今回紹介するのは ハーブルク という街です。
アウグスブルクの自宅から国道25線を北上、ネルトリンゲンに向かっていると、いきなりど~んと目の前の山頂に古城が登場!
「なんだこれは?」
と興味を惹かれましたが、後ろ髪を引かれながらそのまま直進。
帰宅してから地図を見ると、ハーブルクという街の名前に古城マークを発見!
「これに違いないっ。」
と確信したので、後日、(それも二回も)、撮影に行ってきました!
目次
街の紹介 ハーブルク
「ハンブルクの間違いではありませんか。」
とお尋ねいただきますが、街の名前はハーブルクです。
ハンブルクに、「ハーブルク」という地区がありますが、関係ありません。
ハーブルクはアウグスブルクの北にある古城町です。
ドイツ語ではHarburg (Schwaben)、あるいは Harburg in Bayerm と表記します。
勘違いしたくもなる街の名前は、ハンガリー首都、ブダペストと同じく、”Har”と”Burg”が一緒になって出来たのが原因。
“Har”は湿地を指すので、湿地にある城砦という意味です。
地勢上はネルトリンゲンやドナウヴェアトと同じ、ドナウーリース県 / Landkreis Donau-Ries にあります。
人口は5000人程度。
本来だったら誰にも知られないで終わる街なのに、対岸に岩山があったことから、ここに城砦が築かれることになった(*1)。
行き方
ハーブルクはアウグスブルクから北に60kmほどの距離。
1時間もかかりません(ドイツの国道は100Kmh制限)。
ハーブルク城が建っている岩山のお腹にトンネルがあり、国道25号線が城の下を通り抜けています。
この為、南から向かうと突然、目の前に
「ど~ん!」
と現れてきます。
城が見えたらすぐ先を右折すれば、市街地に行けます。
「あ、行き過ぎちゃった!」
という場合は、あせらずそのまま直進。
トンネルを抜けたら左折する機会があります。
すると先にお城の無料駐車場付が出現!
私は大汗かいて下から歩いて登りましたが、車で行った方が楽チンです!
電車で行く?
城砦に登って彼方まで見渡しましたが、ハーブルク駅の存在は確認できず。
地図で見ると街の南、それも結構離れた場所に Harburg (Schwaben) 駅を発見。
街中まで2Kmほどありそう。
街の歴史
記録に残っている短い街の歴史を見ていこう。
11世紀には南バイエルンの貴族で、あのベルヒテスガーデンに教会を寄贈したズルツバッハ公爵の親戚が、この地を所有していたと考えらえています。
12世紀になると神聖ローマ帝国の皇帝を出したこともあるシュバーベン地方の貴族、シュタウファー家のお世継ぎが、
「戦いのときはこの地に滞在していた。」
と記述しており、ハーブルクの所有権がシュタウファー家に移っていたようだ。
13世紀には街に市場を開く権利が与えられます。
シュタウファー家 消滅
その後間もなくシュタウファー家は、お世継ぎが
「若気の至り」
で勝ち目のない戦いをおっぱじめ、敗北。
生け捕りにされたお世継ぎは、16歳若さで処刑されてシュタウファー家が消滅します。
後に残ったのが、シュタウファー家の広大な領土。
親戚の間で領土を分けることになり、ハーブルクはお隣のネルトリンゲンを支配していたエッテインゲン公爵の領土になります。
もっとも村だけ。
15世紀になって城砦も公爵家に売却されると、侯爵家はハーブルクに本拠を移す。
以来、街は侯爵家のお膝元となって一気に活況を呈するが、、。
宗教戦争
ルターがカトリック教会の改革と唱えると、エッテインゲン侯爵一家の中でも、
「プロテスタント派」
と
「カトリック波」
に分かれて断絶状態。
ハーブルクを支配していたのは、プロテスタント派のエッテインゲンーエッテインゲン一家の方(*2)。
ハーブルクはプロテスタント派だったのに、宗教戦争になるとプロテスタント派の軍に占領・略奪されて、人口が激減。
あまりに人口が減ったので、ハーブルクは他の街では追放の憂き目にあったユダヤ人を積極的に受け入れたほど。
エッテインゲンーヴァラーシュタイン一家
18世紀初頭、エッテインゲンーエッテインゲン一家が消滅する。
