今回紹介する ヴァイセンブルク の街は正真正銘の
「ドイツの秘境 誰も知らない街」
です。
アウグスブルクに住むドイツ人に、
「ヴァイセンブルク知ってる?」
と聞いてみましたが、皆、
「知らない。」
という完全な知名度のなさ。
同じ州の街で、距離は100Kmも離れていないのに。
日本の皆さんもきっとご存じないと思います。
そこで今回はヴァイセンブルクがどんな街なのか、紹介してみたいと思います。
目次
街の紹介 ヴァイセンブルク
まずは街の紹介から。
正式名称は
“Weißenburg i.Bay.”
です。
i.Bay.は in Bayern(バイエルン州の)の短縮形。
全部翻訳すると、
「バイエルン州のヴァイセンブルク」
という意味です。
人口は1万8000人。
と~っても小さい町ですが、
「ブルク」
という名前が示す通り城塞都市です。
というのもヴァイセンブルクの周辺には、敵の侵入を阻む大きな河川がないんです。
あるのは小川だけ。
そこで集落を城壁で囲み、お堀を掘って、小川から運河で水を引いて、防衛線を築いていました。
その当時の防衛線が今日まで残っており、これがヴァイセンブルクの最大の見所です。
地勢
地勢上、ヴァイセンブルクは
“Mittel Franken”( 中部フランケン地方 )
にある街。
そう、バイエルン州のフランケン族が住む地域です。
ここから左(西)30kmほどの場所に、地場の貴族のお膝元であるエッテインゲンがある。
標高は420m。
付近一帯は、見渡す限り畑が広がっています。
街はライン河の支流に属する
“Schwäbische Rezat” / シュヴェービッシェ レツァート
の河畔にある。
シュヴェービッシェ レツァートの長さはわずか33kmだが、中部フランケン地方を縦に横断している。
その
「レツァート」
というドイツ語らしくない河の名前は、先住民のケルト語から派生したのが原因です。
街を取り囲む有名な水路は、この川から水をひいてます。(*1)
フォッサ カロリーナ運河
793年、フランケン王国の王様カール大帝が、
「ライン川とドナウ河を運河で結ぶべし。」
と工事を命令。
その際に選ばれたのが、ライン川末端の支流のシュヴェービッシェ レツァートです。
というのもドナウ河の支流である
”Altmühl”(アルトミュール河)
が、わずか1800mしか離れていない場所を流れていたからです。
こうして造られたのが
“Fossa Carolina”(フォッサ カロリーナ)
という運河です。
お陰で船荷を積んだまま、ライン河からドナウ河への移動が可能になりました。
行き方
行き方は簡単でした。
ヴァイセンブルクはアウグスブルクとニュルンベルクのちょうど中間あたりにあります。
アウグスブルクから北に87Km少々。
車で向かうと、南ドイツのシルクロード、今日の国道2号線をニュンベルクに向かって延々を走るだけ。
国道なのに、制限速度は高速道路並みの120Kmh。
と~っても快適。
道端で(春先には)農家がさくらんぼを売ってたりして、とってものどか~。
日曜日なら渋滞もなく、かっきり1時間で到着できる。
電車で向かっても、同じ時間で行けます。
ミュンヘンから電車で向かうと、一度ニュルンベルクまで北に上り、南にあるヴァイセンブルクまで下るので2時間かかります。
でも中央駅は旧市街から目と鼻の先。
街の歴史
折角なので、街の歴史も見ておきましょう。
住民は、
と主張しています。
確かに最盛期には浴場まで建設されて、2500人の兵隊とその家族が住んでいた、大きな駐屯地でした。
3世紀になるとゲルマン4大民族のアレマーネンが、度々襲撃をしてきます。
ローマ兵は
「多勢に無勢」
とこの要塞を放棄、町の歴史は唐突に終焉を迎えます。
その後、6世紀頃にかっての駐屯地から離れた場所に小さな集落が築かれたのが、ヴァイセンブルクの本当の起源です。
Limes 世界遺産登録
そのローマ帝国の全盛期、北はボン、東はレーゲンスブルクまでの広大な地域はローマ帝国の植民地
”Raetia”
の一部でした。
