今回紹介する ネルトリンゲン はロマンチック街道の創立メンバーです。
なのにイメージが弱いために、観光客の集客に苦労しています。
ミュンヘンと聞けば、誰でも市庁舎のイメージが頭に浮かびます。
ベルリンなら帝国議事堂 & 凱旋門のイメージが。
で、ネルトリンゲンのイメージは?
市庁舎どんな形だったか、覚えていますかぁ?
そこで今回は、
「これぞネルトリンゲン!」
という観光名所を探しに、足を運んでみました。
目次
街の紹介 – ネルトリンゲン
街の名前はドイツ語で、
“Nördlingen”
と表記します。
でもドイツ人に、
「ネルトリンゲン。」
と言っても、
「何だって?」
と言われて全く、通じません。
発音から言えば、
「ノォルトリンゲン」
に近いです。
そこでノォルトリンゲンと書くと今度は日本人に、
「何言ってるの?」
と通じない。
そこで今回は敢えて、ネルトリンゲンと書きます。
街はエガー川 / Eger の辺に築かれており、かってはこの川から取り込んだ水路がネルトリンゲンが囲んでいました。
人口はわずか2万人。
日本だったら、ただの過疎の村。
ドイツではロマンチック街道に載るほどの大出世。
地勢
ネルトリンゲンはバイエルン州のシュヴァーベン地方にあります。
そう、バイエルン州の西部です。
もっとピンポイント言えば、
“Donau-Ries”(ドナウリース県)
にあり、県庁所在地はドナウヴェアト。
そのシュヴァーベン地方には
“Schwäbische Alb”(シュバーベンのアルプス)
と呼ばれる高地があるんです。
一番標高の高い場所で1015mもあるので、立派な
「小アルプス」
です。
その
「シュバーベンのアルプス」
の端っこに、いきなり丸い形をした平地が出現します。
これを
“Ries”(リース平地)
と呼ぶんです。
それは私も不明です。
ドナウ川が流れているならまだわかりますが、ドナウリース県にはドナウ河は流れていません。
なのにドナウリース県と呼びます。
隕石のクレーターの上に作られた町?
山地の中にぽっかりと出現するリース平地。
おかしいですよね~。
普通なら山と谷があり、凸凹の地形になっている筈。
なのに見事な平地。
実はコレ、隕石が落ちて作った窪地なんです。
と考えたネルトリンゲンは、
というキャッチフレーズを考案。
たまたま町の形も丸いので、
「クレーターの跡に沿って、町が作られた?」
と、勝手に想像してくれることを折り込み済みです。
でも実際には、クレーターの直径は24kmもあります。
クレーターの上にあるのはネルトリンゲンの町だけじゃない。
エッテインゲンだって、
「隕石のクレーターの上に作られた町」
です。
すなわち!
ドナウリース県全体が隕石のクレーターの上にあります。
火山爆発の跡?
そもそも街がクレーターの上にあったと気づいたのは、20世紀になってから。
それまではお偉い学者さんが、
「火山爆発の跡である。」
と主張していました。
ところが!です。
休暇中の地質学者がネルトリンゲンの教会を見て、
「隕石の落下で作られる石が使われている!」
事を発見。
その後、
「発掘作業」
が始まり、1450万年前に直径1Kmもある隕石が落下したことが判明。
60年代には月面着陸を計画中のNASAの宇宙飛行士がネルトリンゲンを訪問、
「月面にある石の事前調査」
が行われました。
ネルトリンゲン 行き方
ネルトリンゲンは、バイエルン州の西(左)の端っこにある街。
北にディンケルスビュール、南にドナウヴェアトがあります。
最寄り空港は、ニュルンべルク空港。
ミュンヘンから行くなら北西に150km、電車でも車でも2時間程度の距離にあります。
アウグスブルクからだと国道25号をひたすら北上します。
2016年は国道が封鎖されており、えらい遠回りをさせられました。
2017年には全線で工事が終了、自宅から一時間で着いてしまいました。
電車で来た場合。
駅を背にして立つと、下で紹介するダニエルが
「12時の方向」
に見えます。
正しい出口に立っていれば。
あるいは駅から
「14時の方向」
に300m歩けば、下で紹介するダイニンガー塔にとたどり着きます。
町の歴史
ネルトリンゲンの属するドナウーリース県は、かってのローマ帝国の支配地域でした。
皆まで言えば、レーゲンスブルクを首都とする植民地
“Raetia”
の一部でした。
3世紀にはゲルマン民族のアレマーネンが襲来して、ローマ人を追い出してこの地方に定住します。
しかし!
