ニュルンベルク はテュービンゲンのように、日本ではマイナーなドイツの観光地のひとつ。
もし街の名前を知っている人が居たら、ニュルンベルクで開かれるクリスマスマーケットか、ナチスの党大会、どちらかがその理由。
でもこの街は(ナチス以外にも)ドイツの歴史で大きな役割を演じた、古い歴史のある街です。
ドイツに留学しているのに、
「ナチスしか知らない。」
というのでは、ちょっと寂しい。
そこで皆さんにもっと興味をもってもらうべく、ニュルンベルクまで撮影に行ってきました。
目次
街の紹介 ニュルンベルク
まずは街の紹介から始めます。
ニュルンベルクはバイエルン州のやや北部、中央フランケンと呼ばれる地域にある街(*1)。
もっとも中央フランケンと言われても、ぱっとしない方がほとんどだろう。
フランケンとは、ゲルマンの4大民族のフランケン族が住んでいる地域を指します。
大雑把に言えばフランクフルトから東南のドイツの中心部に、フランケン族が多く住んでいる。
バイエルン州で言えば北半分がフランケン地方。
ニュルンベルクはそのフランケン地方のほぼ真ん中にある。
人口は50万を突破して、バイエルン州で第二の規模を誇り、さらに(赤字)空港、大学、大学病院など、インフラも整っている。
ペグニッツ河
ニュルンベルクは、ペグニッツ河畔に築かれた街。
河がニュルンベルクを東から西に(右から左に)横断している。
旧市街はペグニッツ河の両岸に建設されている珍しい例。
本来なら高地になっているペグニッツ河の北岸に街を築けば、河が自然の障害になってくれ、侵入者を撃退しやすい。
なのに敢えて河の両岸に街を築くのは、シュヴェービッシュ ハルくらい(すぐに思いつくのは)。
利点は水が豊富にあるので、街を包囲されても、飲み水に苦労することがない。
しかし防御は困難で、ニュルンベルクは二重の城壁と水路で囲まれた巨大な要塞と化していた。
その輪郭は今日でも地図上でしっかり見て取れます。
フランケンワイン
フランケン地方はワインの有名な産地です。
ニュルンベルクも例外ではありません。
神聖ローマ帝国時代には、フランケン地方はアルプスの北では最大のワイン産地でした。
ドイツと言えば白ワインの産地として有名ですが、フランケンではおよそ20%は赤ワインが栽培されています。
通常、ドイツのスーパーで売られている白ワインはリースリングかミュラートゥルガウばりですが、フランケンではシルバナー種。
ワインにまだ葡萄の香りが残っているワインで、10ユーロ以上出せばおいしいワインが飲めます。
ニュルンベルクまで行ったら、一本、フランケンワインをお土産に買って帰ろう。
ニュルンベルク への行き方
ニュルンベルクの最寄り空港は、ニュルンベルク空港です。
でも地方空港なので国際便は少なく、日本からの直行便もありません。
日本から観光で来られる方は、ミュンヘン空港からの移動になります。
ミュンヘン空港からニュルンベルクまで、2時間ちょいかかります。
ミュンヘン中央駅から向かうと、1時間でいけます。
フランクフルトから向かうと、倍の2時間かかります。
アウグスブルクからニュルンベルクまでは、車で1時間45分ほどでした。
案外、近いです。
もっとも大都市だけあって週末でも17時ころには大渋滞が発生。
帰宅には2時間以上かかりました。
電車で行くと2時間ほどかかります。
街の歴史
街の歴史も少し見ておきましょう。
街が築かれた正確な年代はわかっていません。
周囲にあるフュルトやバンベルクは有名で、何度も書面に登場しています。
神聖ローマ帝国のハインリヒ二世が11世紀の初頭に、
「フュルトの近くにある集落」
と書簡で記述しているのが、
「ニュルンベルクのことに違いない。」
と推測されています。
ニュルンベルク要塞内の発掘作業で、9~10世紀のものと測定された2mの厚さをもつ塔の遺跡が発掘されています。
すにでこの頃には、大きな集落があたっと考えられています。
ニュルンベルク- 名前の由来
