街の紹介 アウグスブルク

アウグスブルク と言っても、「アウ、、何だって?」と聞き返されるくらい無名な町。しかしAugsburgはバイエルン州で3番目に大きな都市。今や29万人もの人口を抱えている。日本なら「たった29万人?」だが、ドイツなら立派な大都市で、ロマンチック街道の城砦都市です。

人口増加の原因、それとも原動力?はふたつ。最初のひとつは大都市ミュンヘンのお陰です。ミュンヘンの発展と共に、家賃が高騰。こんな高い場所には住めないと、移り住む人が増えました。

もうひとつ、そして最大の理由は生産業、それもAugsburg発祥の大企業が多い点。市内には大学が2つあり、優秀な学生を育成しています。企業はこの優秀な学生を求めて、この地に会社の本社、研究所、工場を建設。お陰でとっても景気がいいです。

さらにAugsburgはフライブルクに並ぶ、日照時間の多い街。ミュンヘンほど物価が高くなく、訛りはあるが人が優しいので、とっても住みやすいです。難点は、日本食が手に入りにくい点。

街の歴史 – ローマ帝国の植民地時代

ドイツでは、トリアーに次いで2番目に古い歴史を持つ街です。ミュンヘンがまだ小さな集落でしかなかった頃、このAugsburgはローマ帝国の植民地の首都として栄えていました。

この植民地がAugusta Vindelicorum と呼ばれたのが、町の名前の起源です。町の表象(ドイツ語で”Wappen”)になっている”Zirbelnuss”(松ぼっくり)は、この地方には自生しないので、ローマ人の植民地だった頃の名残ではないかと言われている。

ゲルマン化

5世紀になるとゲルマン4大種族のひとつ、アレマーネンが東からこの地に侵入、ローマ人を追い出してこの地をゲルマン化した。8世紀にはカール大帝率いる同じゲルマン種族のフランケン族がこの地に侵入して占領、街はフランク王国の一部となる。

街の発展

10世紀には神聖ローマ帝国の初代皇帝、オットー1世がAugsburgの南で東からの脅威であったマジャール人を撃破して、街の発展が始まる。12世紀には”Reichsstadt”に昇格(ミュンヘンよりも2年早い)。これが市民の自慢です。

13世紀にオーストリアのハープスブルク家が税金を徴収する権利を与えると街は税金で潤う。15世紀にはヨーロッパの出版業の中心地になり、16世紀には株式市場までオープンしている。

フッガー家

街が誇るの有名人と言えば、フッガー家をおいて他にない。フッガー家は14世紀からイタリアの織物を輸入して販売、最初の富を築いた。15世紀にヤコプ フッガーが経営を引き継ぐと銀行業に事業を拡大、カトリック教会、ハープスブルク家などを顧客に数え、事業は順調に拡大した。

儲かった金を銀、銅鉱山に投資、その後は水銀、鉛などにも事業を広げ大成功。膨大な富を抱え、“Jakob Fugger der Reiche”(金持ちのヤコプ フッガー)という異名を頂戴した。フッガー家が凋落した今日でも市は、「フッガーの町」と呼んで、かっての盛況ぶりを偲んでいる。

アウグスブルクの和議

16世紀には宗教闘争が表面化する。Augsburgは福音派(ルター派)の砦となり、他の宗派、特にカトリック宗派を弾圧し始めた。これにオーストリア帝国が怒り、軍を派遣して街を焼き払おうとした。

ここで上述のヤコプ フッガーが介入、街の身代金をオーストリア皇帝に払い、Augsburgは救われた。1555年に有名なアウグスブルクの講和が締結されて、どの宗派も自由に信仰をする事が可能になった。しかし紛争はくすぶり続け30年戦争に発展。

戦争中はスウエーデン軍に占領され、17世紀にはバイエルン軍に短期占領され、町は衰退する。この頃にAugsburgで望遠鏡が発明されて、欧州全域から注文が殺到、町はこれまでになかった栄華を迎えることになる。

ナポレオン戦争

アウステリッツの戦いでナポレオンがロシア、オーストリア連合軍を撃破すると、ナポレオンに加担したバイエルン王国は戦勝国。その褒美として、隣の州に属していた経済的に重要な東シュバーベンが割譲された。

これが原因で今日まで街はバイエルン州に帰属している。シュバーベン人は本来、隣接するバーデン ヴュルテムベルク州に多く住んでいるので、バイエルンに住むシュバーベン人は混乱を避けるため、「バイエルンのシュバーベン」と呼んでいる。

