レーゲンスブルク はドナウ河畔に築かれた、と~っても歴史の古い街。
神聖ローマ帝国時代には、東欧への交易路の要所として最盛期を迎えます。
当時の権力者だったカトリック司祭様が、権力の証として建設させた馬鹿でかいカテドラル(大聖堂)が、旧市街を見張るように君臨。
その旧市街には宮殿のような壮麗な建物が目白押し!
なのに日本ではほぼ無名!
仕事のパートナーもここに居を構えていることもあり、何度も足を運びました。
その際、レーゲンスブルクの観光名所も調査してきましたので、紹介したいと思います!
目次
街の紹介 レーゲンスブルク
レーゲンスブルクの人口は人口15万。
人口だけみれば、ドイツの何処にでもあるような中規模の街。
他の街と大きく異なるのは、その歴史。
交易で他の町がうらやむほどの富を築き、神聖ローマ帝国議会もレーゲンスブルクで開かれるほど。
町の中心部には権力者や豊かな商人が建造した宮殿が数多く立ち並び、その富をみせつけていました。
しかし14世紀以降、レーゲンスブルクは急速に落ち目になります。
立派だった綺麗な宮殿も、修繕されずに長い年月が経つとボロボロに。
こうした修繕が必要になった古い家屋を取り壊さず、
「歴史を後世に伝えよう!」
と保存してきました。(*1)
第二次大戦中はメッサーシュミットの工場があった為、何度も爆撃の目標となり、数多くの歴史的建造物が破壊されました。
戦後、その旧市街が見事に復興され、2006年ユネスコはレーゲンスブルクを世界遺産に指定しました。
地勢と風土
レーゲンスブルは、ドナウ河が盆地に切り開いた平野部にある町です。
皆さんが大好きなミュンヘンの「右上」124Kmに位置しています。
標高は337M。
ミュンヘンよりほぼ200m低いです。
チェコとの国境までわずか40kmです。
と聞けば、
「じゃ、週末にちょっとチェコまで!」
と思いますが、そう簡単じゃない。
郊外からチェコまでは森が延々と続き、人気のない山道をひたすら走ります。
そして国境付近にあるのは、、、。
見方を変えると、ドイツ領内から東欧への途上にある都市。
この地の利を利用して、交易で栄えました。
ただでもカトリック色が強いバイエルン州では、辺境に行くほど
「カトリックの割合」
が増します。
レーゲンスブルクも例外ではなく、市民の48%がカトリック。
でも
「プロテスタント移民」
も多くて、ほぼ40%。
結構、拮抗しています。
そのせいかレーゲンスブルクの外人局は割と、話がわかります。
行き方
最寄り空港はミュンヘン空港です。
日本から行かれる方は、まずはミュンヘン空港まで飛んでください。
ミュンヘン空港からは鈍行列車(RE)で2時間かけていくのが、一番オーソドックスな方法です(25ユーロ)。(*2)
快適さを優先されるなら、レーゲンスブルクまでの乗り合いタクシー
「エアポートライナー」
をご利用ください。
アウグスブルクからナビを頼っていくと、なんと高速8号線でミュンヘン郊外まで行かされて、それから99号線の環状線に乗り、9号線に乗り換え。
えらい遠回りで2時間もかかった~。
ちゃんと地図を調べて国道300号を使えば、40分は節約できたのに~。
中央駅から旧市街へ
レーゲンスブルクの中央駅は、旧市街の南にあります。
ここから旧市街は
「11時の方向」
にあります。
たったの400m。
女性でも歩いて10分です。
実は中央駅から旧市街に行くまでに宮殿がある。
その敷地にはオベリスク(16世紀)やら
13世紀建造の城門
などなど結構、見所がある。
興味がある方は、駅前の道路を渡ってから左折して、200mほど歩いてください。
街の歴史 – ローマ帝国の植民地
拡張を続けるローマ帝国が1世紀、ドナウ川の南に
「見張り用の砦」
を築いたのがレーゲンスブルクの始まりです。
蛮族の襲来です。
案の定、その砦はゲルマン民族の襲来で破壊させられてしまいます。
日本で習う
「ゲルマン民族の大移動」
は4~6世紀とされていますが、それは
「日本で習う歴史」
です。
実際には紀元前10世紀からゲルマン民族は襲来してました。
駐屯地 Castra Regina
するとローマ帝国は蛮族の成敗に軍隊を派遣して、一帯を制圧。
