街の紹介 ベルリン

ドイツの首都 ベルリン は、人口365万人を誇るドイツ第一の大都市です。一国の首都と言えば政治だけでなく、経済の中心地であることが多いですが、ドイツの首都は政治の中心地で、経済の中心地ではありません。

アレキサンダー広場駅ドイツでは国が統合されるのが遅く、長らく小さな王国が分散して存在していました。これが原因で産業の拠点は、かっての王国、現在での州に分散して存在しています。

日本でも有名な会社、メルセデスやポルシェ、ボッシュはシュトットガルトに、BMWやジーメンスはミュンヘンに、アデイダスやプーマに至っては、ヘルツオーゲンアウラッハというバイエルン州の田舎町に本部があります。

これに加えてドイツ人には「首都に住みたい!」、「首都に会社の本社を置きたい!」という欲求がありません。それよりも自身が育まれた環境を大切にするので、世界的な大企業になってもベルリンに進出するようなことはせず、地元を大事にします。

お陰で日本のような一極集中が避けられて、首都でありながら大混雑を避けて快適に住むことができます。でも、そもそもなんでドイツの東の端っこにあるこの街が、首都になったのでしょう?

統一ドイツの首都は何処に置く?

ドイツは19世紀まで小さな王国が乱立しており、国が統一されることはありませんでした。初めて国を統一したのがプロイセン王国だったので、そのプロイセン王国の首都がドイツの首都になったわけです。しかしベルリンが首都に君臨していたのは、50年少々。

第二次大戦の敗北でベルリンは米英仏が管轄する西ベルリン、それにソビエト管轄下の東ベルリンに分断されます。お陰で西ベルリンは、東ドイツの中に浮かぶ島のような存在になりました。これが原因で首都はボン移り、およそ50年に渡って西独の政治の中心地でした。

再統一後、ベルリンも統一され最も広大な面積を持つ市になります。面積で比べればデユッセルドルフのなんと4倍もの大きさ。お陰で360万人を超える人口を抱えるドイツ最大の都市なのに、日本の大都市のような混雑感がありません。

統一の騒ぎが収まると、「統一ドイツの首都は何処に置くか。」という論争が巻き起こります。歴史的に長くプロイセンの支配下にあった北ドイツ、とりわけ東独国民は「ベルリンを首都に!」と熱望。一方、西独、とりわけプロイセンと仲が悪かったバイエルン州では「統一ドイツの首都はボン」と思っていました。

ここで(故)コール首相は首都をベルリンに移すことを熱望、「政府の諸機関はボンに置いていくから、心配しなくていい。」と反対派を説得。1991年、「首都決定国会」が開かれます。ここでボン派は151票、 ベルリン派は185票を獲得、ベルリンは再び首都に復活することが決定されました。

参照 : Wikipedia

名前の起源 – Berlinは、Bär(熊)から?

ここでも都市伝説が存在しています。ドイツ人でさえ、「Berlinは、Bär(熊)から派生した。」と堂々と語っています。この地をスラブ人から奪った人物が、”Albrecht der Bär”だったので、この誤解は完璧に。実際には街の名前は先住民族の話すスラブ語の”berl”(沼地) から派生したもの

この言葉が熊、”Bär”に似ていたので、街の象徴(旗)には熊が描かれることに。こうして誤解は完璧になります。

ベルリン の歴史

この地域は広大な沼地で、入植には適していませんでした。ようやく7世紀頃になって、このスラブ人の沼地に住み始めます。その沼地を縦断する形でシュプレー河が流れており、河の中央に中州が形成されていました。13世紀に作成された書類でこの中州を”Cölln”と呼んでいるのが、ベルリンに関する最古の書簡です。

ドイツ人のこの地域への入植はかなり遅れて12世紀に、東からではなく、西から始まる。当然、先住民族との争いは避けられず、絶え間ない戦争状態だった。スラブ民族との戦闘に勝ったアルブレヒトにより、ブランデンブルク伯爵領がこの地に建設された。その後もこの伯爵領を巡って争いが絶えず、30年戦争ではスウエーデン軍が度々この地に侵入、破壊をしたため、町が落ち着いて発展するには至らなかった。

フリードリヒ1世

30年戦争後、伯爵領はようやく落ち着きを取り戻し、当時の領主が移民政策を奨励したため、ベルリンにはユダヤ人、フランス人、ポーランド人、チェコ人などが移住、人種のるつぼ状態になる。18世紀にフリードリヒ1世がプロイセンの王になると、ベルリンは周辺都市を統合して大幅に拡大、正式にプロイセンの首都に昇進する

プロイセンは国土が小さく、政治、軍事力も弱かった。そこで「兵士王」との異名をとるフリードリヒ1世は国家財政を改革、歳出を減らして、余った金を軍事力の増強に費やした。隣国で起きる紛争をじっと待ち、チャンスがあるとこれに介入して領土を拡張していった。お陰でフリードリヒ1世の在任中、プロイセンの人口は150万人から240万人に拡大。税収入も大幅に増加した。

