街の紹介 ベルリン

ドイツの首都ベルリンは、人口365万人を誇るドイツ第一の都市です。普通、一国の首都と言えば政治だけでなく、産業の中心地であることが多いですが、ドイツの場合は政治の中心地で、産業の中心地ではありません。ドイツで産業の中心地と言えば、ルール工業地帯でした。お陰でこの地域には、今でも多くの人口が集中しています。

日本でも有名なドイツの会社、メルセデスやポルシェ、ボッシュはシュトットガルト、BMWやジーメンスはミュンヘンです。お陰で日本のような一極集中が避けられて、首都でありながら大混雑を避けて快適に住むことができます。でも、そもそもなんでドイツの東の端っこにあるこの街が、首都になったのでしょう?

沼地から首都に昇格

かってこの地域は、スラブ人の住む小さな集落でした。ブランデンブルク辺境伯がその領土を東に拡大していく過程で、この沼地に住むスラブ人を駆逐してゲルマン化したのが12世紀。その後、交易で栄え出し、街の重要性が増します。18世紀にブランデンブルク選帝公爵領が公式にプロイセン王国になると、いよいよプロイセン王国の首都となります。そのプロイセンが1871年、ドイツを統一すると、統一ドイツの首都になります。その後、およそ50年に渡って統一のドイツの首都として君臨。

第二次大戦の敗北でBerlinは米英仏が管轄する西 Berlin、それにソビエト管轄下の東 Berlinに分断されます。お陰で西 Berlinは、東ドイツの中に浮かぶ島のような存在になりました。これが原因で首都はボン移り、およそ50年に渡って西ドイツの政治の中心地でした。

統一ドイツの首都は何処に置く?

ドイツ再統一後、ベルリンも統一され最も広大な面積を持つ市になります。面積で比べればデユッセルドルフのなんと4倍もの大きさ。お陰で360万人を超える人口を抱えるドイツ最大の都市なのに、日本の大都市のような混雑感がありません。統一当時、首都はまだボンにありました。

統一の騒ぎが収まると、「首都は何処に置くか。」という論争が巻き起こります。歴史的に長くプロイセンの支配下にあった北ドイツ、とりわけ東ドイツ国民は「Berlinを首都に!」と熱望。一方、西ドイツ、とりわけプロイセンと仲が悪かったバイエルン州では「統一ドイツの首都はボン」と思っていました。

ここで(故)コール首相は首都をBerlinに移すことを熱望、「政府の諸機関はボンに置いていくから、心配しなくていい。」と反対派を説得。1991年、「首都決定国会」が開かれます。ここでBonn派は151票、 Berlin派は185票を獲得、ベルリンは再び首都に復活することが決定されました。

参照元 : Wikipedia

名前の起源 – Berlinは、Bär(熊)から?

ここでも都市伝説が存在しています。ドイツ人でさえ、「Berlinは、Bär(熊)から派生した。」と堂々と語っています。この地をスラブ人から奪った人物が、”Albrecht der Bär”だったので、この誤解は完璧に。実際には街の名前は先住民族の話すスラブ語の”berl”(沼地) から派生したもの

この言葉がドイツ語の熊、”Bär”に似ていたので、街の象徴(旗)には熊が描かれることに。こうして誤解は完璧になります。

街の歴史

Berlin は沼地に築かれた町。町のほぼ真ん中を横断するような形で、シュプレー河が流れている。この地に最初に入植したのはスラブ人だ。シュプレー川に浮かぶ「島」が、13世紀の書簡でCoellnという名前で呼ばれたのが、この地の最初の言及になる。

ドイツ人のこの地域への入植はかなり遅れて10世紀に、東からではなく、西から始まる。当然、先住民族との争いは避けられず、10~12世紀は絶え間ない戦争状態だった。

12世紀にスラブ民族との戦闘に勝ったアルブレヒトにより、ブランデンブルク伯爵領がこの地に建設された。その後は、この伯爵領を巡って争いが絶えず、30年戦争ではスウエーデン軍が度々この地に侵入、破壊をしたため、町が落ち着いて発展するには至らなかった。

