ロマンチック街道の名所として何処のガイドブックにも載っている ディンケルスビュール 。
「さぞ観光客も多い筈!」
と覚悟していたのに、少なっ!
お陰で観光名所を独り占めできます!
トイレ付きの無料駐車場はあるし、市内中心部のパン屋で食べた菓子パンは、激ウマ。
雪玉より、全然おいしい!
町を隅々まで歩いて調査してきましたので、ディンケルスビュールの魅力を見所をくまなく解説いたします!
目次
街の紹介 ディンケルスビュール
ディンケルスビュールはロマンチック街道の要所。
なのに微妙に観光客が少ない。
どうも外国からの観光客は
「メインのローテンブルク」
を見たら、
「ディンケルスビュールはいいや。」
と通り過ぎているようです。
実際、観光に来ていたのは過半数がドイツ人。
しかし!
中世のドイツの町並みは
「二つと同じものがない」
という同時のマイスターの創造性のたまもの。
ローテンブルクを見た後でも、十分に楽しめます。
中世の家屋や城壁に興味があれば。
行き方
ディンケルスビュールは皆さんご存じのローテンブルクから、南に40Kmほど下った場所にあります。
あるいはネルトリンゲンから北に40km。
ミュンヘンからは電車で3時間もかかる。
もしフランクフルトから電車を乗り継いでいくと、4時間もかかります。
これも外国人観光客がディンケルスビュールを敬遠する理由になっているようです。
幸い、アウグスブルクからだと車で1時間20分の距離にあり、1日観光にうってつけ。
車で行くならナビーゲーションに、
“Mönchsrother Str.3”
と打ち込めば、外壁のすぐ外にある無料駐車場まで行けます。
(無料)トイレ付なので、ここで準備を整えてディンケルスビュール観光に突撃しよう。
地勢と風土
ディンケルスビュールの人口はたったの11000人。
バイエルン州の西の端っこ、
“Mittelfranken”(中央フランケン)
と呼ばれる地方にあります。
そう、ここに住んでいるのはバイエルン人ではなく、フランケン人。
外見上はなし。
ただ言葉がちょっと違う。
“Fränkisch”(フランケン人の言葉)
では日本人の苦手な
“r”
を目一杯
「ルルルル~~~」
と発音する。
又、あたり一帯には田畑が延々と広がる田園地帯。
てっきり平地かと思いきや、標高は442mもある。
付近一帯は台地です。
バイエルン州の辺境なので、
「きっとガチガチのカトリック」
と思いそうですが、なんと住民の63%がプロテスタント系。
カトリックは33%。
バイエルン州でこんなにプロテスタントが多い町を他に知らないので、きっと歴史に関係がありそうだ。
ヴェルニッツ河畔の町
そのディンケルスビュールはヴェルニッツ河畔に築かれた町。
ドナウ河の支流です。
フランケン高地に降った雨が河川となり、ディンケルスビュールを縦断して、ドナウヴェルトでドナウ河に流れ込んでいます。
その長さ132Km。
旧市街はヴェルニッツ河畔の左岸に築かれているので、こちらのほうが標高が高かったんですね。
駅から旧市街まで
電車でディンケルスビュールに行かれる方。
駅は
「ヴェルニッツ河の向こう側」
にあります。
うんにゃあ。
わずか200mほどです。
駅の
「西側出口」
から出たら、いろんな店舗がズラリ。
右手に
“Edeka”
というドイツのスーパーが見えるはず。
そのエデカの横(あるいは対面)に、
“ZOB”(バス駅)があります。
その駐車場から旧市街に入れる
「散歩道」
があります。
その散歩道を進み、ヴェルニッツ河を渡った先はもう旧市街。
指示通り進んだら正面に、下で紹介する
「ネルトリンゲン塔(門)」
が見えてくる筈。
街の歴史
ちょっとだけ街の歴史について解説。
ディンケルスビュールの誕生は、8世紀まで遡ります。
当時は
“Fränkisches Reich”(フランケン帝国)
が最盛期。
西ローマ帝国の没後に建設された、ゲルマン民族最初の帝国です。
今フランスと西ドイツ、それにイタリアの上半分まで勢力を伸ばした大帝国です。
