バンベルク が綺麗な街とは知っていても、おいそれと行くわけにいかない。
この街は交通の便の悪いローテンブルクよりも、さらに電車で1時間の移動が必要です。
「行ったけど、天気がイマイチだった。」
なんて悲劇にならないように、じっと天候の回復を待っているともう9月!
ドイツは北にあるので9月になるとお日様が低く、建物に影がかかり、写真撮影は9月初旬までが限界。
なのに週末の天気はまた悪そう、、。
そこで仕事をお休みにして、平日にバンベルクまで撮影に行ってきました!(帰ってから残業は必至。😢)
目次
街の紹介 バンベルク
バンベルクの街はドイツ観光の目玉。
ドイツには52の都市に世界遺産がある。
日本の25件と比べたら、文字通り倍。
その中でもバイエルン州の北部にある人口7万人ほどのこの街は別格だ。
ドイツに現存する”Altstadt”(旧市街)は最も大きな規模を誇っており、
「丸ごと」
世界遺産に指名されている。
旧市街の
「有名な観光名所だけ」
を見て回るだけでも半日かかる。
時間はたっぷり余裕を見ておこう。
地勢
バンベルクのある土地は
“Oberfranken”(オーバーフランケン)
と呼ばれる。
ドイツ語でやっかいな表現の
“Ober”(オ-バー)。
これが地名に充てられると、河の上流域を示す。
この場合は
「マイン川の上流域」
という意味だ。
フランケン族の住む地域という意味です。
すなわち!
バイエルン州なのに、バイエルン人ではなくフランケン族の住むマイン川の上流域という意味です。
オーバーフランケン(県)の県庁所在地はバイロイト。
片田舎なのでカトリック信仰が強く、住人の46%がガチのカトリック。
プロテスタントはたったの16%。
早い話がかなり保守的。
土曜日は16時になると店舗は閉店。
日曜日は家族で教会に行き、賛美歌を歌う。
女性は結婚したら働かず、料理と子守り。
という世界です。
どうやって行くの?
ミュンヘンからバンベルクまでドイツの新幹線、ICEで2時間ほど。
アウグスブルクからだとちょっと便が悪く、2時間半~3時間半。
車で行くと優に3時間。
渋滞があると4時間も稀ではない。
飛行機で行くなら、ニュルンベルク空港が最寄空港になる。
ニュルンベルク中央駅からだと、ICEで30分程度。
もうひとつの世界遺産都市、レーゲンスブルクを観光してから向かうと、ニュルンベルクで乗り換えが必要で、電車で2時間です。
早い話、不便な場所にあります。
中央駅に着いたら
バンベルク中央駅は、世界遺産に指定されている旧市街から700mほど離れている。
西口出口から出たら正面に
“Luitportstraße” (ルイポルト通り)
という大き目の通りが、まっすぐ伸びてます。
この通りを500m直進すると、レグニッツ川に当たります。
川を渡ってからすぐに右折して200m歩くと、左手に旧市街の入り口となる近衛兵の宿舎が見えてきます。
ここからがバンベルク旧市街の始まりです。
歩くのが嫌な人は駅を背にして右手、通りを渡った場所にバス停があります。
ここから902番のバスに乗れば、旧市街にあるバス停に行けます。
と、思ってバスを待ってたんですが、10分待っても来ないので、私は待ちきれず、歩いていきました。
歩いても11~12分です。
街の歴史
現在のドームが建っている丘の上から、6世紀の居住跡が見つかっている。
718年の書簡で
「”Babenburg”に住む”Bilhildis”」
の存在が書かれているのが、バンベルクに関する最古の記述。
すでにこの頃からバーベンベルガー一家 / “Babenberger”が、この付近を統治していたことがわかる。
902年の書簡には、
「バーベンベルクの要塞」
が登場しており、この頃には現在のドームが建つ丘の上は要塞化されていたとわかる。
現在の町の名前はこの
「バーベンベルク」
がなまって
「バンベルク」
になったと考えられている
バンベルク バイエルン公爵領に