すると仲違いしていたカトリック派のエッテインゲンーヴァラーシュタイン一家がハーブルクを手に入れ、城砦を増築、今の姿になった。
19世紀、ナポレオン戦争の経緯でこの地はアウグスブルクなどと一緒にバイエルン王国に割譲されて、今日までバイエルン州に帰属している。
ハーブルク 観光 – 湿地に築かれたロマンチック街道の古城町
ハーブルクはロマンチック街道の古城町です。
ちょうどヴェルニッツ河がこの部分で大きな弧を描いており、付近一帯は湿地帯になっています。
街の旧市街は防御に適したWörnitz(ヴェルニッツ)河の左岸、山の斜面と川辺の狭い場所に広がっています。
場所が狭いので、河沿いには城壁も築かれなかった珍しい街。
唯一、山の尾根へと続く道には木製の門が築かれて、見知らぬ者の侵入を阻んでいました。
近年になってからはヴェルニッツ河の右岸にも住宅地が広がっているが、見所は左岸の斜面に集中しています。
この辺はのどかな景色を除けば、何もない地域。
工業化の波に乗り損ねたお陰で、ハーブルクの街には古い家屋が多く残っており、ロマンチック街道のリストにちゃんと載っている。
でも最大の見所は山の上に築かれたお城。
11~12世紀に建造され、18世紀までお殿様が戦争時にはここに住んでいました。
戦争の被害にも合わなかったので、中世の城が当時の姿で堪能できます。
ヴェルニッツ河
ハーブルクの街を縦断しているヴェルニッツ河は、ドナウ河の支流です。
フランケン高地(554m)に降った雨が川となり、北から南に流れている珍しい河(*3)。
長さは132km。
ヴェルニッツ河はハーブルクの南にあるドナウヴェアトで、ドナウ川に流れ込んでいる。
石橋
晴天の日は小川のように見えるヴェルニッツ河。
大雨になると河が氾濫して河川の手前は浸水、川向こうのハーブルク旧市街地は孤立してしまいます。
この橋はそんな大量の水にも耐えられるように作られており、文字通り町の生命線になっている。
橋の上に建つ家屋は、「美しい」とまでは言えないが、”nett”(そこそこ)。
橋の横の家屋を見てみると、通常時の水面よりも2mほど高く建造されており、まるでカンボジアのトンレサップ湖みたい。
夏になると橋の上には露店が設けられ、大人は昼真っから(と言うのは日本人だけ)ビールを飲んでご機嫌。
子供は河畔で泳いではしゃいでいます。
水車小屋 / Bruckmühle
石橋の横に建っている装飾の見事な家は15世紀の建造で、かってのハーブルクの水車小屋です。
普通の水車小屋なら “Mühle”ですが、橋 / “Brücken”の上にあるので、Bruckmüle と呼ばれています(*4)。
その名前の起源はこの水車小屋のように、川の流れを利用した粉をひいた橋の上の水車小屋です。
肉屋 / Fleischbank
写真中、右側はかってのハーブルクの肉屋です。
正確には家畜を解体する台 / Fleischbank がありました。
廃材を簡単に捨てれて、便利だったわけです。
17世紀になって、頑丈な土台の上に家屋が建てられて、今では通常の民家。
銭湯 / Badstube
写真中、左側はかっての銭湯 / Badstube です。
日本のような巨大な浴槽ではなく、木でできた桶が並んでおり、客がくると個々にお湯を入れて湯舟として提供していました。
土台の部分は15世紀のもの。
17世紀に今の姿に再建され、今ではレストランが営業中。
ファルツ / Die Pfalz
石橋の
「向こう側」
に建っているのが、”Die Pfalz”と呼ばれる18世紀の建造物。
染め職人の作業場として建設されました。
19世紀中頃になると”Pfalz”(ファルツ)という名前の飯屋が入っていたので、この名前で呼ばれている。
ハーブルク 旧市街
それでは橋を渡って、街中に入ってみよう。
道はすぐ先で二手に分かれていますが、右に行けば中心部に行けます。
入り口の道路には街の”Wappen”(紋章)が埋め込まれている。
ハーブルクの街は山の斜面に作られた街なので、河沿いを除けば、ほぼ坂町です。
気合を入れていきましょう。
よっく見ると山に降った雨水がヴェルニッツ河に流れ込むように、道路の橋には溝が刻まれています。