その植民地を蛮族の侵入から守るために、植民地の境界線に沿って防衛線が築かれました。
言うなれば、ローマ帝国の万里の長城です。
もっともこの城壁は万里の長城のような立派な石造りではなく、大半は丸太を地中に打ち込んだだけの簡単なもの。
ただ城壁の要所には、石づくりの立派な要塞を建設。
そのローマ帝国時代の防衛線の跡は今日でも、保存されて残っています。
これをドイツでは
“Limes”(リーメス)
と呼びます。
ヴァイセンブルクから北にわずか数キロの地点を、リーメスが東西に走っていました。
そのリーメスが、コロナ禍の2021年に世界遺産に指名されました。
カール大帝
7世紀に、現在のヴァイセンブルクの街に宮廷が建設されたと想定されています。
フランケン帝国の前身になる、フランケン族のカロリンガー朝の宮廷です。
その後、カール大帝がフランケン帝国を築き、ドイツ人で初の皇帝となります。
住民は、
と言い張っています。(*2)
上述のフォッサ カロリーナ運河の建設時、カール大帝がヴァイセンブルクに住んでいた(かもしれない)との主張です。
何しろ8世紀の出来事なので、証拠はありません。
名前の由来
街に関する最古の記述は867年の書簡で、
”Uuizinburc”
と書かれています。
これがそのまんま、
“weißer Brug”(白い城塞)
という意味です。
きっと姫路城みたいな白い城があったんですね。
以来、街の印には、まさにその白い城塞が描かれています。
城壁の建設
1028年、ヴァイセンブルクの街は、フランケン族の貴族であるザイラー家に売却されます。
その後、すぐに神聖ローマ帝国の皇帝を出す、シュタウファー家の支配下に収まります。
ヴァイセンブルクの象徴になっている有名な城壁の建設は、この頃に始まります。
又、城壁に沿って30mの幅のお堀が掘られます。
すなわち!
今日見ることができる城壁は、なんとこの12~13世紀に建造されたものです!
もっとのドイツのどの町に、今日まで38もの塔が残っているだろう。
ヴァイセンブルク の悲運
ここからヴァイセンブルクの悲運が続きます。
1262年、隣町のパッペンハイム一家と後のバイエルン公爵一家の間で戦争になると、ヴァイセンブルクは城壁で守られていたのに、戦争で焼け野原になります。
それから30年かけて街は再建されます。
一番貧乏な帝国都市
1296年、ヴァイセンブルクは
“Reichsstadt”(帝国都市)
になりますが、フランケン(ニュルンベルク一体の地域を指す)で一番貧乏な帝国都市だった。
14世紀、町の破壊を後悔したのか、後を継いだバイエルン公爵が森を寄贈する。
この森がヴァイセンブルクの唯一の収入源となり、町はやっと貧困を抜け出すことになる。
30年戦争
この時期に教会の建設が始まるが、資金難のため、象徴である教会の塔は計画よりも短くせざるを得なかった。
ヴァイセンブルクは早い時期からプロテスタントを支持。
郊外には、
「ヴルツブルク要塞」
があった為、何度も戦場になります。
一番ひどい目にあったのは、Tilly将軍率いるカトリック軍による包囲。
抵抗むなしく陥落すると、街は略奪されてしまう。
30年戦争の終わりには29の建物、それも空き家しか残っていなかった。
ヴァイセンブルク 復興
それでも30年戦争後、ヴァイセンブルク復興が始まる。
当初はバイエルン公爵の配下になるが、新興勢力のプロイセンの支配下に移る。
19世紀、ナポレオンがドイツを占領する。
ナポレオンは味方についたバイエルン王国にヴァイセンブルクを与え、そのまま今日に至っている。
運命に恵まれなかった街だが、戦争遂行に重要な工場がなかったのが幸いした。
ニュルンベルクなどの大都市からも十分に離れていたので、第二次大戦中はほとんど爆撃に遭わなかった。
唯一、1945年2月に方向を間違えた一機のB-17が爆弾をこの町に投下、罪のない市民が殺害された。
が、街はほどんど無傷で残り、今日まで中世の町並みを堪能できることになった。
ヴァイセンブルク 観光 – 延々と続く城壁と塔が圧巻!