アレマーネンが住んだのは、ネルトリンゲンの南のローマ人が築いた砦。
ネルトリンゲンへの入植が始まったのは、6~7世紀になってからです。
898年、カロリンガー朝廷の宮廷内の書簡にて町の名前が初めて登場しています。
当時は
„Nordilinga“
と呼ばれていました。
当時、集落はレーゲンスブルク大司教の支配下にあり、次第に有名な市場と成長していきます。
Reichsstadt / 帝国都市
13世紀始めに神聖ローマ帝国の皇帝、フリードリヒ2世から
“Reichsstadt”(帝国都市)
に格上げされます。
ネルトリンゲンにとって幸いしたのが、当時の主要な二つの交易ルート、
が交差する絶妙な場所にあったこと。
お陰で街は穀物、家畜、織物、皮、金属の交易の中心地として栄え始めます。
13世紀の書簡では、
「ネルトリンゲンの見本市」
として記載されるほど、交易ルート上の有名な市場として大いに栄えました。
その富を守るため、城壁とお堀が掘られて、城塞都市に成長します。
その後も人口が増加し続けたので、居城区が城壁の外にまで広がります。
このため14世紀になると、新しい城壁の建設が始まります。
これが今日でも残っている城壁です。
ネルトリンゲンの象徴である聖ゲオルグ教会の建設が始まったのも、この頃です。
ユダヤ人迫害と魔女裁判
街のあまり語られない暗い歴史が
- ユダヤ人の迫害
- 魔女裁判
です。
ネルトリンゲンでは12世紀、13世紀、14世紀、15世紀、そして16世紀と度々、ユダヤ人への迫害がおこっています。
迫害と言えばまだ聞こえがいいですが、迫害が起きる度にユダヤ人は一人残らず惨殺されています。
16世紀にはこれに魔女裁判が加わります。
本来であれば魔女裁判はカトリック教会の十八番。
ネルトリンゲンは公式にプロテスタントの街だったのに、権力者が権力を高めるためには宗派に関係なく残忍な方法を用いました。
街の向い側にある丘の上で、無実の35人が火あぶりの刑で処刑されています。
拷問中に死んだ人は含まれず。
頻繁に磔刑が行われた丘は、
“Galgenberg”(首吊りの丘)
という名前が付いたほど。
ネルトリンゲン 近郊の戦い
災いは17世紀にやってくる。
そう、30年戦争です。
プロテスタント派のネルトリンゲンは、カトリック連合軍に2週間に渡って包囲されます。
すると
「プロテスタントの同志を救え!」
と救済にやってきたプロテスタント軍との間で、30年戦争中もっとも大きな戦闘
「ネルトリンゲン近郊の戦い」
でが起きます。
勝ったのはカトリック軍。
スウエーデン軍(プロテスタント)は総司令官を失う大敗を喫し、スウエーデン軍は故国に撤退。
以後、プロテスタントを率いるのはフランス軍になります。
衰退
救援の望みが断たれた町は、カトリック軍に門戸を開くことを余儀なくされます。
ただしお金持ちのネルトリンゲンは高額の身代金をカトリック軍に支払い、略奪の災禍を逃れることができました。
それでも長く続いた包囲戦、その後のペストなどで町の人口は半減。
その後に発生したスペイン王位継承戦争でも、街は災禍に遭います。
度々の戦火で交易のルートはネルトリンゲンを迂回するルートに変更され、町は歴史の表舞台から姿を消します。
お陰で古い町並みや見事な城壁が今日まで残ることになりました。
第二次大戦では末期になって空爆に遭い、聖ゲオルグ教会は大きな被害を受けます。
古い家屋は奇跡的にわずかな被害で済み、現在ではネルトリンゲンの大事な観光資源になっています。
ネルトリンゲン 観光 – 骸骨屋敷のメッカ
日本では名古屋だろうが、大阪だろうが、それが東京でも同じような四角のビルが林立。
どこの町に行っても同じ光景。
味がない。
一方、ネルトリンゲンはエスリンゲンと並ぶ骸骨屋敷(*1)のメッカです。
同じ家屋はふたつとなく、どれも同時のマイスターの独創性の産物です。
エスリンゲンの家屋を見て、
「ええがや~。」
と思われた方には、ネルトリンゲンもきっと気にいると思います。
その中でも一番のお勧めは、皮なめし職人地区の見事な骸骨屋敷。
皮なめしには、水が大量に必要です。
そこで皮なめし職人地区はネルトリンゲンの北を流れるエガー河に近い、街の北側にあります。
「ロマンチック街道周遊バス」
で来ると、観光バスの停車場は街の南側。
2時間の停車時間で皮なめし職人地区も見るなら、北に向かってダッシュ!
