今回紹介する街は シュヴェービッシュ ハル 。

日本ではまず誰も名前を知りません。

名前を聞いても、

「シュウエ、何?」

と二度、三度も聞き直すほど、日本人には覚えにくい名前。

名前の複雑さに加え、近隣の大都市から離れた田舎にあるので、ここまで足を運ぶ日本人は稀。

しかしシュヴェービッシュ ハルは、風光明媚な塩の街!

その綺麗な街を紹介するために、片道2時間以上もかけて取材に行ってきました!

街の紹介 シュヴェービッシュ ハル

シュヴェービッシュ ハル はドイツ古城街道の要所です。

「えっ、古城街道?」

という方も少なくないのでは?

どんなに綺麗でも、ロマンチック街道から外れると観光客がやって来ない!

かと言って、ひとつの街だけではどんなに頑張っても、海外からの観光客を呼び寄せるほどの予算も観光資源もない。

そんな街が集まってできたのが、

“Burgstrasse”( 古城街道 )です。

参照 : 古城街道

 

あのハイデルベルクやニュルンベルクも古城街道の観光名所です。

ニュルンベルク 観光名所はナチス党大会跡だけじゃない!

コッハー河

コッハー河

シュヴェービッシュ ハルの街は、コッハー河畔にあります。

質問
コッハー河?

 

ネッカー河の支流です。

「シュバーベンのアルプス」

に降った雨がハイルブロンの北で河川を形成。

その後、クネクネと169kmの距離を流れて、ネッカー河に流れ込んでいます。

 

シュヴェービッシュ ハルがユニークなのは、コッハー川の両岸に旧市街地が築かれた点。

押し寄せる敵を足止めするには、河川は絶好の障害です。

この河川の後ろに城壁を築けば、河川で足止めされた敵を狙い打ちできます!

だから通常の街では、旧市街は標高の高い側の岸に築かれます。

ここシュヴェービッシュ ハルでも

「旧市街の主要部分」

は、標高が高い右岸に築かれています。

ところが旧市街の一部は河川の

「向こう側」

にも築かれています。

想像するに民衆の居住地区ですね。

地勢

地政学上はバーデン ヴュルテンベルク州にあり、

“Landkreis Schwäbisch Hall”( シュヴェービッシュ ハル県)

の県庁所在地でもあります。

人口は先回の更新から少し増えて4万2000人。

きっと長い歴史を持った街に違いないと思ったら、その通り。

この町では塩が取れたんです。

そこで塩職人が住み着いたのが、集落の始まり。

その後は大いに栄え、シュヴェービッシュ ハルはドイツで最初の硬貨、

“Heller”(ヘラー、*1

を鋳造した事で知られています。

参照 : Heller

日本人泣かせの名前の原因

日本人泣かせの名前の原因は、

“schwäbisch”

という形容詞を街の名前に冠しているから。

こんな街の名前は、私の知る限りココだけ。

その”schwäbisch”は、

「シュウェービッシュ」

でも、

「シュベーヴィシュ」

でもありません。

正確には

「シュヴェービッシュ」

と読みます。

その意味は

「シュヴァーベン地方の」

です。

わざわざシュヴァーベン地方というのだから、シュトゥトガルトと同じくシュヴァーベン人の住む地方かと思いまよね?

しかし実際には、ニュルンベルクと同じフランケン族の住むフランケン地方の街。

なのに堂々と、

「シュヴェービッシュ ハル」

というんです。

もうわけがわかりません。

ハルって何?

これで

「シュヴェービッシュの謎」

は解明されたと思います。

じゃ、ハルって何なんでしょう?

ハルという言葉は本来、塩、あるいは塩の生成方法を意味しています。

 

すなわち

「塩の街」

という意味で、長い間

「ハル」

と呼ばれていました。

なのに15世紀、町議会で名前をシュヴェービッシュ ハルとすることが決まったのが、ややこしい名前の始まり。

19世紀になって街の所有者が変わると、

「混同する。」

ということで街の名前は短い

「ハル」

に戻されます。

その後、ナチスが政権を取ると、またシュヴェービッシュ ハルと呼ぶようになり、今日に至っています。

ちなみにナチス時代の残物が残っているのは、名前だけじゃないっ!