さらなる襲来にそなえて175年、ローマ皇帝のマークス アウレリウスの命令で、ローマ帝国の駐屯地がレーゲンスブルクに築かれます。
その駐屯地は
“Castra Regina”(レギーナ河畔の駐屯地)
と呼ばれ、第三旅団の司令部が置かれます。
ゲルマン人の襲撃に耐えれるように、ローマ人は駐屯地を10mもの高い石壁で囲います。
最盛期には6000人もの歩兵が駐屯していた、軍事拠点でした。(*3)
レーゲンスブルク 名前の起源
5世紀にはゲルマン民族が大挙して襲来、多勢に無勢で駐屯地は放棄されます。
レーゲンスブルクを占領したゲルマン民族は、
“Castra Regina”
なんて発音はできません。
そこで真似して、
”Regines Burg”(レーゲン河畔の城塞)
と呼んだのが、名前の起源とされています。
交易の要所として栄える
ローマ帝国が崩壊すると、レーゲンスブルクはカール大帝のフランク王国の一部となります。(*4)
そのフランク王国の分裂後は、東フランク王国の一部になります。
すると地の利を生かして、東欧への交易の要所として栄え始めます(10世紀)。
レーゲンスブルクにとって幸いだったのは、その東フランク帝国のオットー一世が、神聖ローマ帝国を樹立して初代皇帝になった事。
すると交易路は西はパリ、南はベニス、東はキエフまで拡大。
今日まで旧市街に残っている歴史的建造物の多くは、この時代に建造されたものです。
レーゲンスブルク の衰退
交易で栄えた街だけに、レーゲンスブルクの衰退も交易の減退が原因です。
まずは交易ルートの移動で、街を訪れる商人が少なくなり、次第に経済に陰りが出始めます。
これをさらに加速させたのが、権力争い。
町人の間で権力争に明け暮れていると、
「漁夫の利じゃ!」
とバイエルン公爵が軍を進めてきて、戦争に。
幸い、堅強な防壁で攻撃は撃退したが、バイエルン公爵は腹いせにレーゲンスブルクの生命線の交易路をブロック。
これが効いた。
再び軍を進めてきたバイエルン公爵は、ワイン畑など街の収入源を破壊するも、今度も堅強な守りを破れずに講和条約に。
戦争被害の修復で税金を上げると、レーゲンスブルクの経済力は疲労しきってしまった。
チェコで戦争が起きると大事な交易路が遮断され、商人やお金持ちは他の街、とりわけ織物の交易で栄えているニュルンベルクやアウグスブルクに移っていった。
ユダヤ人迫害
トルコの快進撃で南の交易路も失うと、レーゲンスブルクは存続の危機に陥ります。
危機的な状況に陥ると、責任を負わせるスケープゴートが必要になるもの。
住人は衰退をユダヤ人のせいにして、迫害を始める。
このユダヤ人の迫害が神聖ローマ帝国の怒りを買い、高額な罰金を課されます。
レーゲンスブルクはこれを払えずに遂に破産。
ここでバイエルン公爵が救世主として登場、武力ではなく、財力で街の評議会を説得。
15世紀にレーゲンスブルクはバイエルン公爵領となる。
もっともその後すぐにハープスブルク家の圧力で、再び自由都市になる。
カトリック司祭国
レーゲンスブルクはケルンやミュンスターのように、カトリック司祭が最高権力者として君臨するカトリック司祭国でした。
16世紀に宗教改革が起こると、市民は圧政をひいていたカトリック教会に愛想を尽かし、早くからプロテスタントを支持します。
しかし公式にはカトリック教の街でした。
30年戦争では当初、プロテスタント派のスウエーデン軍によって占領されます。
お膝元でそんな暴挙を許せないカトリック派のバイエルン軍が反撃に出て、レーゲンスブルクを奪還します。
工業化で活況を取り戻す
スペイン王位継承戦争でもレーゲンスブルクは再び戦争の舞台に。
フランス側についたバイエルン選帝侯が、しょうこりもなくまた進軍してきたのだ。
レーゲンスブルクはさっさと降伏して被害を逃れますが、本当の災難はこれから。
フランス革命ではまずはロシア軍が、次いでは反撃に出たナポレオン軍が駐屯して、その重圧で街は経済破綻します。
街がかっての栄華を取り戻すのは、19世紀になって工業化が進んでから。
レーゲンスブルクの人口は、19世紀に3倍になります。
ライバルのアウグスブルクでさえ、人口が4倍になっている。
工業化で活況は取り戻したものの、かっての栄華を取り戻すには至らなかった。