そのフランケン帝国は、交易の妨げになっていたヴェルニッツ川の
“Furt”(浅瀬)
がある場所に橋をかけ、丘の上に丸太で囲んだ駐屯地を設置。
すると商人達は荷の危険を冒さないで渡河できて、安心して夜を明かすることができるこの駐屯地
„burgum tinkelspuhel“
を目指します。
この
「テインケルスプーヘル」
と呼ばれた小さな駐屯地が、ディンケルスビュールの始まりだと考えられています。
城塞都市に発展
12世紀はゲルマン民族の建設した2番目の帝国である、
“Heiliges Römisches Reich”(神聖ローマ帝国)
のご時世です。
日本でも
「誰が次の天皇になる?」
と争ったように、シュタウファー家(*2)とヴェルフェン家(*3)が
「どちらの王家が皇帝を輩出するか?」
を巡り小競り合いを繰り返してました。
するとスタウファー家は、
「備えあれば患いなし。」
と、
お隣のローテンブルクが築かれたのは13世紀なので、ローテンブルクよりも100年古いです。
12世紀に築かれた城塞都市には街の中心に大きな広場(市場)がなく、
古都ランズフートもまさにこのような作りです。
このような街作りでは、人口が増えれば街を好きな方向に拡大できる利点があった。
13世紀になると街を建設する前に、ちゃんと都市計画するようになります。
この為、街の中心部に市として利用する広場があり、これを取り囲むように市役所と教会を建設されています。
ディンケルスビュール 名前の起源
この機会に街の名前に関する
「誤解」
を解きましょう。
日本語で
「ディンケンスユール」
と表記されていることもあります。
でも、
“-buehl”
はどんなに頑張ってもユールとは読めません。
素直に、
「ディンケルスビュール」
と呼んであげよう。
覚え難い街の名前の起源はわかっていません。
街の名前が最初に書簡で登場するのは、1188年。
あのバルバロッサ皇帝の二番目の未成年の妻との間に出来た子供、コンラート二世の婚姻文書です。
そこに、
“burgum tinkelspuhel”
と書かれているんです。
“burgum”
は
“Burg”
の前進で要害化された場所を刺します。。
問題はディンケルスビュールの語源になった、
“tinkelspuhel”
一体、何処から発生したんでしょう?
“tinkelspuhel”の語源
いろんな説がありますが、一番説得力があるバージョンでは、この地域を支配する権力者(あるいはその屋敷)が
“Thingolt”
と呼ばれたそうです。
当時は丘 / Hügel の多い地域を、”bühl”と呼びました。
丘の多い場所にある”Thingolt”という意味で、
”Thingolt + bühl”
ドイツ語では名詞がくっつく際に
“-s”
を接着剤として使用するので、
“Thingoltsbühl”
になったとか。
当時は国民のほとんが文盲だった時代です。
発音に合わせて、適当にアルファベットを充てていたんです。
今のようにスペルがひとつでも違うと
「間違い!」
となるような時代ではありませんでした。
交易で栄える
橋と城砦のお陰で、商人はますますディンケルスビュールを訪問するようになります。
今でこそ
「辺鄙な場所」
ですが、当時は
- 北海から中部ドイツを経由してイタリアまでの交易ルート
- クラカウから中部ドイツを経由してイタリアに向かう交易ルート
の交差点にありました。
街は交易で大いにで栄え、14~15世紀に経済的な最盛期を迎えます。
お金持ちになると敵の侵入を妨げるべく城壁を増築、お堀を掘り、監視用の塔を建てます。
さらにはディンケルスビュールの象徴になっている聖ゲオルク教会などが建設され、今日、観ることができる街の姿になりました。
帝国都市 / Reichsstadt
中世に発展を遂げたドイツの街は往々にしてカトリック教会の司祭様の本拠地で、
“Bistum”(カトリック宗主国)
として独立した都市国家でした。
しかしディンケルスビュールは
「自治会」
が権力を掌握していた珍しい例。