行き方

行き方ですが、これが結構、面倒。

シュヴェービッシュ ハルは州都のシュトッツガルトから、北に60km。

電車で1時間で行けます。

が、そんな便利な場所に住んでる日本人は稀。

そこで最寄り空港のフランクフルト空港から行くと、シュヴェービッシュ ハルまで電車で3時間。

アウグスブルクから行くと車で2時間以上かかります。

アウグスブルク ロマンチック街道の発祥地は見所盛り沢山

往復するだけで5時間近くかかる観光の難所だ。

日本人が少ないもの納得。

街の歴史

街の歴史

折角なので、街の歴史も見ておきましょう。

旧市街地からなんと紀元前6000年前、石器時代の居住跡が見つかっているほど、その歴史は古い。

発掘調査でもっとはっきりした証拠が残っているのは紀元前5世紀以降。

ケルト人がこの地に定住し、塩の精製を始めたのが集落の始まり。

とういうのも

シュヴェービッシュ ハルの地下水には塩分が含まれていたんです。

 

そこで

「塩の町」

を意味する

「ハル」

が街の名前の由来になりました。

その後、11世紀までの街の歴史はわかっていません。

小さな集落はあっても、街としては存在していなかったようです

再び歴史に登場するのは12世紀になってから。

自由都市 シュヴェービッシュ ハル

13世紀にはシュヴェービッシュ ハルは、神聖ローマ帝国の自由都市に昇進します。

塩の交易に加えて、

「硬貨の鋳造する権利」

を授かり、結構なお金持ちになります。

豊富な資金源で近隣の町を買い上げて、16世紀には人口が2万人を突破しています。

中世の頃に人口2万人の都市と言えば、かなりの大都市でした。

 

500年後、現在のシュヴェービッシュ ハルの人口は3万8千人。

大して増えていないですよね。

30年戦争

30年戦争

ルターの宗教改革に農民は熱狂。

シュヴェービッシュ ハルではその後、公式にプロテスタント派に改宗されます。

が、カトリック派と喧嘩しないで折り合いをつけた珍しい街。

もっとも近郊の街で

「カトリック vs. プロテスタント」

の戦争が起きると、プロテスタント派に加勢して参戦するも敗戦。

多額の賠償金の支払いを命じられます。

その後に発生した30年戦争では、最初はカトリック軍の支配に下ります。

その後、プロテスタント軍が反攻に出て占領され、軍隊が長く駐屯したため経済が破綻。

街の人口の1/5が死に絶える!