しかしそのお陰で、旧市街地区には古い建造物の多くが残っており、今ではこれが街の資産になっています。
レーゲンスブルク 観光 ドナウ河畔で最も美しい中世の街
レーゲンスブルクは街自体が史跡です。
旧市街をあてもなく歩いても、すぐに史跡にぶつかります。
あとはそこに書かれている史跡の説明を読めばいいので、観光ガイドを節約できます。
とはいっても、現地で英語(あるいはドイツ語)の解説を読むのはしんどい。
そこでレーゲンスブルクの有名な観光場所を、詳しく日本語で解説しておきます。
このサイトを読んでレーゲンスブルクの観光名所を把握してから行けば、ほぼ1日で完全制覇できます。
朝から歩き始めれば。
(郊外のヴァルハラとドナウ下りは除きます。)
ドイツ最古の石橋 Steinerne Brücke
レーゲンスブルクはドナウ川の辺に築かれた街。
防御には適していますが、商人にとっては商品の運搬が大変でした。
橋をかければいいのですが、ドナウ河の水量に阻まれて、石橋を作るのは不可能でした。
ところが1135年の夏、日照りが続き河の水位がかってないほどまでに沈みます。
「今がチャンス!」
とばかりに橋の建設が始まります。
11年後に完成した石橋は、ドイツ最古の石橋 / steinere Brücke と呼ばれています。(*5)
レーゲンスブルクの石橋は、当時、上流のウルムと下流のウイーンの間ではドナウ河にかけられた唯一の橋でした。
以来900年に渡って、ドナウ河の3つの支流を一か所で超える橋は、ここだけでした。
小さな石の男 / Bruckmandl
橋の一番高い所に、小さな石の男 /”Bruckmandl “が建っている。
その正確な由来は伝えられていない。
言い伝えではレーゲンスブルクの石橋を建設するマイスターが、巨大なドームを建設しているマイスターと、
「どっちが先に完成するか」
と賭けをした。
石像は右手で日差しを遮って、ドームの方向を注視しているので、
「ドームがまだ完成していないか、心配してドームを仰ぎ観ているマイスターの姿」
だと言われている。
ちなみに賭けには、勝ったそうです。
が2012年12月、心無い者の仕業で貴重な像が壊されてしまいます。
今回、橋の修復と一緒に小さな石の男も修復されました。
レーゲンスブルク ブリュック門 / Brücktor
レーゲンスブルクの街は、中世から周囲を城壁で囲まれていました。
城壁には防御のための塔が設けられ、その塔は城門としても利用されていました。
19世紀になると近代化に伴い、城壁と塔は取り壊されます。
レーゲンスブルクで近代化を生き延びた唯一の塔が、石橋の袂にあった塔。
塔は残されましたが、城門が狭くて電車が通らない!(*6)
そこで門の横に新しい大きなブリュック門 / Brücktor を設け、電車がこの門を通って石橋を渡れるようにしました。
そう、昔はここを路面電車が走ってました!
塩の倉庫 / Salzstadel
ブリュック門に併設している建物は、塩の倉庫 / Salzstadel です。
中世の頃、塩は貴重品。
南の岩塩鉱で採掘した塩をレーゲンスブルクに運ぶ込む前に、税金を払わなくてはなりません。
そこでこの場所に倉庫を建てて、関税を払うまで塩を保管していました。
皆まで言えば、ここには艀から荷物を倉庫に運ぶクレーンもあり、まさに波止場そのものでした。
今では倉庫はお土産屋 & レーゲンスブルク資料館になっています。
入場料は無料の上、無料トイレもある。
近くを通ったら是非、
「用を足して」
次の観光名所に行きましょう。
ドイツ最古のソーセージ屋 / Wurstkuchl
レーゲンスブルクの石橋を渡って左に曲がると、すぐ先に見えてくるのがドイツ最古のソーセージ屋 / Wurstkuchl です。
石橋を建設する労働者に飯を提供する目的で、橋の袂にソーセージ屋が設置されました。
水位が増すとすぐに水没してしまうこの場所は、他に使い道もなかったので、このソーセージ屋は今でも残っています!
当時、労働者に食されたソーセージを提供しています。
- 営業時間 : 10時~18時まで
- 休業日 : クリスマスと元日
食べる価値アリ?
