ドイツでは ヴュルツブルク は、
「知らない人はいない」
有名な観光地。
ヴュルツブルク宮殿は世界遺産に指名されており、マリエンブルク要塞と石橋は街の代名詞だからです。
日本人にとっては、
「ロマンチック街道の始まりの要所じゃん!」
と、興味が沸く筈。
「是非、見てみたい」
と思っても、長く住んでいたデユッセルドルからは3時間半、第二の故郷のアウグスブルクの自宅から車で3時間もかかるんです。
今回、10数年にも渡る重い腰をあげて、ヴュルツブルクに撮影に行ってきました!
目次
街の紹介 ヴュルツブルク
今回も町の紹介から始めます。
ヴュルツブルクはバイエルン州の端っこにあります。
わかりやすくいうと
「左肩の部分」
にある中規模の街(*1)。
人口は13万人の手前で足踏み状態。
街の中心を流れているのはマイン河。
街の最大の雇用主はヴュルツブルク大学で、なんと3万人近い大学生が在籍しています。
ここに街が築かれたのは、マイン河の辺にある小山に城塞が築かれたのがきっかけです。
ここに城を構えれば、河を使った交易を支配して、周辺地域を支配できます。
以来、ヴュルツブルクは城塞都市として発展を遂げました。
かっては世界遺産都市のバンベルクと肩を並べるほどの、見事な旧市街を誇っていました。
が、第二次大戦が集結するわずか数か月前、大空襲があり街はほぼ壊滅。
再建された幾つかの建造物のお陰で、ロマンチック街道にも載っています。(*2)。
地勢と風土
ヴュルツブルクは地勢上、北フランケン / Unterfranken と呼ばれる地方にあります。
すなわち!
この地方に住んでいるのはバイエルン人ではなく、フランケン人です。
ドイツ人最初の大帝国
“Fränkisches Reich”(フランケン帝国)
を築いた種族です。
もっともフランケン人の王国、
が滅亡してから久しく、
「私はバイエルン人じゃない。フランケン人です。」
という人は稀。
ちょうどアウグスブルクに住む
「シュヴァーベン人」
同様に、大方はバイエルン人だと思っている。
バイエルン州だけあって、カトリック色が強い。
それもかなり強い。
なんと住民の半数以上が、カトリック宗派。
すなわち保守的な傾向が強いです。
ヴュルツブルク 気候
統計によると、ヴュルツブルクの1年の日照時間は1759時間。
この数字は、皆さんの大好きなミュンヘンの日照時間1756時間と、ほぼ同じ。
アウグスブルクの1816時間には負けるものの、ドイツでは天気がいい方です。
この天気の良さを利用して、山の斜面ではワインの栽培が盛ん。
その一方で、アウグスブルクにはワイン畑を見たことがない。
標高は177mなので、ほぼ平地。
大寒波が来ない限り冬の冷え込みも厳しくなく、過ごしやすいです。
どうやって行くの?
ヴュルツブルクの最寄り空港は、ドイツの空の玄関口であるフランクフルト空港です。
最寄り空港とは言っても、フランクフルト空港からヴュルツブルクまで電車でたっぷり1時間30分。
これが原因で、なかなか観光客が来てくれない。
「1時間以上も電車に乗るなら、ハイデルベルクに行くわ。」
というのが大方の観光客の意見です。
お陰で観光客は少なく、日本人もみかけないし、ちょっと秘境感を味わえる。
フランクフルト空港に着くなら、ヴュルツブルクはちょうどローテンブルクに向かう途上にある。
是非、ヴュルツブルクを観光ルートに組み入れてもらいたい。
南のアウグスブルクから向かうと、ローテンブルク、それにマルクトブライトの町を経由して、車でも電車でも3時間の距離(260km)があります。
あ~しんどかった。
街の歴史
折角なので街の歴史も見ておきましょう。
街の名前が初めて登場するのは、8世紀になってから。
704年に記された書簡で、
„castello Virteburh“(ヴィルテブル要塞)
と記述されている。
742年になるとすでに
“Wirzaburga”
と
「今の名前」
に近くなっており、これが街の語源になったようだ。
発掘調査では現在のマリエンベルク要塞の近辺から、先住民族ケルト人の居住跡が見つかっている。