駐車場
ネルトリンゲンは車でやってくる観光客に対して、城壁の外に数か所の
「無料駐車場」
を設けています。
その幾つかは、写真の通り無料トイレ付!(*2)
城壁内部の駐車場は住民用です。
観光客は城壁の外の駐車場を利用しよう。
外と言っても城壁に隣接されており、至極便利です。
“Nördligen”+ “Parkplatz”
でぐぐってください。
駐車場の場所が表示されます。
ネルトリンゲン 城壁
ネルトリンゲンの自慢の一つは城壁。
屋根つきの14世紀の城壁が、町を完全に囲む形で残っているのは、ドイツではここだけです。
おまけに偶然なのか、それも意図して作ったのか、街は見事な楕円形。
道に迷ったら、城壁に沿って歩いていれば、いずれは車を止めた場所に戻ってこれます。
ダイニンガー城門 / Deininger Tor
駐車場の脇にある階段を登って、観光スタート!
しばし歩いていくと城門の一つ、ダイニンガー城門 / Deininger Torが見えてきました。
この城門はネルトリンゲンの東にあり、16世紀初頭の建造。
かってはここから、アウグスブルクへ向かう交易路が伸びていました。
道理でここに着いたわけだ!
今ではこの交易路は国道25線になっていますが、ほぼ同じルートです。
30年戦争中、攻めてきたカトリック軍はダイニンガー城門の内部に侵入。
防御側によって塔に火が放たれ、カトリック軍を押し戻したという歴史のある塔だ。
折角なので、城壁から降りて城門をくぐって外から撮影。
言わずもがな、当時は門の前にお堀があったんですよ!
城壁から見た街並み
写真を撮るとまた城壁に戻り、しばらく歩いてみました。
ここからネルトリンゲンの綺麗な街並みと、有名な教会の尖塔が見えます!
もう辛抱溜まらん!
とここで城壁を取り、街中に突撃しました。
が、引き続き城門の紹介を続けます。
ライムリンガー城門 / Reimlinger Tor
ダイニンガー城門の南にあるのが、ライムリンガー城門 /”Reimlinger Tor”。
神聖ローマ帝国の鷲の紋章が目印です。
この城門はネルトリンゲン最古の塔。
裏から見ると飾りのない土塀のようです。
でも表から見ると、街を訪れる商人に町の豊かさを見せつけるように、装飾が施されています。
是非、外から眺めてみましょう。
ベルガー城門 / Berger Tor
ネルトリンゲンの西にあるのはベルガー城門 /”Berger Tor”。
内部には衛兵の宿舎も備えた大きな門。
14世紀の建造。
15世紀に改築されました。
ここからウルムに向かう交易路が伸びていました。
今では衛兵の詰め所はカフェに改造されており、やる気のなさそうな店員が店番してました。
城門から見える街
このベルガー城門の真正面に教会の尖塔があり、ネルトリンゲンの街並みが綺麗に撮れます。
車の有無を確認の上、お試しあれ!