30年戦争の戦費で食糧難。

住民が餓死をする悲惨な状況下で、ペストが発生。

街の人口の1/5が死に絶えます。

それでも30年戦争が終結すると、塩の交易でシュヴェービッシュ ハルは次第にかっての繁栄を取り戻します。

18世紀、宴会の際に料亭から出火。

街の2/3が焼け落ちる大火事となりました。

でもお金持ちのハルは、バロック様式で再興されました。

ナポレオン戦争から現代

1802年、フランス(ナポレオン)との条約で、シュヴェービッシュ ハルは自由都市のステータスを失いヴュルテムベルク家の領土となります。

これによりこれまで主要な商売相手だったフランケン地方へのアクセス(その市場)を失い、街は衰退を始めます。

その後のナポレオン戦争は衰退を加速。

産業化の波からすっかり取り残されたお陰で、今日でも見事な旧市街を堪能できます。(*2)。

シュヴェービッシュ ハル 観光 – 風光明媚な塩の街【古城街道】

シュヴェービッシュ ハル 観光 - 風光明媚な塩の街【古城街道】

シュヴェービッシュ ハルの観光名所、意外と多いです。

その中から、

「三大観光名所」

を挙げると、

  • 市場
  • コッハー川沿い
  • 処刑人の橋

の3つ。

私は車で行ったので、駐車場から見ていった順番に紹介しておきますが、

「半日も呑気に歩いている時間はない!」

という方は、真っ先に市場に向かってください。

最悪でも、最大の見所だけは制覇して日本に帰れます。

ランゲンフェルダー門 / Langenfelder Tor

ランゲンフェルダー門

街中の家屋は大事に保管されていますが、城壁と城門は近代化の邪魔になるので、真っ先に取り壊されるケースが多いです。

シュヴェービッシュ ハルもこの哀しい例にもれず、主要な城門は取り壊されました。

まだ馬車なら城門を通れましたが、車や電車が通れないからです。

駐車場の近くにはその数少ない城門、ランゲンフェルダー門 / Langenfelder Tor があります。

建造されたのは16世紀で、見張りをする兵士の寝泊まり用の小屋も横に残ってます。

後ろに見えるデカイ屋根は、下で紹介する武器庫です。

この城門はまだ城壁と繋がっており、城壁は山肌を縫うようにかなり先まで伸びていました。

今、道路になっている場所にはお堀があり、敵の侵入を阻んでいました。

武器庫 / Zeughaus

武器庫

ランゲンフェルダー門の先にある武器庫 /”Zeughaus”と呼ばれるこの建物。

その名の通り武器庫として16世紀に建造が始まった。

すると暇を持て余す貴族が、

「舞踏場も設けよう。」

と建設プランを変更、丸みを帯びた天井に変更。

工事費が高騰。

これに怒った市民との間で大論争になり、しばらく工事が中止。

完成した建物の天井は、丸みを帯びていた部分が石材で埋められおり、市民側が争いに勝ったようだ。

今では劇場としても使われているので、市民は新舞踏場 / Neubausaal とも呼んでいる。

私が行った日曜日はご覧の通り丈夫な扉が施錠されており、中には入れませんでした。

内部の舞踏場は写真で見る限り、かなり立派なもの。

参照 : 武器庫

 

一番低い場所のコッハー河畔から丘の上にある旧市街を見上げると、一番高い場所にあるこの建物がまるでお城のように君臨しています。

シュヴェービッシュ ハルの街並みの写真には、武器庫がいつも写ってます。

Marktplatz(シュヴェービッシュ ハル 市場 )

シュヴェービッシュ ハル 市場

ここシュヴェービッシュ ハルも典型的なドイツの街の構造になっています。

街の中心部に市場に使われる大きな広場 / Marktplatz があります。

この市場を囲むように教会、市役所、それに商人やお金持ちの見事な屋敷が立ち並んでいます。

今日でも月曜~金曜日に街を訪れると、ここで小さな露店がずらりと並んで、その土地の特産品(*3)を販売しています。

撮影をするなら、店舗が出ていない週末が一番です。

参照 : 市場

聖ミヒャエル教会 / St. Michael

聖ミヒャエル教会

市場にはシュヴェービッシュ ハルの代表的な建築物、聖ミヒャエル教会 / St. Michael が建ってます。

11世紀の書簡で司教がこの聖ミヒャエル教会について記述しているので、

「当時からすでに建っていたようだ。」

との事。

正確な年代は不明。

日本で言えば平安時代ですよ!

その後、何度も何度も改築、増築を繰り返し、今の姿になったのは16世紀。

宗教改革時、お金持ちのシュヴェービッシュ ハルではカトリック教会と喧嘩をしないで、穏やかにプロテスタント宗派が導入された珍しい街。

お陰で宗教改革前の貴重な彫刻が壊されずに、残されました。

教会がある部分は山の斜面。

市場よりも10mほど高い場所にあるので、教会に入るには、階段を登っていく必要があります。

この階段が防火塀の役目を果たし、シュヴェービッシュ ハルを襲った大火事でも延焼の難を逃れることができました。

階段の上から見渡す市場の景色は一見の価値ありです。

まるで舞台の上から観客席を見下ろしているようです。

天使の石像

天使の石像

入り口の柱には天使の石像があります。

見てください、いかにも古そう!

ドイツの諸都市でよくみられる彫刻のモチーフ、

「ガブリエルの竜退治」

ですね。

イエズスの受難劇

イエズスの受難劇

内部にはイエズスの受難劇が、見事な彫刻で表現されていました。

それもひとつや、ふたつじゃない!