フリードリヒ1世

30年戦争後、伯爵領はようやく落ち着きを取り戻し、当時の領主が移民政策を奨励したため、Berlin にはユダヤ人、フランス人、ポーランド人、チェコ人などが移住、人種のるつぼ状態になる。18世紀にフリードリヒ1世がプロイセンの王になると、Berlinは周辺都市を統合して大幅に拡大、正式にプロイセンの首都に昇進する

プロイセンは国土が小さく、政治、軍事力も弱かった。そこで「兵士王」との異名をとるフリードリヒ1世は国家財政を改革、歳出を減らして、余った金を軍事力の増強に費やした。隣国で起きる紛争をじっと待ち、チャンスがあるとこれに介入して領土を拡張していった。お陰でフリードリヒ1世の在任中、プロイセンの人口は150万人から240万人に拡大。税収入も大幅に増加した。

フリードリヒ2世

フリードリヒ1世の後を継いだフリードリヒ2世は、大国であるオーストリア-ハンガリー帝国の領土であったシュレージエンを(勝手に)占領、プロイセン領と宣告する。これが原因でオーストリアからロシア、イギリス、フランスまでを巻き込む大戦争が勃発、プロイセンは国家破綻の寸前まで追い込まれる。

ここで「神風」が吹き、ロシアの(ドイツ人女帝)カタリーナが死去する。後を継いだ皇太子は直ちにフリードリヒ2世と和平を結ぶ。残存する兵力でフリードリヒ2世がオーストリア軍に手痛い敗北を与えると、女帝マリアテレジアはしぶしぶ和平協定に応じ、戦争は終結する。

ナポレオン1世

フランス革命が起きると、君主制のドイツにも飛び火する。あちこちで民主化のデモが発生するが、君主制が根強いドイツでは、革命が起きるほどの拡大はしなかった。

フランスがナポレオン1世の下、領土の拡張政策に出るとプロイセンはにこれに抵抗するが、歯が立たなかった。敗戦後、プロイセン国家が解体される危険もあったが、これまでに先祖が苦労して取得した領土の大半を放棄することで、国家として存続されることを許された。

この敗北をきっかけに、プロイセン軍の大改革が始まる。貴族ではなく、才能次第で出世できるように軍を改革。後に全世界が真似をするドイツ参謀本部も導入される。その改革の成果を発揮する機会は、意外に早くやってくる。

ナポレオンがロシア遠征で大敗北を喫するとプロイセンはロシアと組んで、フランス軍の駆逐を開始する。プロイセン-ロシア連合軍はライプチッヒ郊外でナポレオン軍を撃破、最後はワーテルローまで軍を送ってナポレオンを破る。

ドイツ統一

19世紀、プロイセンは強大な軍事力を背景に、国内統一に乗り出す。まずはオーストリアのハープスブルク王家率いるドイツ同盟を、続いてデンマーク、そして大国のオーストリアをも破った。次はナポレオン3世のフランスだ。フランスを普仏戦争で破ると、プロイセンの王様はドイツの皇帝の座に就き、ベルリンはドイツ(第二)帝国の首都となる

第二次大戦の敗北後、東Berlinは共産主義政権の東ドイツの首都となる。1990年に東西ドイツが統合されると、「首都をボンからBerlinに移そう。」という議論が国会で交わされて、反対意見も多かったが、首都をベルリンに移すことが決定された。

独特な風潮

町の魅力はなんといっても、リベラルな風潮。保守的な南とは正反対で、新しいものに対して許容範囲が広い。この為か、芸術活動やスタートアップの中心にもなっている。

360万人もの人口を抱える町では、日本食を始め、大概のものは見つかる。他の町ではとても成功しないだろう客層の狭いビジネスでも、大都市なら存続できるので、スタートアップ企業が多いのも特徴だ。他の町で禁止されている夜間の販売も、何故か小さな商店に限られるが許されている。

町の景色も首都ならでは。歴史を感じされる建物があちこに建っており、これに広い歩道が加わって、他の都市では見ることのない独特な雰囲気をかもし出している。日本食ブームも手伝って、日本食レストランの数はデユッセルドルフよりも多いので、アルバイト探しにはいい環境。

ベルリン観光 – 観光客に一番人気の町はドイツの首都!

