今回は シュトラースブルク にやってきました。
「えっ、何処?」
と思われた方。
日本では
「ストラスブール」
のほうが一般的(かもしれない)。
ここではドイツでの一般的な呼び方、
「シュトラースブルク」
を採用。
この街はアルザスの州都であり、さらにEU議会もある。
おまけに世界遺産都市。
なのに日本では、
「知らない。」
「行っても何もないぞ。」
という方がと~っても多かったので、ウンチクから始めます。
目次
町の紹介 シュトラースブルク
まずは街の紹介から。
ドイツから見ると、シュトラースブルクはライン河の
「向こう側」
にある町。
ドイツ国境からわずか4Kmしか離れていないので、ドイツから日帰り旅行も可。
私は毎回、車でライン川に架かる
「ヨーロッパ橋」
を超えていくんですが、河を超えた途端に
「お~フランスだ~!」
と毎回、感心してます。
でもフランス側は微妙に道路が狭く、運転マナーも悪い気がする、、。
そのシュトラースブルクは、アルザスを南から北に縦断するイル川の河畔に築かれた町。
かってはイル川から引かれた水路が町を囲み、三重の城壁に守られていました。
今では町が拡大してイル川が街の真ん中を流れていますが、かっては河川が町の境界線でした。
アルザス州の首都
シュトラースブルクはアルザス州の首都です。
正確に言うと、フランス政府が
“Grand Est”(大きな東)
と命名している州の州都です。
もっとも人口は28万人程度でアウグスブルクよりも小さい。
なのに、欧州議会や欧州裁判所など、EUの多数の政府機関がシュトラースブルクにあります。
世界遺産都市
もっともシュトラースブルクの最大の魅力は、その綺麗な街並み。
その旧市街は
„Grande Ile“(大きな島)
と呼ばれる陸の孤島にあります。
中世に築かれたお堀が今でも町を取り囲み、21の橋で
「その外側」
と繋がっています。
1988年、
2017年にはシュトラースブルクの
“Neustadt”(新しい街)
と呼ばれるドイツ領時代の建造物が多く残る地域を世界遺産に指名。
同じアルザスのコルマールも綺麗ですが、
シュトラースブルクは格違いの美しさ。
世界遺産に指定されているだけのことはあります。
シュトラースブルク 観光に適した時期
これまで仕事でシュトラースブルクに何度も足を運びました。
が、いつも春先の3月初旬。
寒くて、天気も悪く、町を堪能することができませんでした。(*1)
初めて夏にやってくると、全く別の町。
あちこちに花が飾られてアルザスの首都らしく、シュトラースブルクは文字通り光り輝いていました。
もし時間が取れるなら、5月~9月が一番綺麗です。
6月以降になると観光客が多くなりホテルが高くなるので、日本人にはゴールデンウイークが
「最も観光に適した時期」
です。
行き方
ドイツ国内から飛行機でシュトラースブルクに向かう場合、最寄り空港はシュトラースブルク空港。
もっともこの空港、隣町の”Entzheim”にあります。
空港からシュトラースブルクの中央駅まで、たったの8分で行けます!
でも日本からの直行便はなし。
おまけにドイツ国内の空港から、シュトラースブルク空港への便は滅多にない。
そこで飛行機で行くならフランクフルト空港に飛ぶのが便利。
フランクフルト中央駅から電車で2時間で行けます。
接続がいい便なら。
悪ければ3時間。
フライブルク に留学してるなら、
電車で1時半の距離です。(*2)
そう、コルマールに電車で行く(2時間)よりも便利なんです!
2017年にはライン側の対岸にあるドイツ側の街、
“Kehl”(ケール)
からシュトラースブルクまでの路面電車が開通しました!
片道4,70ユーロで行けます!
でもどうせなら
“Europapass 24h”
を買えば、9.60ユーロでケールとシュトラースブルクで24時間乗り放題。
お陰で高いシュトラースブルクに泊まらないで、ケールで宿泊する人が増えて街は大喜び!
車で行く
アウグスブルク から向かうと高速道路 8号線をひたすら西に向けて走り、ほぼ3時間半かかりました。
「俺なら3時間。」
と威張るシュトラースブルク出身のピエールは、アウグスブルクに長く住み過ぎてすっかりドイツ人。
でも3時間(半)で行けるなんて、意外と近い!