日本人はおろか、ドイツ人にも無名なヴァイセンブルクの町。
街もこの点を認識しており、観光客招致に力を入れている。
ちゃんと街の観光名所 & 史跡を説明したホームページを作っている。
お陰で事前調査がラクチンでした。
加えて駐車場。
市内には無料駐車場がたくさんあります。
入り口の看板に、
「2時間まで無料」
と書かれているが、週末は誰もチェックしていないので終日、無料で駐車できます。
最初に目に付いた無料駐車場に車を止めて歩き出すと、早くも城壁とこの街の特徴である塔のひとつが見えてきた。
五画塔 / Fünfeckturm
ヴァイセンブルクの城壁に組み込まれている塔は、ほぼすべて四角形です。
その中で唯一五角形をしているのが、角に建つこの塔。
五画塔 / Fünfeckturm と呼ばれている。
城壁の前のお堀は大方、埋め立てられますが、全部埋めるには至らず。
そこでかってのお堀は窪地になっており、リンゴ畑として活用されています。
エリンガー門 / Ellinger Tor
五画塔の先には、ヴァイセンブルクの数多い塔の中でもっとも美しい
“Ellinger Tor”(エリンガー門)
がある。
12世紀に街が城壁で覆われた際は、たんなる監視塔だった。
14世紀にはここに門が設けられ、17世紀になって上部が増築された。
外から見るといろんな装飾で綺麗なんですが、内側からみると、と~ってもシンプル。
帝国都市の象徴
エリンガー門には街の
“Wappen”(表象)
が刻まれている。
中央部にあるのは、帝国都市の象徴である鷲。
左にあるのがヴァイセンブルク表象です。
ここには双頭の鷲と白い城塞が描かれています。
ちなみに町の語源になった白い城塞、もう存在していません。
一体、何処にあったんでしょうね?
シャイブライン塔 / Scheibleinsturm
「ヴァイセンブルクの塔は、ほぼすべて四角形です。」
と書きましたが、もうひとつの例外が丸い形のシャイブライン塔 / Scheibleinsturm です。
おかしな名前は、この塔に住んでいたか、何か塔に関係のある人物の名前です。
町中を探しても、丸い塔はこれだけ。
ちなみにヴァイセンブルクの名前の起源になった白い城塞には、二本の丸い塔がありました。
ひょっとするとこの塔の先に、白い城塞があったのかもしれません。
というのもこの塔の内側は
“Am Hof” (宮廷)
と呼ばれる地区なんです。
ちなみにシャイブライン塔は、本来、もっと高かったんです。
以前は監獄としても利用されていました。
今日ではシャイブライン塔は短く切り詰められて、アパートとして廃物利用されています。
聖アンドレアス教会 / St. Andreas-Kirche
13世紀以降に出来たドイツの街なら、中心部に市場と教会があるもの。
ヴァイセンブルクはちと、異なります。
なにせ街の起源が7~8世紀ですので、
「適当に家屋を建てて、街が広がっていった。」
ので計画性がない。
お陰で街を代表する聖アンドレアス教会 / St. Andreas-Kircheは、真ん中ではなく、端っこにあります。
ちょうど五画塔の先です。
とりわけ美しいわけでなければ、とりわけ高い塔があるわけではないが、人口1万8000人の町にしては十分立派。
建設が始まったのは13世紀で、工事の中断の後、やっと14世紀に完成した。
城壁で町を囲んでから教会を建設したので、場所に困り胴体部分と尖塔が
「曲がって」
いるのが特徴。
ヴァイセンブルク ラテン語学校
聖アンドレアス教会の裏にあるのは、かってのラテン語学校です。
以前は礼拝堂が建っていたのですが、
「ルター派の神学家」
がヴァイセンブルクを訪問した際、
「正しいキリスト教を教える学校が要る。」
と解き、1580年に進学校として建設されました。
学校の前の銅像はきっとこの神学家ですね。
ローマ帝国資料館
ラテン語学校の隣は、ローマ帝国資料館。
実はラテン語学校、現在ではローマ帝国資料館(の一部)として利用されている。
よほど観光客が少ないのか、この日は週末なのに休館。
ちなみにホームページを見ると、
「2017年に3月15日に新規オープン!」
とあります。
5年以上、更新されてないっ!