ところが903年、バーベンベルガー家はお隣の貴族と領土を争って戦い、お世継ぎは3人とも戦死する。
当時の慣習で領主を亡くしたバーベンベルガー領は、神聖ローマ帝国の支配下に移る。
973年、神聖ローマ帝国の皇帝オットー二世はそのバンベルク領をバイエルン公爵に寄贈した。
きっと何か裏の取引があったに違いない。
カトリック司教領 バンベルク / Erzbistum Bamberg
そのバイエルン公爵の息子がハインリヒ二世です。
ハインリヒ二世は東フランク帝国の王様に就任すると、さらなる権力の拡張を狙ってカトリック教会と同盟を組む。
こうして1007年、バンベルクは近隣の都市と共にカトリック司教領 /”Erzbistum Bamberg”となる。(*1)
カトリック司教国とは、司教様が王様のように支配する領土。
その首都はバンベルクに置かれた。
神様のような司教様の権力を誇示すべく、現在でも残っているドームの建設が始まる。
フス派戦争
15世紀、今日のチェコ領からキリスト教の改革派、フス派 /”Hussiten”が(*2)バンベルクに進撃してくる。
するとカトリック司教やお金持ちは、
「逃げるが勝ち!」
と一斉に逃げ出した。
これをみた職人は、
「今がチャンス!」
と市内を略奪しまくった。
略奪をするのはいつも敵軍とは限らない。
見るに見かねてブランデンブルク選帝侯(のちのプロイセン王国)が介入、チェコ軍と和平を結び街は身代金を払ったため、焼き払われる運命を逃れた。
30年戦争
フス派に続いたのが、ルターの宗教改革だ。
1555年のアウグスブルクの和議でプロテスタントも
「公認の宗教」
となった筈なのに、最大の災いはそのあとにやってくる。
そう欧州、とりわけドイツの都市を荒廃させた30年戦争の勃発だ。
バンベルクは
「ガチのカトリックの居城」
であった為、プロテスタント軍には目の上のたんこぶ。
スウエーデン軍が侵攻、バンベルクは大きな被害を受ける。
家屋の過半数は消滅して、残った家屋も被害を受けたため、住民の多くが逃げ出した。
最盛期
18世紀に領主に収まった司教が
「戦争はもうこりごり」
と科学・芸術・建築を奨励。
バンベルクは一気に荒廃の町から、煌びやかな町へと変化する。
バンベルク大学もこの時代に新設されて、まさに文明開化。
ナポレオンの登場まで、町は大いに栄えた。
バイエルン選帝侯領に
その栄華に終止符を打ったのがナポレオン。
ナポレオンに負けたプロイセンは、講和条約で領土の半分を手放す事で王家の存続を許された。
この講和条約でカトリック司教領は廃止される。
その領土と富は、ナポレオンに加担したバイエルン選帝侯に割譲されることになった。
以来バンベルクは今日まで、バイエルン州に属している。
第二次大戦は連合軍の爆撃機の到達距離外にあったので、終戦前までほどんど空爆を受けなかった。
お陰でかっての旧市街が今日まで残ることになった。
バンベルク 観光 – ユネスコも認めたドイツで一番美しい街
バンベルクはレグニッツ河畔に築かれた街です。
「レグニッツ河?聞いたこがない!」
と思った方、ご安心ください。
あなただけではありません。
ドイツ人でも知らない人が多いです。
レグニッツ河はマイン河の支流で、その長さは60Kmしかありません。
街は長い間カトリック司教都市であったので、歴史の流れ(領土争い、派遣争い)に巻き込まれることがなく、古い家屋や史跡が多く残ることになりました。
そして住人は古くなった家屋を取り壊すことなく、修復してその美しい街を保存してきました。
その甲斐あってユネスコは1993年、バンベルクの旧市街を世界遺産都市に指定しました。
一口に世界遺産と言っても、ヴュルツブルクの宮廷など、街の一部が世界遺産に指名されていることが多いです。
日本の世界遺産もこのタイプ。
でも旧市街が全部世界遺産に指名されることは滅多になく、まさにドイツ観光の宝物。
それも住人の努力の賜です。
観光名所は何処に?