帝国都市 / Reichstadt として神聖ローマ帝国に参加、帝国議会に議員を派遣していました。
もっとも単独では
「多勢に無勢」
なので近郊の都市と、シュヴァーベン都市群を形成していました。
宗教改革から30年戦争
ルターが唱えた宗教改革に、ディンケルスビュールの住民は熱狂。
これ邪魔する強権をもったカトリック司祭もいないことから、街は早々にプロテスタントの街に。
お陰でカトリック帝国軍の攻撃目標になり、占領されます。
すると
「そうは問屋が卸さない。」
と今度はプロテスタント軍の攻撃目標に。
30年戦争中、ディンケルスビュールは何度か所有者を変えるものの、幸いなことに大きな破壊を逃れます。
住民はカトリックの支配者の前では頭を下げるものの、足はこぎ続ける自転車操業で、プロテスタントの信仰を維持。
こうした背景があり、
「あのバイエルン州」
でも最もプロテスタント信者の多い街に。
バイエルン公爵領に
19世紀になるとナポレオンが台頭してきます。
ドイツの諸侯が一致団結することはなく、バイエルン公爵領はナポレオンの手先になります。
その後、ロシア・プロイセン連合軍を撃破したナポレオンは、
「よく言う事を聞いた。」
と、ご褒美にシュヴァーベン都市群の大半をバイエルン公爵領に割譲。
以来、ディンケルスビュールもバイエルン州に属しています。
ディンケルスビュール 観光 – 中世後期の風情が残る宿場町
ディンケルスビュールは、交易で大いに栄えた中世後期の風情が残る宿場町。
ここをパスするなんてなんてもったいない!
確かにローテンブルクのような
「大きな見所」
は(少)ない。
でもディンケルスビュールの見所は、中世のマイスターが想像力を振り絞って建設した古い家屋の街並みです。
偶然私の隣を歩いていた日本人観光客は(聞かれているとは知らず)、
「ああ、綺麗!」
と、思わず叫んでました。
かなり栄えていただけに、街はデカイ。
街の史跡を全部見て回ると、5~6時間かかります。
でも、
「めぼしい所だけ」
見て回るなら、半日でもOK。
どれだけディンケルスビュールの観光に時間を費やすか、それはあなた次第です。
ここで主要な観光名所を上げておくので、観てみたい場所をピックアップしておけば、効率的に回れます。
ネルトリンガー門 / “Nördlinger Tor”
観光案内は駐車場から見えるネルトリンガー門 / “Nördlinger Tor”から始めます。
この塔が建造されたのは、街が人口増加で城壁を作り直した14世紀にまで遡ります。
その後、神聖ローマ帝国の皇帝がディンケルスビュールに製粉所を設置することを許可すると、この塔の横に製粉所を設置。
お堀の水を利用して水車で製粉していました。
塔(独語では門)の横に見える大きな建物は、まさにその製粉所です。
現在ではお堀は埋められて、見張り塔と一緒に家庭菜園に利用されているので、ここに製粉所があるのは違和感があります。
この門の向こうには、ディンケルスビュール旧市街の古風な家屋が見て取れます。
このまま風情のある家屋を見ながら直進するのが、短い観光コース。
ディンケルスビュール 城壁コース
「折角、ディンケルスビュールまで来たんだ。全部観て行きたい。」
という人は、ネルトリンガー門を越えてからすぐに左折、城壁に沿って歩くと街を1周できます。
城壁コースを巡る観光客はおらず、私、一人でした。
たまに原住民と出会います。
見ていると、塔の中にベットを運び込んでいました。
そう、数多い塔は住居として廃物利用されています。
城壁沿いにこのまま歩いていくと、ディンケルスビュールの一番高い場所にある Segringer Tor にたどり着けます。
ヨルゲン桟橋 / Jörgensteg
城壁コースを歩いていくとお堀を渡れる桟、ヨルゲン橋 / Jörgensteg がかかっています。
このお堀、幅が15mもあります。
かっては水を蓄えたお堀が、ディンケルスビュールをぐるりと囲んでいました。
今ではお堀は埋められてリンゴ畑になっています。
このお堀、全部、手作業で掘ったんですよ!