町の歴史
折角なので、割愛しないで町の歴史も解説。
シュトラースブルクの歴史は古く、市内から紀元前のケルト人の居住跡が見つかっています。
その後、ケルト人を追い出したローマ帝国の植民地になり、ローマ兵が駐屯。
4世紀になると東からゲルマン民族の侵入が続きます。
まずはアレマーネン、これ続いてフランケン、そしてフネンまでやってきて、5世紀には完全にゲルマン化されます。
名前の起源
シュトラースブルクの語源になった
“Stradeburgum”
は、早くも589年の書簡に登場しています。(*3)
意味は
「城塞化された場所」
9世紀には”Strazburg“と、現在の形に近くなりました。
現在ではフランス語で”Strasbourg”、ドイツ語で”Straßburg”、日本語では「ストラスブール」が一番広まっているようです。
このページでは私が長年聞きなれたドイツ語の名前、シュトラースブルクを採用してます。
シュトラースブルク の発展
シュトラースブルクの発展は、奇遇なことに貴族の争いが原因です。
12世紀にミュレンハイム家が、フライブルク からシュトラースブルクに居を移します。
するとアルザスの貴族であるツォルン家が、
「よそ者に負けてはならぬ。」
と、町の覇権を巡って競争を繰り広げます。
これがきっかけとなり、経済的に発展していきます。
迷惑をこうむったのは役人。
市役所はミュレンハイム家とツォルン家が顔を合わせなくて済むように、別々の入り口を作りました。
町が豊かになると教会を建てるのが中世。
今でもシュトラースブルクの象徴になっているカテドラル(大聖堂)は、12世紀に焼け落ちた教会の跡地に建設が始まります。
完成したのは15世紀にという大事業。
13世紀にはこの両家の権力に争いに、シュトラースブルクの大司教が参加。
町人と大司教との間で戦争になりますが、司教軍は敗退。
結果、
職人同盟
時を同じくして13世紀、仲の悪かった貴族同士の争いが武力抗争に発展。
これがきっかけで、
「貴族がでかい顔をするのはコリゴリ。」
と市民が貴族に反抗、
「職人同盟」
が、シュトラースブルクの実権を握ることになる。
ユダヤ人迫害
この頃、最初のペストの波がシュトラースブルクを見舞う。
誰かが、
「ユダヤ人の仕業だ。」
と言い出すとユダヤ人狩が始まり、数百人もの無実のユダヤ人が磔刑に処せられます。
ユダヤ人はその後も、18世紀末まで町への侵入を禁じられていました。
グーテンベルク様様
1550年、グーテンベルクが活版印刷を発明する。
シュトラースブルクはその印刷技術で有名になり、欧州の印刷業の中心地となる。
マルチンルターの宗教改革が一気に欧州に広まったのも、この活版印刷があったこそ。
このため町の中心部には
「グーテンベルク広場」
を設けて、町の繁栄に貢献したドイツ人に感謝している。(*4)
フランス内の外国領
17世紀にオスマントルコ軍がウイーンに侵攻してくると、ハープスブルク家は帝国の領土を守るのに手一杯。
この間隙を利用してルイ14世がシュトラースブルクを占領します。
もっともその後も町はドイツ系住民の怒りを煽らないように、
「フランス内の外国領」
として扱われます。
お陰でシュトラースブルク大学ではドイツ語で講義が行われ、フランスの関税から解放されるなど特別扱いを受けて、ドイツの影響が深く残ることになりました。(*5)
普仏戦争
19世紀初頭にはナポレオン一世がシュトラースブルクに居を構え、ジョセフィーヌと一緒に住んでいました。
普仏戦争ではプロイセン軍は街を包囲、クルップの大砲で1ヶ月に渡って砲撃します。
1ヵ月後に守備隊はドイツ軍に降伏しますが、図書館など貴重な建物とその蔵書が失われました。
戦争に勝ったプロイセンはライン川西の地域を占領、
“Elsaß-Lothringen”(エルザスーロートリンゲン)
という新しい州を設けてドイツ領になりました。
第一次大戦 & 第二次大戦
もっとも第一次大戦でドイツが敗北すると、シュトラースブルクはフランス領に。
1940年のドイツ軍の侵攻 & フランスの降伏でまたドイツ領に。
1944年にはドイツ軍の撤退により、最終的にフランス領となりました。
このような歴史的背景があり、街にはフランス的要素とドイツ的要素が交じり合っています。
シュトラースブルク 観光に必修!公共交通機関
シュトラースブルクの旧市街はでかい。
そのでかい旧市街に見所が散乱しているので、歩いて回るのはしんどいです。
特に夏。
半端なく暑いです。
しかし町には路面電車の路線が6つ、バス路線が30もあるので、公共交通機関をシュトラースブルク観光に利用しない手はありません。
おまけにおフランスでは、車椅子でも乗降できるように設計されてます!