バンベルクの旧市街地を縦断しているレグニッツ河は、街の手前で二股に分かれています。
観光名所 & 史跡の多くは、中州とレグニッツ河の左岸に集中しています。
時間がない方はレグニッツ河沿い+左岸だけ見ていけば、バンベルクの主要な観光名所ほぼ含まれています。
私は全部見て来たので、上記の順番に沿って観光名所から紹介していきます。
ではまずはレグニッツ河の中州の観光名所から。
“Grüner Markt”(緑市場)
レグニッツ河にかかる橋を渡ったその先は、バンベルクのショッピング街。
その中でもメインなのがこの
“Grüner Markt”(緑市場)
と呼ばれている通り。
多くの露店が季節の特産物を売ってます。
この通りに観光名所が多いので、中央駅から目指すのはこの緑市場です。
近衛兵の宿舎 / Hautptwache
旧市街の入り口に建っているは、18世紀に建造された近衛兵の宿舎 / Hauptwache だ。
バンベルクの王様である司教様が、自身の身の安全を守る近衛兵の立派な宿舎の建造を命令。
できたのがこの2階建てのこの立派な建物です。
マキシミリアン広場 / Maximiliansplatz
近衛兵の宿舎から旧市街の中心部に向かって30mほどあるくと、右手に広場が見えてくる。
これがマキシミリアン広場 /”Maximiliansplatz”。
地元民は短縮して”Maxplatz”という。
バンベルク旧市街で一番大きな広場で、新市役所が建っているのもここ。
新市役所
マキシミリアン広場に建っている新市役所。
18世紀にバロック式で建造された新市役所は、まるで宮殿のようです。
よくみると新市役所の両端、ちょっと作りが違いますよね。
実はここに新市役所が建つ前は、墓地と教会があったんです。
教会を取り壊した際、教会の表面を飾っていた
「壁石」
を新市役所に転用したんです。
この為、微妙に建造様式が異なります。
マキシミリアン噴水 / Maximiliansbrunnen
マキシミリアン広場の端っこにあるのは、マキシミリアン噴水 /”Maximiliansbrunnen”。
そう、改めて言うまでもなくバイエルンの王様だ。
その王様を囲んでいる4つの銅像は、バンベルク出身の有名人。
それぞれハインリヒ二世、フォン ルクセンブルク公爵岐妃、オットー一世(バンベルクの司教)、それにコンラート三世(神聖ローマ帝国皇帝)だ。
聖マルチン教会 / St. Martin
緑市場のほぼ真ん中に立派な聖マルチン教会 /”St. Martin”教会が建っている。
13世紀に建造された当時は修道院兼教会だったが、宗派が解散(それとも消滅?)したので、空き家になっていた。
16世紀になってバンベルク司教がこの教会を買い、イエズス派の教会になるべく、大きな改修工事が始まる。
工事を監督したのは司教様の宮殿を監督したのと同じ監督なので、作り方がそっくりだ。
現在はカトリック宗派の主要教会だ。
市民の憩いの場
この辺りには木々が日陰を提供してくれるので、ベンチが設置されています。
買い物で疲れた家族が、子供に(そして自分に)アイスを買って、一休みしている市民の憩いの場。
ネプチューン噴水
ここにある噴水がネプチューン噴水。
あまり見栄えのあるものではないので、写真は(撮ってきたけど)割愛。
してたんですが、隠すこともないと思い、今回、更新の際に上げました。
少し先にはバンベルクの住民に人気のカフェが立ち並んでいる。
この先が上述のレグニッツ河沿いの観光名所への入り口になります。
バンベルク 旧市庁舎
バンベルクの観光名所として最も有名なのは、レグニッツ河の橋の上に建つ旧市庁舎。
伝説では司教様は市役所を建てる土地を市民に売ることを拒否したため、市民はベニスのように河に杭を打ち込んで人工の中州を創設。
市役所をその上に建てたそうです。
建造されたのは15世紀。
壁画は18世紀になってから描かれた。
この写真は旧市役所の裏から撮ったもの。
正面から旧市役所を見る際に、壁画の真ん中あたり、下部を注視してください。
壁画に「ジョーク」が埋め込まれています。
ルートビヒ 陶器博物館 / Die Sammlung von Ludwig
旧市役所は現在、ルートビヒ夫妻(*3)が収集した陶器のコレクションの博物館になっています。
博物館の正式名称は、ルートビヒの収集物 / Die Sammlung von Ludwig。
それでは何が陳列されているのかわからないので、敢えてルートビヒの陶器博物館としました。
バンベルクの観光案内には、
「ヨーロッパで最大の数を誇る個人の陶器コレクション」
と書かれています。
陶器にご興味ある方はどうぞ。
開館時間 10時~16時30分 入場料6 ユーロ
下の橋 / untere Brücke
豪華絢爛な旧市役所に目を取られ、
「うっかり」