これがドイツ人の仕事振りです。
宮廷 / am Hof
ラテン語学校は裏通りです。
メインストリートに戻らず、そのまま道に沿って歩いていくと、小奇麗な屋敷が幾つも連なって建っている。
ここがヴァイセンブルクの宮廷 / Am Hof と呼ばれる場所。
でも探しても、宮廷らしきものは何処にもない。
かってはここに
“Königshof”(宮殿)
が建っており、
「カール大帝がこの宮殿に住んでいた。」
との伝説があるので、この名前で呼ばれている。
宮廷はなくても、建物は綺麗。
青い家 / blaues Haus
聖アンドレアス教会から続くメイン通りに戻ると、ヴァイセンブルクの中心部はすぐ目と鼻の先。
旧市役所の手間に、青い家 / blaues Haus が建っている。
このと~っても長い家屋は、神聖ローマ帝国から任命された執行官の住居で、18世紀に建造されました。
もっとも本来の目的に使用されたのは短期間で、その後はお金持ちのアパートや工場として使われていました。
18世紀末から薬局が入っています。
大きな建物一部には、薬局博物館が入ってます。
- 営業時間 : 記載なし
- 入場料 : 大人3ユーロ
ヴァイセンブルク 旧市庁舎
青い色から先が、旧市街の中心部です。
ここにヴァイセンブルク旧市庁舎 / altes Rathaus が建っている。
この石造りの見事な建物は、ヴァイセンブルクがどん底を抜け出した15世紀に建造されました。
現在はレストランが入っています。
これが結構な人気で、昼間になると満席。
おいしいのかしらん?
それとも他に店がない?
旧市庁舎 側面
市庁舎というと、街を象徴する建造物。
なのに日本で市役所は監獄のような建造物。
ドイツでは想像力をこらして、ふたつとない立派な建物になっています。
正面もいいですが、ヴァイセンブルクの市庁舎は側面から見ても綺麗。
観光客誘致の一環で、市は大金を投じて市役所横の駐車場を歩行者天国に改造しています。
お陰で右を向いても、左を向いても、綺麗な景観を堪能することができます。
病院塔 / “Spitaltor”
市庁舎側面の広場のすぐ先に、かっての見張り塔が建っている。
そう、かってはここが町の境界だったんです。
なんという小さな街!!