ニュルンベルクの名前が始めて登場するのは、15世紀になってから。
現存する書簡にはラテン語で„noris amoena“と書かれている。
城砦の基礎となっている岩を指している言葉で、これが後に”Norimberg”に代わり、今のニュルンベルクになったと言われている。
もっともフランケン族は、
「ネルンベヒ」
と言うので、外国人には何を言っているのかわからない。
バンベルクの対抗馬
お隣のフュルトの街ではなく、このニュルンベルクが発展したのには、当時、カトリック独立国 として栄えていたバンベルクが原因です。
皇帝はバンベルクに広大な領土ばかりか、
- 硬貨を鋳造する権利、
- 関税を課す権利
- 市を開く権利
などをバンベルクのカトリック司祭領に付与します。
この特権により、バンベルクが強大になり過ぎたんです。
神聖ローマ帝国の皇帝は、
「カトリック司祭の権力を封じ込める対抗馬が必要。」
と考えます。
そこでバンベルクに与えた領土の大半を回収、さらには硬貨を鋳造する権利、関税を課す権利、市を開く権利などを取り上げて、バンベルクからわずか30Kmしか離れていないニュルンベルクに与えます。
お陰で商人が多く集まるようになり、一気に街として発展を始めます。
この地にキリスト教の聖人が埋葬され、殉教地として多くの信者がニュルンベルクに巡礼に来たのも、街の発展に大いに寄与しました。
ザイラー家 vs.シュタウファー家
ニュルンベルクの象徴にもなっている丘の上のニュルンベルク城塞は、かなり前から存在していました。
12世紀になると度々、この城塞の取り合いが始まります。
有名なものでは、ザイラー家のハンリヒ4世の息子であるハンリヒ5世の城塞争奪戦。
なんと息子は父の住む城塞を攻め、陥落させます。
息子は父を力づくで引退に追い込み自らが王様になると、その後は神聖ローマ帝国の皇帝にまで出世。
すると今度はシュタウファー家がこの城塞に目を付け、二度目の籠城で陥落させます。
シュタウファー家はこの城塞を皇帝の居住地に定めて、城塞の増築に着手します。
以来、神聖ローマ帝国の皇帝はこの城塞に滞在することが多くなり、ニュルンベルクは皇帝の居住地として発展しました。
ホーエンツォラー家
13世紀にドイツ最古の貴族のひとつ、シュタウファー家が死に絶えます(*2)。
その後、地方の公爵が一時ニュルンベルクを支配していますが、こちらも死に絶えます。
14世紀末、シュバーベン地方の貴族だったホーエンツォラー家が、街の支配権を握ります。
そう、後にドイツを統一するプロイセンの王家、ホーエンツォラー家です。
しかしお金持ちのニュルンベルクの評議会は、もっと自由を要求、ホーエンツォラー家とは馬が合わず仲違い。
この
「仲違い」
を利用したのがバイエルン公爵です。
1417年、軍を進めてニュルンベルクを包囲、城塞まで陥落させます(*3)。
するとホーエンツォラー家は、
「もう城なんか要らない。」
と市の評議会に壊された城塞を売却します。
こうしてニュルンベルクの実権を握ったのは、市の評議会、すなわち市民です。
ニュルンベルク 最盛期
15世紀に市民が街の実権を握ってから、ニュルンベルクは最盛期を迎えます。
複数の交易ルートが重なるこの街に手工業者が数多く住み、街の発展に貢献しました。
株式市場も開かれ、ケルン、プラハ、そしてニュルンベルクは神聖ローマ帝国の三大都市として栄えました。
豊かになった街は城塞を修復、万が一に備えて城壁を強化、街は二重の城壁と水路で囲まれた難攻不落の城塞街に。
30年戦争ではニュルンベルクは何度も包囲されますが、街の防御が鉄壁であったため、陥落する事がなかった貴重な街。
しかしナポレオン戦争ではフランス軍に占領される。
ナポレオンは戦争中、側面を守ってくれたバイエルン王国にニュンベルクを寄贈。
これが原因で今日まで街はバイエルン州に帰属している。
ニュルンベルク 観光名所はナチス党大会跡だけじゃない!