アウグスブルク 観光 – ロマンチック街道の城砦都市

アウグスブルクがネルトリンゲンデインケルスビュールなどと大きく異なるのは、その町の規模。かって欧州一の大金持ちでブイブイいわしたAugsburgはでかい。観光名所が散在しているので、電車を自転車でもなければ全部を1日で見て回るのは不可能。

現地人の強みを生かして滞在中、自転車で市内各地を歩き回り、他の観光案内では紹介されない名所を撮影してきました。観光場所の選抜にご利用ください。

お勧めの宿泊先

一泊するなら中央駅前の“Intercity Hotel”。部屋は典型的な三ツ星だが、便利なロケーションにあり、安価、そして宿泊費に市内の電車、バスのチケット込み。自動販売機の前に立って、「どのチケットを買えばいいの?」という悩みを省略できます。予算に余裕がある方には、フッガー屋敷の横にある“Drei Mohren”をお勧めします。アウグスブルク 市役所

市役所

まずは絵葉書のモチーフになっている市役所から始めよう。アウグスブルクの人口はデユッセルドルフの半分ほどだが、市役所は倍の規模がある。この市役所の建造上の特異な点は、後ろから見てもほぼ同じ形をしていること。その市役所、2016年9月までお化粧直ししていたので、訪問するなら(汚くなる前の)今がチャンスだ。お化粧直しの後はシミひとつなく綺麗です。

ペルラッハ塔

市役所の横に建っているのはペルラッハ塔というかっての見張り塔で、なんと10世紀建造だ。あとから教会をここに建て、見張り塔に鐘を設置することで、独自の塔を節約。

アウグスブルク | ペルラッハ塔から見下ろすアウグスブルクの展望見張り塔だけあって70m+の高さがある。入場料が2ユーロかかりますが、てっぺんからの見晴らしはとっても良好です。金網が張られていますが、その隙間から写真が取れますので、Augsburgまで来られたら、是非、登ってください。

 

旧市街中心部

市庁舎の前を左に行くと、通りの終わりに立派なカトリック教会(市民はマリアドームと呼ぶ)が建っている。この教会の奥にレジデンツ(宮殿)があります。この先に綺麗な公園があり、市民の憩いの場です。

市役所の前を右に行くと、見事に復興された建物が見えてくる。ここに”Merkurbrunnen”という噴水がある。16世紀にお金が余って仕方がないフッガーが作成を依頼した。彫刻のモチーフはフッガーらしく、商売の神様”Merkur”なのでこの名前です。

この交差点に11世紀に建造され(14世紀に再建され)た”St. Moritz”教会が建っており、この場所はモーリッツ広場という。レストランやカフェが立ち並び、スーパーもあるので、電車を待っている間にお買い物もできてしまう(値段は高めの設定です)。

モーリッツ広場の交差点にカラフルな壁画で有名な”Weberhaus”が建っている。なんと14世紀の建造物で、アウグスブルクの発展の原動力となった織物の市場として利用された。

フッガライ

ペルラッハトゥルム横にある真っ赤な建物の脇道入ってみよう。この辺は戦争で焼け残った建物が散在しており、見て歩くのが楽しい。フッガライもこの地区にあります。

フッガライはドイツ語で”Fuggerei”。フッガライを日本語に直すと、フッガー住宅。早い話が長屋。ところが日本では”Fuggerei”が、フッガー屋敷と紹介されています。日本の教科書が間違って、「フッガー団地」を「フッガー屋敷」と記述しているのが原因。本当のフッガー屋敷は”Fuggerhäuser”といい、マキシミリアン通りにあるフッガー屋敷を指します。

モーリッツ広場まできたら、”Maximilianstr.”を歩いてみよう。ここに有名な”Fuggerhäuser”(フッガー屋敷)が建っている。見ればわかる通り、巨大でまさに屋敷という名前にふさわしい。ちなみにこの屋敷は今日でもフッガー家の所有物で、(お金持ちだけがお客さんになれる)フッガー銀行も入っている。

ヘラクレス噴水

ヘラクレス噴水から撮った写真は、アウグスブルクの名物。車にはねられないように注意して写真を撮ろう。このヘラクレス像は17世紀の初頭にアウグスブルクで鋳造されたもの。通りの終わりに建っているのは、プロテスタント系のウルリヒ教会だ。

教会に近くには砦のような建物、見事な装飾を施された建物が多い。通りをそのまま進むと”St. Ulrich”地区になり、古い建物が多く残っている。かっての「かじや」の壁にはまだ昔の看板がかかっており、まるでタイムスリップしたような気分になる。