その後、町の人口が増えたので城壁を取り壊し、お堀を埋めて、15世紀に教会と病院が建設されました。
新しい城壁は、およそ200mほど後方に作り直されました。
ヴァイセンブルク入り口だった塔だけは撤去されないで、病院塔 /”Spitaltor”と呼ばれて教会の尖塔の役割も果たしている。
この塔の入り口には、ちゃんと双頭の鷲の紋章がかかっている。(*3)
木材市場 / Holzmarkt
市役所まで戻ってこよう。
市役所の前は木材市場 / Holzmarkt と呼ばれている。
別名ルイポルト通り。
言うまでもなく、建築用、あるいは暖房用の木材が売買された場所。
ここがヴァイセンブルクの目抜き通りなので、綺麗な建物が多く建っている。
金のライオン軒 / Zum goldenen Löwen
木材市場でまず最初に目を引くのは、金のライオン軒 / Zum goldenen Löwen です。
この屋敷が建造されたのは1558年。
1774年茶色のビール/ Braunesbiere を鋳造する許可を得た、ヴァイセンブルクでもっとも古いビールの鋳造所だ(った)。
ビールの製造が工業化されると大きな工場に太刀打ちできなくなり、1979年に廃業。
今は金のライオン軒というカフェ & レストラン & 居酒屋。
朝一番からオープンしているので、地元の人は朝飯を食べにいってました。
看板になっているビールをなめているライオンがかわいいので、お見逃しなく。
カルメリター教会 文化会館 / “Kulturzentrum Karmeliterkirche”
木材広場にも立派な教会がある。
と思ったら、カルメリター教会 文化会館 / “Kulturzentrum Karmeliterkirche”とある。
意味不明。
あとで調べてみると、かってのカルメリーテン派の修道院。
宗教改革で町に接収され、今では文化会館として使われています。
皇帝 ルートビヒ バイエルン / Kaiser Ludwig der Bayer
通りの終わりには噴水があり、
「ローマ兵?」
と思われる銅像がある。
ローマ兵ではなくて、ヴァイセンブルクに森を寄贈したバイエルン公爵、”Kaiser Ludwig der Bayer”の彫刻だ。
ヴュルツブルク要塞
町の向かいにある小高い丘に、大きな屋根が見えます。
これはヴュルツブルク要塞です。
オリジナルは11世紀に建造された修道院。
宗教改革の波がこの街にやってくると、カトリック教会などはタブー。
修道院は接収されて、ヴァイセンブルクのお役所になりました。
その後、辺境伯がヴァイセンブルクの防御のために16世紀に役所を壊して、要塞を築かせました。
日本の五稜郭のように五角形になっているそうです。
一番の自慢は山の上に掘られた井戸。
敵に包囲されたら飲み水がなくなるので、水脈を確保するため、直径2.5mの井戸を106mも掘ったそうです。
手作業で。凄いですね。
残念ながら今回は時間がなくて、見れなかったので次回のお楽しみ。
倉庫 / Schranne
バイエルン公爵の銅像の近くに、”Schranne”(倉庫)という立派な建物が建っている。
「倉庫なのに、何でこんなに立派な塔があるの?」
調べてみると、この建物はかってはカトリック教会だった。
ヴァイセンブルクの住民がカトリック教に愛想を尽かしてプロテスタントに改修すると、カトリック教会は倉庫に改造された。
19世紀になると、消防の詰め所として利用されるため、監視用の塔が建てられた。
ヴァイセンブルク 城壁
倉庫を後にしてそのまま直進すると、ヴァイセンブルク城壁に辿り着けます。(*4)
正式名称は、”Schießgrabenmauer”と言います。
翻訳すると
「射撃用 お掘りの壁」。
実に1879年まで、この監視塔からお堀に侵入した敵を想定して、射撃練習を行っていたんです。
「ヴァイセンブルクには38の塔が現存している。」
とは読んでいたが、これを見て始めて納得。
見渡す限り城壁と監視塔が繋がってます。
流石、城壁で有名な街だけのことはあります。
ゼーヴァイヤー城壁 / Seeweihermauer
城壁沿いに歩いていくと、”Seeweiher”が出現する。
ドイツ語の”See”は湖。
“Weiher”は人口の池を指するので、人口の湖という意味です。
この人口の湖にある城壁を、ゼーヴァイヤー城壁 / Seeweihermauer と呼ぶわけです。
ここがヴァイセンブルクで一番綺麗な場所。
やはり城壁にはお堀が似合う!
川面に写った城壁が綺麗で、しばし見惚れてしまいました。
所々に塔や城壁があり、今日では、アパートや物置として利用されています。
城壁の内側
ヴァイセンブルク城壁の外の光景はわかったから、城壁の内側はどんなの?