自衛隊時代、戦車を隠す塹壕を掘らせれましたが、3人で丸一日かかりました。
これ、全部掘るのに、何か月かかったんだろう?
ディンケルスビュール ワイン広場 / Weinmarkt
ディンケルスビュール一の観光名所はワイン広場 / Weinmarkt。
(ほぼ)市内中心部にありまです。
中心部と言っても、上述の通り広場(市場)があるわけではありません。
ただのちょっと広い道路があるだけ。
ここには教会から街を代表する建築物まで、ディンケルスビュールの主要な観光名所が集まっています。
ワイン市場と言うからには、
「かってここでワインが売られていたの?」
と想像されますが、何処を読んでもこれに関する(ドイツ語の)記述は発見できず。
ただ近くにはワインを販売する店が一軒だけありました。
グスタフ アドルフの家 / Gustav-Adolf-Haus
ワイン市場でひときわ目を引くのが、角の真っ赤な建物。
これはグスタフ アドルフの家 / “Gustav-Adolf-Haus”と呼ばれています。
元々は酒屋。
この為、
“Ratstrinkstube”(役所酒場)
と呼ぶ人も。
30年戦争中、ディンケルスビュールを占領したスウエーデン軍の将軍 Gustav-Adolf が宿泊したので、この名前で呼んでいます。
現在は
“Stadtbibliothek”(街の図書館)
が入っているので、この名前で呼ぶ人も。
お好きな名前で呼んでください。
Kinderzeche
中世の決まりでは
「町が抵抗後、陥落したらやり放題。」
でした。
もっとも最初から白旗を上げても、フランス軍は略奪の限りを尽くしました。
当初、カトリック軍の支配下にあったディンケルスビュールは、抵抗の後に降参。
略奪の憂き目に遭うはずだったんですが、司令官が
「歌を歌いながら歩いている子供に情が移って、街の略奪を禁止した。」
という伝説があります。
町が略奪されなかった事を記念して
“Kinderzeche”
と呼ばれる子供のお祭りが毎年、夏に開催されています。
「是非、見たいっ!」
という人はホームページをチェック!
聖ゲオルグ教会 / St. Georg
実はすでに12世紀からこの同じ場所に教会が建っていました。
その後、何度も改築された挙句に15世紀、古い教会を取り壊してディンケルスビュールを代表する聖ゲオルグ教会 / St. Gerog の建築が始まります。
建築には51年もの歳月かかかった大事業で、1499年に完成。
尖塔は61mもあり、テユービンゲンやヴァイセンブルクの低いずんぐりした塔と違い、やっはり立派。
高い塔から、当時のディンケルスビュールの財力をうかがい知ることができます。
教会内部
聖ゲオルグ教会が他の教会と大きく異なるのは、窓にステンドグラスではなく普通のガラスが使用されている点。
屋内は明るく雰囲気がいいです。
“Alter”と呼ばれる牧師(それと司祭?)が建つ場所は、とりわけ立派。
ドイツの家 / Deutsches Haus
目抜き通りの真ん中に建っている赤色の大きな建物は、ディンケルスビュール観光の目玉、
“Deutsches Haus”(ドイツの家)
と呼ばれています。
かっての町の権力者が16世紀に建造させた骸骨屋敷です。
街の観光案内によると
「ルネッサンス後期の最高の傑作」
だそうです。
現在は高級レストラン& ホテルとして使用されています。
この目抜き通りには、多くの立派な建物が立ち並んでいます。
ディンケルスビュール 馬車のツアー
石畳を歩きたくない方には、馬車のツアーもあります。
40分かけて町を一周してくれます。
観光ガイド付き。
言うまでもなく独語。
大人は8ユーロ。
子供は半額です。
2017年には大人9ユーロに値上がりしていました。
毎年、1ユーロ値上がりするのかしらん。
フランケン新聞社 / Fränkische Landeszeitung
ワイン市場から続くメインストリートから左に、細い小道が分岐しています。
入ってみると小奇麗な家屋が並んでいるので、見てみる価値あり。
メインストリートに、ピンク色に塗られた綺麗な家があります。
ディンケルスビュールのフランケン新聞社 / fränkische landeszeitung の建物です。
建物も綺麗ですが、有名なのはこの新聞社の「看板」のほう。
下鍛冶屋通り / Untere Schiemdgasse
フランケン新聞社の手前に、下鍛冶屋通り/ Untere Schmiedgasse があります。
以前は
「香辛料通り」
という名前でした。
昔は香辛料を売っている店が並んでいたので、この名前。
現在では香辛料よりも、中国製の服や小物を売る露店が並んでいます。
にんにくがひとつ、2ユーロで売られてました。
買う人が居るのかな?
