吸い込まれるようにずんずんと歩いていきそうだ。
しかし!
水車門 / “Mühltörle”
対岸から向かって右手、赤い枠組みの綺麗な骸骨屋敷は”Mühltörle”(水車門)という名前です。
「すでに14世紀には建っていた。」
という事だけわかっています。
町の住人は何故かリヒテンシュタイン / Lichtenstein の愛称で呼んでいる。
由来は不明。
かってリートリンゲンの街が城壁で囲まれていた時は、城壁へとつながる門であったので、水車門という名前。
この家屋はリートリンゲンの町が所有しており、休暇用のアパートとして貸し出されている。
河床工事
リートリンゲンの旧市街の前を流れるドナウ河、川底にはランツベルクのような河川工事が施されており、四六時中、川の流れる音が聞こえる。
一番見所がいい場所の家屋は、やはりレストランやカフェが入ってます。
この部分で川幅がいきなり広がって、川底に石畳が施され、手前に水が流れ落ちる滝のようになっています。
街のホームページもチェックしましたが、この河川工事についての記述はなし。
おそらく水害で悩まされて、対岸の家屋が被害に遭わないように、水が氾濫できる場所をこしらえたようです。
スウエーデン噴水 / Schwedenbrunnen
橋を渡り、右手にあるリヒテンシュタインを見に行きます。
その前に見えてくるのがスウエーデン噴水 / Schwedenbrunen です。
名前の由来は不明で、
「その昔、ここにあった名前の知られていない噴水が、19世紀に作り直された。」
とだけ、リートリンゲンの観光案内に書かれています。
噴水の中央部分に色鮮やかな人形が飾れており、これが兵士の像だとか。
するとスウエーデン兵士?
なんでよりによってスウエーデン?
謎は深まるばかり~。
運河沿いの光景
スウエーデン噴水からどっちにいくか、しばし思案。
左手にはリートリンゲンの中心部へと行く道が。
真っ先に中心部を見るか、それとも遠回りして丘を下って水車門を通って歩いていくか?
まだ時間は早いし、遠回りに決定。
ここは水車を動かす運河が流れており、運河沿いに立ち並ぶ家屋が美しい。
ドナウ河を見下ろす一等地
リートリンゲンの中心部は丘の上にあります。
ここは運河が流れている一番低い場所。
そして丘の斜面には、まるで日本のように建物がびっしり。
なにしろドナウ河が見下ろせる一等地ですからね。
建物の間に見える塔が教会の尖塔です。
その左に見える
「ギザギザの建物」
は市役所です。
監獄塔 / Zellemeesturm
では旧市街に向かって、丘を登っていきます。
すると
「嫌でも」
見える塔が、監獄塔 / Zellemeesturm だ。
かってリートリンゲンは城壁で囲まれて、12の防衛塔が建っていた。
唯一、この塔だけが近代化の波を生き残った。
とっても小さな塔なので、邪魔にならなかったのが、取り壊しを逃れた理由のようです。
この日は監獄塔の付近を工事中でした。
ツヴァイ ファルター トーア / Zwiefalter Tor
監獄塔に繋がっている城壁の横に、(急ごしらえの)階段がある。
登ってみるとリートリンゲンの観光名所のひとつ、ツヴァイ ファルター トーア / “Zwiefalter Tor”が見えてくる。
意味のありそうな名前だが、実は
「ツヴァイ ファルター」
という通りにある門なので、この名前。
街の城門とは思えない綺麗な門!