皆まで言えば、クーラー完備。
ドイツではありえない贅沢!
そして何よりも魅力的なのはその値段。
日本円で740円ほど。
お友達と一緒に3人でシュトラースブルクに来ると、10.40ユーロ!
これで24時間、3人が市内の電車、バス乗り放題です。
日本と比べると、比較にならないほど安いです。
公共交通機関網
6つの路面電車の路線と30ものバス路線が文字通り、
「網の目」
のようにめぐらされています。
もっともその路線図は複雑で、一度見ただけじゃちょっとわかんない。
やっぱり歩く?
もし電車でシュトラースブルクに来たら、駅の
「東出口」
から出てください。
するともう
「目の前」
は旧市街です。
駅からわずか200mで運河に達します。
ここがシュトラースブルクの最大の観光名所である
「小さなフランス」
なので、道に迷うことはほぼ不可能。
高い駐車場料金
公共交通機関の料金が安いのには、理由があります。
28万の市民に加え、日々訪れる数万の観光客が車で市内に入ってくると、シュトラースブルクの道路はまるでバンコクのように渋滞。
空気が汚染されます。
これを避けるため、旧市街地への車の進入を制限しています!
旧市街の道路は多くが一方通行で、広くてもせいぜい片側1車線。
にもかかわらず、車で中心部まで進入して駐車場に停めると、3.2ユーロ/時間。
1日停めると44ユーロです。
このように駐車料金を高くして、旧市街へ進入する車を制限しています。
「路駐して駐車料金を節約しちゃえ!」
という迷惑な人を取り締まるため、1時間おきに巡回チェック!
レッカー移動されたらたまらんので、私はイル川の向こう側の
「オースターリッツ駐車場」
に車を止めました。
川向こうは少し安くて、1時間2ユーロ。
1日停めると22ユーロでした。
シュトラースブルク 観光 – 花で飾られたアルザスの首都
では、いよいよシュトラースブルク観光です。
第二次大戦ではシュトラースブルクは主戦場から外れたので、歴史的な建造物が多く残ることになりました。
戦争の災禍を逃れても、ドイツ国内のように、
「快適な鉄筋コンクリートのアパートに住みたい。」
と、由緒ある家屋を取り壊さなかったのは、フランス人の手柄です。
夏になると観光客を歓迎するかのように、そこら中に花が活けられています。
まさに花で飾られたアルザスの首都というキャッチフレーズがぴったり。
とにかく綺麗な街なので、近くに留学しているのに見ないで帰国すると一生後悔します。
遠足先の最優先課題に挙げておきましょう。
すべてここで挙げる事はできないので、シュトラースブルクの有名な場所を挙げておきます。
ミュンスター広場 / Place de la Cathédrale
まずはミュンスター広場 / Place de la Cathédrale から始めます。
シュトラースブルクの象徴となっているカテドラル(独 : ミュンスター)のある広場が、ミュンスター広場(独語)です。
ここはかっての町の権力の中心地です。
権力と富を象徴する多くの建造物が並んでいます。
この辺には、観光客を狙った物乞いが多いです。
ただの物乞いではなく、副業としてスリもやってます。
コロナと一緒で、1,5m以内には寄らせないように!
カテドラルに注意を取られて注意散漫になっていると、お財布がなくなっていますよ!