これが原因か、最近はディンケルスビュールのホームページからも香辛料通りの名前が消えてる、、、。
露店が景観を損なっていますが、ここに並んでいる家屋も美しい。
聖心病院 / Heilig-Geist-Spital
メインストリートに戻ります。
フランケン新聞社の先、通りの反対側にデカイ建物があります。
見逃すことが不可能なこの建造物は、かってのディンケルスビュールの
“Heilig-Geist-Spital”(聖心病院)
です。
同じ名前の教会も横に建っているので、
“Spitalanlage”(病院施設群)
と紹介されてることも。
オリジナルはディンケルスビュールの創立時、13世紀に建設された聖マリア病院。
当時は城壁の外にありました。
街の拡大に伴い新しい城壁が建設されることになり、この病院を含む広大な土地が城壁で囲まれることに。
その後、17世紀に病院は改築され、この地域でも最大の規模を誇る巨大な病院になりました。
写真に写っているのは一棟だけですが、広大な敷地に複数の建造物が存在。
病院の横にはカトリック教会があります。
公衆トイレは何処?
人が滅多にやってこないこの場所に、数少ない公衆トイレがある筈なんです。
頑張って探すも、見つからず。
今、再度ネットで再度確認すると、
「綺麗なトイレ。」
という人も居るので、ちゃんと探せばある筈。
敗因は病院の裏を探したこと。
もっと先まで、壁にぶつかるまで歩くべし!
ローテンブルク塔 / Rothenburger Tor
通りに戻るとすぐ先に、ローテンブルク塔 /”Rothenburger Tor”が見えます。
この塔は牢屋と拷問部屋が設けられていた物騒な建物。
魔女裁判が盛んな中世には、ディンケルスビュールでも無実の女性(わずかに男性も)ここで拷問を受けて殺害されました(*4)。
先回は時間がなくてここで引き返したので、今回は門の外まで。
お堀
ローテンブルク塔の周辺は、まだお堀に水が残っています。
ここはディンケルスビュールのホームページでも利用されている、街の自慢の景色。
お堀に沿って花壇や公園が設けられています。
先に野外コンサート会場もあり、この日は演歌歌手が歌声を披露していました。
時間があればお堀の周辺を歩いてみてください。
観光客が滅多にみることのないディンケルスビュールの光景を見ることができます。
穀物倉庫 / Zeughaus
ローテンブルク塔の奥にある門から市内に戻ると、大きな骸骨屋敷が
「ドン!」
と建っています。
名前は”Zeughaus”。
普通 Zeughaus と言えば武器庫ですが、この建物は穀物倉庫として16世紀に建造されたもの。
上述の子供祭りに使われる舞台衣装の倉庫として使用されているので、子供祭りの倉庫 / Kinderzech – Zeughaus とも呼ばれています。
希望者は、子供祭りの衣装も見れます。
入場料はなさそうです。
- 営業時間 : 14時~16時30分
ゼークリンガー通り / Segringer Str.