その発掘調査にて、ヴュルツブルクは紀元前1000年以上も前から入植されていたと推測されている。
交易で経済発展
街が栄え始めたのは、8世紀に大司祭がここにその居を構えてから。
以来、ヴュルツブルクはカトリック司教領となります。
上述のフランケン帝国がその司教領に
- 関税を課す権利
- 市場を開く権利
- 硬貨を鋳造する権利
を与えると、カトリック司教領は経済的に急発展を遂げていきます。
イギリスの北に12の島からなる、デンマーク領の小さな”Färöer”群島があります。
この集落からヴュルツブルクで鋳造された銀貨が見つかっているので、交易でかなり栄えていたようです。
カトリック司祭国へ
1156年、ドイツ最古の貴族シュタウファー家の王様であるバルバロッサが、この街で(二度目の)結婚式を挙げる(*3)。
神聖ローマ帝国の国会まで、ヴュルツブルクで開かれている。
教会が本来なら禁止されている二度目の結婚を承認した見返りに、バルバロッサはヴュルツブルク大司教に
“Fürst”(侯爵)
の称号を与える。
これによりヴュルツブルクは公式に、カトリック司教様が王様のように支配する
“Bistum”(カトリック司教領国)
となる。
ヴュルツブルク大学
1402年にカトリック司教様が高等学校を設置します。
ヴュルツブルク大学は、
「これが大学の前身である。」
と主張して
と言い張ってます。
マルチンルターの宗教改革
16世紀になるとマルチンルターの宗教改革が、カトリック司教国にも影響を及ぼします。
そもそも庶民はカトリック教会から課せられる重税で、教会に不満を持ってました。
そんなご時世で命の危険も顧みず、
「改革せよ!」
と言い出したルターに庶民が共感を持つのは当たり前。
言うまでもなく、カトリック司祭様はこの宗教改革には大反対。
そこで領内で権力を脅かす改革派を弾圧すると、魔女裁判を奨励して、260人もの市民が処刑されます。
そうかと思えば忠実な住民の為に病院を建てます。
飴と鞭の政策ですね。
最後には
“Festung Marienberg”(マリエンベルク要塞)
を、司教様の居住に適したバロック様式城に改築さます。
カトリック司教国からバイエルン領に
30年戦争時(17世紀)、カトリック色が強かったヴュルツブルクは、プロテスタント軍のスウエーデンに占領されます。
戦争終了後、
「今度は占領されないぞ。」
と城壁の強化が始まり、現在の姿になりました。
19世紀にはプロイセン軍の城攻めに遭いますが、強化された城塞で攻撃を撃退することに成功しています。
その後は戦争の被害に遭うことはありませんでした。
しかし!
ナポレオンがドイツを占領すると、カトリック司教国は廃止されます。
その領土はまずはファルツ領に取り込まれ、次いでヴユルテンベルク伯爵領になったり、オーストリアのハープスブルク家の領土になったり。
ナポレオンを成敗した後のウイーン会議にて、
「ヴュルツブルクはバイエルン王国に帰属する。」
と決まり、今日に至っています。
ヴュルツブルク 空爆
かってヴュルツブルクは、15~16世紀の建造物が多く残る見事な旧市街を誇り、
「ヴュルツブルクとクラカウは中部ヨーロッパの宝石。」
と言われるほど綺麗な街でした。
第二次大戦でも大きな空爆を受けず、そのまま終戦を迎えると思われていました。
戦況がすでに決定していた1945年3月16日、イギリス空軍は
「ドイツが降伏してしまう前に!!」
と市民の大量殺戮を計画、ヴュルツブルク空爆を行います。
わずか20分ほどの空爆でしたが、英国空軍は一発で居住地区を破壊する
「1.8トンの樽爆弾」
を数多くこの作戦に投入します。
これに加えて多くの焼夷弾を投下、旧市街の90%が破壊され、4000~5000人がなくなりました。
戦後、旧市街の幾つかの建造物は再建されました。
でも、多くの手の込んだ装飾を施された家屋までは再建が及ばず、古い建物と新しい建物が並んでいます。
ちょうど第二次大戦の空爆で同じように大きな被害を受けた、ニュンベルクのような感じです。
ヴュルツブルク 観光 – 要塞から見下ろす町の景色は絶景!