見逃すののが、レグニッツ河にかかっているもうひとつの橋。
観光客で賑わうのは”obere Brücke”(上の橋)。
その裏にあるのが、下の橋 /”untere Brücke”です。
ヘラーの家 / Heller Haus
下の端の袂にある青い家は、ヘラーの家 / Heller Haus と呼ばれています。
なんでもジョーゼフ ヘラー(*4)の生家なんだとか。
建造された当時はこんな装飾はなかったんですが、1730年頃にリノベーションされて、こんなに綺麗になりました。
と~っても綺麗なので、お見逃しなく。
クニグンデ フォン ルクセンブウルク / Kunigunde von Luxedmburg
下の橋の上に、クニグンデ フォン ルクセンブルク /”Kunigunde von Luxedmburg”の石像がある。
観光客はヘラーの家よりも、この像に興味がある様子。
バンベルクで女神のように称えられているこの女性は、バイエルン公爵で東フランク帝国の皇帝、ハインリ二世(*5)の后で王女様。
そもそも王女様は街とは何も関係がなかったが、ハンリヒ二世との結婚の際、
「贈り物」
として王女に贈られたのが、バンベルクだった。
すると女王様は何故か、この街に肩入れをして、私財を費やしてカトリック司教領国の誕生に尽力した。
ハンリヒ二世の死後、フォン ルクセンブルク王妃は短期間、東フランク帝国の行政の指揮を執った。
その後、後継者が決まるとすんなり退官。
継承戦争なくして後継者が決まった珍しい例。
これが原因で街の守護神されている。
小さなベニス
レグニッツ河畔のもうひとつの見所は、河沿いに並ぶ綺麗な家屋群。
かってはまず貸しかった漁師の家が、今やバンベルクを代表する観光名所になっている。
どの建物もその作りが異なっており、中世のマイススターのその想像力には脱帽。
日本や中国だったら間違いなく、そっくりな家屋が並んでいます。
バンベルクの観光局はこの綺麗な家屋の並びを、
「小さなベニス」
と呼んで、観光の目玉にしている。
観光船
この名前を利用してイタリアからゴンドラを取り寄せて、乗客を乗せた河下りを始めた人もいる。
しかしベニスと違い河の流れは速いので、ゴンドラには向いてない。
下の橋の袂から観光船が出ているので、そちらを利用されたほうが楽しいです。
コロナ禍も収まり、11時から16時まで、1時間おきに観光船が出ています。
大人12ユーロ、14~17歳 7ユーロ、0~16歳 6ユーロ
旧屠畜場 / Alte Schlachthof
目の前にバンベルクの旧市庁舎が出てきて、自然と足がそちらに向かってしまいます。
時間があれば市役所を見た後でもいいから、戻って川辺を散策してみよう。
遊覧船の出る場所に有名なクレーンが残されてる。
もう使われていないが、そこは世界遺産都市。古い物は捨ててしまわないで、ちゃんと残されている。
その先にある石造りの立派な建物、入り口の「牛」が目印になっているのは、中央屠殺場 / alte Schlachthof です。
売り物にならない物はそのままレグニッツ河に捨てることができたので、18世紀にこの場所に新設されました。
最盛期には49もの肉屋がここで商売していたそうです。
かなりの悪臭に住人からの苦情が絶えなかったそうです。
現在はバンベルク大学の図書館(別館)です。
センチュリオン / Centurione
ここから下の橋に向かう途上に、バンベルク名物のセンチュリオン / Centurione という名前の銅像がある。
芸術に感心がない人でも関心するこの銅像は、ポーランド人の彫刻家によるもの。
街は2002年の公式にこの銅像を購入して、バンベルクの財産のひとつになりました。
以上でレグニッツ河畔の観光名所は終わり。
次はバンベルクの権力者が住んでいた、レグニッツ河左岸の観光名所を見ていきます。
ユダヤ人通り / Jundenstraße
「時間がないので、市役所とドームを見て帰る。」
という方は、上の橋から直進してください。
すぐ先がドームです。
今回は左に折れてみました。
小さな広場の先は、”Judenstraße”(ユダヤ人通り)です。
マリア礼拝堂
ここにあるのがいかにも古そうなマリア礼拝堂だ。
もともとはシナゴークとして14世紀に建設が始まったが、司教様が、
「ユダヤ人を追い出せ!」
とユダヤ人迫害の幕を切って落とした。
ユダヤ人は(まだ生きていれば)追放された。
その後、教会として建設が終了したという暗い歴史をしょってる建物だ。
ベェッテイングの家 / Böttingerhaus
ユダヤ人通りのさらに先、観光客が滅多にやってこない場所に、”Böttingerhaus”(ベェッテイングの家)がある。
ご想像の通り、バンベルクの評議会員のベェッテイングが、18世紀にイタリアの宮殿をモデルに作らせた宮殿だ。
ロココ調の入り口の装飾の絢爛豪華なこと!