フリードリヒ2世

フリードリヒ1世の後を継いだフリードリヒ2世は、大国であるオーストリア-ハンガリー帝国の領土であったシュレージエンを(勝手に)占領、プロイセン領と宣告する。これが原因でオーストリアからロシア、イギリス、フランスまでを巻き込む大戦争が勃発、プロイセンは国家破綻の寸前まで追い込まれる。

ここで「神風」が吹き、ロシアの(ドイツ人女帝)カタリーナが死去する。後を継いだ皇太子は直ちにフリードリヒ2世と和平を結ぶ。残存する兵力でフリードリヒ2世がオーストリア軍に手痛い敗北を与えると、女帝マリアテレジアはしぶしぶ和平協定に応じ、戦争は終結する。

ナポレオン1世

フランス革命が起きると、君主制のドイツにも飛び火する。あちこちで民主化のデモが発生するが、君主制が根強いプロイセンでは、革命が起きるほどの拡大はしなかった。

フランスがナポレオン1世の下、領土の拡張政策に出るとプロイセンはにこれに抵抗するが、歯が立たなかった。敗戦後、プロイセン国家が解体される危険もあったが、これまでに先祖が苦労して取得した領土の大半を放棄することで、国家として存続されることを許された。

この敗北をきっかけに、プロイセン軍の大改革が始まる。貴族ではなく、才能次第で出世できるように軍を改革。後に全世界が真似をするドイツ参謀本部も導入される。その改革の成果を発揮する機会は、意外に早くやってくる。

ナポレオンがロシア遠征で大敗北を喫するとプロイセンはロシアと組んで、フランス軍の駆逐を開始する。プロイセン-ロシア連合軍はライプチッヒ郊外でナポレオン軍を撃破、最後はワーテルローまで軍を送ってナポレオンを破る。

ドイツ統一

19世紀、プロイセンは強大な軍事力を背景に、国内統一に乗り出します。ドイツ最古の貴族である強大なハノーファー王国は、半プロイセン勢力を集めると、プロイセンとドイツの覇権をかけて戦います。プロイセンはこれをまるで前菜のように片付けると、ヨーロッパの覇者、オーストリアのハープスブルク王家との決戦に挑みます。

この時に名宰相として活躍したのがビスマルクです。ビスマルクは二正面戦争を避けるため、ロシアを同盟を結び、それからプロイセンはハンガリー オーストリア大帝国と開戦。名軍師の活躍でオーストリアを破ると、プロイセンの王様は大喜び!一気にウイーンまで軍を進めてオーストリアを軍事占領しようとします。

これに反対したのがビスマルク。オーストリアを辱めることなく軍を引けば、恩を売ることができます。されば将来、背面を守ってくれる貴重な同盟国になります。しかし王様はビスマルクの論理を理解せず、大論争に。ビスマルクはこの時、あやうく更迭されるところでした。

しかし流石は王様、翌朝にはビスマルクの進言を聞き入れて軍を撤退します。次の敵はナポレオン3世のフランスだ。普仏戦争ではオーストリアは中立国として、背面を守ってくれた。お陰でプロイセンは全軍を対仏戦に投入できて、勝利することができた。王様はベルリンに帰る前、パリでドイツの皇帝の座に就き、ベルリンはドイツ(第二)帝国の首都となる。

独特な風潮

町の魅力はなんといっても、リベラルな風潮。保守的な南とは正反対で、新しいものに対して許容範囲が広い。この為か、芸術活動やスタートアップの中心にもなっている。

365万人もの人口を抱える町では、日本食を始め、大概のものは見つかる。他の町ではとても成功しないだろう客層の狭いビジネスでも、大都市なら存続できるので、スタートアップ企業が多いのも特徴だ。他の町で禁止されている夜間の販売も、何故か小さな商店に限られるが許されている。

町の景色も首都ならでは。歴史を感じされる建物があちこに建っており、これに広い歩道が加わって、他の都市では見ることのない独特な雰囲気をかもし出している。日本食ブームも手伝って、日本食レストランの数はデユッセルドルフよりも多いので、アルバイト探しにはいい環境。

ベルリン 観光 – ドイツの首都は一番人気の観光名所!

日本人に一番人気の街はミュンヘンですが、世界の観光客に一番人気の町は首都のベルリンです。

参照元 : T-online

2018年には1350万人の観光客がこの街を訪問しました。2018年に京都を訪問した観光客数が353万人ですから、どれだけ多くの観光客が首都を訪問しているか、よくわかると思います。京都ではすでにインフラ(宿、交通機関)が限界に達して、原住民がこれ以上の観光客に反対しているのに、その4倍の観光客を受け入れているベルリンはまだ余裕。その原因はインフラにあります。

ベルリン 観光の強い味方 – 交通公共機関

ベルリン 観光に欠かせないのが、公共交通機関です。おまけに週末(金曜日と土曜日)は24時間営業!これが日本と比べたら、とっても安価に利用できます。さらにはドイツでは1日乗り放題チケット、1週間乗り放題チケット、それに1か月乗り放題のチケットがあります。