これに加えてソーセージと酸っぱ~いキャベツの小さな皿+水で13ユーロという立派なお値段。
「旨い!」
というものでもないので、無理して食べる必要はありません。
礼拝堂 St. Georg und Afra
ソーセージ屋 / Wurstkuchl 横の狭い通りをそのまま150mほど直進。
橋の袂で右折すると、壁に埋め込まれた窓が見えてきます。
これは12世紀にここに建造された礼拝堂 St. Georg und Afra の残骸、もとい、遺跡です。
この遺跡の前を旧市街の方向に歩いていくと、60mほどで駐屯地の正門 ポルタ プレトリアが見えてきます。
ヴィーダーファンク井戸 / Wiederfangbrunnen
石橋を渡ってすぐ右に曲がると見えてくるのが、ヴィーダーファンクブルネン / Wiederfangbrunnen 。
レーゲンスブルク市民の飲み水を確保する目的で、17世紀に掘られました。
1906年に大幅に大修理。
戦争の被害を受けたので、1948年に再度修理されて今日に至ってます。
その後ろの石壁の由来は不明。
以前は民家でしたが、今回行くと☆☆ホテルになってました。
レーゲンスブルクは観光客が多いので。今でもホテルが増殖中。
名物壁画 ゴリアトハウス / Goliathhaus
石橋から直進すると、目前に大きな名物壁画 が描かれたゴリアトハウス / Goliathhaus が見えてきます。
12世紀にここに宿があり、ゴリアーデン / Goliarden と呼ばれる官僚を目指す学士が泊まって職探しをしていました。
これが原因でこの宿は、ゴリアトハウス という異名が付きました。
そして16世紀には聖書に載っている
“David vs. Goliath”
の逸話が壁に描かれたという、勘違いなお話。
この壁画の向かいにはレーゲンスブルク一の高級ホテル、ゴリアトハウスがあります。
ここに泊れば観光・お食事に至極便利です。
石炭市場 / Kohlenmarkt
ゴリアトハウスの壁画の前を右に行くと、石炭市場 / Kohlenmarkt という場所に出ます。
広場というほどではないですが、ご覧の通り小さな商いができる程度の場所があります。
名前の通りかって石炭を売っていた場所。
今日では小さな噴水と、ルネッサンス様式の建築物に囲まれたレストランが並ぶ市民の憩いの場。
この広場にはレーゲンスブルクの観光名所も多いので、足を運んでみよう。
金の塔 / Goldener Turm
石炭市場は三差路になっています。
この石炭市場に交差しているのは、ヴァーレン通り。
このヴァーレン通りに100mほど入った場所に、高い塔が街中にぽつりと建っている。
これは金の塔 / Goldener Turm と呼ばれるもので、なんと50mもの高さ。
レーゲンスブルクの真ん中にあるので、見張り塔ではありません。
お金持ちは高級車や高級品を買って、みせびらかしますよね。
中世には車もグッチのバックもないので、財力(権力)を見せ付けるために、塔を建造させたんです。
お金持ちのすることはわからんな~。
この塔は13世紀建造で、と~っても古い。
Hotel Orphée – Großes Haus
金の塔があるヴァーレン通りと並行して
“Unter Bachgasse”(下の小川小道)
という通りが走っています。
こちらも上述の石炭市場へとつながる道です。
ここに有名な”
Hotel Orphée
があります。
それもGroßes Haus(大きな家)の方。
外観は正直、ショボイ。
が、部屋に入ってびっくり。
あり得ない広さでした。
浴槽あり。
ワインボトルまでついてました。
夜も静かでよっく寝れました。
唯一のネックは場所。
始めてレーゲンスブルクに来ると、
「あっれ?ホテルは何処だっけな?」
と、ホテルを出たら戻ってこれなくなります。
ドイツ最古のカフェ プリンツェス / Café Prinzess
この石炭市場に、ドイツで最古のカフェもあります。
場所は下で紹介する旧国会の斜め向かい。
名前はカフェ プリンツェス / Cafè Prinzess 。
日本語に直すなら、王女様のカフェ。
オープンしたのは1686年。
一説では1683年のオスマントルコによるウイーン包囲の後、退却したトルコ軍が大量に残していったコーヒーが欧州で大流行。
欧州で最初のカフェはウイーンで開店。
ドイツ最初のカフェはレーゲンスブルクにて開店、それがカフェ プリンツェスの始まりです。
かっては諸侯がここでコーヒーを飲んでいました。
ドイツではカフェはケーキ屋と兼業しているので、おいしいケーキがたくさん。
お値段はお安くはありませんが、レーゲンスブルクまで行ったなら、一度試してください。
ホームページも紹介しておきますが、10年以上前の古いデザインなので、商品の写真もなし!