近くで見ると、気持ち悪くなるほど緻密な彫刻が施されています。
建物の裏には宮殿にふさわしく、旧庭園があるそうです!
上野主要教会 / Obere Pfarre
ベェッテイングの家を見たら、ユダヤ人通りまで戻ります。
ユダヤ人通りを戻り左折すると、上野主要教会 /”Obere Pfarre”が見えてきます。
バンベルクの住人は、愛情を込めて聖母教会とも呼んでいます。
理由は屋根の上に設置されている黄金のマリア像?
見えますか?
14世紀から100年近くの年月をかけて建造された教会です。
ロココ調の内装
折角なので中を覗いてみました。
他の教会のように暗くて陰気な感じがしない!
ロココ調の内装が豪華絢爛ですね。
バンベルク ドーム(大聖堂) / Dom
「ドームはこちら。」
という看板が出ていたので、看板の指す方向に沿って路地に入ってみます。
かわいい家屋を眺めていくと、ドーム到着!
ここでも写真を撮ろうとすると、見事な逆光でした。
う~ん、今回はついていないな。
建造史
このバンベルクの大聖堂、最初に建造されたのは11世紀です!
上述のハインリヒ二世が古い礼拝堂の土台の上に、新しい大聖堂を建設させます。
だからハインリヒドーム /”Heinrchsdom”とも呼ばれます。
当時のドームは現存のドームほど立派ではなく、尖塔も奥に2本だけでした。
ところが完成から80年ほどで火事が発生、被害甚大でしたが、その後、昔の姿に再建されました。
しかし、100年後にまた火事が発生、木造の大聖堂の大部分は焼け落ちます。
火事の後、二番目の大聖堂の建築が始まります。
大聖堂が完成したのは1237年。
これが今の大聖堂です。
30年戦争後にバロック式に改築されたりしましたが、基本はなんと13世紀の建造物です。
さらには大聖堂の地下は、11世紀のハンリヒの大聖堂の「焼け残り」が残っています。
見事なモザイクが壁を飾っている見事なもの!
残念ながら柵があり、進入禁止。
ドーム内部
ドームの中に入ってみます。
入り口の飾りが独特。
あら、立派。子供が指しているのは、何なんでしょう?
見事な石棺
ドームの建設中、ハインリヒ2世とその妃、クニグンデ フォン ルクセンブルク がローマにて聖人であると宣言されます。
そこで大聖堂の建築監督は、この聖人の墓を新しいバンベルク大聖堂の一番立派な場所に設け、巡礼に来る人に感銘を与えるべく、見事な石棺をつくらせます。
この見事な棺は今でも見るばかりが、(手を伸ばせば)触ることもできます。
日本のお寺だった、絶対、無理な話!