と思った方は正解です。
かってはここには墓場があり、この建物は礼拝堂でした。
18世紀に墓場は街の外に移動されることになり、礼拝堂だけ残りました。
その礼拝堂に穴をあけて門にしたので、綺麗な門になりました。
写真は内側から撮ったもので、天気がいいと青空に映えてとっても綺麗。
この先が旧市街になります。
上述のスエーデン噴水の後ろの道を使うと、ショートカットできましたが、綺麗な景色も見損なうので、時間があれば遠回りしていきましょう。
聖ゲオルグ教会 / St. Georg
ツヴァイ ファルター トーアのすぐ横、かっての城壁沿いに建つのがカトリック教会の聖ゲオルグ教会 / St. Georg だ。
最初に建造されたのは、リートリンゲンの建設と同じ13世紀。
教会の尖塔が遠くから見えるように、街の一番高いこの場所に建造された。
その尖塔の基礎には、街がここにできる前に作られたとみられる昔の防壁の一部が使われている。
現在の三層構造になったのは15世紀の増築後。
その内部にはイエズスの審判を描いた強大な絨毯がかかっているそうです。
この日は閉まっていて、みることができませんでした。
平日にリートリンゲンに行かれる方は、是非、内部もご覧あれ。
司教様の家
この辺には似たような建物が多いので、区別が難しい。
そのひとつが、教会の横にあるの司教様の家。
ドイツでは聖職者になるには大学で神学を専攻して、これをいい成績で終えることが条件。
でもこの条件をクリアして聖職者になると国家公務員並みの、いい生活ができます!(*4)
こんな立派な家が提供されて、無料で住めます!
高級車付き!
聖なる十字架 / zum heiligen Kreuz
聖ゲオルグ教会の対面に建っている大きな骸骨屋敷は、かっての女性の修道院 聖なる十字架 / zum heiligen Kreuz です。
建造されたのは15世紀で、修道士は街の病人をここで介護していました。
18世紀に修道院は閉鎖されて、この建物はイタリア人の商人が購入。
現在では街が所有しており、リートリンゲンの役所が入ってます。
リートリンゲン 市役所
聖なる十字架のお隣はデパート / “Kaufhaus” として建造され、その後、穀物倉庫 / “Kornhaus”として使用されていた立派な建物です。
今日はリートリンゲン市役所として使用されている。
15世紀の書簡に、このデパートについての記述がある。
その後、16世紀になってから、今の立派な姿に改築された。
16世紀の別の書簡では、市が開催されない場合は、穀物倉庫として利用されていたことが記述されている。
司教の家 / Kaplaneihaus
ちょっと聖ゲオルグ教会の裏に足を運んで見てみよう。
ここには市役所よりも大きな司祭の家/ Kaplaneihaus が建っている。
簡単に言えば教会関係者の宿舎だ。
かっての農家の家屋を改造したもの。
建物の裏の壁は、街の城壁を利用している。
現在は内部、改装とピッカピカにリノベーションして、リートリンゲンの祭りで使う衣装や小物、大物を収納する倉庫になっている。
旧学校舎 /Altes Schulhaus
司教家の向かいに建っている骸骨屋敷は、旧学校舎 / Altes Schulhaus 。
16世紀、日本で言えば江戸時代の建造物だ。
家の前にちょこんと建っている彫刻がかわいい。
現在は青少年、少女向けの音楽学校が入っている。
リートリンゲン 市場
市役所の先は、いよいよ町の中心部です。
リートリンゲンは古い街。
その作りはデンケルスビュールのようになっています。
すなわち街の真ん中に広場を設けないで、ちょっと広めの通りを市場として利用するタイプ。
とは言え、ガッカリする必要はない。
リートリンゲン市場は街で偉い人とお金持ちが住んだ場所。
その権力と富を誇示する家屋が経っています。
旧宿舎 / Stadthaus des Klosters Obermarchtal
リートリンゲン市場の中心部を飾るのは、見事な骸骨屋敷群。
その中でもこの2軒並びの家屋は、”Stadthaus”と呼ばれる17世紀建造の建造物。
“Stadthaus”とは、わかりやすく言えばアパート。