獅子塔 / Löwenturm
ベルガー城門のすぐ先にあるのが獅子塔 / Löwenturm です。
建造されたのは16世紀。
馬のひづめの形をしているのが特徴。
それは押し寄せる敵に砲火を浴びせられるように、大砲を設置できるスペースを設けたから。
でも
「横向き」
に作ったら、敵のいい標的。
なので縦に作ったので、ひづめの形になってるわけです。
また、雨で火種が消えないように、屋根付きの塔が建設されました。
別名、火薬塔 / Pulverturm とも呼ばれています。
獅子塔は実は、ダブルパック。
後ろにも同じ形の塔があります。
この辺は地形上の弱点だったので、二台の大砲台を築いて防御を強化したようです。
子供の遊び場
かってはネルトリンゲンを守っていたお堀は埋められて、その場所に子供遊び場が設置されていました。
写真の両脇の城壁が見えますか?
城壁の間の間隔は15mほど。
かってはここに水が貯えられてしました。
ドイツではどこに行っても、お堀を埋めた場所には、リンゴの木が植えられています。
栽培が簡単なので、好んで植えられるようです。(*3)
バルデインガー城門 / Baldinger Tor
ネルトリンゲンの一番北にある城門が、このバルデインガー城門 /”Baldinger Tor”です。
城門らしくなく、ただの土塀のような門。
14世紀に建造されました。
30年戦争中にネルトリンゲンを包囲したワレンシュタイン将軍率いるカトリック軍の主要攻撃目標となり、こっぴどく痛められて1703年に崩壊。
数名、生き埋めになりました。
1705年に再建されましたが、再建されたのは下の部分だけなので、このような簡素な形になったそうです。
この塔からはフランケン(ニュルンベルク)行きの交易路が伸びていました。
このバルデインガー城門にちょくちょく大型トラックが突っ込み、
「ひっかかり」
止まっています。
この為、1年中、補修した跡が消えることはなし!
とんがり塔 / Spitzturm
城壁だけでは攻撃に耐えきれないので、敵を銃で射つことができる銃眼を備えた防衛塔が、城壁に幾つも組み込まれています。
その一つがこのとんがり塔。
バルデインガー城門から左手に、この塔が見えます。
城壁の中からでは全体像が見えないので、城壁沿いに歩いて全体像を写真に収めてきました!
ちょうど春先だったのでリンゴ畑は、満開でした。
下水路門 / Unterer Wasserturm
ネルトリンゲンの生命線であるエガー川。
水路で町の中に水をひいていました。
これを利用して町に侵入する敵を監視していたのが、下水路門と呼ばれる Unterrer Wasserturm です。
こちらは15世紀の建造。
雷が落ちて17世紀に再建されて、今の型になりました。
ネルトリンゲン 皮なめし職人地区 / Gerberviertel
では次に一番綺麗な観光名所、皮なめし職人地区 / Gerberviertel を紹介します。
その皮なめし職人地区には、かっての職人の家屋が建ち並んでいます。
その中でも一番のお気に入りがコレ。
上に行くほど家屋が斜めになっている。
シブイっ!
地下には皮なめしの材料が保管され、運河沿いの地上階では徒弟が皮を洗い、屋根裏部屋で皮を乾かしていました。
そして屋根裏部屋の下は居住部分。
今でも資料館ではなく、アパートとして使われています。
是非、中も見てみたいっ!
休暇用アパート
かっての皮なめし商の家屋は、産業の衰退により改装され、普通の民家になりました。
その一部は、観光客向けの休暇用アパートに改造されています。
新水車小屋 / Neumühle
皮なめし職人地区には絵になる風景が広がってます。
そのひとつが、今ではもう使われていない新水車小屋です。
場所は上述の下水路門の対面です。
エガー川から引いた水を利用して、ここで穀物を粉にしていたんです。
水車はネルトリンゲンの住人の主導で、新しく作り直されたのもの。
この為、新水車小屋と呼ばれています。
石の橋
ここに水路をまたぐ、小さな石の橋がかかっています。
30年戦争の終わりに作られたもので、今でも現役。
手作り感がとっても素敵。
町の博物館 / Stadtmuseum
皮なめし職人地区の入り口に、でかい建物。
なんだこれは?