バンベルクの騎士 / Bamberger Reiter
バンベルクの守護神になっているハンリヒ2世と、その后の棺の横にある柱を見上げてください。
中ほどに有名な、”Bamberger Reiter”(バンベルクの騎士)の像があります。
何でそんなに有名かと言えば、誰の像なのかわかっていないからです。
街の守護神が眠る場所の柱に、わざわざ石像を設けるのだから、何か重要な意味がある筈なのですが、騎士の正体はわかっていません。
今でも学者が、
「俺の意見が絶対に正しい。」
と、数世紀に渡って言い争っています。
ドームの蛙 / Domkröten
ドームの入り口を見張っているのは、ドームの蛙 / Domkröten です。
バンベルク ドームの建築を任せられたマイスター、他のマイスターよりも建築の遅れて大いにあせります。
遅れを取り戻すため、悪魔と契約。
悪魔は夜な夜な怪物を送り、他のマイスターが作った石像を破壊します。
こうして遅れを取り戻したマイスター、他のマイスターよりも先に工事を終えます。
すると悪魔が表れてマイスターの魂を抜きると、怪物は石像に変わったという伝説です。
この蛙(ライオンだという説もあり)は、11世紀のハインリヒドームの「残り」です。
バンベルク Neue Residenz / 新宮殿
ドームの向かいに建っている宮殿は、 Neue Residenz(新宮殿)。
バンベルクの司教様の宮殿です
住む場所ではなくお仕事をする場所、正確に言えば接見にやってくる使者を迎え入れ、その権力を見せつけるための建物です。
丘の上にあるので、90℃の角度で接続されている2棟の建物からなっている。
下界を見下ろす側は、城壁の役割も果たしている。
屋内には40以上の部屋(それとも会場?)があり、床から天井まで、それは見事な装飾が施されている。
家具、それに壁にかけられている装飾用の「絨毯」は、17~18世紀にかけて、作成されたもので正真正銘の骨董品。
残念なことに私がいった日は改装中で、中は見ることができませんでした。
改装工事はコロナ禍の中に終了。
写真撮影は禁止されていますが、よかったらどうぞ。
入場料は6ユーロ。
薔薇園 / Rosengarten
宮殿には入れませんが、左側にある門から有名な”Rosengarten”(薔薇園)に入れます。
おまけにタダ!
写真の定番なんですが、背景になる修道院が修復中だったのは玉に瑕。
足を踏み入れた途端、薔薇の香りが鼻腔を満たします。
とっても綺麗でした。8月中にバンベルクを訪問される方は、お忘れなく!
Alte Hofhaltung
うっかり忘れるところでした。ドームの横に”Alte Hofhaltung”があります。
司教様のお台所、それに寝室です。
こんなに広大な土地を持っているのに、バンベルク市役所の土地させも譲らないなんて、流石、司教様。
でも一番凄いのは門の飾り。
滅茶苦茶繊細な彫刻が石に施されている!
まるでメソポタミア遺跡。
聖 ガンゴルフ教会 / St. Gangolf
次いでバンベルクの観光名所、3つの区分分けに入らなかった観光名所も幾つか紹介しておきます。
少しバンベルクの街中から外れているところに建っているのが、聖ガンゴルフ教会 /”St. Gangolf”。
ぱっと見てもわかる通りとっても古い。
なんと11世紀の建造物で、日本で言えばまだ平安時代の建造物だ。
バンベルク 王様通り / Königsstrasse
街で一番有名な通りは、「王様通り」と呼ばれる、”Königsstrasse”だ。
ここにはレストランが軒を連ねている。
「駐車禁止だけど停めちゃえ!」
なんて車を違法駐車すると、あっという間に違反切符を切られます。
切符を切る人も、わざわざ移動しなくても、
「入れ食い」
なので四六時中ここで待機、監視してます。
車で来たらちゃんと駐車場に車を停めましょう。
バンベルク 名物
ドイツの街には、大都会のベルリンやミュンヘンでも、その街(地方)、独特の食の名物があります。
バンベルクにも幾つか、食の名物があるので紹介してみようと思います。
スモークビール / Rauchbier
バンベルクは有名なビールの産地。
街には独特の”Rauchbier”(直訳するとスモークビール)がある。