ヴュルツブルク観光の最大の見所は
- ドイツ最古の石橋
- マリエンベルク要塞
- ユネスコから世界遺産に指定された司教様の宮殿
の3つです。
絵葉書のモチーフになっている石橋と要塞を組み合わせた写真は、必修。
加えて要塞から見下ろすヴュルツブルクの旧市街は、太陽の関係で午後/夕方に撮るのが最適。
そこで午前中はレジデンツに向い、ゆっくりと見事な庭園を堪能してください。
ヴュルツブルク ドーム / Dom
まずはヴュルツブルクで一番高い建造物から始めます。
市内中心部に立っているこの見事な建物は、ドーム / Dom と呼ばれる街を代表するカトリック教会です。
建設されたのは11世紀で、尖塔の高さは105m。
キリスト教の布教活動をした聖人を祭っている。
ヴュルツブルクがカトリック司教領国だった当時は、ここが政治権力の中心地でした。
これを知らしめるべく、教会は街のど真ん中。
右も左も隙間なく建造物で埋まっているので、街の主要通りを歩いていると、否応でもこの教会に辿り着くようになっています。
教会内部
入場料はないので、ここまで来たら内部を覗いてみましょう。
司教領国当時の司教の屍がここに葬られています。
入り口付近には何故か、その理由はわかりませんがユダヤ教の象徴であるろうそく立てが飾られていました。
ヴュルツブルク 宮殿 / Reidenz Würzburg
そのドームの裏に、ユネスコから世界遺産に指定されているヴュルツブルク宮殿 / Reisenz Würzburg がある。
とは言っても観光客には行き方がわかないので、歩き回って道に迷う前に原住民に、
「レジデンツは何処?」
と聞きましょう。
親切に教えてもらえます。
レジデンツとは、その地方の権力者の宮殿です。
ミュンヘンではバイエルンの王様の宮殿を指し、アウグスブルク、バンベルク、それにここヴュルツブルクでは、司教様の宮殿を指します。
建造されたのは司教領国時代の18世紀。
空爆でも被害を受けましたが、街を占領した米軍から派遣された
「モニュメント保存チーム」
が穴の開いた屋根にシートをかけるなどして、壁画が傷つかないように保護。
その後、宮殿をすっぽり仮設の屋根で覆いました。
お陰で貴重な文化財が救われました。
1987年に改修が終わり、司教様が住んでした宮殿を当時の閲覧することができます。
が、屋内は撮影禁止です。
- 開館時間 (4~9月): 9時~18時
- 開館時間(11~3月): 10時~16時30分
- 入場料 : 9ユーロ
フランコニア噴水 / Frankoniabrunnen
レジデンツの前、正確には西側にある立派な噴水はフランコニア噴水 / Franconiabrunnenです。
19世紀末に著名な建築家がデザイン、これまで有名な鋳造家によって作成。
落成式には当時の王様も出席。
フランコニアはフランケン族の守護神です。
バイエルン人の守護神はババリアですから、この辺に
「違い」
が見て取れます。
グラーフェンエカート / Grafeneckart
ドームの近くにある教会の尖塔のように見える建物は、実はヴュルツブルク市役所(の一部)です。
13世紀、市民は町を治める議員を選出していました。
その議員が集まって評議会を開いていたのが、この建物です。
グラーフェンエカート /”Grafeneckart”と呼ばれています。
建造された正確な年代は不明。
「12世紀にはすでに建ってた。」
というので、ヴュルツブルクでも最古の建造物のひとつです。
内部の閲覧は事前申告制。
なんとガイド付きの90分も続く閲覧が、無料だそうです。
太っ腹!