カテドラル / cathédrale notre-dame de strasbourg
日が暮れてから、ナビゲーションを頼りに真っ暗中な国道をシュトラースブルクに向かっていました。(*6)
彼方に最初に見えてきたのがライトアップされた巨大なカテドラル / Cathédrale Notre-Dame de Strasbourg 。
感動物です。
ただ大きすぎます。
近くによって写真を撮ると、上から下、どちらかが切れちゃう。
そこで後ろに下がると、観光客で前方視界をふさがれてしまう。
そこでこの構図。
シュトラースブルクのカテドラルの建造が始まったのは12世紀末。
以前、ここに教会が焼け落ちたので、同じ場所にもっと盛大な教会を建築することになりました。
建設が終わったのは15世紀になってから。
でも教会の尖塔はひとつだけ!
途中でお金が尽きた為、ふたつめの尖塔は建設されることはありませんでした。
でもその唯一の尖塔は142mもあり、19世紀まで
「世界で最も高い建築物」
でした。
カテドラルの正面には入り口(それとも出口)が、3つもあります。
以前は勝手に入れましたが、今回行くと
「入り口は横」
と書かれて長い列が出来ていました。
お金を取るようになったようです。
あちこち探してここで見つけました!
入場料を2ユーロ取ってます!
ロハン宮殿 / Palais Rohan
カテドラルの横に建っているのがロハン宮殿 / Palais Rohan です。
ロハン家はフランスの貴族で、フランスの各地にお城や領土を保有していたばかりか、代々、シュトラースブルクの大司教を歴任。
その司教の住まいとして、18世紀に建設されました。
ロハン宮殿はシュトラースブルクを代表する建築であるばかりか、バロック建築の最高峰と言われています。
門の飾りが素晴らしい。
19世紀にドイツ領になった際は、時のドイツ皇帝、カイザー ヴルヘルムの名前を冠した大学本部が置かれていました。
現在は横にある綺麗な家屋と共に美術館として使用されています。
カマーツェルハウス / Kammerzellhaus
カテドラルの横には有名なカマーツエルハウス /”Kammerzellhaus”という木材作りの家(ドイツ語ではFachwerkhaus)が建っています。
最初に建造されのは15世紀初頭ですが、何度も改築されています。
今のような外観になったのは、16世紀にこの家を買ったチーズ屋の Martin Braun 氏が三層の木造建造を施してから。
この建築物は骸骨屋敷 /”Fachwerkhaus”の最高傑作のひとつとされており、見事な細工に見惚れてしまいます。
現在は高級ホテル & レストランとして営業中。
グーテンベルク広場
カテドラルの近くにあるグーテンベルク広場。
大聖堂を見にいく際、ここを通る筈。
つい正面の家屋に目が行きますが、有名なのはその右にある巨大な建造物。
1580年に建造され、当時流行りのルネッサンス調の建築。
なんでも地上階、一階、そして2階、表面 / Fassade が異なる様式で飾られているとか。
私は知らずに写真も撮らずに、通り抜けしてしまいました。
皆さん、シュトラースブルクに行かれたら注視して、違いがあるか教えてください。
回転木馬
そのグーテンベルク広場には、名前の主のの銅像と回転木馬があります。
これまで4回もシュトラースブルクに来きましたが、いつも冬。
回転木馬は幌を被って休業中。
稼働中の回転木馬を見たのはこれが初めてです。
グーテンベルク広場 駐車場
グーテンベルク広場の地下は駐車場になっています。
旧市街ど真ん中なので、1時間2.4ユーロと結構、高い。
おまけに駐車スペースが223個しかないので、ちょくちょく満車。
日本のように路上駐車をすると、シュトラースブルクではすぐにレッカー移動されちゃいますよ!