残念ながら教会内部で撮った写真の9割が手振れ、、😢

他にも立派な彫刻がたくさん。

個人的には髑髏の柱に感心。

シュヴェービッシュ ハル 市庁舎 / Rathaus

シュヴェービッシュ ハル 市庁舎

市場中央の壮麗な建物は、シュヴェービッシュ ハル市庁舎 / Rathaus です。

1728年の大火事でこの辺にあった建物がすべて焼け落ちたので、この焼け野原を市場として利用する都市計画が出来上があがります。

市役所は別の場所あったのですが、この機会に市場の真正面に再建することに。

流石はお金持ち。

再建のために領主のヴュルテムベルク家から宮廷建築家を招いて、バロック式の市庁舎の建設が始まります。

計画に3年、建造に4年かかって1735年に完成しました。

第二次大戦が終わるわずか2週間前、焼夷弾が命中。

住人は鎮火すべく大急ぎで集まりますが、狂信的なナチス党員(SA)が消火を阻止(*4)。

焼け落ちてしまいます。

戦後、10年の歳月をかけて再建。

1955年4月に落成式を迎えました。

参照 : 市庁舎

紋章

紋章

市役所の正面部分、時計の下にさまざまな紋章が見えます。

双頭の鷲は神聖ローマ帝国の紋章。

その下にあるのが、シュヴェービィシュ ハルの紋章です。

「手」は神様。

「十字」は言うまでもなし。

このコンビネーションは、シュヴェービッシュ ハルで鋳造された硬貨の(表裏)デザインです。

フランチスカーナー修道院 / Franziskanerkloster

フランチスカーナー修道院

市役所の隣に、三棟の色の鮮やかな建物があります。

右端はかってのフランチスカーナー修道院 / Franziskanerkloster です。

宗教改革後、市が没収。

しばらくは住居として利用されていました。

現在はシュヴェービッシュ ハルの市役所の別館です。

地下にはデイスコがあるのが、なんともちぐはぐ。

ヴィードマンの家 / Widmanhaus

真ん中の建物もランチスカーナー修道院の別館でした。

が、15世紀にヴィードマン氏が住んでいたので、ヴィードマンの家 / Widmanhaus と呼れています。

石でできた立派な門 / Portal が有名です。

拡大写真を撮るの忘れました。

次回は忘れずに撮ってきます。

シュテルヴァークハオス / Stellwaghaus

左端の緑の石造りの家は13世紀に建造されました。

シュテルヴァークハオス/”Stellwaghaus”と呼ばれています。

宗教改革により修道院が閉鎖されてからは、ラテン語学校に。

その後、シュテルヴァーク 一家が住んでいたのでこの名前。

一家が引っ越した後は、ヴュルテンベルク州の所有に。

第二次大戦中、ポーランド人に化けたユダヤ人が住んでいました。

が、地元民がゲシュタポ(秘密警察)に密告、逮捕されます。

「あっ」

と言う間に強制収容所に送られて、処刑されました。

それほどシュヴェービッシュ ハルは、と~てもナチの色が濃い街でした。

奇妙な芸術作品

奇妙な芸術作品

その横に奇妙な芸術作品が、「ドン!」と置かれてます。

何なんでしょうね。

と、見た人が不思議に思うのが芸術家の狙い。

第三帝国の遺物 / Reichsadler

第三帝国の遺物

フランチスカーナー修道院の裏側に銀行があります。

その壁に鷲 / Reichsadler が堂々と飾られています。

知らない人に説明すると、第三帝国の象徴です。

超タブーですが、今でもちゃんと残ってます。

シュヴェービッシュ ハルの秘密の観光迷所です。

クラウスニッツアーの家 / Clausnitzer Haus

クラウスニッツアーの家

階段の上から見て左手にある巨大な骸骨屋敷はクラウニッツアーの家 / Clausnitzer Haus 。

16世紀の建造物。大火事を生き延びた数少ない建造物です。

シュヴェービッシュ ハルの財源になった、硬貨の鋳造マイスターが住んでました。

この骸骨屋敷、昔は木枠なんぞなく、漆喰で覆われていました。

1959年以降の写真になると、木枠が登場。

構造に必要な枠ではなく、単にデコレーションに木材を埋め込んだようです。

獅子薬局 / Löwen Apotheke

フランチスカーナー修道院の左にある建物は、獅子薬局 / Löwen Apotheke です。

土台、正確には主要な部分は石造りで上の部分だけ木枠で組んだ骸骨屋敷という、シュヴェービッシュ ハルの典型的な建築様式です。

街で最古の薬局で、15世紀から今まで薬局として営業中です。

家の土台に1375年と刻印されているのですが、一体、なんの年代なのかわかっていないそうです。

他の古い家の土台を借用したとの推測も。

金の鷲 / Goldener Adler

金の鷲

聖ミヒャエル教会の右手には、カフェやホテル、それに観光案内所が並んでます。

ここに有名なホテル、金の鷲 / Goldener Adler があります。

写真中、左から3つめの建物です。

皇帝も泊まった由緒あるホテルです。

あなたもいかが?