ディンケルスビュールの主要道路はふたつ。
ひとつは上で紹介したグスタフ アドルフの家から、ローテンブルク塔へと続くワイン市場通り。
もうひとつが今回紹介するゼークリンガー通り / Segringer Str. です。
ちょうどグスタフ アドルフの家から、ゼークリンガー塔へと続く通りです。
どちらを向いても、それは綺麗な家屋が並んでおり、ワイン市場に劣らず、とっても素敵な通りです。
ディンケルスビュール 新市役所
ゼークリンガー通りの最初の見所は、この真っ赤な建物(*7)。
コレ、ディンケルスビュール新市役所です。
1733年に当時の
「郵便局長」
の私邸として建設されました。
旧市役所があまりに広いので、1855年、ディンケルスビュールが役所として購入した家屋。(*8)
ゲーテも飯を食った肉屋 / Drei Mohren
ディンケルスビュール新市役所の向かいにある肉屋が、Drei Mohren (*9)です。
“Mohr”
とは黒人の事。
複数形で”Mohren”です。
わざわざ解説しなくても、店の立派な標識を見れば一発でわかる?
店のウリは、
「ゲーテがここで飯を食った。」
です。
信憑性は保証なし。
店の前にある立ち食いコーナーで、地元民がパクついています。
ドイツ人は、
「味よりも量」
なので客が多くても味の保証にはなりません。
有名店にしては、立ち食いなので高くないです。
メニューには、ケバップやパスタ、ピザ、インド料理、さらには寿司まで。
いろんな種類の料理を提供してるレストランで
「旨い!」
という経験をしたことはまずないので、勇気のある方のみお試しあれ。
3人の王様の礼拝堂 / Dreikönigskapelle
ゼークリンガー通りの終わりにあるのが、3人の王様の礼拝堂 / Dreikönigskapelle と呼ばれるミニ礼拝堂。
1378年の書簡でこの礼拝堂に関する記述があるので、ディンケルスビュールのもっとも古い建造物のひとつ。
何故、このような名前になったのか、その由来が不明。
街の観光案内を読んでも、
「19世紀に屋根を張り替えた。」
「現在はナチの犠牲者の弔っている。」
とだけしか書かれていません。
ゼークリンガー門 / Segringer Tor
街の西側、一番高い場所にある塔がゼークリンガー門 / Segringer Tor です。
この塔はてっぺんにたまねぎが乗っており、他の塔と建築様式が違います。
スウェーデン軍の攻撃により塔が崩壊したので、15世紀にイタリア人の建築技師のデザインで再建されたためです。
ほとんどの町ではお堀は埋められ、城壁や塔は解体されて残っていません。
しかしディンケルスビュールは、塔や城壁が残っている珍しい例。
ゼーリンガー門の周辺には加えてお堀まで残っているので、是非、ご覧あれ。
ドイツ騎士団の城 / Deutschordensschloss
「聖地を蛮族から取り戻せ!」
という運動が起きた11世紀に、ドイツでこの運動を促進する目的で設立されたのが、
“Deutscher Orden”(ドイツ騎士団)
です。
その居城はドイツ各地にあります。
ディンケルスビュールにあるのが、ドイツ騎士団の城 / Deutschordensschlossです。
建造されたのは1390年。
滅茶苦茶古い!
ゼークリンガー通りを左に曲り、城壁に向かって進めば見えてくる筈。
ディンケルスビュール ユースホテル
街を代表する巨大な骸骨屋敷のひとつが、3人の王様の礼拝堂の先を右に曲がり、城壁沿いに建っている巨大な建造物。
16世紀初頭に穀物倉庫として建造されました。
2006年に大金をかけて改装されて、ユースホテルになりました。
100を超えるベットがあるそうです。
ロマンチック街道沿い安く泊まるなら、ディンケルスビュールのユースで一泊してみてはどうでしょう。
一泊たったの31ユーロ!
聖パウルス教会 / St. Paulskirche
まだ残ってるディンケルスビュールの観光名所は僅か。
順序が逆になりましたが、駐車場からワイン市場に向かっていくと、ゲオルグ教会の手前にSt. Paulskirche / 聖パウルス教会が見えてきます。
なんで同じ場所に教会がふたつもあるの?