ニュルンベルクはナチスの
「本拠地」
であったため、第二次大戦で何度も爆撃にあった不運な街。
中世から20世紀まで、数々の戦争を生き延びた貴重な建築物は、第二次大戦の空爆によって破壊された。
空爆でまだ木っ端微塵になってないものは、1945年4月の
「ニュルンベルク攻防戦」
と呼ばれる地上戦で破壊された。
あまりにひどく破壊された為、戦後、町を放棄して別の場所に新ニュルンベルクを建築するか検討されるとほど、街は徹底的に破壊された。
しかし結局は、同じ場所に前と同じように街を再建設することが決まった。
そこで瓦礫の中からまだ使えるレンガひとつひとつ組み合わせて、中世の姿の街を再建した。
とはいっても、再建できない部分も多く、21世紀の鉄筋のビルの横に、16世紀の建物立っているのにはちょっと興ざめ。
それでも史跡は多いので、一度、訪問してみる価値はあり。
Kaiserburg / 皇帝の城砦
では見事に復興されたニュルンベルクの街を見ていこう。
まずは街の名前の起源になった城砦から。
岩をうまく利用して城砦を築いており、どこが境目なのかわからない。
神聖ローマ帝国の皇帝の住居地として使用されたので、この城砦は”Kaiserburg”(皇帝の城砦)と呼ばれている。
では砦の中に入ってみます。
これが凄い!
最初の城壁を越えると、次の城壁が登場!
周囲には敵を狙い撃ちにする銃眼が。
これはしんどい。
城砦の中を歩き回るのは無料です。
が、監視塔やら、他の建物に入ろうとするとトイレまで、毎回、入場料がかかります。
入場料7 ユーロ(すべてひっくるめ料金)
見晴らし台からの眺め
有名な見晴らし台からの眺めは?
まあまあ。
下に見える家屋が新しい時代のもので、そっけのない家屋の眺めは少々、興ざめ。
これに加えて城塞のある丘はそれほど高度がなく、
「ニュルンベルクを眼下に一望できる。」
というわけにはいかない。
せめてあと10m高ければ、眼下の家屋の細部が誤魔化されて、もうちょっといい眺めになっていたかも?
馬鹿でかい門
では城壁の中を歩いてみます。
城塞を囲んで城壁が巡らされており、その周囲には日本の城のようなお堀が。
その幅は優に20メートル以上。
かってはここにふんだんな水が溜まっていたとは想像に難いです。
このお堀と城壁とを超えてニュルンベルク城塞の内部に到達すると、馬鹿でかい門があります。この先が皇帝様のお住まい。
門には神聖ローマ帝国の紋章が描かれてます。
アウグスブルクのフッガー銀行の入り口と瓜二つです。
城塞 / Burggrafenburg
ニュルンベルクの城塞が他の都市の城塞と違うのは、その二重構造です。
当初、小山の上の広大な敷地には城塞 / Burggrafenburg が築かれ、公爵や皇帝がここで政務を行っていました。
12世紀にこの城塞の主になった公爵が、皇帝の居城に使えるように改造工事を行います。
こうして誕生したのが、”Kaiserburg”(皇帝の城砦)です。
城塞の中にもうひとつの城塞があるんです。
石造りの建物は古い城塞 / Burggrafenburg 時代の頃の建造物で、木材を使った建造物は”Kaiserburg”(皇帝の城砦)です。
ニュルンベルク 市役所
お城の見学は早々に済ませて、城壁を下ってニュルンベルク市街地を見に行きます。
まずはルネッサンス様式の見事な市役所から始めましょう。
「ニュルンベルクにも立派な市役所を」
と街の評議会が修道院の土地を買収します。
その後、付近の家屋も買収して建築が始まったのが14世紀。
中庭をもった四角の市役所が出来上がりました。
街が交易で栄えていた16世紀に、大幅な改修工事が施され見事な彫刻が随所に施されます。
第二次大戦では手ひどい被害を受けて、50年代に再構築されました。もっとも、
「全部、昔の姿に再建すると金がかかる。」
と、オリジナルよりも短くされています。
それでもかなり立派。
正面入り口
正面入り口は3つありますが、それぞれの入り口に異なった見事な飾りが施されてます。
ティアー ゲルテン門広場 / Tiergärtnertorplatz
皇帝の城砦の南に、観光客に人気のティアーゲルテン門広場 / Tiergartentorplatz があります。