そうなったらフランス語しか話せない役人との楽しい交渉が待ってます。
そんな目に遭わないように、車は運河の手前の駐車場に入れて、旧市街には歩いていきましょう。
シュトラースブルク 運河沿い
シュトラースブルクはイル川から水を引いて、町は三重の城壁とお堀に囲まれていた水の要塞でした。
今では外堀は埋め立てられて、ひとつしか残っていません。
地図で見ると内堀に囲まれた旧市街がはっきり見えます。
現在、お堀は運河(水路)として利用されていおり、運河にかかっている橋には、
「これでもか!」
というくらい花が生けられてます。流石、おフランス。
カテドラルの横の波止場から、遊覧船に乗船できます。
1時間10分かけて、シュトラースブルクの観光名所を回ってくれます。
自動音声で流れるアナウンスには、日本語も有り。
費用は17,20ユーロ
水門
歩いていても気が付きませんが、シュトラースブルクの町には
「高低差」
があります。
そこで遊覧船は水門に入って、高低差を克服していきます。
百貨店 / L’Ancienne Douane
遊覧船乗り場の近くにある橋は、ラーヴェン橋。
その袂に長~い建物が建っている。
看板から推測して馬車 & 渡し舟屋みたいでしたが、実はシュトラースブルクに持ち込む品を、税金を払うまで保管した倉庫です。
税金を払ったら、ここでそのまま販売されたので、百貨店 / L’Ancienne Douane と呼ばれています。
建造されたのは14世紀!
第二次大戦中、ドイツ軍の空爆で自害甚大。1956年になって再建されました。
今日ではお土産屋やレストランが入っています。
河沿いに並ぶ席に座って運河を眺めながら取る食事は格別(かも)。
大きな肉屋 / Grossen Metzig
百貨店の対面に建つ立派な建物は、16世紀に建造された大きな肉屋 / Grossen Metzig です。
当時は川がゴミ捨て場。
不用品を捨てるのに都合がいいので、ドイツでは川沿いに肉屋(屠殺場)が作られた。
今ではシュトラースブルクのツーリストインフォが入っており、その他は博物館として利用されています。
Winstub Pfifferbriader
大きな肉屋の周りにシュトラースブルクの台所。
小さな飯屋、居酒屋などが林立しています。
当時の肉屋の建物を利用した飯屋が、運河に面した場所にひとつだけ残っている。
名前は、”Winstub Pfifferbriader”
アルザス料理を出す店なので、良かったら、立ち寄ってお食事ください。
ケーキ屋
運河から大聖堂までの地域は、観光客目当てのカフェ、レストラン、お土産屋が所狭しと並ぶシュトラースブルクの密集地帯。
レストランのエルザスの郷土料理フラメンクーヘン /”Flammkuchen”、フランス語で”Tartes Flambeès”が人気で、あちこちで看板が出ています。
また大聖堂まで戻ってきたので、今度は”Kammerzellhaus”の横の道を進んでみます。
すぐ先にパン屋、兼、ケーキ屋がありました!
その種類の豊富さには圧倒。
お値段も立派でした~。
ドイツには、こんな種類はありません。
シュトラースブルク ブロイ広場 / Place Broglie
シュトラースブルクには綺麗な建物が多過ぎ。
上ばかり見上げて歩いていると、気がつけばブロイ広場 / Place Broglie に来ていました。
ここの広場は街の右肩の部分にあり、その先のカイザー広場へ繋がっています。
18世紀にアルザス地区の長官だった Broglie 将軍が並木道の広場を作るように命令したのでこの名前。
蚤の市がちょくちょく開催されています。
(確か)月曜日はマーケットが開催、ハムからケーキまで、おいしい物に目が移ってしまう!