2019年の時点で、中心部をカバーする1日乗り放題チケットが7ユーロ、1週間乗り放題チケット30ユーロです。5日滞在するなら、乗り放題チケットがお得という計算になります。

さらにはほとんどの電車で、自転車持ち込み可!自転車用のチケットが要るので、購入をお忘れなく。チケット価格は毎年変更されるので、正しい価格はベルリンの交通局のホームページで価格をチェックしてください。

参照元 : Bahn Berlin

ここでは公共交通機関を使って回れるベルリンの観光名所を挙げておきますので、ご自身で行かれる際の参考にしてください。まずは有名な観光名所から紹介します。

1. ブランデンブルク門 / Brandenburger Tor

ブランデンブルク門 / Brandenburger Torブランデンブルク門 / Brandenburger Tor はベルリン観光の最重要スポットのひとつ。日本では凱旋門とも言われていますが、間違いではありません。フランスを破って統一を成し遂げたフリードリヒ二世が、これを記念する凱旋門を建設するように命じたのが、その由縁だからです。

あまり知られていないのは、17世紀に関税を徴収する目的で、街を取り囲む城壁の一部を取り壊して、この場所に最初のブランデンブルク門が作られた事。1788年にこのが取り壊されて、凱旋門の建造が始まります。完成した門は高さ20m、幅62.5mの大作です。ローマ帝国時代からの慣習を踏破、門の上には高さ6mのクアドリガ / “Quadriga” と呼ばれる古代の戦車を導く女神の銅像が飾られています。

第二次大戦では大きな被害を受けましたが、あの東独政府が10年以上の歳月と大金をかけて修復しました。しかしちょうど西べルリンとの境界線にあったため、一般市民は(西への逃亡を危惧して)近寄ることさえできず、ドイツ分断の象徴となってしまいました。

今でこそベルリン観光名所の最大の見所ですが、観光客が気軽に訪問できるようになったのは、再統一後です。とっても見栄え(最近ではインスタ映え)がいいので、連日、ものすごい数の観光客がやってきます。観光名所と言えば、落書きをする不埒な者が必ずいるもの。

ブランデンブルク門ではガードが不埒な行いを監視している者がいないが、四六時中、見守っています。門に触ったり、土台の石の上に乗っただけでも注意がすぐさま飛ぶので、注意あれ。ちょっとシビアなのは凱旋門の近くにある米国領事館。テロを警戒して重装備の警察官が四六時中、観光客を見張っています。間違ってもおかしな行動はしないように。

凱旋門、お昼過ぎになると逆光になります。正面から綺麗な写真を撮るなら、午前中にいきましょう。それから大事な点がもうひとつ。この門から勝利の塔までは、かってのドイツ軍の勝利パレードの場。今ではお祭りごとがあると、門を閉鎖して舞台を作り野外コンサート上に早変わりします。

ベルリンで大きなお祭りごとがあると、「折角、来たのに凱旋門が封鎖されてて見れない!」ってことになります。ベルリン観光の日程を組む前に、ベルリンのお祭り日程もチェックしいておこう!

参照 : Berlin.de

2. 国会議事堂/ Reichstag

国会議事堂/ Reichstag国会議事堂 / Reichstag は国会は午前中を除き、いつ行ってもいい写真が撮れます。国会の全体像は少し下がって、緑の芝生の上から撮るのがコツ。興味のある方は、国会の中にも入れます。おまけに無料で!ただし警備上の理由で、一度に入れるのは25人まで。希望者が多いので、事前に申告が必要です。

参照 : Bundestag.de

正確には帝国議事堂という名前が示す通り、「統一ドイツにふさわしい議事堂を建設しよう!」ということで、1871年、議事堂の建設が議決されます。お手本になったのは、プロイセンの議事堂です。早速、「何処に建てるか?」という問題が上昇。議事堂建設委員会が選んだ場所にはプロイセンの外交官であったポーランド公爵の宮殿が建っていたんです。

「皇帝に口説いてもらえば、きっと納得してくれる。」という予想とは裏腹に、公爵は土地(と建物)の売却を拒否。仕方なく他の場所を探し始め、ベルリンのミッテ地区に適した土地が見つけてきます。しかし今度はビスマルクと皇帝が、この場所を拒否。計画が行き詰った頃、ポーランド公爵が「それじゃ仕方ない。」と妥協。こうして今の場所に国会が建設されることに。

完成したのは1894年。皇帝も出席して、「神のご加護が国会に、帝国の繁栄に!ここで働く者は私利私欲を殺して忠実に働く事を祈らん 」と、お言葉を残しました。建設費は今の時代で1億6500万ユーロと見積もられています。この費用は普仏戦争で負けたフランスの賠償金から捻出されました。

帝国議事堂が完成した後になっても、決まらなかったのがひとつ。それは、「どんな文句を、国会の正面に刻むか?」という論争です。皇帝と皇族至上主義者は、「ドイツ皇帝に奉ぐ」という文字を好み、委員会は、「ドイツ国民に奉ぐ」という言葉を好み、20年間も続く大論争に。