スペインの海軍提督 ドンフアン / Don Juan
石炭市場から時計塔が見えます。
時計塔に隣接してる大きな建物(旧市役所です)の横に、スペインの海軍提督の ドン フアン / Don Juan の銅像が建っています。
これを知っている人は、街の住人だけ。
ドン フアン出世記
もったいぶらないで、秘密を明かします。
神聖ローマ帝国、およびスペイン皇帝のカール5世がレーゲンスブルクに滞在中、町の娘に一目ぼれ。
「お殿様、いけませぬ。」
となり、この情事から生まれたのがヨハン ヒエロニムス / Johann Hieronymus だ。
もっともお殿様は、子供が生まれると知らん振り。
4歳のときにスペインに引き取られて教育を受ける。
お殿様は遺書で始めて隠し子がいることを告白、王位を継いだ異母兄弟フィリップ2世の計らいで、ドン フアンとしてオーストリアの宮廷入り。
その後、押し寄せるトルコ海軍を迎撃するため、仲の悪いベニスとスペインが同盟を結び、神聖軍 /”Heiligen Liga”を結成。
211隻を擁する連合軍の提督に指名されたのが、わずか24歳の ドン フアン だ。
フアンは260隻もの軍艦を擁するトルコ海軍をイオニア海戦で破り、英雄になる。
そこでドン フアン出世の地では町の有名人を誇りに思い、生家の近くに銅像を立てた。以来、何も知らない人が来ると、
「彼はスペイン人じゃなくて、レーゲンスブルクの人間だよ。」
と、自慢話を聞かされる羽目になった。
レーゲンスブルク 旧市役所 / altes Rathaus
石炭市場の端っこに、レーゲンスブルク旧市役所 / altes Rathaus と時計塔があります。
この市役所が建設されたのは、なんと13世紀です。
もっとも市役所として建設されたのではなく、お金持ちが御殿として建造させたもの。
市役所の塔は55mもの高さがありますが、14世紀に火事で焼け落ちたので、14世紀に再建されました。
旧帝国議会場 / Reichssaalgebäude
時計塔の周辺は、かってのレーゲンスブルクの権力の中心部。
旧市役所の向いには、旧帝国議会場 / Reichssaalgebäude があります。
折角だから、石の階段を上って中も見物していこう。
踊り場にあるステンドグラスも綺麗です。
肝心の入場料は7,50ユーロ、グループのみ。
それも決まった時間にしか入れないというので、ここで撤退。
石の兵隊
階段の入り口では石の兵隊が、おかしな輩が入ってこないように階段の上から見張っている。
レーゲンスブルク ハイド広場 / Haidplatz
旧帝国議会場の先が、レーゲンスブルク旧市街の中心部にあるハイド広場 /Haidplatz です。
まだローマ兵が駐屯していた頃、ここは駐屯地の外の原っぱで、ぺんぺん草が生えていた。
そこで野原”Heide”(野原)を意味する、ハイド広場と呼ばれるようになったんです。
ハイド広場には十分な空き地があったので、13世紀以降、レーゲンスブルクを代表する建造物がここに建造されます。
金の十字架 / Goldenes Kreuz
ハイド広場で最も目をひく建造物のが、まるで城砦のような趣の建造物、金の十字架 / Goldenes Kreuz です。
建造されたのは13世紀。
レーゲンスブルクの有名人(権力者)が、その富と権力を見せつけるために建造。
その後、代々、引き継がれてきました。
16世紀から宿として使用され、国王や皇帝が宿泊してきた由緒ある宿だ。
今でも(一部)ホテルとして利用されている。
日本で言えば鹿苑寺金閣か、それよりもさらに古い歴史的建造物だ。
正義の女神噴水 / Justitiabrunnen
ハイド広場の中心部に、正義の女神噴水 / Justitiabrunnen がある。
レーゲンスブルク住民に飲み水を供給する目的で、17世紀に建造されたもの。
正義の女神像は多くの都市にある。
もっともこのように古いものは珍しい。
普通、正義の女神というと、目隠しをされて天秤を差し上げているもの。
だがこの女神はもっと直接的で、天秤の変わりに剣をふりかざしている。
「悪さをするとブッスリ行きますよ!」
とでも言ってるようだ。
像ができた時代を象徴していて面白い。
新計測所 / Neue Waag