日本人に一番人気のドイツの町はミュンヘンですが、観光客に一番人気の町は首都のベルリンです。

参照元 : T-online

2018年には1350万人の観光客がこの街を訪問しました。2018年に京都を訪問した観光客数が353万人ですから、どれだけ多くの観光客が首都を訪問しているか、よくわかると思います。京都ではすでにインフラ(宿、交通機関)が限界に達して、原住民がこれ以上の観光客に反対しているのに、その4倍の観光客を受け入れているBerlinはまだ余裕。その原因はインフラにあります。

観光の強い味方 – 交通公共機関

観光に欠かせない公共交通機関、日本と比べたら、とっても安価に利用できます。さらにはドイツでは1日乗り放題チケット、1週間乗り放題チケット、それに1か月乗り放題のチケットがあります。

2019年の時点で、中心部をカバーする1日乗り放題チケットが7ユーロ、1週間乗り放題チケット30ユーロです。5日滞在するなら、乗り放題チケットがお得という計算になります。

さらにはほとんどの電車で、自転車持ち込み可!自転車用のチケットが要るので、購入をお忘れなく。チケット価格は毎年変更されるので、正しい価格はベルリンの交通局のホームページで価格をチェックしてください。

参照元 : Bahn Berlin

では、まずは有名な観光名所から紹介します。

国会議事堂とブランデンブルク門

Berlin は天気があまりよくないので、晴天の日には博物館に行かないで、史跡を巡ろう。Berlin 観光の黄金ルートは国会議事堂、”Reichstag” と凱旋門、”Brandenburger Tor”。凱旋門はお昼過ぎになると逆光になるので、午前中にいきましょう。

これを見たら国会議事堂に。国会は午前中を除き、いつ行ってもいい写真が撮れます。国会の全体像は少し下がって、緑の芝生の上から撮るのがコツ。興味のある方は、身体検査を受けて入場料を払うと、国会の中にも入れます。

勝利の塔

議事堂の横に有名なバスの100番の停車場があります。これに乗れば勝利の塔、”Siegessäule”まで5分で行けます。歩くと30分くらいかかるので、バスがお勧めです。

勝利の党の停車場は “großer Stern” (大きな星)ですが、その手前はドイツの大統領の宮殿もあるのでお見逃しなく。勝利の塔の中は(ちょっとがっかりな)博物館になっています。勝利の塔に描かれている壁画は一見の価値あり。そして見晴台から見渡す中心部は、絶景でないですが、まあ、見ておいてもいいです。

ロシア兵慰霊碑

見終わって元気があれば、バスを使わず、徒歩で凱旋門方向に向かって歩き出すと、途中に「ロシア兵慰霊碑」があります。これを見てから国会横の100番バスの底流所で、アレクサンダー広場粋のバスに乗車、”Lustgarten”(欲情の庭?)で下車すると、そこはBerlinドーム(教会)から始まって、博物館島への繋がる観光スポットです。

博物館島

博物館島で最大の人気を誇るのが、ペルガモン博物館。入場料12ユーロ。午前中に行かれる方は要注意。ものすごい列です。入場できるまで30~40分も待たされます。午後に来ると、列もなく、すんなり入れます。

博物館までテロ警戒でリュックサック禁止。カメラとレンズを取り出すと、両方のポケットに押し込んでいざ出発です!階段の上に座ってレンズを交換していると、「そこに座ってはいかんよ。」と10秒で警告。手すりに触って撮影していると、「手すりに触ってはいかんよ。」と10秒で警告。ご注意あれ。

ベルリンの壁

街の代名詞になっているベルリンの壁。かっての(本物の)壁はほとんど撤去されており、どこが東西の境界になっていたのかわかりません。唯一、”Ackerstr.だけはかっての境界線を見ることができます。路面電車の10番に乗り、”Gedenkstätte Brliner Mauer 駅で降りてください。慰霊碑と一緒にかっての壁が東西の境界線に沿って残されています。

イーストサイドギャラリー

撤去された壁の大部分は粗大ゴミとなるか、物好きな収集家に安価で販売されました。一部はイーストサイドギャラリーに飾られています。イーストサイドギャラリーに行くには路面電車に乗って終点のワルシャワ通りまで。電車の進行方向に向かって300mあるいていくと、右手に見えてきます。

市内のお土産屋では、「本物の壁!鑑定書付き」と書かれたコンクリの破片が立派な値段で販売されていますが、全部、偽物です。ここにもやはりキオスクがあり、「本物の壁」が売られていますが、そんな簡単なトリックに騙されませんように。