神聖ローマ帝国の時代に強大な権力と巨額の富を蓄えた
“Klosters Obermarchtal”(オーバーマハシャタル修道院)
が各地に建てた修道院の宿舎です。
宿舎として利用されたのは上の階で、地上階では品物を陳列して販売していたこともあった。
土台の部分は14世紀まで遡るが、上部の装飾が施された部分は17世紀に増築されたもの。
豚市場
市場の端っこに豚を抱えた銅像、”A Saufraid”が立っている。
そう、かってここでは1960年代まで豚の取引が行われていたリートリンゲンの豚市場。
これを
「みんなに示したい。」
と、街が芸術家にブロンズの作成を依頼。2004年からここに銅像が立ってます。
飼育場 & 屠殺場
その豚市場の先にある小さな教会のような建物。
なんともかわいいが、これは15世紀に建造された家畜の飼育 & 屠殺場。
かってここには肉を販売する肉屋が5軒も並んでいた。
家畜の解体が行われたのは18世紀まで。
19世紀には地上階を劇場に改装。
当時のリートリンゲンの人口は1700人なのに劇場を造るんだから、ドイツ人はやっぱり劇場好き(*5)。
旧聖十字架修道院 / Kloster Heiligkreuztal
リートリンゲン市場を先に歩いていくと、通りの右側に壁画が描かれているガラス張りの
「モダンな商店」
が見えてくる。
実はコレ、旧聖十字架修道院 / Kloster Heiligkreuztal という古~い家。
建物の壁の一部は、街の最初の城壁を利用したもの。
そう、かってはここがリートリンゲンの境界線だった。
なんて小さな街!
最初の建造は、13~14世紀の建造と推定されている。
その後、16世紀に大幅に改築されたので、建設当時から残っているのは壁の一部と建物の基礎だけ。
19世紀になると建物の面倒を見る人がいなくなり、朽ちるだけ。
建物の一部が崩れたのをきっかけに、改修工事が行われた。
壁画はその当時に描かれたもの。
横の壁画はとりわけ立派で、入り口の紋章が時代と由来を語っている。
旧聖十字架病院 / Spital heiligen Geist
旧聖十字架修道院の横にある脇道を進むと正面に、6階建ての見事な建物が見えてくる。
これは旧聖十字架病院/ Spital heiligen Geistです。
14世紀に街のお金持ちが、街に
「どうぞ。」
と寄贈したもの。
言うなればリートリンゲンのフッガー長屋。
旧聖十字架修道院に付属の病院です。
ここでは修道院僧、それに街の職員が働いていたそうです。
病院の左と後ろの壁は、リートリンゲンの古い城壁を使用しており、当時は街の防壁の一部でした。
当時は入り口に石作りの門と塀があったのに、今では邪魔な塀と門は取り壊されて駐車場に、、。
リートリンゲン 綺麗な階段 / schöne Stiege
聖十字架病院を後にして先に進むと、右手に綺麗な階段 / schöne Stiege と呼ばれる見事な骸骨屋敷が見える。
この建物は16世紀の建造物で、現在は博物館として使用されている。
建造物の専門家は、
「リートリンゲンの骸骨屋敷の見本的な存在。」
と呼んでいる。
市役所は全部、石で作られているので、石の家 / Steinhaus とも呼ばれる。
上述の聖十字架病院地も石の家。
しかしこの建物は、地上階だけ石作り。
その上に装飾を施した骸骨屋敷を建てるのが、この地方の特徴だとか。
地上階は家畜や馬の飼育に利用されて、人はその上の階に住む様式になっていた。
だから階段が外についており、これが立派なので綺麗な階段の家と呼ばれることに。
- 開館日 : 週末のみ
- 時間 : 15時~17時
- 入場料 : 3ユーロ
旧兵舎 / alte Kaserne
実は綺麗な階段の先に、見事な骸骨屋敷の旧兵舎 / alte Kaserneがある。
だが、
「何もなさそう。」
と来た道を戻ってしまったので、写真が撮れず。
残念。
ヴェークシュナイダーの家 / “Wegscheiderhaus”
メイン通りに戻ります。
市役所や市場がある通りです。
ちなみに名前は
“Lange Str.(長い道)