って気になる事と思います。
こんな感じです。車が止まっていなければ、中世の姿そのまま。
大きく変えなくても映画のセットで使えそう、、。
角を曲がって新しい通りに入ると、古い家屋が、ここに、そこに建っているので、彷徨い歩いてしまいます。
ヴァイセンブルク 城塞 / Kastell Weißenburg
ヴァイセンブルクに電車で行かれる方は、すぐに旧市街地に向かわないで、逆方向に歩いてみよう。
というのも、駅からわずか120m離れた場所にユネスコから世界遺産に指定されているヴァイセンブルク城塞 / Kastell Weißenburg があるからだ。
ローマ兵が築いた温泉の跡も、ここにあります。
見つかったのは1868年に、まさに駅の建設工事にて。
その後の発掘調査で紀元1世紀に建設されたと推測されている。
地中に埋まっているローマ兵の駐屯地跡だけでは見栄えが悪いので、90年代に、
「こんな形じゃなかったのか?」
と推測して、北門を再構築。
その後、専門家から
「全然違う!」
と、酷評を受けている。
しかし作り直す予算はなし。
レーゲンスブルクやトリアーの門をお手本にすればよかったのに、、。
まとめ – ヴァイセンブルク
自宅からヴァイセンブルク行くにはドナウヴェアトの先で国道2号線に乗り替えて、直進あるのみ。
なのにナビが、
「右に曲がれ。」
というので曲がったら、Pappenheim という町に到着。
最初の5分くらいは、
「ヴァイセンブルク到着!」
と勘違いして観光スタート!
「あれ、下調べした街と違うなあ。」
と、気づいたのは5分後。
車で行かれる方、絶対に直進してください。ナビが何を言っても。
城壁ファンにとっては、見所の多い街でとても気に入りました。
念願だった湖面に写る城壁も撮れたし。
見所は多いのですが、パン屋の品揃えが悲しい。
ドイツの街には珍しくケバップの店もない。
ヴァイセンブルクは人口2万人未満で観光客も滅多にこないとなると、週末に空いている店は少ない。
弁当を持ってくるか、来る途中、路肩で農家がサクランボを売ってるので、これを買ってもってきたほうがいいです。
観光時期
春の連休(復活祭)に再訪!
もう4月なのに、まだ木々は緑が欠け黒いまま。
フライングしてしまいました。
お天気も優れず、青空の代わりに薄い白い雲で覆われ、これでは写真は使えない、、。
観光はどんなに早くても、4月末。
それまではじっと我慢の子です。
注釈
*1
直接、ヴァイセンブルクには関係ないですが、街の南にはこれまたドイツ語らくしくない フォッサ カロリーナ / Fossa Carolina という川があります。
これは8世紀にライン川とドナウ川を結ぶ目的で掘られた人口の運河で、シュヴェービッシェ レツアートはフォッサ カロリーナ流れ込んでいます。
ここまで知っていれば、あなたはドイツ人より博識です。
*2
カール大帝とは8~9世紀のフランク帝国の王様で、欧州で初めて皇帝の称号を得た人物です。
皇帝になるとキリスト教を武力で広めることに使命を感じ、宗教戦争を開始します。
その槍玉、布教の目標になったのが、ライン河畔に住む蛮族のザクセン人。
ザクセン人はゲルマン民族の古代信仰に固執、キリスト教徒になる事を拒否したので、
「正しい信仰に導いてあげよう。」
と、12年も続く血なまぐさい戦争を行います。
最後はザクセンはカール大帝に敗れ、武力でキリスト教に改宗されます。
*3
この広場、写真中左側には(私が見つけることができた)唯一の公衆トイレ(無償)があります。
ドイツではトイレは戦術的に重要なポイントなので、把握しておきましょう!!
*4
五画塔の近辺は城壁が撤去されており、残っているのは街の反対側です。