その間に第一次大戦も勃発、戦況が芳しくないので、「提案に反対はしない。」と皇帝が譲歩。こうしてやっと有名な文字” dem Deutschem Volke”が刻まれることになりました。

3. 勝利の塔 / Siegessäule

勝利の塔 / Siegessäule

勝利の塔は統一戦争で、プロイセンがデンマークに戦勝した事を記念すべく、建設が始まりました。完成したのは1873年。もっと当時は国会議事堂のある Königsplatz に建立されました。塔の高さは67m。てっぺんで勝利の月桂冠の(金の)冠をもっているのは、勝利の女神、ビクトリアです。

ナチスの時代にヒトラーがベルリンを世界の首都に改造する「ゲルマニア」を建築家のシュペアーに命令。

参照 : Wikipedia

凱旋門から1.6km離れたこの場所に移されました。その間の道路は、劣等民族を征服した誉れ高きドイツ軍が勝利の行軍をする筈でしたが、実際に本来の目的で使用されたのは一度だけ。戦争末期には滑走路として使用され、大物のナチスの戦犯がソビエトの包囲網をくぐって脱出に成功しています。

議事堂の横に有名なバスの100番の停車場があります。これに乗れば勝利の塔、”Siegessäule”まで5分で行けます。歩くと30分くらいかかるので、バスがお勧めです。勝利の塔の停車場は “großer Stern” (大きな星)ですが、その手前はドイツの大統領の宮殿もあるのでお見逃しなく。

勝利の塔の中は(ちょっとがっかりな)博物館になっています。塔の建設中、プロイセンがフランスを破って統一を成し遂げたので、その過程(戦闘)を描写する見事な壁画が塔の壁を埋めています。統一の立役者、ヴィㇽへルム一世、ビスマルク、参謀本部長モルトケ、戦争大臣ルーム、それに悪者としてナポレオンが描かけれているので、是非、探してみてください。そして見晴台から見渡す中心部は、絶景でないですが、まあ、見ておいてもいいです。

参照 : Berlin.de  入場時間 4月~10月 9時30分~18時30分 11月~3月 9時30分~17時30分 入場料3ユーロ

4. 統一記念碑

勝利の塔の横に統一記念碑があり、統一の立役者、宰相ビスマルク、参謀本部長モルトケ、戦争大臣ルームの銅像が立っている。モルトケだけは大理石で、ビスマルクの銅像は桁外れにデカい。この記念碑は当初、国会議事堂の前に設置されていた。しかしナチスの時代に建築場所を確保する目的で、今の場所に移されてきた。この場所だと気づかない人も多いので、できれば国会議事堂前に戻して欲しい

5. 大統領官邸 / Schloss Bellevue

大統領官邸 / Schloss Bellevue

折角だから、ここまで来たら大統領官邸も見ていこう。何しろ、大統領は首相よりも上の地位にある最高権力者だ。選出国会議員の投票で決まる。大統領官邸は大統領の執務室、迎賓館、そして大統領の住む家でもある。官邸に使われている城を建てたのは、ドイツ人に一番人気の王様、フリードリヒ二世(戦争で負けなかったので大王とも呼ばれる)の弟だ。

第一次大戦では陸軍参謀本部として機能、同盟国の司令官がここに滞在していた。第二次大戦では1941年に爆弾が命中、壁を残して焼け落ちた。戦後、残っているレンガをかき集めて、戦前の姿に再建された。再統一後、大統領官邸として使用されている。

6. ロシア兵慰霊碑 / Sowjetische Ehrenmal

元気があればバスを使わず、徒歩で凱旋門方向に向かって歩き出すと、途中に「ロシア兵慰霊碑」があります。1945年4月16日、ベルリンを包囲したソビエト軍は歴史上、「第二次大戦の最後の戦闘」と呼ばれることになるベルリンの戦闘を開始します。ロシア兵慰霊碑 / Sowjetische Ehrenmal

ドイツ軍は最後の予備をこの戦いに投入、ほぼ100万人、16歳の子供から60過ぎの男性まで、ベルリン守備に駆り出されます。一方、攻撃するソビエト軍は250万の兵力を擁して、6000台を超える大型戦車をこの戦いに導入。この戦いだけで17万人ものソビエト兵が死亡。

そのソビエト兵士の7000人の遺体が埋葬されているのが、この慰霊碑です。入り口の両脇にはソビエトを敗戦から救った救世主のT-34戦車が2台展示されており、あのドイツで落書きもない、とてもいい状態で保存されています。

これを見てから国会横の100番バスの底流所で、アレクサンダー広場粋のバスに乗車、”Lustgarten”(欲情の庭?)で下車すると、そこはBerlinドーム(教会)から始まって、博物館島への繋がる観光スポットです。