ここには城壁に組み込まれたティアーゲルテン門と見事な骸骨屋敷、うさぎのシュールな彫刻が目印。
皆まで言えば、無料トイレもあるので、是非、足を運びましょう。
名前の由来はこの門の外にある公園で、かっては奈良のように鹿がたくさんいました。
この為、動物の公園、ティアーガルテンと呼ばれ、その公園に続く門 /トーアなので、ティアーゲルテン門です。
この門から皇帝の城塞へと続く石造りのトンネルが続いています。
デユ-ラーの家
ここにデユーラーの家 が建っています(赤い家)。
ここにあるシュールな彫刻、”Der Hase”は、デユ-ラーの作品「野うさぎ」のパロデイーかと思われます。
デユーラーは生存中に偉大な画家として認められ、その死後も名声が落ちていない珍しいニュルンベルク出身の画家。
ゴッホが生存中に売った絵は一枚だけだし、モディリアーニは借金の形で絵を描き、貧困の中で哀れな死を遂げました。
一方、デユーラーは数多くの徒弟を抱え、この大きな家に住みアトリエ兼仕事場として利用。
家はデユーラー博物館になっているので、興味のある方はどうぞ。
入場料6ユーロ
聖ゼバルドゥス教会 / Sankt Sebaldus
ニュルンベルク市役所前の広場に建っている大きな教会は、プロテスタント系の聖ゼバルドゥス教会 /”Sankt Sebaldus”です。
ニュルンベルクには大きな教会が幾つもありますが、この教会も二本の巨大な尖塔が空を付く、大きな教会です。
聞きなれない名前は、8世紀にこの街に住んでいたとされるデンマークの王子様、ゼバルドゥスを称えている教会だからです。
王子様のお墓も教会の中に設置されています。
なんでも内部の石の彫刻が見事で街の堺を超えて、有名だとか。
知らなかった!
見ずに帰ってきちゃったよ!
次回のお楽しみ。
建設が始まったのは13世紀ですが、工事は何度も途中で中止になり、完成したのは16世紀になってから。
ニュルンベルク 中央市場 / Hauptmarkt
市役所の先にニュルンベルクの中央市場 / Hauptmarkt があります。
デカイ。
ベルリンのアレクサンダー広場には負けるが、アウグスブルクの市役所前広場の1.5倍くらいあります。
ここでドイツで一番大きなクリスマス マーケットが開かれます。
綺麗な噴水 / Der Schöne Brunnen
そのマーケットの入り口に、何やら人だかりが。一体、何かしら?
ここに有名な綺麗な噴水 / Der Schöne Brunnen があります。
見ていると女性が次から次へと柵に登ってます。
最初は賽銭しているのかと思いましたが、上っているのは女性だけ、それに何かに触っているようです。
伝説によると柵を作ったニュルンベルクのマイスターに、マーガレットという娘がいた。
容姿端麗だったので徒弟からの求愛が絶えなかった。
しかし貧乏な徒弟に大事な娘をくれてやる気はなく、
「柵に回せる鉄輪をつけてみろ。できないだろう。」
と言い、仕事場から追い出します。
マイスターはそのまま出張。旅から帰って来ると、首にした徒弟が柵に回せる輪を取り付けていました。
その輪は溶接の後も見えない見事な出来栄え。
これを見たマイスターは首にしたことを後悔したが、徒弟は二度と戻ってこなかったという伝説です。
でも何故女性が輪を回したいのか、そこは未だに不明。
聖母教会 / Frauenkirche
「ニュルンベルクの三大名物」
のひとつが、綺麗な噴水の後方にある有名な聖母教会 / “Frauenkirche” です。
ニュルンベルクのクリスマスマーケット、あるいはアドルフのおじさんと一緒に写ってる写真をみたことがあると思います。
教会建設の歴史は、とっても血なまぐさいものです。
ペストが流行すると、
「ユダヤ人が井戸に毒を流した。」
とのフェイクニュースを市民が信じて、ユダヤ人の虐殺が始まります。
その象徴であるシナゴーグが焼き払われて、その跡地に14世紀に建造されたのが、この聖母教会です。
聖母はカトリック教の守護神ですので、カトリック教会です。
戦争中は甚大な被害を受けます。
幸い、貴重な飾りや、有名な仕掛け時計はあらかじめ避難してあったので、戦災を生き延びました。