まっすぐ行けば20mほどで市役所が見えてますが、その前に右手に伸びている脇道に入ってみます。
旧シナゴーク
脇道に入ってみると歴史のありそうな建物があります。
かってのシナゴークです。
1754年に古かったシナゴークを新しく作り直したもの。
ユダヤ人を受け入れて、古いシナゴークでは十分な場所がなかったのかもしれません。
ナチスの時代には、ユダヤ施設の焼き討ちに遭い、内部が焼けます。
その後、しばらくは倉庫として使っていましたが、戦後、民家に改造されて、現在でもアパートとして利用されています。
ハーブルク 市役所 / Rathaus
では道を戻り、ハーブルク市役所 / Rathaus に向かいます。
街で一番立派な建物です。
土台を石で作り、その上に木組みの骸骨屋敷。
建造されたのは15世紀ですが、今の姿になったのは70年代の近年になってから。
街で見つけた古い木材を壁に埋め込んだそうです。
Strölin-Haus
ハーブルク市役所の裏、斜面にへばりつくように建っているのは、16世紀に建造されたStrölin-Hausです。
名前はこの家を建てた裕福な家族に由来します。
今では図書館として利用されています。
聖バーバラ教会 / St. Barbara
山の斜面に尖塔が見えます。
階段を登っていくと、プロテスタント教会の聖バーバラ教会/ St. Barbara でした。
「この階段を上まで(頑張って)登れば、お城までいけるかな?」
と登ってみましたが、山の上には墓場がありましたが、お城で行ける道はなし。
こんなに大汗かいて登ったのに!
残念。
飯屋 / Gasthaus
ハーブルク市役所の前で道は右に折れ、目の前に見えているのが飯屋 / Gasthaus です。
15世紀に建造され、18世紀にバロック調に改装され、立派な階段が設けられました。
今でもレストランが入ってます。
ハーブルク 城門跡
ハーブルクの入り口にあった城門は、すべて撤去されてしまっています。
なんでも「腐って臭かった。」という理由で住民が撤去したそうです。
街の端まで歩いていくと、城門のあった場所にはレリエフでその跡が記されています。
このネルトリンガー門の近くには、処刑場があったそうです。
くわばらくわばら。
ハーブルク 城砦 / Burg Harburg
では山の上のハーブルク城砦に行きましょう。
この城砦はシュタウファー家の滅亡で、エッテインゲン一家が所有することになりました。
そのハーブルク城砦の規模は、ご本家シュタウファー家の居城である
”Pfalz Wimpfen”城塞
よりも大きな規模だったんです!
当時としては最大の規模です。
お城はこちから
「急がば回れ。」
って本当だったんです。
というのも遠い駐車場に止めた車まで戻るのが面倒なので、ハーブルク城砦まで徒歩で行くことに決定。
これが大きな失敗。
まず上り道が見つからない。
散々歩き回って、
「お城はこちから。」
と書かれた小さな看板をやっと発見!
雨が降りそうな雲行きだったので、結構な坂道を急ぎ足で上りました。
15分くらい登って到着。
あ~しんど。
でもちょっと感激です。
城砦の裏側は平地に面しており、押し寄せる敵に対して何も防御がありません。
そこで城砦の前に、砦のあるもうひとつの城壁がめぐらされています。
これを構築したのは上述のエッテインゲンーヴァラーシュタイン一家です。
本来はこの城壁の前はお堀になっていた筈なんですが、跡形も見えないほど埋められていました。
入り口
「入り口はこちら。」
とあるのでそちらに向いますが、空が真っ黒になり、パラパラ降ってきました。
「間に合わなかったか。」
と思いましたが、10分もすると雲が切れました。
なんという幸運。
入場料3ユーロを払っていざ!。
宮廷 / Fürstenbau
写真右にある一番立派な建物は、宮廷 / Fürstenbau です。
エッティンゲン伯爵家はここに16世紀まで住んでいました。
19世紀には近くの畑で取れた穀物の倉庫として利用されました。
エッテインゲンーヴァラーシュタイン一家は、図書館兼美術館として利用していました。
第二次大戦後、バイエルン州に売却。
今はアウグスブルク大学の図書館として利用されています。
ここまで本を読みにくるのかしらん?