7. 博物館島 / Museuminsel

博物館島 / Museuminsel

博物館島 / Museuminsel は冒頭でも書いたかって”Collin”と呼ばれ、ベルリンの発祥のきっかけなった場所。まだプロイセン王国が誕生する前、ブランデンブルク選帝侯の時代、ここに”Lustgarten”(直訳すると欲望の庭)を設置します。冬にはベルリンの寒さで枯れてしまう植物を屋根付きの建物に保管したのが、この地区の名前の由来でます。

プロイセン王国の時代になると、「兵士王」と呼ばれたヴィルヘルム1世は植物には興味をみせず、貴重な塩などの倉庫としての経済的な使用が始まります。ドイツを統一したヴィルヘルム二世の時代になると、第二帝国は海外に植民地を獲得、富をたくわえていきます。

海外の発掘作業で見つかった貴重な物品を陳列して自慢する場所が必要になり、最初の博物館が設置されます。最初に建造されたのはギリシャ神殿のような古い博物館 / Altes Museum でした。これにベルリンのミッテ地区に建造された新しい博物館 / Neues Museum が続き、それからお城のような博物館島に古石造り国立画廊 / Alte Nationalgaleire、そしていよいよ博物館島の代名詞、ボーデ博物館 / Bode-Museum 、1930年にはペルガモン博物館 / Pergamonmuseum が建設されます。

8. 古い博物館 / Altes Museum 古い博物館 / Alter Museum

ベルリン ドームの対面にあるプロイセンで最初に建造された博物館が、この古い博物館 / Altes Museum です。ご覧の通りの立派な建造物なので、他の博物館同様に、ユネスコから世界遺産に指定されています。

一言で建設されたといっても、それは大変な工事でした。ここは地盤の弱い湿地帯。石造りの巨大な建物を建てれば、地盤が沈下してしまいます。そこで3000本もの杭を打ち込み、これを土台にしてまるでベニスの街ように博物館が建造されました。

当初陳列されていた芸術作品は、「国民の一般教養を高めるため」と、王様が私財を投入してイタリアやイギリスの芸術収集家から買い取った品を展示していました。今では主に古代の彫刻などが陳列されています。

参照 : Altes Museum  開館時間 10時~18時 木曜日は20時まで 月曜日休館 入場料10ユーロ

9. 古い国立画廊 / Alte Nationalgaleire

古い国立画廊 / Alte Nationalgaleire古い国立画廊 / Alte Nationalgaleire は博物館島にある美術館です。そもそもプロイセンには美術館がなかった(プロイセンらしい!)ので、長らく列強にふさわしい美術館を建てようと考えていました。ここでベルリンの銀行家で、絵画の収集家で有名だった人物が死去、遺言で「ばら売り」しない事を条件にドイツ統一を成し遂げた皇帝にこの絵画を託します。

何度も計画を手直しした後、1867年から建設が始まり5年後に完成。完成時のセレモニーには皇帝も出席して盛大に祝われました。美術館の前には、この美術館の建造を依頼したフリードリヒ ヴィルヘルム4世(完成したのは死後)の乗馬している素晴らしい銅像が立ってます。

第二次大戦では大きな被害を受け、展示作品の多くはソビエト軍に押収されました。戦後、東ドイツ政府が20年の年月をかけて再建。ドイツが統一されると、西側にも国立画廊があったので、こちらを古い画廊と呼ぶことで区別をしています。

参照 : Alte Nationalgaleire  開館時間 10時~18時 木曜日は20時まで 月曜日休館 入場料10ユーロ

10. ボーデ博物館 / Bode-Museum   ボーデ博物館 / Bode-Museum

博物館島の角に建っている象徴的な博物館がボーデ博物館 / Bode-Museum です。この博物館の成り立ちは、ボーデという芸術歴史家の「ここに芸術作品を集めた芸術博物館を作ろう!」という提案にその端を発します。氏は皇帝一家の図書館、および芸術収集の責任者でもあったので、同氏の意見には皇帝が耳を傾けたわけです。

1888年、博物館は完成して開館しました。戦争中は被害が少なかったのですが、20世紀末になると老朽化の為、大幅な改装工事が始まり8年の年月をかけて修復、2006年に再び開館されました。この博物館に陳列されているのは彫刻、それにビザンティン芸術です。

参照 : Bode Museum  開館時間 10時~18時 木曜日は20時まで 月曜日休館 入場料10ユーロ

11. ペルガモン博物館 / Pergamonmuseum

ペルガモン博物館 / Pergamonmuseum博物館島で最大の人気を誇るのが、ペルガモン博物館です。博物館自体がまるで神殿のような豪華絢爛な大理石の建造物です!ここに陳列されているのはバビロニア(今日のイラク)、およびエジプトで発掘された石像や遺跡です。

博物館の名前はバビロニアの王様が紀元前2世紀に建造させた神殿、ペルガモン神殿から来ています。キリスト教の浸透により古来の宗教、宗教建築物は顧みられなくなり、付近の住民は家屋を建てる際に必要な石を神殿から取ってくる有様。