後で調べると、町の博物館 / Stadtmuseum でした。
元は聖心病院 / Heilig-Geist-Spital 。
現在はネルトリンゲン歴史を紹介する博物館として利用されています。
発掘で見つかった貴重品も陳列されているそうです。
- 開館日 : 3月15日~11月6日
- 休館日 : 月曜日
- 入場料 : 4.5ユーロ
リース隕石跡博物館
町の博物館のさらに奥、城壁沿いにある納屋のような建物があります。
実はコレ、リース隕石博物館です。
正直に言うと、かなりショボイ。
小学生のグループが先生の引率でよく来ています。
興味のある方は、どうぞ。
- 開館日 : 4月9日~11月6日
- 休館日 : 月曜日
- 入場料 : 4.5ユーロ
骸骨屋敷 Winter’sches Haus
皮なめし商地区には見事に修復された、木枠で組まれた綺麗な骸骨屋敷が建ち並んでいる。
どれも見事なので、どれを紹介すればいいのか、迷います。
街の観光案内によると、
「ネルトリンゲンを代表する骸骨屋敷は、”Winter’sches Haus”です。」
と書かれている。
建造されたのは1697年。
入り口にラテン語で、
“Soli Deo Gloria”(神様のみが導き給う)
と刻まれているそうだ。
この皮なめし職人地区に似ている家屋があったので、
「これかな?」
と写真を撮ってきました。
自宅に帰ってチェックしてみると、違ってました、、。
それもそのはず。
このヴィンターシェス ハオスは全然、別の場所に建っている!
旧市街の南、聖ゲオルグ教会の南側の観光名所とは外れている場所。
ここにリンクを張っておくので、ネルトリンゲンに行かれる方はお忘れなく。
旧修道院 / Klösterle
この大きな建造物は旧修道院 / Klösterle 。
ネルトリンゲンの歴史を代表する建造物で、なんと13世紀に修道院として建造された。
その後教会になり、16世紀からは穀物倉庫として使用された。
ホテル & レストラン Klösterle
旧修道院の地上階はレストラン Klösterleが入っている。
日本語にすれば、修道院軒。
南側にあるレストランへの入り口には、この修道院を建てた人が働く姿が石に刻まれている。
現在は、隣に建つNHホテルが経営するレストランとして使用されている。
バルデインガー通り
旧修道院の横の細い道を歩いていくと、交差する通りがバルデインガー通り。
そう、上で紹介したバルデインガー城門から続く道だ。
バルデインガー通りにには、
「あ、綺麗。」
という建物がここに、あそこに、あ、その先にも!
ひとつその代表的なものが、この黄色の家。
“Seiler-Waren”
とあるので(毛)糸屋ですね。
と思えば、
“Allgäuer Käse”(アルゴイ産チーズ)なんて書いているので、いろんな物を扱っていたようです。
もっとも看板は過去の遺産。
今は、洋服の直し屋や、足のマッサージ屋などが地上階に入ってます。
コロナ禍を生き延びたかな?
鍋市場 / Hafenmarkt
旧修道院の近くにあるのが、鍋市場 / Hafenmarkt だ。
「なんで鍋が Hafen なの?」
と思ったあなたは好奇心旺盛。
私も思いました。
調べてみると
“Hafe”
は古典ドイツ語で鍋という意味。
ネルトリンゲンの鍋屋 / Häfner や、町の外からやってきた商人がここで鍋を売ってました。
市場といっても、そこはたんなる芝生と対面には傾いた(斜めの)趣のある屋敷が並んでいます。
ここは午後になると日陰になるので、午前中に写真を撮っておこう!
鍋市場の骸骨屋敷
でも鍋市場一番見所は、右手にある立派な骸骨屋敷。
木枠が波打ってます。
実はコレ、建設の際の手抜きが原因なんです。
木材を十分に乾燥させることなく、家屋の建築に使用。
数年で木材が乾いて、
「ぐにゃぐにゃに曲がった骸骨屋敷」
ができあがったわけです。
それとも故意だったのか?
ネルトリンゲン 市役所
「これだけ綺麗な建物が並んでいるんだから、ネルトリンゲンの市役所もさぞかし、、。」
と期待していると、ちょっと肩透かしかも?