上の木橋 / Oberbaumbrücke

ここには映画などのシーンでよく登場する独特な形の橋、”Oberbaumbrücke” があります。シュプレー川は古来から物品の輸出入に使われてきました。市内へ持ち込まれる品に対して関税を徴収する(密輸を防ぐ)目的で、川に木橋をかけます。そのひとつがこの上の木橋です。

19世紀末、市はこの木橋を鉄道も通れる橋に改造することを決定、ジーメンスに建設を依頼。こうして出来上がったのが、今の上の木橋です。第二次大戦末期、ソビエト軍の侵入を拒むためドイツ軍によって爆破されましたが、あまりに頑丈に作っていたので、壊れたのは一部だけ。

戦後、東ドイツ政府が修復、西と東を結ぶ重要な交通路となりました。ドイツ再統一後、大金をかけて橋を修復、かっての姿に修復され、欠かせない観光名物になっています。が、橋は大量の浮浪者が占拠していますので、夜はこの辺りに来るのは厳禁です。

チェックポイント チャーリー

地下鉄の中央駅 / Hauptbahnhof で降りて、付近の人に道を聞きながら7分歩くと、かっての米国管轄地域とソビエトの管轄地域の通行路、チェックポイント チャーリーに行けます。ドイツ統一に伴いここにあったオリジナルの小屋は撤去されました。

その後、大きなビルが建ち、跡形もなくなりました。数年後、「ベルリンの歴史を後世に伝える必要がある。」と、ここに小屋のコピーを建てました。以来素人役者が米軍の服装で立って、観光客から小銭をもらってます。

Mohrenstr.駅

知る人ぞ知るかってのドイツ第三帝国の首相官邸の跡地は、今、団地と駐車場になっています。その官邸にはベルサイユ宮殿の2倍の長さ(100m)の大理石の廊下がありました。戦後、「あの大理石は何処に行った?」と話題になっています。

何故か地下鉄駅、Mohrenstr.は一面、大理石で覆われています。ただの地下鉄の駅ですよ?わざわざ大理石を切り出して、駅の壁に使いますか?以来、首相官邸の大理石は地下鉄の駅に使われているという説が有力です。

カイザーヴィルヘルム記念教会

かって西 Berlinの中心地だったクーアヒュステンダムには、戦争で大被害を受けた”Kaiser-Wilhelm-Gedächtniskirche”(カイザーヴィルヘルク記念教会)が痛々しい姿で建っています。50年代、本当は全部撤去される筈だったのですが、市民の反対で尖塔だけ残されました。

横には新しい教会も経っていますが、やはり見てほしいのは半壊している教会の方。まだ残っている壁、床、天井には見事なモザイクが施されており、これが壊れていなければどんなに立派だったろうか。戦争の痛ましさをよく伝えてくれます。

最寄り駅は地下鉄のクーアヒュステンダム駅か、S-BahnのZoologischer Garten 駅。地元の人は観光客に優しいので、地表に出たら「教会は何処?」と聞けば、親切に教えてくれます。

西のデパート / Kauhof des Westens 略してKaDeWe

ドイツが分断していたころに、西側の豊かさを東にみせつける象徴となったデパート。日本でいえば三越か。デパートが衰退、倒産するドイツにあって、唯一、黒字を出している高級デパート。記念教会から歩いて5分でいけるので、是非、冷やかしにいってみよう。日本同様に、フードコートは屋上にあります。

Berlin 留学

Berlinは日本並みの大都会。都会志向の方に向いています。週末になると電車が24時間運行している町も、ドイツではここだけ!語学学校もゲーテから、値段が良心的なF+U Academyまで、多くのドイツ語学校が存在しています。

学校選びに苦労することはあっても、学校が見つからないことはないです。まだ5~6年前はドイツ留学先と言えばミュンヘンかフライブルクでしたが、今ではミュンヘンと同じくらい人気の留学先となっています。

バイエルン州で滞在ビザを取るのは大変です。私が通訳として同行しても、ビザの発給を断られるケースが稀にあります。ドイツで滞在ビザが取り安い町はデユッセルドルフとBerlin。現地で滞在ビザを申請される方には、ミュンヘンよりもBerlinをお勧めします。

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