オベリスク Leclerc
古いもの(ガラクタ)には興味がないので、ズンズン歩いていくとオベリスク Leclerc があります。
てきっり第二次大戦の戦没者の慰霊碑かと思いきや、違うようです。
マーシャル(元帥)という文字だけ解読可能。
有名な元帥の像なのかしらん。
調べてみると、1994年11月にドイツ軍の支配からシュトラースブルクを開放した将軍 Leclerc の功績を称えるオベリスクでした。
オペラ座 / Opéra de Strasbourg
その後ろにあるのは、シュトラースブルクのオペラ座です。
1800年の家事で焼けたので、1804年に再建されたもの。
普仏戦争でプロイセン軍の砲撃により、甚大な被害を受けましたが、戦後、ドイツ領になったので復元されました。
将軍像
並木に隠れて見えないですが、左手に将軍像がありました。
帽子を天にかかげて祝っているのはケラーマン将軍。
名前はドイツ語ですが、フランスの将軍で、普仏戦争時、(唯一)プロイセン軍との戦闘に勝ったシュトラースブルク出身の将軍です。
シュトラースブルク レプブリック広場(カイザー広場)
オペラ座の先にレプブリック広場(カイザー広場)が見えてきます。
公園の緑が目に痛いです。
この地区は、”die Neustadt”(新しい町)と呼ばれる地区で、2017年にユネスコから世界遺産に指名されました。
普仏戦争で勝利したドイツは、アルザスーロートリンゲン州を新設。
その州都をここシュトラースブルクに置きました。
その際にシュトラースブルクを改造して作られたのが、このカイザー広場です。
フランス領になってからの正式名称は、レプブリック広場。
真夏になると36度の猛暑で歩く気がなくなりますが、一周してきました!
国立図書館
ドイツ統治下、レプブリック広場に州政府の仕事場、宮殿、大学などが建設されました。
この国会みたいな立派な建造物は、まさにかっての主政府庁。
現在は(見間違いでなければ)国立図書館。
お見事です。
皇帝の宮殿 / Palais du Rhin
カイザー広場 には皇帝の宮殿 / Palais du Rhin が建っています。
アルザス統治の象徴として、シュトラースブルクに築かせたのがこの宮殿です。
豪華絢爛な装飾で建造費は高騰、国内では非難の対象になった謂れ付きの建物です。
宮殿が完成したお披露目式には、ドイツ第二帝国の二代目の皇帝、ヴィルヘルム二世もベルリンからはるばるシュトラースブルクにやってきています。
しかし豪華絢爛な作りには感心しなかったらしく、つけたあだ名が「像の家」。
ベルリンのテイーアガルテンにあった「像の家」と呼ばれた建物に似ているからだとか。
宮殿は第二次大戦中、連合軍の爆撃で中破。
戦後、お金をかけて修復されました。
今はアルザス州政府の機関がここに入ってます。
シュトラースブルク クレーバー広場 / Kléberplatz
シュトラースブルクで一番立派な広場が、クレーバー広場 / Kléberplatz”です。
町の真ん中とは言いにくく、少し左上に「ずれて」ます。
ナポレオン戦争中の有名な将軍、クレバーの銅像が立っています。
昔は巨大な駐車場だったそうですが、今は歩行者天国になり、駐車場は地下に移動。
Aubette
クレーバー広場で有名なのは
“Aubette”
と呼ばれる長~い建物。
18世紀、シュトラースブルクの領主の衛兵の詰め所として建設されました。
今はショッピングセンター。
正面に大きな噴水が設置されており、暖かくなると子供がプール代わりに中に入って大はしゃぎ。
「何かおいしい物は売ってないかな?」
と入ってみましたが、大した店は入ってなかったです。
小さいフランス / Petite France
シュトラースブルク観光の目玉になっているのが、小さいフランス / Petite France と呼ばれる地区です。
かっての皮なめし商、漁師、水車(粉屋)の家屋が並ぶ地区で、見事な骸骨屋敷が所狭しと並んでいます。
とりわけ運河沿いの家屋は趣があり、大人気の記念撮影スポット。
ひっきりなしに観光客がやってきて、運河と屋敷をバックに記念写真を撮っていきます。
シュトラースブルクの数多い観光名所の中でもここは、大聖堂と並ぶ人気の観光名所。観光客がとっても多いです。
午前中に行くのがベスト。
Au Pont Saint-Martin
橋の横にある綺麗なレストランは、Au Pont Saint-Martin。
お値段と見栄えは立派でしたけど、お味はいまひとつでした。
古風な家屋群
小さいフランスから運河に沿って右手に折れて歩いていくと、観光客が滅多にこない素晴らしいシュトラースブルク観光スポットがあります。
古風な家屋群(16~17世紀建造)が、どれもこれも全く建築様式が異なる、びっしりならび、それが川面に移りとても美しいです。
夜間に撮影に来ましたが、ちょっと寂し場所なので女性の一人歩きは禁物です。
路上生活者などが徘徊しており、男でも常に周囲に気を配っている必要がありました。
屋根のある橋 / Gedeckten Brücken
かってシュトラースブルクは、水の要塞とも呼ばれた街。
水路の入り口には、侵入してくる敵を防ぐ要塞が残っています。
外側には銃眼が施されています。現在では貴重な彫刻の保管場所、そして無料のトイレもあるので是非、よってみよう。
その向いには塔が3つ建っている橋、通称、屋根のある橋 / gedeckten Brücken があります。
昔は屋根があったので、この名前です。
この橋にも「これでもか!」といわんばかりに大量の花が行かれており、絵になります。
何処に泊まる?