お陰で当時の職人芸を堪能できます。
聖ローレンツ 教会 / St.Lorenz
ニュルンベルクでもうひとつ有名な教会は、ゴシック様式の聖ローレンツ教会 / St.Lorenz です。
こちらの教会は、街の市街地に建ってます。
でかいから見逃すことはなし。
上述の聖ゼバルド教会を見本して12世紀に工事が始まり、15世紀に完成。
戦後、小さな彫刻まで細部に拘って見事に再建されています。
ナッサウの家 / Nassauer Haus
この教会の向かいに、ニュルンベルクの記念写真のモチーフになっているナッサウの家 /”Nassauer Haus”がある。
この塔は居住空間を備えた構造になっており、12世紀にお金持ちが建造させたもの。
名前は15世紀の王様のナッサウ王から来ているが、建物とは関係はなし。
大衆が何かの理由でそう呼び始め、これが定着。
今でも(間違って)ナッサウの家と呼んでいます。
ここは旧市街の中心地なので、お買い物客で日中は賑わっています。
では次いでニュルンベルク一番の美観地区、街の中央を流れるペグニッツ河沿いの観光名所を見ていきます。
聖心病院 / Heilig-Geist-Spital
まずはニュルンベルクの絵葉書にも登場する、有名な聖心病院 /”Heilig-Geist-Spital”から。
観光名所として度々登場するので、
「あ、見たことがある。」
という方も居る筈。
14世紀に教会と一緒に建造されたのですが、その費用を出したのは皇帝ではなく、ニュルンベルクの裕福な商人のコンラート グロース氏。
氏の屍は今日まで教会の中に祭られています。
建設当時は、病院の規模としては大きくはありませんでした。
15世紀に大幅な増築工事が行われます。
ペグニッツの上に石橋がかけられ、その上に病院を増築したので、とても美しいです。
裏側からみた光景
有名なのは裏側からみた光景。
100を超えるベットが設置されており、聖心病院は帝国自由都市の中で最も大きな病院でした。
この付近には河沿いにレストランやカフェが多く立ち並び、天気のいい日は空席がないくらい人気です。
観光客ではなく、ニュルンベルク住人の憩いの場。
肉橋 / Fleischbrücke
肉橋 / Fleischbrücke の名前は、ここに肉屋が並んでいたのが名前の由来です。
肉橋の袂にある門は、牛門と呼ばれています。
由来はあえて言うまでもなし。
ここがかってのニュルンベルクのお台所です。
牛門をくぐってペグニッツ河に沿って歩いていくと、間もなく先に塔が見えてきます。
ニュルンベルク 水の塔 / Wasserturm
最初に見えてくるのは水の塔 / Wasserturm です。
ペグニッツ河を使ってニュルンベルクに侵入しようとする外敵から守るために、14世紀に建造された塔です。
ニュルンベルクが城壁で囲まれてからは用途を変更、牢獄として利用されました。
今日は学生寮として利用されています。
ワイン倉庫 / Weinstadel
水の塔の袂にあり、一緒にニュルンベルクの象徴的な景観をなしている建物は、ワイン倉庫 / Winstadel です。
もっとも建設された当時は疫病にかかった者の収容施設で、街の城壁の外にありました。
隔離施設が別の場所に移されてからは、ワインの貯蔵庫として使用されました。
処刑人塔 / Henkersturm
水の塔の対面にある小さな塔が物騒な名前の処刑人塔 / Henkerstrum です。
ニュルンベルクの処刑人が住んでいたのでこの名が付いてます。
塔に隣接する橋は「処刑人の橋」という名前。
シュヴェービッシュハルにも同じ名前の橋がありましたね。
鎖の橋 / Kettensteg
この先にある橋が鎖の橋 / Kettensteg です。
老朽化の為2009年に閉鎖、2010年に寄付金で再建されました。
ここまでくる観光客は少なく、ゆっくり写真が撮れます。
白革なめし商通り / Weißgerbergasse
このすぐ先に有名な白河なめし商通り / Weißgerbergasse がある。
かってのニュルンベルクの白革なめし職人の仕事場兼家屋が、建ち並んでいます。
どっちらを向いても綺麗な家屋が並んでいるのに、観光客の姿はほとんどない。