参照 : 金の鷲

市役所酒屋 / Ratskeller

市役所酒屋

金の鷲の右隣は、金の鷲ホテルのレストラン、市役所酒屋 / Ratskeller です。

昔は政治に酒(ビール)は付き物。

市役所の地階には居酒屋が入っており、居酒屋で政治が行なわれました。

これがなんと石作りの立派なもの。

その習慣で市役所に近い場所の酒屋はすべて、市役所酒屋という名前です。

通常、どこの街でも市役所の横にあるので、探してみてください。

シュヴェービッシュ ハルの市役所酒場、正確には”Adelshof”というホテルの付属(高級)レストランです。

シュヴェービッシュ ハル 魚井戸 / Fischbrunnen

シュヴェービッシュ ハル 魚井戸

市役所酒場の先にあるのが、16世紀初頭に作られたシュヴェービッシュ ハル名物 魚井戸 / Fischbrunnen です。

かってここで魚を売っていたのでこの名前。

井戸というよりも、まるで水槽。

昔はこのような四角の水槽をもった井戸が多かったんです。

当時の姿で残っているはここだけ。

皆まで言えば、井戸の台座は悪さを働いた者を辱める見せしめ台として使用されていました。

よっくみると、今日でも拘束輪が残ってます。

コッハー川沿いの光景

シュヴェービッシュ ハル コッハー川沿いの光景

次は第二の見所、コッハー川沿いを歩いてみます。

逆光になる前に、シュヴェービッシュ ハルの古い町並みのベストショットを撮らしなくっちゃ!

まずは坂を下り河畔に向かいます。

実は前日まで大雨。

アウグスブルクは朝まで雨。

「写真撮影はおじゃん?」

と心配でしたが、到着すると雲が切れてお日様が顔を見せました。

空にはまだ雲が残っており、大雨で流された枝が、その水量の多さを物語ってます。

少し先に行くと、絵葉書のような光景が。

ちょうど少し雲がかかってきましたが、ダイナミックな感じでいい。

この先がまた綺麗。

ズルファー桟橋 / Sulfersteg

ズルファー桟橋

コッハー河はこの部分に大きな中州を形成しており、石造りの桟橋 / Steg がかかっています。

ここから眺めるシュヴェービッシュ ハルの古い町並みはとっても綺麗なのでお忘れなく。

ズルファー塔 / Sulferturm

ズルファー塔

中州から旧市街に向かう場所にある塔は、ズルファー塔 / Sulferturm です。

名前の由来は不明。

ズルファーはラテン語で硫黄 / Schwefel の意味もあるんですが、なんで塔の名前になったんでしょう。

この部分は街の核をなす部分で、かっては塩の採掘現場でした。

河沿いに並ぶ見事な骸骨屋敷は

“Salzsieder” (塩職人)

の組合が入っていました。

街の富の源泉ですので、それは見事です。

シュヴェービッシュ ハルでもっとも綺麗な場所のひとつです。

お忘れなく。

庶民の居住地

庶民の居住地

では対岸に渡ってみます。

コッハー川の対岸は、敵に襲撃される可能性が最も高かったので、庶民の居住地なっています。

坂道を上っていくと、下調べで見ていた綺麗な家屋が。

ここにあったんだ!

ここまで見に来る観光客なんてゼロ。

この辺は対岸にあるので火事で焼け落ちなかったようです。

ちなみにシュヴェービッシュ ハルの駅はこの先にあります。

駅からここ(川沿い)まで300mくらいなので、電車でも観光にこれます。

「毒を食らわば皿まで」

とさらに先に進むと、山肌に沿って城壁が見えてきました。

上述のランゲンフェルダー門から延びる城壁は、ここまで繋がっていたんです。

長屋

長屋

この通りには庶民地区らしく、日本の長屋のような家屋が建っています。

が、こちらのほうが全然ステキ。

長屋なのに、それぞれ形が違う!