女神像の後ろにある真っ赤な建物は、13世紀にお金持ちがその権力を誇示するために建てた家 。
後にレーゲンスブルク市が買い取り、街で売買される品物の重さを公式に図る計測所が置かれた。
これが故、新計測所 / Neue Waag と呼ばれています。
今日では行政裁判所として使用されている。
トーン ディートマー宮殿 / Thon-Dittmer-Palais
新計測所の左(見る方向によりますけどね)にある宮殿のような大きな建物は、トーン ディートマー宮殿 / Thon-Dittmer-Palais 。
本当の宮殿です。
かってここには二棟の立派な建物がありました。
大富豪の商人、トーン ディートマーが両方買い取って、ひとつの宮殿に改築しました。
最初の工事は18世紀末。
最後の手直しは19世紀初頭に。
実際には古い建物なんですが、19世紀に流行ったゴシック式なので、比較的新しく見えます。
19世紀半ば、レーゲンスブルク市がこの宮殿を遺族から買い上げます。
文化施設にするはずだったのですが、最初は学校が、続いて図書館が、最後には消防団が入るなどして、内部はボロボロに。
取り壊しを寸前で逃れて、レーゲンスブルク市が大金をかけてレノベーション。
今日では劇場として、又、催し物の会場として使われています。
アルヌルフス広場 /Arnulfsplatz
ハイド広場から150mほど直進すると、レーゲンスブルクの西端に位置するアルヌルフス広場 / Arnulfsplatz が見えてくる。
ここは城壁の外にあった場所。
ローマ帝国の植民地だった頃から、アウグスブルクからアルヌルフス広場を通り、オーストリアまで続く交易路が伸びていた。
中世の頃は倉庫街、そして処刑場でもあった。
19世紀末、自転車の販売でお金持ちになったユダヤ人がここに土地を買い、立派な屋敷を建てた。
その屋敷の横には劇場があったので、上流階級が交流する場所となった。
今日ではバスの駅になっており、路面電車が走っていないレーゲンスブルクでは、交通の要所のひとつ。
近代化に失敗
レーゲンスブルク市は2005年、
「アルヌルフス広場をもっと近代化しよう!」
と、25万ユーロもの賞金を設けて、建築家から改造案を募集。
最優秀賞に選ばれた案に沿って改造しようとすると、ドイツ特有の長いバスが通行できないことが判明。
お金を無駄に使った挙句、工事は中止。
市民から非難轟轟だった。
新主要教会 / Neupfarrkirche
次はドームを見に行こう。
途中に新主要教会/ Neupfarrkirche が見えてくる。
ご覧の通り、とりわけ大きな魅力がある建造物ではない。
教会の前に噴水があり(現在は噴水はなくなりました。)、夏は子供が遊んでいる。
てっきり子供の遊び場と思ってたら、この地域はかってのユダヤ地区で、シナゴークが建っていた場所だ。
教会建設の歴史
16世紀にユダヤ人を保護していた皇帝が死去すると、町の牧師が先頭になってユダヤ人の迫害を開始します。
殺されなかったユダヤ人はレーゲンスブルクから追い出され、家屋とシナゴークは焼き払われます。
当時はお遍路さん / “Wallfahrt” が大流行。
街と教会は
「今でしょ!」
と、空いた土地に壮大なカトリック教会を建て始めます。
するとお遍路さんが急に下火になり、
「作ってもペイしない。」
と、大教会の建設は途中で挫折。
すると宗教改革が起こります。
建設途中のカトリック教会は福音派(プロテスタント)教会に移行され、19世紀中ごろになって建設が終了します。
天罰ですね。
レーゲンスブルク 聖ペータードーム / Dom St.Peter
カトリック教会の権力を誇示するのが、レーゲンスブルクの象徴 聖ペータードーム / Dom. St. Peter だ。
7世紀に建築が始まり、何度か焼けて、その度に再建され、やっと19世紀に完成した。
近くでみると、とてつもなく大きい。
このドームは、ケルン大聖堂に次ぐ高さ(150m)を誇っている。
ケルンの大聖堂同様に、こちらも鮮やかなステンドグラスが有名。
見事な装飾があり、全部紹介したいのですが、紙面の限界でできないのが残念。
私は教会内部にあったマリアとキリストの仏壇が、いたく気に入りました。
ドームの横に回ったら、屋根の下にあるいろんな架空の動物の石像に注目!