これまでシュトラースブルクで7~8回泊まりましたが、何処も今一つ。
ロケーションを重視して旧市街に近いホテルをとると、部屋が滅茶滅茶狭いっ!
そこで次は部屋の広さ重視すると、旧市街から遠くて、出かけるのがおっくうに。
今回は夜間撮影をするので徒歩圏が必要。
少しばかり予算を取って、旧市街のド真ん中でホテルを取りました。
ホテル ロハン
今回は旧市街の
「ど真ん中」
にあるホテル ロハン / Horel Rohan に泊まりました。
ミュンスターまで歩いて3分という、観光には最適な立地。
ベットはちゃんとダブルで、シングルのマットレスを組み合わせたものじゃない!
建物は数百年経っているので、調度品は古い。
もとい、アンテーク調。
日本のように早くはないが、仕事ができる程度のWifi 。
冷蔵庫有り。
テレビは32インチくらい。
窓が二重で騒音をシャットアウトできるのも、嬉しかったです。
仕事スペースはまあ十分。
お隣さんの騒音は、ほぼ聞こえないレベル。
いいお隣さんだった?
ミネラルウオーターも一本、無料でついてました。
難を言えば駐車場がない点。(*7)
サイトには、
「駐車場は徒歩わずか2分」
とありますが、そのグーテンベルク広場地下の駐車場まで徒歩5分です。
おまけに一晩44ユーロと高い。
15分歩いてオースターリッツの駐車場なら、一晩22ユーロ。
ホテルのページにその情報が欲しかったです。
何処で食べる?
ホテル ロハンの周辺は、シュトラースブルクのレストラン街です。
安く食べたいなら地元民の台所、小さいフランス地区までいくべきですが、徒歩15分。
朝から歩きずめで、そんな元気はなし。
ホテルから20mくらいのレストランで、なんとかの一つ覚え、アルザス ピザを注文。
おいしいですが、リクヴィールで注文したアルザス ピザは、倍の大きさだよ!
苦言を呈すれば、勘定書も間違っていました。
隣で飯を食ってた家族の品まで、私の勘定に。
それをみたお隣さん、
「ご馳走様!」
なんて言ってきます。
そうは問屋が卸さない。
シュトラースブルク からコルマール
シュトラースブルクからコルマールは高速道路があり、快適に移動できました。
正直に言えば、
「標識が解読できるかな?」
と一抹の不安はありましたが、
「コルマール」
の標識の識別にはフランス語は不要でした。
フランスの高速道路は有料なんですが、この区間は何故か無料。
経済基盤が弱いから住民の負担軽減?
シュトラースブルク出身のピエール君曰く、
「アルザスはフランスで一番経済基盤の強い地域だよ!」
と反論。
本当かどうか、そこは不明。
ドイツ人観光客を招致する目的で無料しているのかな?
* 注釈
1 3月初めにいくと、大寒波到来でマイナス15℃!車のトランクに入れていたパソコンは凍結して作動不能になりました!
2 週末には電車の便が少なく、2時間以上かかります。
3 古高ドイツ語 / Althochdeutsch で書かれた書簡です。
4 グーテンベルクは1434年から11年間、シュトラースブルクに滞在。いろんなビジネスを試すも成功せず、訴えられ、マインツに逃げるように帰っていきました。
5 ゲーテは、シュトラースブルクの大学に通っている。
6 お客さんがフランクフルト空港に到着するのは、17時前後。それからシュトラースブルクに向けて走り出すと、すぐ真っ暗になります。
7 旧市街にはそんなスペースはない!