赤い塔

アウグスブルク 赤い塔ここまできたら「一番綺麗な塔」と誉れの高い “Rotes Tor”(赤い塔)まで目と鼻の先。15世紀に建造されたこの塔は、給水塔と一緒になっている。市内の中心部は小高い丘にある。この標高差にもかかわらず市内に水を供給する目的で、ここに給水塔が建設された。

この場所はかってのアウグスブルク要塞の角にあたるので、付近には巨大な防壁が残っている。城壁に沿って散歩するのは気分がいいが、ホームレスの自宅となっているので、女性の一人歩きは禁物です。

アウグスブルク人形劇

ドイツ人がアウグスブルクと聞いて最初に連想するのは、”Augsburger Puppenkiste”(アウグスブルク人形劇)。赤い塔の目と鼻の先にあり、いつも子供連れの両親が開演を待ってるほど、ドイツでは「知らない者はいない。」有名物。

この地区は”Lechviertel”と呼ばれ、運河が流れて雰囲気のいい地元民の憩いの場。レストランやさまざま店舗が店を構えている。建物は趣があり、理髪店や皮なめし商の看板も、町の景観を崩さない看板になっている。また教会の多い事。アウグスブルクの教会の密集度は、京都並み。

石の男

アウグスブルク 石の男市内各所には、城壁や見張り塔などがまだ随所に残されている。そのひとつの塔の中には”Der Stoinerne Ma”(石の男)が祭られている。伝説によれば30年戦争中、アウグスブルクは何度も包囲されて兵糧攻めに遭う。

市内では食べ物が尽きたが、パン職人はおが屑でパンを焼くと、「アウグスブルクにはまだパンが十分あるぞ。」といわんばかりに城壁超えにパンをお堀に投げ込んだ。これを見た包囲軍は怒って、このパン職人を弓で撃った。弓は右腕に命中してパン職人は腕を失ったが、「包囲しても効果がない。」と勘違いして兵を引き上げた。お陰でアウグスブルクの住民は餓死の運命から救われた。

城壁

フィッシャー門はまだ城壁と繋がっており、ここから城壁に上って城壁に沿って歩くことができる。小高い場所には低い城壁が、くぼ地には高い城壁が設けられている。時折、城壁に沿って家屋が建っているが、城壁が家の壁になっているのが面白い。城壁沿いには見張りをしていた兵士とその家族が住んでいた小さな住居が残っており、現在でも家屋として使用されている。

Die sieben Kindeln

旧市街地の各所に小川が流れているが、実はコレ、城壁の周囲に巡らされたお堀だ。お堀の周辺には趣のある建物が多いので、時間のある方は城壁沿いに歩いてみてください。家の壁に埋め込まれている彫刻は”Die sieben Kindeln”と呼ばれている。伝説によればかってアウグスブルクに駐屯していたローマ軍の将校が、溺れ死んだ子供を悲しんで作成させたといわれている。

かっては交易の要所であったが、工業化の波に取り残されて意味を失う町が多い中、アウグスブルクは稀に見る例外で、工業化の波に上手く乗った。名だたる大企業がこの地で多く誕生した。戦前にはメッサーシュミットや”MAN社”などの工場があったため、第二次大戦中に何度も空襲に遭ってしまった。お陰で貴重な建築物の多くが破壊されてしまったのが残念。

生活、物価、天気

アウグスブルクはミュンヘンより物価、家賃が安い。市内には路面電車やバス網が市内くまなく走っており、生活、通学にはとっても便利。さらに治安がと~ってもいい。デユッセルドルフから来ると、「ほっ。」とします。ただし本当の日本食レストランは市内に一軒だけ。その他の日本食はタイ人やベトナム人の経営する日本食なので、日本食レストランでのアルバイト探しには向いていません。

その代わり日照時間はフライブルクと並んでドイツの都市の中でトップで、雨の多いドイツでは数少ないお日様に恵まれた町。雨の多いデユッセルドルフと比べると、雲泥の差です。そしてロマンチック街道の観光名所へのアクセスが素晴らしい。ロマンチック街道制覇の拠点に最適です。観光重視の方には、これ以上適した町はありません。

Augsburg に留学

大きな町ではないので語学学校の数は限られていますが、アウグスブルクでは”Augsburger Deutschkurse“、通称、ADKをお勧めします。理由は良心的な値段。クラスの定員が大きく、会話の練習をしたい方には不向きですが、留学費用を安く抑えたい方には向いています。

 

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