ペグニッツ河の散歩に出かけたら、是非、ここまで歩いてみよう。
ナチス 党大会会場跡
ナチスが政権を奪取すると、ニュルンベルク郊外に巨大なナチス党大会会場を建設、毎年、派手な党大会を開催した。
悪名高いニュルンベルク法でもわかる通り、ニュルンベルクはミュンヘンと並ぶナチスの本拠地だったため、対戦中は執拗な空爆の目標となりました。
皮肉なことに党大会会場はナチス時代の象徴なのに、戦争の遂行には関係なかったので、幾つかの砲弾の跡を除けば無傷で残りました。
1949年、ドイツ連邦共和国の誕生でこの「重い史跡」はバイエルン州が所蔵することになりましたが、バイエルン州政府はその処遇に頭を悩ませます。
ネオナチの巡礼地にならないように、できればすべて取り壊してしまいたいが、ナチスがあまりに巨大なモニュメントを作ったので、撤去するには大金が必要です。
そこで50年以上、ほったらかしにして朽ちるに任せていました。
戦後、半世紀も経過すると、
「(悪い歴史でも)歴史としてちゃんと残そう。」
と、バイエルン政府は重い腰を上げて修復作業に取り掛かります。
もっとも50年も天候にさらせれていたので、ボロボロ。
予算も多くないので、あちこちに欠損やひび割れが見えます。
ツェペリン広場 / Zeppelinfeld
ナチス党大会会場跡で一番有名なのは(多分)ツェペリン広場 / Zeppelinfeld 。
レニ リーフェンシュタールがニュルンベルクの党大会を撮影した記録映画、
“Triumph des Willens”(意志の勝利)
で、ヒトラーが整列した数万人の党員の間を徒歩で歩き、演題の上から演説する光景をきっとみたことがあると思います。
その史跡がまさにそのまま残ってます。
観光客に人気なのは演題。
ここに来た観光客は皆、演壇に立って記念撮影をしています。
きっと皆、同じイメージを抱いているに違いありません。
演題の背後
演題の背後の「建物」の上にはナチスの象徴が飾られていました。
戦争を生き延びましたが、この地を占領した米軍がカメラチームの前で爆破。
でもその建物には手を付けなかったので、内部にある「金の間」は当時のまま。
特別な許可がないと入れてもらえませんが。
会議場 / Die Kongresshalle
ニュルンベルクに限らず、ドイツで現存するナチスの建造物として最大の規模を「誇る」のが会議場 / Die Kongresshalle です。
近くまでくると、その大きさに圧巻。
5万人の観客(それとも党員?)が収容できるように計画されていました。
ちょうどほぼ東京ドームと同じ収容能力です。
これ、全部、レンガをひとつひとつ組んで作ったんですよ!
この巨大な会議場を。
気が遠くなりそうな作業です。
完成すると70mもの高さの建造物になる予定でした。
完成したのは39mまで。
表面は固い花崗岩が埋め込まれており、戦争中になんどか大砲で撃たれましたが、凹んだ程度。
今でもその後が随所に残っています。
それ以外は綺麗に修復されていて、つい回廊を歩いてみたくなります。
会議場内部
一般人用の入り口は裏にあり内部は未完成。
何かに使われている様子はなく、唯一の意味のある使い道は市の音楽団のオフィスのようです。
歴史資料館
州の予算では、構造を弱体化させなけないでかい穴をふさいだだけ。
その分、予算の大半を使ってニュルンベルク歴史資料館を設けました。
これが無料で入れたらそれでも意味があったのですが、結構立派な入場料を取るので、どれだけ意味が不明。
でもトイレは無料で使えるので、我慢していた人は入り口まで行ってみましょう。
入場料6ユーロ
大通り / große Straße
ナチスが戦勝パレードをするために作ったのがこの大通り / große Straße です。
40mもの幅の道(場所により60m!)の道路には花崗岩が敷き詰められ、皇帝の城砦に向かって行進するように設計されていました。
これによりナチは、神聖ローマ帝国の正式な後継人である事をアピールしていました。
まっすぐで丈夫な道路なので、60年代まで米軍は軍用機の滑走路として使用していました。
まとめ
ニュルンベルクは神聖ローマ帝国の要害都市だけあって、旧市街の規模が半端なくデカいっ!