マリア礼拝堂 / Marienkapelle
グラーフェンエカートの後ろに市場があります。
ここに真っ赤な教会が建っています。
大きな建物なので教会かと思ってしまったのは、マリア礼拝堂 / Marienkapelle 。
このマリア礼拝堂の建立の歴史は、ヴュルツブルクのもっとも暗い時代の遺産です。
14世紀、ヴュルツブルクでもペストが流行。
すると迷信深い当時の人は、
「ユダヤ人が井戸に毒を入れた。」
とのフェイクニュースを飲み込み、ユダヤ人の殺害、追放、そしてシナゴークが焼き払われます。
焼き払ったシナゴークの跡地に建設されたのが、マリア礼拝堂です。
この礼拝堂を見ると、ちぐはくした感じがぬぐえません。
一本だけの尖塔ならフライブルクのミュンスターのように真ん中に尖塔を建てるもの。
マリア礼拝堂は建物の北側にだけ、70mの尖塔が建っています。
その先頭にはマリアの黄金像があります。
実はこの尖塔は、礼拝堂の建設計画には入っていませんでした。
礼拝堂として建てたものの、教会として利用されることになったので、
「教会なら尖塔が要る。」
と15世紀に尖塔が増築されました。
お陰でバランスが悪く、ちぐはくした感じを受けます。
鷹の家 / Falkenhaus
マリア礼拝堂の横にある装飾の見事な家は、通称、鷹の家 / Falkenhaus です。
元々はドームで働く牧師の住処だったのですが、17世紀にマイスナーという人物が購入して、レストラン兼宿屋として経営。
主の死後、未亡人がロココ調の装飾を施しました。
通常だったら、マイスナーの家という名前が付いた筈ですが、鷹の彫刻のお陰でこの名前になりました。
第二次大戦の空爆で破壊されましたが、戦前に撮られた写真を参考に再建されました。
今はツーリストインフォとヴュルツブルクの図書館が入っています。
ノイミュンスター教会 / Neumünster
順番が逆になりましたが、ヴュルツブルク市役所のグラーフェンエカートから市場に向かう途上に、またしても立派な教会があります。
流石、カトリック教の本山です。
こちらの教会はノイミュンスター / Neumünster と呼ばれる教会です。
日本人にとってキリスト教と言えば、カトリックとプロテスタント。
歴史が好きな人なら、これにロシア/ギリシャ正教が加わりますが、日本の仏教のように実は多くの宗派 / Stift があります。
そのひとつがノイミュンスター教団で、キリスト教の普及に貢献した人物を聖人としてあがめています。
その教団本部として18世紀に建造されたのが、この教会です。
alte Mainbrücke – ドイツ最古の石橋?
ヴュルツブルガー(ヴュルツブルクの住人)が、
「ドイツ最古の石橋」
と呼んで誇りにしているのが alte Mainbrücke です。
日本語で言えば、古い方のマイン橋。
新たしい橋が作られたので、区別するために
”alte”(古い方の)
と呼んでいます。
ヴュルツブルガーは、
「1120年に建造された。レーゲンスブルクの石橋の20年も前だよ。」
と威張っています。
どちらが最古の石橋?
で、
公式には、
理由はふたつ。
まず最初は、ヴュルツブルクの橋が建造された年を証明する文書が残っていないこと。
前後関係から1120年前後に石橋が構築されたと推測されますが、如何せん、証拠がない。
証拠があればレーゲンスブルクよりも20年古いです。
第二の理由は15世紀の洪水で一度、破壊されたこと。
16世紀に再構築されたので、
「最古の石橋とは言えない。」
とレーゲンスブルガー(レーゲンスブルクの住人)。
ゲーテも大好きだった石ワイン
ヴュルツブルクはワインの産地として有名です。
とりわけ急な山の斜面のワイン畑は、
“Würzburger Stein”(ヴュルツブルクの石)
と呼ばれ、見渡す限りワイン畑になっています。
このワイン畑から取れたワインを石 / Stein といい、あのゲーテも愛飲していました。
当然、旧市街にはワイン商も多いですが、一番儲かっていたのは、橋の袂にある小さなワイン商。
観光に来たドイツ人向けにワインをグラスで販売しており、ドイツ人はすっかりご機嫌になっています。
ワイングラス一杯が5ユーロなんて、ボロイ商売。
マリエンベルク要塞 / Festung Marienberg
ではヴュルツブルクの有名な、マリエンベルク要塞 / Festung Marienberg を見に行きましょう。
石橋を渡った先、商店街の後ろに要塞に登る階段が隠されています。
アウグスブルクに住んでいるからそんなことはわからない。
現地人に
「何処から要塞に登れるの?」
聞くと、
「おお、日本からわざわざヴュルツブルクに観光に来てくれた。」
と勘違いして、とても丁寧に教えてもらえました。
階段は長いですが、ハイデルベルクのような急階段式ではないので、上りやすいです。
上に駐車場もあります。
博物館に入らなければ。
最初の門
敵の侵入を阻むため、要塞の中には城壁に囲まれ曲がりくねった通路があり、本丸に達するまでに4つも門があります。
最初の門は比較的新しいもので、防衛よりも見栄を優先。
見事な彫刻が施されています。
第三の門
第二の門はすっとばして、第三の門がコレ。
最初の門と比べて、明らかに古い。
この門を超えると、要塞の中庭に出ます。
長~い倉庫っぽい建物が。
その先に見えるのがカトリックの大司祭様が住む宮殿へ繋がる最後の門。
見晴らし台
(確か)第二の門を超えると、左手に見晴らし台があります。
ここから撮るヴュルツブルクが一番綺麗。
大聖堂が影になってるのが残念です。
この点はハイデルベルクと一緒で、一番綺麗な市街地の写真を撮るには朝イチに要塞まで!