いや、ちゃんと立派なお屋敷なんですけどね、
どうも市役所っぽくない、、。
それもそのはず、ネルトリンゲンの市役所は、最初から市役所として建設されたものではありません。
現在の市役所はこの地方の豪族、エッテンゲン公爵が住む屋敷だった。
通称、石の家 / Steinhaus。
14世紀初頭、公爵はこれをハイルブロンの修道院に売却します。
これを市が月賦で購入したもの。
なので立派なお屋敷ではありますが、豪華絢爛というわけではありません。
自由の階段 / Freitreppe
その名前がいい。
Freitreppe(自由の階段) って呼ばれています。
普通、自由の階段と言うと、右からでも左からでも登れる階段を指します。
17世紀初頭に増築されたこの階段(の下)は、牢屋としても使用されていたんです。
ネルトリンゲンでは別の意味があったようですね。
Nun sind Unser Zwey.
牢屋の入り口で道化が、
“Nun sind Unser Zwey.”
と笑っています。
町の法律を破った人間はここで罰せられ、見せしめにされたそうだ。
すなわちここで見せしめになることで、
「俺とお前は一緒だよ。」
と、道化師が笑っているわけだ。
市庁舎の階段
「写真を撮ってくれ。」
と、ドイツ人の年金生活者(*4)に頼まれました。
話を聞けば、
「〇十年前に、ここで結婚式を挙げた。」
そうです。
ネルトリンゲンで結婚式を挙げると、この市庁舎の階段で記念写真を撮るのがしきたり。
なので、そのリバイバルだそうだ。
カップルでお越しの方は記念写真をお忘れなく。
舞踏館 / Tanzhaus
市庁舎の横にある立派な建物は、15世紀半ばに建造された舞踏館 /”Tanzhaus”だ。
かって見本市がネルトリンゲンで開催されると、ここで商人が品物を展示するメッセ会場として使用された。
見本市がないときは市民の祝い事、宴会に使用されたという。
もっとも上述のドイツ人曰く、
「俺が子供の頃は、学校の校舎の一部として使われていた。」
そうです。
今では市役所 & 質屋(*5)として使われています。
そう。
市役所の機能を分散して、ふたつの建物に入っているそうです。
聖ゲオルグ教会 / St. Georg
ネルトリンゲンで二番目に有名な建物が、この聖ゲオルグ教会 / St. Georg です。
帝国都市に昇進した町の評議会は1427年、ネルトリンゲンを代表する教会の建設を決定。
教会自体は、24年の比較的短い建造期間で完成。
宗教改革の波がこの町にやってくると、プロテスタント教会に改修。
今日でもプロテスタント教会のまま。
戦争が終わる一か月前、空襲に遭い有名なオルガンが破壊されましたが、教会自体は破壊を免れました。
ダニエル / Daniel
ネルトリンゲンを代表する建造物は、
「ダニエル」
の愛称で呼ばれる高さ90mの塔。(*6)
車でネルトリンゲンに向かっていると、彼方から最初に見えてくるのがこのダニエルです。
建造されたのは15世紀。
もっともお金がなくなり、塔の天辺は未完成で終わっていた。
ここに雷が落ちたことを
「お告げ」
と勘違いした住人は、16世紀に塔を完成させます。
中世の頃は、押し寄せてくる敵軍を早期発見するため昼夜、2名の見張りが陣取っていた。
夜になると暗闇に向かって、
“So, G’sell, so!”
と叫ぶのが習慣になっていた。
街が救われた伝説
あのローテンブルクだけでなく、
何処の町にも、
「町が救われた。」
という伝説があります。
1440年、金に困ったエッテインゲン公爵はお金持ちのネルトリンゲンの占領を計画。
見張りに賄賂を払って、城門を空けたままにさせていた。
たまたまビールを買う為に城門の前を通りかかった皮なめし商の奥さんが、空いたままの城門に体を摺り寄せ
「ブヒブヒ」
言っている逃亡した豚を発見。
その豚に偶然、
“So, G’sell, so!”(仲間の所に帰りな!)
と叫んだのがきっかけで、(賄賂をもらっていない)見張りが空いた城門に気づき、ネルトリンゲンが救われたという伝説。
展望台からの眺め
「嘘!」
のように高いダニエル、ネルトリンゲン観光のハイライトなので、歩き疲れる前に、挑戦しよう!
