マインツ大学 はラインラントーファルツ州都にある大学です。
州都の大学だけあって、学生の数は3万人。
ドイツ全土で見ても、トップ20位の規模です。
外国人を見る度に
「ドイツ最古の大学だよ。」
と威張ってくるハイデルベルク大学には及ばないものの、1477年設立の歴史のある大学です。
目次
マインツ大学 紹介
大学の正式名称は
”Johannes Gutenberg-Universität Mainz”(ヨハネス グーテンベルク マインツ大学)
です。
昔は
「マインツ大学」
という名前だったんですが、90年代に町の有名人の名前を関する慣習が流行。
「マインツ生まれの有名人と言えば、活版印刷で有名なヨハネス グーテンベルクをおいて他にない!」
ということで、こんな面倒な名前になりました。
複雑な名前を付けたのはいいんですが、長いのでフルネームで呼ぶ人は居ません。
敢えて言えば、外国人だけ。
そこでドイツ人は
”JGU”
と呼んでいます。
近郊のフランクフルト大学、
それにダルムシュタットの工科大学と共に
“Rhein-Mein-Universitäten”(ライン マイン大学連盟)
を組んで研究を一緒に行ったり、学部をひとつの統一するなどしています。
マインツ大学 創設史
マインツ大学創設の歴史は1460年代にマインツの選帝侯である大司教が、大学の創設をローマ教皇に上申したのがきっかけです。
これが承認されたのが1476年。
大学が創設されたのは日本で
「応仁の乱」
があった1477年。
神学部、法律学部、哲学部の他に医学部も創設された先進的な大学でした。
当時の医学を先進的と呼べるなら。
しかしマインツ大学の台所事情は火の車。
後を継いだ選帝侯が町にあった修道院を接収して、その建物と富をマインツ大学に与えたことで、やっと運営が軌道にのります。
大学閉鎖と復活
マインツはフランスと距離が近かったので、フランス革命がマインツに飛び火。
封建主義的な主君を追い出し
「マインツ共和国」
の設立を宣言します。
これが見事な
「三日天下」
で終わり、共和国軍はプロイセン軍にこてんぱにやっつけられてしまいます。
何はともあれ、平和が復活。
大学の講義も復活したんですが、1798年、今度はナポレオンがやってきて町を占領。
大学は閉鎖されます。
今のマインツ大学は第二次大戦後に復活しました。
この為、
「大学創設は1477年説」
には無理がありますが、そこは大目にみてあげてください。
町の紹介
折角なので、マインツがどんな町なのか紹介しておきます。
人口は22万人+。
フライブルクの人口が23万人なので、ほぼ同じ規模。
冒頭で説明した通り
“Rheinland-Pfalz”(ラインラントーファルツ州)
の州都。
ザールランド州と共に、ドイツの一番西にある州です。
ちょうどライン川が大きく左にカーブしている箇所に築かれました。
マインツの先は日本でも有名なライン川下りの観光地。
すなわち!
マインツに留学すれば、ライン下りから逃れることはできません。
行き方
マインツ大学に留学するとフライブルクのような
「空港から電車で延々2時間の旅」
を節約できます。
なにせあのフランクフルト空港はマインツから
「西に15Km」
の距離にあるからです。
これは直線距離で車で行くとほぼ倍の距離ですが、ほぼ
「マインツ空港」
です。
フランクフルト空港で近距離電車”S-8″に乗れば、30分でマインツの中央駅まで行けます。
マインツの歴史
簡単にマインツの歴史を紹介しておきます。
ドイツ人の先住民であるケルト人を追い出して、この地にローマ帝国が駐屯地を築いたのが町の始まりです。
駐屯地ができると最初に物売りが、それから手工業者が住み始め次第に町の様相を呈していきます。
この駐屯地のある地域をローマ人が
“Mogontiacum”
と呼んだのが、町の名前の起源でもあります。
マインツの発展
5世紀初頭、日本の教科書にも載っている
「ゲルマン民族の大移動」
で蛮族が襲来、町は略奪されてマインツからローマ人は駆逐されます。
最終的にはフランケン族がこの交易に重要な町を掌握。
8世紀、カトリック教会がこの地を蛮族(ザクセン)をキリスト教に改宗させる拠点としたため、政治的な意味が上昇。
大司教様こそ住んではいませんでしたが、カトリック教会の大事な拠点として、その権力を象徴する
「マインツドーム」
が建設されます。
神聖ローマ帝国時代の初期にはマインツで国会が開かれるほど、政治的な重要性も増してきました。