大粒の汗を流しながら、4時間歩き詰め。
なのに半日では、史跡を全部見て回る事はできませんでした。
これに加えてナチスの党大会会場が大き過ぎて、ここで2時間近く歩き回りまわったのが原因です。
バンベルクやレーゲンスブルクには勝てませんが、史跡が多いのでバイエルン州に留学されたら、是非、一度行って見ましょう。
ニュルンベルク 物価と生活
ニュルンベルクの物価と生活もみておきます。
バイエルン州第三の都市だけあって、空港や交通機関などのインフレが整っており、住み安い。
大都市なので家賃は安くはないが、ミュンヘンに比べればかなり安い。
ちょうどアウグスブルクと同じくらいの家賃です。
近くには観光名所が多いので、週末の遠足先にも困ることはなさそう。
問題があるとすれば、日本食のインフレ。
日本食レストランはほとんど、
「なんちゃて日本食堂」
なので、日本人としての利点は生かせそうにない。
ニュルンベルガー 焼きソーセージ / Nürnberger Rostbratwurst
ニュルンベルクの三大名物を上げるなら、皇帝の城砦、聖母教会、それにニュルンベルガー焼きソーセージ / Nürnberger Rostbratwurst です。
現地の人は愛情をこめて、ニュンベルガーと短縮形で呼びます。
何が他のソーセージと違うの?
まずはサイズ。
人差し指ほどしかありません。
日本で売れているソーセージに近い味で、豚の腸に入っているソーセージをかむと、口中に肉汁が溢れます。
「これなら2ダースは楽勝。」
と思えますが、1ダースで辞めておきましょう。
脂分も多いので、2ダース食べると後で気分が悪くなります。
肉汁の味を薄めるため、パンや野菜などの添え物 / Beilage と一緒に食すのが現地流。
ソーセージ法典 / Fleischordnung
ドイツのビール法典/ Bierordnung は有名ですが、ニュルンベルクにはソーセージ法典 / Fleischordnung があります。
制定されたのは14世紀で、
「ソーセージには骨や筋を入れず、(筋)肉だけ入れるべし。」
と書かれています。
食品の工業化に伴いドイツ全土で
「ニュルンベルガー」
が製造されることに、地元の人間は立腹。EU 裁判所に訴えて、
「ニュルンベルクでソーセージ法典の通り製造されたソーセージだけが、ニュルンベルガーと名乗ることができる。」
という判決を勝ち取りました。
焼きソーセージ レスライン / Bratwurst Röslein
上述の市庁舎の対面には有名な焼きソーセージ レスライン / Bratwurst Röslein があります。
日曜日という書き入れ時なのに、お休みでした。
折角、朝食も食べないで空腹でやってきたので、超~残念。
皆さんは是非、お試しください。
肝心の値段はソーセージ6本と添え物で、8.90ユーロ。
ソーセージの数は20本まで増やすことができます(要 追加料金)。
ニュルンベルク 留学
大都市なので
「ニュルンベルク留学に留学したい。」
というご要望は昔からいただいているのですが、いい語学学校が見つかりません。
お近くで語学学校をお探しの方には、バンベルクの Treffpunkt をお勧めします。
そうそう、ニュルンベルク大学はお隣のエアランゲン大学と組織上合体、”FAU”という名前になりました。
正式名称は”Die Friedrich-Alexander-Universität Erlangen-Nürnberg”。
省略するのもわかります。
注釈
*1 ドイツ語でMittelfranken
*2 最後のお世継ぎはコンラート4世。奪取されたシチリアの奪還を目指して進軍するも、返り討ちに合い敗退。1268年、処刑されて16歳の若き人生を終えます。
*3 バイエルンとプロイセンの仲が悪くなったのは、この15世紀の出来事が原因かもしれません。