スモークした麦芽を使用してビールを造るので、この名前が付いた。
以前は68ものスモークビールの醸造所があったそうだが、現在ではたったの8つ。
その中でも一番有名なのが、”Schlenkerla”だ。
観光客の「黒山」ができているか、店に入らないで路上で飲んでいる人が居るので、すぐにわかります。
バンベルクのビール戦争
バンベルクの住人は、ドイツ屈指のビール好き。
敢えて「吞兵衛」とは言いません。
ビールの値段が10プェニヒから11プェニッヒに値上がりすると、ビールのボイコット運動が起き、
“Bamberger Bierkrieg”(バンベルクのビール戦争)
として歴史に残ったほど。
小さな角 / Hornchen
「ビールはちょっと。」
と言われる方は、バンベルクの名産、„Hörnchen“(小さな角)を試していこう。
「なんだクロワッサンじゃん。」
という言葉はタブー。
フランケン人は愛着を込めてバンベルガー、あるいはヘルンヒェンと呼ぶ。
「クロワッサンと何処が違うの?」
と聞くとパン屋の親父は(威張って)
「もっとパリパリしていて、形がスリムだ。」
と教えてくれるが、素人には違いはわからない。
試しにパン屋で買ってみました。
80セントなり~。
確かにしっかりバターの味がしました。
ちょっと触っただけで、手にバターのしみができます。
バンベルガー法
皆まで言えば安価なマーガリンを使ってバンベルガーを販売して、訴えられたパン屋も居るほどの懲り様。
「バンベルガーの名前は、バターを使っている場合に限り使用できる。」
と、バンベルガー法まで制定されこだわり振りだ。
牛肉ハム / Zwetschgenbames
さらにはバンベルクの人が、„Zwetschgenbames“ と呼ぶシンケン(ハム)もある。
これは豚肉ではなく牛肉を使用して、自然に乾燥させたもの。
肉屋の前を通りかかったら、中をのぞいてみよう。
赤味が綺麗に残っているローストビーフみたいなハムがある。
生活と物価
バイエルン州に住む計画をされている方に、アドバイス。
バイエルン州では、
「ミュンヘンから東に行けば、家賃が安くなる。」
と言われています。
典型的な例がレーゲンスブルク。
世界遺産都市で綺麗な街ですが、家賃はミュンヘンに比べるとぐっと安くなります。
バンベルクも例外ではありません。
近郊のニュルンベルクの影響はありますが、それでも家賃はまだお安い方です。
「でも生活費は?」
と心配されている方、ご安心ください。
ドイツの食料品の価格は日本の1/3です。
電気代は日本よりも高いですが、食費が安いので、アパートさえ安く借りることができれば、生活費は抑えることができます。
バンベルク 留学
大きな街ではないので、いい語学学校はなさそうですが、この風光明媚な町にとっても質のいい語学学校 Treffpunkt があります。
「日本人のいない学校に通いたい。」
という方にはぴったりです。
学校を視察に行った際、創始者に、
「なんでよりによってバンベルクに?」
と聞くと、
「この街で育ったから。」
ということ。
今ではその創設者は経営を譲り、二代目の若い経営者が学校を経営しています。
注釈
*1 この賄賂が効いて7年後、ハインリヒ2世は教皇から神聖ローマ帝国の皇帝に任命される。
*2 語源は14世紀に、チェコでカトリック教会の改革を説いた神学者のフス。「身柄の自由を保証する。」という王様の許可証を持ってコンスタンツに出張。
これは実は教会が仕掛けた罠。教会に捕まり拷問を受けた後、ミュンスターの大司教から磔刑の判決を受け、火やぶりに処される。
怒った信者が起こした戦争がフス戦争です。ちなみにフスの主張は、マルチン ルターの宗教改革より、100年早い。
*3 陶器の収集に熱心だったのは、大学で芸術史を学んだ奥さんのイレーネ ルートビヒ。企業家と結婚して一緒に働き、得た金を陶器を収集。
死去する前にコレクションをバンベルク市に「展示場に贈与」しました。
*4 芸術史の先駆者。仕事に就かず芸術の収集、研究に没頭。膨大なコレクションは死ぬ前にバンベルク図書館に寄贈。
*5 バンベルク & カトリック教会にとっては「聖人」です。でもついたあだ名は、クレーマー/”Zänker”。近隣諸国にいちゃもんをつけて戦争をおっぱじめる厄介者でした。