巨大な屋根に降った雨が、この石像の口から流れ出るようになっています。
雨の日に来てしまったら、これを見るのをお忘れなく。
レーゲンスブルク ドーム広場 / Domplatz
レーゲンスブルクドーム広場 / Domplatzは、とてもきれいな場所。
古風な家屋がカラフルな色に塗られており、ドーム目当ての観光客を狙ってカフエ やレストランの密集地(高いよ~)。
どこから撮ったら、ドーム広場が一番綺麗に撮れるかな?
と苦節すること3年、ドームの入り口から撮った写真が一番いい事を発見!
レーゲンスブルクを訪問される方は、是非、真似してください。
ローマ塔 / Römerturm
ここまで来たら、ドームの後ろも忘れずチェック。
ドームの裏は、観光客が滅多にやってこないレーゲンスブルクの裏町。
ここにぶっとい石作りの塔がある。
サイズは14m x 14m x 28m 。その名はローマ塔 / Römerturm。
熱さ4mもの石壁に囲まれている塔で、入り口は地上9mの渡り橋だけ。
かっては人も住んでいたのだが、主に金庫として使用された。
ローマ塔の横には、17世紀に建造された修道院も建っている。
駐屯地の正門 ポルタ プレトリア / Porta Praetoria
ドームの近くに、かってのローマ兵の駐屯地の正門 ポルタ プレトリア / Porta Praetoria があります。
なんと2000年も前の建造物だ。
アルプスの北側で残っているローマ帝国駐屯地の門は、トリアーの黒い門とレーゲンスブルクだけなんですよ!(*7)
正門 再発見!
ローマ兵はとっくの昔に姿を消した後も、レーゲンスブルクは発展を続けます。
道路が新しく設置されると、かっては街の入り口だったポルタ プレトリアの意味が失われます。
門に使われていた石材は、他の建造物に流用されるなどして再活用。
17世紀になるとポルタ プレトリアのあった場所にビール工場が建てられ、門は跡かたなく消えます。
ポルタ プレトリアがあったことさえ市民の記憶からもすっかり消えていた19世紀の終わり、ビール工場の取り壊しが始まった。
すると大きな石材がゴロゴロ出てきて、
「これは何だ?」
と大騒動。
「書簡に記述されている駐屯地の門じゃないか。」
説が有力で、長い年月をかけて発掘、修復。
最後の修復作業は2017年に終わり、かっての立派な駐屯地門の面影をうかがわせてくれる。
ドナウ河対岸 宮廷の街 / Stadtamhof
石橋を渡ったドナウ河対岸は、 宮廷の街 /”Stadtamhof”という地区。
地区の名前は、”Stadt am Hof”(宮廷の街)から派生。
かっては
「レーゲンスブルクの前の町」
と呼ばれていた。
宮廷の街の歴史
この「宮廷の街」は、長く宿敵であるバイエルン公爵領だった。
これがレーゲンスブルクにとっては目の上のたんこぶ。
そこで何度かこの地区を併合しようと画策したが、成功したのは短期間だけ。
30年戦争時、スウエーデン軍はまずはここを占領、それからレーゲンスブルクを陥落させた。
その後、バイエルン軍の反撃に備えて宮廷の街を要塞化した。
予想通り反撃してきたバイエルン軍とスウエーデン軍の間で激戦が交わされ、宮廷の街は壊滅する。
今では壊された建造物は見事に再建され、宮廷の街もユネスコから世界遺産都市に指定されている。
時間が残っていれば、是非、歩いてみてください。
観光客の少ない現地人の憩いの場です。
第一次大戦後、
「こんな小さな集落だけで独立していても意味がない。」
と、この地区はレーゲンスブルクに合併されました。
ドナウ川の観覧船
ドイツ観光と言えば、ライン川のライン下りを想像される方が多いですが、ドナウ川でも観光船に乗ってのんびりと景色を楽しむことができます。
いろいろなコースがありますが、一番の人気はヴァルハラ宮殿までのコース。
レーゲンスブルクを出発して、およそ40分で到着します。
その後、徒歩で15分ほどでヴァルハラ宮殿に到着。
入場料は船の乗船料に含まれていないので、現地で別途払う必要がありますが、ライン下りよりも楽しい(と思う)。
観覧船のチケットは、大人の往復チケットで14.80ユーロ。