19世紀になると西欧人がこの地にやってきて、壊れている神殿に感銘を受けます。皆、一番見栄えのいい部分を切り出して、故国に持ち帰り自慢することに。その一人にドイツ人技師がいて、「このままでは神殿はなくなってしまう。」と心配、「是非、発掘作業を!」と嘆願。

ベルリンから発掘チームが調査に派遣され、神殿の部品を切り取ってベルリンに帰るも、興味を見せるものは少なく忘れられてしまいます。1987年に王立博物館長に就任した人物が、「これは凄い。」と感激。とういうのもベルリンにはギリシャ彫刻が少なかったので、ここで一気に劣勢を挽回するチャンスを見出します。

ドイツ政府はオスマントルコに発掘の許可を取り付けると、発掘を開始。ここで発掘した遺跡を博物館島で展示しようにも、あまりに大きすぎて、展示室に収まらない!そこでペルガモン博物館の建造が始まり、最初の博物館は1899年に完成。ペルガモン神殿がここで展示されることになりました。

入場料12ユーロ。午前中に行かれる方は要注意。ものすごい列です。入場できるまで30~40分も待たされます。午後に来ると、列もなく、すんなり入れます。

博物館までテロ警戒でリュックサック禁止。カメラとレンズを取り出すと、両方のポケットに押し込んでいざ出発です!階段の上に座ってレンズを交換していると、「そこに座ってはいかんよ。」と10秒で警告。手すりに触って撮影していると、「手すりに触ってはいかんよ。」と10秒で警告。ご注意あれ。

尚、ペルガモン博物館はすでに5年前から工事中で、今でも工事中です。このせいで観光の目玉、ペルガモン神殿を見ることができません!お陰で入場料は少し割引されていますが、かさねがさね残念。ちなみに工事が完成するのは2023(予定)年です!

参照 : Pergamonmuseum  開館時間 10時~18時 木曜日は20時まで 月曜日休館 入場料19ユーロ

12. イシュタール門 / Ischtar-Tor

イシュタール門 / Ischtar-Torペルガモン博物館のもうひとつの観光の目玉が、イシュタール門 / Ishutar-Tor だ。初めてみると誰もが感激するこの門は、バビロンの伝説的な王様、ネブカドネッツア二世が建造したバビロンの街の入り口を守っていた門だ。厳密に言えば、街への入り口は5つあったので、その内のひとつの門。

建造されたのは紀元前6世紀だ!300年後、バビロンを征服したアレクサンダー大王は、バビロニアの豪華かさ、その技術に度肝を抜かれて、ここをその帝国の首都にしたほどだ。その大王も若くして死去、次第に街は衰退して、人々の記憶から消えさっていく。

19世中頃、この地を訪れたフランスの遠征チームが色のついたレンガを回収して帰っていく。その40年後にこの地を訪問したドイツ人建築家がこのレンガの意味を理解して、ベルリンに報告。王立博物館がまずは証拠物件を確保するように命じたので、レリーフを発掘して帰国。

「これはどえらい発見になる。」と王立博物館を説得して発掘が始まったのは1899年。3年にも渡る発掘作業で集めたレンガは399の木箱に収納され、オスマントルコ政府の許可を取ったうえで、船便でベルリンに送られる。

2000年以上も地中に埋もれていたので、レンガはすっかり塩漬け。これを異なる濃度の海水に漬けて、ゆっくりと塩分を落とすのに1年半もかかった。さらに長い年月をかけてパズルをはめ合わせ、イシュタール門が一般に公開されたのは、1930年。

幸い戦争被害もまぬかれて、アレクサンダー大王が最初に目にしたであろうバビロンの正門、イシュイタール門を感嘆することができる。

13.  ベルリン ドーム / Berliner Dom

ベルリンドーム / Berliner Dom

欲望の庭に建っている見後なドームは、ベルリンドーム / Berliner Dom と呼ばれる教会です。最初に建造されたのは16世紀。北にあるプロイセンなのでカトリックではなく、プロテスタント系の教会です。

18世紀になるとあちこち傷んできたので、フリードリヒ大王が古い教会を取り壊して新築を命じます。完成したのは、大王の死後。ドイツが統一されると、「第二帝国にふさわしい立派な主要教会が欲しい。」という皇帝の要望で、1894年、3度目の建築が始まり、完成したのは1900年。

戦争中は大被害を受けてドームは焼け落ちるもの、その他の基礎部分は戦争の災禍を逃れます。戦後、東独政府には再建する金がなく、1975年まで廃墟のまま。やっと再建が始まるも大事業で、これが完成した2002年には東独政府は消滅していました。

2019年、教会の表面の彫刻がガタついてきたので、修復工事が始まってます。終了するのは2023年(予定)なので、しばらくは工事中の形で我慢しなくてはなりません。本来はドームの展望台にも(入場料を払えば)入れるんですが、しばらくはこれもできないかもしれません。

参照 : Berliner Dom  開館時間 9時~18時 入場料7ユーロ

観光客を狙った詐欺に要注意!