それはこちらはプロテスタント教会だから。
この道を直進すれば、駐車場まで戻れます。
ヴェルニッツ門 / Wörnitztor
まだ駐車場には向かわないで、手前で左折してヴェルニッツ門 / “Wörnitztor”を観ていきます。
この塔はシュタウファー家が領主だった14世紀に建造されたもの。
その後何度も改築されて、今の形なったのは16世紀。
ここ数年でペンキも何度か塗り替えられたので、数年前の写真を見ると、
「え、違うでしょ?」
と思ってしまいます。
獅子噴水 / Löwenbrunnen
ヴェルニッツ門の前には立派な獅子噴水/ Löwenbrunnen があります。
ご覧の通りライオンの石像が飾られているので、この名前。
ライオンはバイエルン州の紋章なので、この地がバイエルン州に帰属した19世紀の建造物です。
この塔は向かい側から見ても綺麗なので、門の手間で引き返さないで、向こう側まで歩いてみておきましょう。
そんなに滅多に来るものじゃないし。
ディンケルスビュール 旧市役所
この噴水の対面にある巨大な石作の建物は、ディンケルスビュールの旧市役所です。
オリジナルは14世紀に建造されたお金持ちの家。
15世紀に市役所が焼け落ちたので、お金持ちのディンケルスビュールはこの建物を購入して、市役所として使用することに。
19世紀初頭、街は自由都市としての存在をやめてバイエルン州の片田舎に。
すると、
「片田舎にこんな立派な市役所は大きすぎる。」
と、ゼークリンガー通りにあったこじんまりとした建物を購入して市役所に。
以来、空き家になったので博物館、そしてツーリスト インフォとして利用されています。
歴史の家 / Haus der Geschichte
旧市役所に入っている博物館の名前が、歴史の家 /Haus der Geschichte です。
様々な展示物で
「ディンケルスビュールの800年の歴史を語る!」
がキャッチフレーズ。
- 開館時間 10時~17時
- 入場料 4ユーロ
ディンケルスビュール お勧め
撮影に行く際は、いつも朝7時に起き。
食事も摂らず、身支度だけ整えると寝る前に用意した撮影機材を車に詰め込み、レッツゴー!
ドイツ語で言えば、
”Auf geht’s!”
真っ青な青空の下、まだ交通量の少ないアウトバーンを走ると、次第に眠気が薄れていきます。
すると空腹感に襲われるのですが、そこはじっと我慢の子。
新しい街に行くなら、その街の名産を食べてみたいっ!
空腹を抱えてディンケルスビュールに着いたら、撮影しながらパン屋探し。
ワイン市場の手前街にパン屋(カフェともいう)を見つけました。
菓子パン
ここで買った菓子パンが旨い!
パイ生地なので外はパリパリ、中はしっとり。
あまりにおいしかったので、お代わり!
ローテンブルク名産の雪玉も(探せば)売ってますが、こっちのほうが全然、旨いっ。
もっともその後、手は砂糖でベトベト。
水筒の水で手を洗いました。
要、ウエットテイッシュ持参。
ディンケルスビュールに行かれる方、お試しあれ。
トイレの難所
他のドイツの都市同様、ディンケルスビュールも
「トイレの難所」
です。
前日にディンケルスビュールのトイレを三か所、ピックアップ。
そのひとつが旧市役所。
10分探しましたが、なかったです。
幸い、三度目の正直で見つかったのがゼークリンガー門の外側。
御覧の通り大繁盛で、間一髪、間に合った~。
ドイツ各地を巡りましたが
“WC”
ディンケルスビュールも是非、トイレの標識を出して欲しい。
* 注釈
1 すなわちほとんど遭わない。
2 シュバーベン地方の貴族。神聖ローマ帝国の初期の皇帝を輩出した名家。
3 後のハノーファー王国の王家
4 多くのケースでは火あぶりの刑。運がいいと斬首刑の後でひあぶり。
7 昔は黄色でした。
8 実はここにも公衆トイレがある筈。でもドアは閉まっており、入場さえできず、、。
9 同じ名前のホテルがアウグスブルクにあるので、どうもこの地域では好んで使われる表現のようです。