です。
その長い通りも、壁画が目印の旧聖十字架修道院の先で終わり。
ここで道が3方向に分かれている。
この分岐点に建っているのがヴェークシュナイダーの家 /”Wegscheiderhaus”。
ヴェークシュナイダーという名前のリートリンゲンの市長が、17世紀に建築させた宮殿のような建物だ。
内部はバロック調で素晴らしいという話だが、その様子を公開している写真は見つからず。
現在は通信大学
“Fern Hochschule Riedlingen”
の本部として使用されているので、内部はみることができません。
グライフェン軒 / zum Greifen
ヴェークシュナイダーの家の三差路から、大きな骸骨屋敷が見える方向に進んでみよう。
この大きな骸骨屋敷は、16世紀に建造されたこの地方特有の骸骨屋敷。
下は石作り、上部は見事な骸骨屋敷。
名前は„zum Greifen“ 。
日本語で表記すれば、グライフェン軒。
グライフェンとは、鳥とライオンが一緒になった想像上の猛禽類。
16世紀から現在まで、居酒屋として営業中だから凄い。
リートリンゲンで最古の飯屋です。
もっとも私がいった当時からレストランには閑古鳥が鳴いており、建物は要修繕でした。
最近、この建物は売却されました。
儲からないレストランは辞めて、ホテルになるそうです(*6)。
せめて建物の名前は残して欲しいものだ。
パラデイースショイヤー / Paradiesscheuer
グライフェン軒の先にある筈の骸骨屋敷は、
“Paradiesscheuer”(パラデイースショイヤー )
と呼ばれています。
建設当時は、向かいに建つ飯屋兼宿屋のパラダイス ゲストハウス / “Gasthaus Paradies” の宿泊客の馬小屋だった(*7)。
人が住むように改装されて、今の姿に。
今ではそのゲストハウスも名前が変わり、パラデイースショイヤーだけ名前が残った。
ちゃんと前を通った筈なんですが、写真が見つからないっ!
撮り忘れたのかな?
リートリンゲン コウノトリ通りの門 / Portal Storchengasse
脇道に入ると新しい家屋に紛れて、古い家屋や建造物が残っている。
その中でも目を引くのがこの納屋の入り口門、ドイツ語で Portal Storchgasse (*8)。
日本語で言えば、コウノトリ通りの門。
その名の通り、ただの納屋への入り口なのに、ルネッサンス風の作りになっている。
なんでも昔はコンスタンツの司教様から派遣された、宗教関係者専用の馬小屋だったとか。
上流階級は馬小屋も別なんですねえ。
リートリンゲン 城壁
ドナウ河に向かって通りを下っていくと、かってのリートリンゲン城壁の一部が見えてくる。
城壁を取り壊してしまわないで、民家の壁として利用しています。
昔はここが街の境界だった筈。
回りをみても、そこに有った筈のお堀の姿も痕跡もなし。
全部埋められて、今では民家が立ち並び、城壁以外には昔の面影は残っていませんでした。
まとめ
日本のゴールデンウイークのど真ん中でしたが、アジア人の観光客はおろか、カメラを抱えて歩いている観光客は私だけ。
街は小さいですが、見所は多いし、行っても損はしません。
もっともリートリンゲンでの観光に費やす時間よりも、行く時間のほうがかかるのが、大きなネックです。
誰も知らないドイツの秘境の観光名所をお探しの方にお勧めします。
注釈
*1 山岳地方と言っても、一番標高の高い山で800mにも満たない。しかし200kmにも渡って広がっており、自然の障害となっている。
*2 これが当時の投資のやり方。
*3 この近代化の波に飲み込まれたケルン、フランクフルトなどでは、昔の家屋はほとんど残っていない。
*4 日本のお寺のような世襲制ではないのがいいです。才能があれば、誰でも聖職者になり、「車付き、家付き」の生活が可能に!
*5 日本のお笑いみたいなもの。
*6 コロナ禍でどうなったか、心配。居酒屋のままだったら、間違いなく潰れていたでしょう。
*7 そのパラダイス ゲストハウス、今はイタリア料理屋になってます。
*8 ドイツ語をそのまま訳すとコウノトリ通りの門。