入場料を取るおじさんが一人で頂上で、頑張っている。
よく上ったね!
おじさんが3時間おきに
「上り直し」
をしなくてもいいように、トイレもあります。
入場料は3.50ユーロ。
ちょっと高い気もするが、滅多に来ないから思い出に登ってみよう。
途中でひざが笑い出しますが、天辺からの見晴らしは絶景。
かって隕石が落ちて出来たクレーターが、ここからよく見渡せます。
眼下の家屋がおもちゃのように見えます。
兵士の噴水 / Krigerbrunnen
ダニエルから降りたら、聖ゲオルグ教会 の
「お尻」
の先にある”Kriegerbrunnen”(兵士の噴水)も見ていこう。
ネルトリンゲン市民に飲み水を提供する目的で、すでに14世紀の頃からここに井戸が掘られていた。
20世紀、プロイセンがフランスに戦争で勝った記念に新しく作り直されました。
旧穀物倉庫 / Alte Schranne
中心部から少し離れた場所に建っている真っ赤な建物は、旧穀物倉庫 /”Alte Schranne”。
ネルトリンゲンは交易で豊かになった街ですが、ここで穀物市が開かれていました。
品物を悪天候から守るため、すでに15世紀にはここに穀物倉庫が建っていました。
1600年に町長がもっと大きくて立派な倉庫の建設を決定、1602年に完成。
以後は穀物倉庫の中で商品の取引が行われることに。
現在は地上階で人気のレストランが入っており、いつも地元客で賑わっている。
市営倉庫 / Hallegebäude
聖ゲオルグ教会の近くに、これまた大きな黄色の建物が建っている。
これはかっての市営倉庫 / Hallegebäude と呼ばれる建造物。
塩、穀物やワインの貯蔵に使われた。
16世紀にそれまであった古い家屋を取り壊して新築されたので、新しい建築 / neuer Bau とも呼ばれる。
この周辺はかってのネルトリンゲンのワイン市場。(*7)
ネルトリンゲン 観光バスの停車場
ロマンチック街道を巡るバスは、ダニエルの
「裏側」
にある、この3つの綺麗な家屋の前にあるバス停に止まります。
バスは午後にやってきて、2時間くらい停車しています。
ここは夕方になるとダニエルに日が当たり、
「ああ、綺麗!」
と思わず、叫んでしまう名所。
バスがいない間に撮影しておこう!
あるいはバスがいなくなってからが、絶好のシャッターチャンス!
まとめ
「これぞネルトリンゲン!」
と言えば?
まず最初に見えてくるし、一番印象に残りました。
その高さ90mと言えば、ミュンヘンの老いぼれペーターと同じです。
ランズフートの聖マルテインの130mにはかないませんが、それでも何処からでも見える石作りの尖塔は圧巻。
そしてダニエルに負けない観光名所は、その数と奇抜なデザインの家屋屋敷の数々。
ここで紹介できていない素晴らしい家屋が、幾つもあります。
観光に行かれる方は、まだ見たことのない綺麗な家屋に出会うこと間違いなし。
行く前にネットで、
「ネルトリンゲン」
とぐぐって出てくるのは、いまひとつな写真ばかり。
「行ってもガッカリかな?」
と期待していなかったので、それが返って良かったのかもしれません。
* 注釈 – ネルトリンゲン
1 日本では木組み屋敷とも言うらしい。
2 ネルトリンゲンの西の門、Baldinger Torの外にある駐車場はでかい!そしてトイレ付。
3 秋になるとびっしとリンゴの実をつけています。でも収穫されず、地面に落ちて朽ちるのに任せています。かっては家畜用の餌だったそうです。
4 ドイツ語で”Rentner”。毎日、好きな物を食べて楽な生活をしているので、大きなお腹が目印。
5 ドイツでは質屋は自治体が経営しており、安心明朗会計です。
6 細かいことが無視できない人、”Kleinkrämer”は、89.9mと言います。
7 この近辺に住む女性とこの会場の管理人(男性)まで、魔女との疑惑をかけられて、町の向いにある小山の上で無残に殺害されたという暗い歴史もある。