ベルリンには観光客を狙った詐欺が国会議事堂、勝利の塔、ベルリンドームの前などを徘徊しています。相手は子供だったりしますが、ブルガリア、ルーマニアからやってきたちびっこギャング団なので、見くびらないように!詐欺の方法はなんやら書類を出して、サインをせびる方法。サインをすると、「お金を払え!」というわけです。

まずサインする必要がないし、サインしても払う必要はなし。なのに騙されて払っている人が多いです。隙を見てお財布を盗む上、バックなどはカミソリで裂いて貴重品を盗み出します。子供だから!と油断しては駄目!相手はプロです。ベルリンドームの前にはぬいぐるみを被っている詐欺師が登場。写真を撮って小銭を要求するか、隙をみて財布を盗みます。

14. ベルリン の壁

街の代名詞になっているベルリンの壁。かっての(本物の)壁はほとんど撤去されており、どこが東西の境界になっていたのかわかりません。唯一、”Ackerstr.だけはかっての境界線を見ることができます。路面電車の10番に乗り、”Gedenkstätte Berliner Mauer 駅で降りてください。慰霊碑と一緒にかっての壁が東西の境界線に沿って残されています。

地図はこちら

15. イーストサイドギャラリー

撤去されたベルリンの壁の大部分は粗大ゴミとなるか、物好きな収集家に安価で販売されました。一部はイーストサイドギャラリーに飾られています。イーストサイドギャラリーに行くには路面電車に乗って終点のワルシャワ通りまで。電車の進行方向に向かって300mあるいていくと、右手に見えてきます。

市内のお土産屋では、「本物のベルリン壁!鑑定書付き」と書かれたコンクリの破片が立派な値段で販売されていますが、全部、偽物です。ここにもやはりキオスクがあり、「本物の壁」が売られていますが、そんな簡単なトリックに騙されませんように。

地図はこちら

16. 上の木橋 / Oberbaumbrücke

ここには映画などのシーンでよく登場する独特な形の橋、”Oberbaumbrücke” があります。シュプレー川は古来から物品の輸出入に使われてきました。ベルリンへ持ち込まれる品に対して関税を徴収する(密輸を防ぐ)目的で、川に木橋をかけます。そのひとつがこの上の木橋です。

上の木橋 / Oberbaumbrücke19世紀末、市はこの木橋を鉄道も通れる橋に改造することを決定、ジーメンスに建設を依頼。こうして出来上がったのが、今の上の木橋です。第二次大戦末期、ソビエト軍のベルリン侵入を拒むためドイツ軍によって爆破されましたが、あまりに頑丈に作っていたので、壊れたのは一部だけ。

戦後、東独政府が修復、西と東を結ぶ重要な交通路となりました。再統一後、大金をかけて橋を修復、かっての姿に修復され、欠かせないベルリン観光の名物になっています。が、橋は大量の浮浪者が占拠していますので、夜はこの辺りに来るのは厳禁です。

17. チェックポイント チャーリー

地下鉄の6番、  なんとチェックポイントチャーリー駅 / checkpoint charlie を新設!ここで降りて、道を聞きながら2分歩くと、かっての米国管轄地域とソビエトの管轄地域の通行路、チェックポイント チャーリーに行けます。ドイツ統一に伴いここにあったオリジナルの小屋は撤去されました。

チェックポイント チャーリーその後、大きなビルが建ち、跡形もなくなりました。数年後、「ベルリンの歴史を後世に伝える必要がある。」と、ここに小屋のコピーを建てました。以来素人役者が米軍の服装で立って、観光客から小銭をもらってます。

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18. モーレン通り駅 / Mohrenstr.駅

知る人ぞ知るかってのドイツ第三帝国の首相官邸の跡地は、今、団地と駐車場になっています。その官邸にはベルサイユ宮殿の2倍の長さ(100m)の大理石の廊下がありました。戦後、「あの大理石は何処に行った?」と話題になっています。

何故か地下鉄駅、Mohrenstr.は一面、大理石で覆われています。ただの地下鉄の駅ですよ?わざわざ大理石を切り出して、駅の壁に使いますか?以来、首相官邸の大理石は地下鉄の駅に使われているという説が有力です。

19. カイザーヴィルヘルム記念教会

カイザーヴィルヘルム記念教会

かって西 ベルリンの中心地だったクーアヒュステンダムには、戦争で大被害を受けた”Kaiser-Wilhelm-Gedächtniskirche”(カイザーヴィルヘルク記念教会)が痛々しい姿で建っています。50年代、本当は全部撤去される筈だったのですが、市民の反対で尖塔だけ残されました。

横には新しい教会も経っていますが、やはり見てほしいのは半壊している教会の方。まだ残っている壁、床、天井には見事なモザイクが施されており、これが壊れていなければどんなに立派だったろうか。戦争の痛ましさをよく伝えてくれます。

最寄り駅は地下鉄のクーアヒュステンダム駅か、S-Bahn の Zoologischer Garten 駅。地元の人は観光客に優しいので、地表に出たら「教会は何処?」と聞けば、親切に教えてくれます。