町は一時期、自由都市にもなりましたが、またカトリック大司教の支配下に戻り30年戦争を迎えます。
カトリック教会支配の終焉
カトリック教会の支配下にあるマインツは、スウエーデン軍の恰好の攻撃目標。
町は包囲の末、降伏したので略奪の憂き目に遭わず。
30年戦争後、またカトリック大司祭の支配下に戻りますが、その終焉が思うわぬ方向からやってきます。
そう、フランス革命です。
革命軍はマインツを占領して
「マインツ共和国」
を宣言。
カトリック大司祭の支配はあっけなく終焉します。
マインツ共和国は3か月後にはプロイセン軍により殲滅されますが、プロテスタントのプロイセンがカトリック大司教の復帰をゆる筈もなし。
その後、ナポレオンによりマインツは占領され
「フランス領」
となります。
ヘッセン大伯爵領
ナポレオンの没落後、勢力を増してきたのがヘッセン大伯爵領。
マインツは大伯爵領の
「地方都市」
になり下がり、政治的な意味を完全に失います。
要害都市として中世の時代の城砦に囲まれていた為、人口の増加は不可能。
ちょうどローテンブルクのような運命をたどっていました。
マインツ復活
マインツが復活する原因になったのは敗戦です。
第一次大戦の敗戦後、要害都市はお役目を終え城壁を撤廃。
フランス占領下で一気に人口が増え
「黄金の20年代」
を謳歌します。
ドイツ復活により黄金時代はあっけなく終わるかに見えましたが、第二次世界大戦までに人口は倍増。
戦争中の爆撃で美しかった旧市街(北部)は、80%が破壊されます。
多分にライン河にかかる橋を目標にした爆撃のとばっちりです。
でも旧市街南部はほぼ被害を受けず、貴重な建造物が残ることになりました。
観光名所
マインツ市内には観光名所が(意外と)たくさん。
市内各所にローマ帝国時代の遺跡が保存されてます。
要塞都市時代の見張り塔や城壁の一部、小山の上には昔のままの姿で城砦が。
かってのシナゴークの一部は世界遺産に指定されてます。
選帝侯だった大司教のお城や兵の宿舎も健在。
16世紀の大学校舎から見事なグーテンベルク博物館まで。
サマーコースの1ヶ月じゃ、全部見るのは不可能です。
マインツ大学 サマーコース 【学生寮手配有り】
マインツ大学は毎年8月に、4週間のサマーコースを開催しています。
「神学コース」
もありますが、当店で手配するのは
「語学コース」
だけですので、ご心配なく。
厳密に言うとマインツ大学のサマーコースは授業だけ。
ですが学生課で学生寮を予約できます。
これを自分で行う必要があるのがネックですが、当店で行います。
予約する部屋はシングルルーム & アパートタイプです。
すなわち!
部屋にWCとキッチンが付いてます。
マインツ大学 サマーコース 詳細
マインツ大学のサマーコースにはこれからドイツ語の学習を始める方も参加可能。
でも、その場合は英語で会話ができることが条件です。
学生寮は一ヶ月単位でしか予約できないので、8月1日~31日で部屋を取ります。
コースの前後、学生寮でゆっくりくつろいでください。
レベル |
初級(A1,A2)中級(B1,B2)、上級(C1) |
期間 |
2024年 8月5日~8月23日 |
授業時間 |
授業は9時~12時30分まで、(計60単位)。 |
クラス定員 |
記載なし |
申し込み期限 |
5月1日(定員になり次第締め切りとなります。) |
遠足 |
市内及び近郊都市 |
費用 |
19万6500円 |
費用に含まれるもの |
授業料、教材
課外プログラム(入場料、交通費を除く) 弊社の手配手数料 |
宿泊 |
宿泊費700ユーロ前後は、現地でのお支払いになります。
要保証金400ユーロ。 |
インターネット/Wifi |
大学構内ではWifiが使用できます。 |
参加条件 |
現役大学生。 |
必要書類 |
学生証の写真 |
その他 |
コース参加には、ドイツで有効な健康保険に加入されている事が条件です。 一ヶ月のドイツ留学保険はたったの37ユーロで加入できますので、加入されてから渡独してください。 |
お支払い |
お申し込み後、24時間以内に請求書を発行しますので、1週間以内にお支払いください。 |
キャンセル |
4月30日まで 2万円。 6月30日まで 11万円 以降 返金なし |
大学季節コース質問集
皆さん、初めてドイツに行かれるので、同じ疑問を抱えておられます。
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