パン屋 / Pfisterei
宮廷を正面から見て左手にあるのはかってのパン屋 / Pfisterei です。
バイエルン州では(昔)、パン屋を Pfister と呼んでいました。
小さいパン屋なので-rei がついています。今ではお土産屋。
聖ミヒャエル教会 / St. Michael
パン屋の後ろの大きな建物は聖ミヒャエル教会です。
広間棟 / Saalbau
宮廷を正面から見て右手にあるのは広間棟 / Saalbau と呼ばれています。
かってはお城で働く使用人が寝泊まりする場所でした。
お殿様が会議用の広間を設けたので、広間棟と呼ばれています。
エレベーターが設けてあったので、登ってみました。
塔の中は、まるで普通の部屋。
窓から外を見下ろすと、ハーブルクまで来た道、ネルトリンゲンに向かうトンネルが見えます。
塔の中には、これまで観光地では見たことがない見事なトイレがありました。
ぴかぴかに掃除されてます!
肖像画から飾り物、それに快適な香り。
まるで五つ星のホテル。
古城ホテル
入り口のすぐ右手には、レストランと古城ホテルが入っています。
井戸
中央の井戸、なんと岩を削って129mもの深さのある井戸だったんです。
バケツで水をくみ上げるのに、30分かかったと言われています。
お城の下にトンネルを掘る際に、何度も爆破作業が行われ、この井戸もその犠牲になりました。
今では49mあたりで瓦礫で埋まっています。
城壁 / Wehrgang
ハーブルクのお城は四方を城壁 / Whergang で囲まれています。
城壁には屋根が設けられており、雨の日でも押し寄せる敵を視界をさえぎられずに、狙い撃ちできます。
避難塔 / Bergfriede
城壁には適当な間隔で避難塔 / Bergfriede が築かれています。
これは押し寄せる敵を狙い打つ目的もあったのですが、本来の目的は敵が城内に侵入した際に、城内に住む人の最後の避難所としての役目を担っていました。
泥棒塔 / Diebsturm
お城の内側にある塔は泥棒塔 / Diebsturm です。
中世の監獄ですね。
拷問部屋付き。
それもふたつ。
どんな拷問がされたか、詳しく書くのは辞めておきます。
窓が小さくてかろうじて光が入ってくる程度。
壁の厚さは3m。
入り口は地上5m。
梯子を使わないと入れないようになってました。
エッテインゲンーヴァラーシュタインがハーブルクを手中に収めると、城に裁判所を設置。
拷問や処刑は日常茶飯事だったそうです。
四角の家 / Kastenhaus
泥棒塔の隣にあるのは四角の家 /Kastenhausと呼ばれています。
食料貯蔵庫ですね。
その後、馬舎や(二階を)武器などの保管庫として使用。
見晴台
宮廷の裏に見晴台があり、下界を見下ろせます。
ヴェルニッツ河が弧を描いてここで曲がっているのが、よくわかります。
大雨になれば、氾濫するのも無理はない。
ここが”Har”(湿地)だったことがよくわかります。
むむ、地平線に見える空は真っ黒。
これは大雨が来るぞ!
と大急ぎで山を下り駐車場まで。
総評 – 行く価値あるの?
お城っていつもそうなんですが、内側から見るよりも、外から見た方が素敵ですよね。
2時間も続く城内見学コースもありますが、流石にしんどいので、自分で見て回りました。
それでも1時間はたっぷりかかりました。
旧市街の隅々まで見てあるき、お城も見ると3時間くらい必要です。
ハーブルクだけだと見所が少ないので、車でネルトリンゲンに向かう(帰る)途中に城砦に登ってみれば一石二鳥。
近くまで来たら、寄ってみてください。
注釈
*1 河川の辺にある岩山は防御に最適。山之上に城壁が作られ、下界に住民が住み始めるのがドイツの多くの街の起源です。
*2 これが原因で、カトリックの国であるバイエルン州でもハーブルクの過半数はプロテスタント派。
*3 ドイツは南が高地で北が低地なので、普通なら河川は南から北に流れます。
*4 ドイツにはブルックミューレという地名や製粉業者も存在しています。