食事などは付いていないので、食べ物を持参するか、船のレストランで食事をとることもできます。
新婚旅行でドナウ下りを利用されたい方には、週末の夕食ビュッフェ付きのコースもあります。
こちらのコースは49.50ユーロからで、事前の予約が必要です。
ヴァルハラ宮殿
ここまで来たら、レーゲンスブルク郊外にあるヴァルハラ宮殿 に言ってみよう。
ドイツ人の伊勢神宮であるこの宮殿は、ドイツ人の民族意識高揚の為、バイエルン王国のルートビヒ1世によって建設された。
建物の内部にはゲルマン民族の神話に登場する人物の彫刻が数多く展覧されている。
神話なんかに興味は無くても、神殿から見下ろすドナウ河の眺めは素晴らしいので、是非、一度は見ておこう。
- 住所 : Walhallastraße 48, 93093 Donaustauf
- 地図 : ヴァルハラ宮殿
- 営業時間(夏)9時~18時
- 入場料 : 4.50ユーロ
生活と物価
最後に生活と物価を見ておきましょう。
「ミュンヘンから東は家賃が安い。」
と言われている通り、レーゲンスブルクまで来ると物価、とりわけ家賃が安くなります。
アウグスブルクはミュンヘンへ通勤圏内にあるので家賃の上昇が止まりませんが、レーゲンスブルクならミュンヘンによる波状効果は薄い。
お陰で大都市と比べると、物価は(比較的)安いです。
現在の街の人口は15万人。
大学生だけで1万6千人を占めます。
日本企業では東芝、ドイツ企業では半導体のインフィニオン、ご存じジーメンス、BMW、コンチネンタルなど、名だたる大企業が工場を持っている。
お陰で景気がよく、レーゲンスブルクでの部屋探しは結構大変だ。
でも街は綺麗だし、治安も良く、ドイツ留学するには理想的な街のひとつです。
一度、レーゲンスブルクに留学すると、皆さん、他の街にいきたくなるものうなずけます。
日本食のインフラは(少)ないので、留学する際は、鞄にカレーのルーを入れて持っていくと、重宝します!
レーゲンスブルク に留学
この風光明媚なレーゲンスブルクに留学するなら、ドイツ語専門の語学学校、”Horizonte“があります。
学校に併設している学生寮が人気です。
朝が苦手な方でも通学に2分しかかからないので、助かります。
学校とは屋根続きなので、雨の日、寒い日でも外に出る必要なし!
他の街だったら必要な定期券も節約できます。
生徒の国籍も何処かの国に偏ることがなく、学校は国際色にあふれる学校です。
レーゲンスブルク 名物 巨大なピッツア /”Pizza”
誰が最初に始めたのか不明ですが、レーゲンスブルク名物は巨大なピッツア /”Pizza”です。
直径30cmあります。何処で食べても同じ大きさ。
でもお勧めはオステリア レーゲンスブルク。
でかくておいしい、その上、お手頃価格。ソーセージよりこちらのほうがおいしくて安い!
場所は有名な石橋から旧市街の方向に向かい、ゴリアテの壁画が見えたら右折して25mほど。
かっての監視塔の横にあります。
注釈
*1 「保存」と言えば聞こえがいいですが、お金がないので長くほったらかしにされてきました。「貧困は最善の記念物保存策」と言われるが故です。
*2 2017年、ミュンヘン空港からレーゲンスブルク直行便が運航を開始しました。が、コロナ禍でレーゲンスブルク直行便は運休中。復活するかどうか未定です。
*3 ドイツ国内のローマ帝国の植民地を統括する本部は、アウグスブルクに置かれていました。しかし軍の主力は首都ではなく、ゲルマン民族の襲撃にさらされているレーゲンスブルクに駐屯していました。
*4 カール大帝はドイツ人で最初の皇帝です。大帝の没後、その王国は分裂しますが、オットー一世により神聖ローマ帝国へと発展していきます。
*5 ヴュルツブルクは、「我こそがドイツ最古の石橋」と主張しています。
*6 そう、昔は石橋の上を自動車や電車が走っていたんです!橋へ負荷がかかり老朽化するので、戦後、橋は歩行者専用道路になりました。
*7 ヴァイセンブルクのローマ帝国駐屯地の門は、想像で再現されたもの。「全然違う。」と評判が悪い。