最後の門
要塞の最後の門がコレ。
装飾と言えば、入り口の上に安置されている聖人の像くらい。
装飾よりも銃眼が目につきます。
かっての要塞だったこともあり、城の周りには城壁とお堀が巡らされています。
こんな山の上に、どうやってお堀の水を運んできたんでしょう。
要塞中心部
長~い坂を上ってきて、やっとマリエンベルク要塞中心部に到着!
でも
「ただ!」
で見えるのはここまで。
正直に言うとちょっとがっかり?
マリア教会
ゲルマン民族の大移動でヴュルツブルクにやってきたは、フランケン族です。
マイン河の辺にある標高100mほどの小山に住み着きます。
フランケン族の長であるカール大帝が、キリスト教を国教に設定すると、この山の上に教会を築きマリア教会と名付けます。
そのマリア教会が建つこの山は
“Marienberg”(マリエンベルク)
と呼ばれることに。
8世紀に築かれたこのマリア教会は、要塞の中で最も古いもの。
是非、観てください。
私が行ったときは工事中で足組が組まれていました。
頑強な城壁
13世紀になると城塞内に井戸が掘られ、監視塔が建設され、次第に立派な要塞へと変化していきます。
要塞の主は司教様。
18世紀にヴュルツブルク宮殿が完成するまで、この要塞で住んでいました。
30年戦争後、要塞は12kmにも及ぶ頑強な城壁が加えられ、難攻不落の要塞となりました。
実際、19世紀になってプロイセン軍は要塞を陥落させるべく、要塞に大砲を雨あられと浴びせます。
しかし要塞を守っていたバイエルン軍には、下界のプロイセン軍の陣地は丸見えです。
正確な砲撃で反撃すると、さしものプロイセン軍も攻めあぐねて、翌日、講和条約を結びます。
これが地元民には大きな誇りで、
「ハイデルベルクの城は陥落したが、ヴュルツブルクは不落だよ。」
と威張っています。
実際、その巨大な要塞の施設には圧倒されます。
是非、ご覧あれ。
生活と物価
ドイツの都市部は人口の流入が止まらず、家賃は上昇するだけではなく、住む場所を見つけることさえ難しくなってきています。
ところがヴュルツブルクは稀な例外。
人口は12万9000を超えることはなく、近年では少し人口が減っています。
お陰で市内の家賃はバイエルン州でも安めで、人口が倍以上あるアウグスブルクとほぼ同じです。
人口が少ない街に住むネックのひとつが、公共交通機関網。
通常、路面電車を走らせるには、人口が20万人以上必要です。
人口が20万以下では、赤字操業になります。
あるいはハイデルベルクのように、大量の観光客がやってくれば、話は別。
なのにヴュルツブルクは贅沢にも路面電車を走らせています!
お陰で車がなくても、(そこそこ)快適に生活できます!
ヴュルツブルク に留学
数は多くないですが、
「ヴュルツブルクに留学したい。」
というお問い合わせをちょくちょくいただきます。
残念ながら質のいい学校はこの街にはありません。
一方、ヴュルツブルク大学はバイエルン州で最古の大学で評判もいい大学です。
他の町でドイツ語を習ってから、こちらの大学に出願される形の留学をお勧めします。
注釈
*1 ドイツで人口が20万人を超えると大都市と呼ばれます。
*2 旧市街には史跡の横に新しい家屋が建っているのは、興ざめ。
*3 お相手は16歳にもなっていない少女。流石、女好きの王様、バルバロッサ。