20. 西のデパート / Kaufhof des Westens 略してKaDeWe

西のデパート / Kaufhof des Westens 略してKaDeWeベルリンが分断していたころに、西側の豊かさを東にみせつける象徴となったデパートが、西のデパート / Kaufhof des Westens 略してKaDeWe だ。日本でいえば三越か。デパートが衰退、倒産する中、唯一、黒字を出している高級デパート。記念教会から歩いて5分でいけるので、是非、冷やかしにいってみよう。日本同様に、フードコートは屋上にあります。

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21. アレクサンダー広場

アレクサンダー広場はかっての東独地区にある交通の要所です。テーゲル空港からのバス、TXL もここが最終停車場になっているので、ベルリンの地理がわかなくてもへっちゃら。ここを経由してない電車は(ほとんど)ないので、ここまで来れば、何処へでも乗り継げます。

交通の要所という実際面の他に、ベルリンを象徴する一面ももっています。ベルリンで映画が撮影されると、必ずここで撮影が行われます。日本で言えば渋谷のスクランブル交差点みたいなもの。もっとも規模ではこちらが上で、なんと8ヘクターもの広さ。戦争で多くの建物が焼け落ちたことを利用して、東ドイツ政府がまだ経っている建物まで壊して、ここに四角形の大きな広場を作ったのがきっかけ。

アレクサンダー広場でもどうしてアレキサンダー広場という名前になったの?まさかギリシャの王様から?

違います。18世紀初頭、ロシアの皇帝アレキサンダー一世がちっぽけなブランデンブルク選帝侯領を表敬訪問。フィリードリヒ ヴィルヘルム3世がこれに感謝して、「パレード広場」をアレキサンダー広場に改名したのがきっかけです。これには東独政府も苦情がなかったので、名前はそのまま残されました。

22. テレビ塔

東独政府は西側にみせつけるために、この場所にドイツで一番高い建造物であるテレビ塔を建設させます。高さは368mもあり、同様の目的で建造された日本の東京タワーよりも30m以上高いです。現在では上部の展望台には年間100万人の観光客が訪れる観光名所です。ベルリンを一望できるのですが、値段も立派。待ち時間ありの現地で買うチケットと、事前に予約して買うチケットが用意されています。

レストラン & Bar も設置されているのでリッチな旅行を楽しんでいる方には、お勧めします。

参照 : TV Turm.de  入場料16,50ユーロ (待ち時間あり)あるいは 21.50ユーロベルリン アケクサンダー広場の夜景に聳え立つ旧インターホテル

23. 旧インターホテル

共産圏のホテルと言えば、インターホテルでした。東ドイツ政府経営の国営ホテルチェーンで、ベルリンのこの場所にはとりわけ目立つホテルを建設。以来、アレクサンダー広場の名物になっています。今ではPark In というホテルに変わっています。

24. 世界時間時計

ベルリン市民が待ち合わせ場所に使うのが、この世界時間時計前。東ドイツ誕生20周年を記念して作られた16トンもの鉄の塊には、世界の24の時間ゾーンと146の場所の場所が表示されているので、この名前。この世界時計と後ろに建つデパート Kaufhof は、テレビ塔、インターホテルと並び、アレクサンダー広場の名物です。

ベルリン アレキサンダー広場の世界時間時計夜になると、この場所は危険です。警察がほぼ絶え間なく巡回していますが、何しろ広すぎます。女性の一人歩きは控えましょう。男性でも腕力か脚力(逃げ足)に自信のない方は、夜間の一人での外出は控えた方がいいかもしれません。夜、誰かが寄ってきたら、止まって話を聞かないで、速やかにその場所から移動してください。

ベルリン の生活と物価

日本でも大都市で生活されている方、あるいは都会志向の方には、ベルリンはとても住みやすいです。日本のように高層ビルが建ち並んで視野を遮ったり、都市高速が街の景観を壊したりすることがないので、知らなければ365万も住んでいる街とは思えません。

行きたい場所には公共交通機関で行けるし、週末となれば24時間電車が走っているので、高いタクシーを使う必要もありません。これだけ外国人が多いのに、外人局は「話がわかる」人が多く、ビザも取りやすいです。バイエルン州のアウグスブルクと比べたら、天と地、同じ国の制度とは思えません。

ベルリンの唯一のマイナス面は治安。夜になると昼間は治安のいい場所も、危険な場所に代わります。ベルリンのコットブス門駅周辺は昼間でも危険なので、できるだけ避けた方がいい場所です。

参照 : Berliner Morgenpost

こうした場所を意識して避けるような最低限度の自己防御措置を取れば、快適に暮らせます。

ベルリン に留学

ベルリン にはゲーテから、値段が良心的なF+U Academy 、格安語学学校のタンデム、ドイツ語専門学校のカール デユーイスベルク、それに DiD Institut 等、多くの語学学校が存在しています。

学校選びに苦労することはあっても、学校が見つからないことはないです。まだ5~6年前はドイツ留学先と言えばミュンヘンフライブルクでしたが、今ではミュンヘンと同じくらい人気の留学先となっています。

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