二階部分が出張っている形が独創的です。

聖カタリーナ教会 / St. Katharina

聖カタリーナ教会

川向いで一番立派な建造物が、13世紀建造の聖カタリーナ教会 / St. Katharina です。

すでに9~10世紀にここに教会があったのですが、お金持ちのシュヴェービッシュ ハルは、教会を14世紀に立て直しました。

これといって特徴はなさそう、、、。

こちらはプロテスタント系の教会です。

シュヴェービッシュ ハル 処刑人の橋 / Henkersbrücke

シュヴェービッシュ ハル 処刑人の橋

目当てもなく歩いていると、Altstadtbrücke(旧市街橋)が見えてきました。

別名、処刑人の橋 / Henkersbrücke です。

かってここで何が行われていたか、改めて言う間でもないですね。

「何処から撮ったら、一番綺麗に撮れるかな?」

と橋の上で四苦八苦。

対岸から撮った写真が一番良さそう。

処刑人の家

処刑人の家

橋の中ほどにある祠は、実はシュヴェービッシュ ハルの処刑人の家です。

ちなみにドイツでは処刑人は立派な職業。

まだ80年代まで(東ドイツで)処刑が行われ、お給料は処刑の数で支払われたそうです、

ヨハニス教会

ヨハニス教会

対岸に建つ骸骨屋敷が綺麗です。

尖塔が見える教会はヨハニス教会、なんと12世紀建造。

3軒目の家は”zur Ilge”という飯屋。

コッハー川を見下ろせる展望台カフェがあり、シュヴェービッシュ ハルの地元民で大人気です。

観光客は知らないで素通りしています。

カップルでお越しのは、ここで一休みしていきましょう。

まだ街の半分も見ていないので、私は休むわけにはいきません。

ヴァイラー門 / Weilertor

ヴァイラー門

ヨハニス教会の横を登っていくとかっての城門、ヴァイラー門 / Weilertorがあります。

今はワインケラーとして再利用中。

周囲の家屋が綺麗。

塔の反対側は駐車場で、町がここで終わってるのでUターンして、シュヴェービッシュ ハルの旧市街まで戻ります。

シュヴェービッシュ ハル 穀物 & 塩倉庫

シュヴェービッシュ ハル 穀物 & 塩倉庫

処刑人の橋を渡るとシュヴェービッシュ ハル旧市街です。

国営語学学校のゲーテはこの辺にあった筈(*6)。

ゲーテ・インスティテュート シュヴェービィシュ ハル

キョロキョロしていると、先に門があります。

門の右側は穀物倉庫。

左側にはシュヴェービッシュ ハルの富の源になった

「塩の倉庫」

が軒をつらねています。

この門の先にはショッピングセンターになっているので、お買い物はここでできます。

シュヴェービッシュ ハル 皮なめし職人の家

シュヴェービッシュ ハル 皮なめし職人の家

綺麗に修復されている建物を見ながら歩いていくと、エレベーター & 階段があります。

ここから見上げる骸骨屋敷は迫力。

これは19世紀半ばに建造された皮なめし職人の家(仕事場)です。

でも皮なめしに必要な河は何処?

今では下はカフェ、上はアパートになってます。

住んでみたい!

上からみるとに普通の民家ですが、下から見上げると圧巻!

エンゲルハルト宮殿 / Engelhard-Palais

エンゲルハルト宮殿

皮なめし職人の家の前の通りを先に進みます。

その先にある緑の屋敷は宮殿 のよう。

屋根の下に金文字でラテン語で何か書かれてますが、読解不可能。

調べてみると本当に宮殿でした。

名前はエンゲルハルト宮殿 / Engelhard-Palais です。

皆さん推測の通り、エンゲルハルトさんが建設させた宮殿。

こんな立派な宮殿を建設させるなんて、どんな仕事をしていたんでしょう?

それが公務員だったそうです、

シュヴェービッシュ ハルの評議会のメンバー。

政治家は今も昔も儲かる?

その後病院となり、火事で焼け落ちて再建。

ケーキ屋になり、最後は裕福な商人のお屋敷でした。

今では看護学校が入っています。

入り口の紋章

入り口の紋章

宮殿だけあって、入り口の紋章が素敵。

神聖ローマ帝の紋章の左側は風化してよくわかりません。

アップすると、風化の激しい左側は腰に手をあてた人間の姿がかろうじて見て取れます。

右側には上下共に羊さん。

ヨーゼフ塔 / Josenturm

ヨーゼフ塔

先に見えてくるのがヨーゼフ塔 / Josenturm です。

13世紀に建造されたヨーゼフ礼拝堂の尖塔として建造されました。

監視塔の役目に担っているので、普通の尖塔よりかなり高いです。

面白い(特徴的)なのは、石づくりの塔の上部に木組みの構造物を加えている点。

典型的なシュヴェービッシュ ハルの建造物です。

手前にある木枠で組まれた立派な屋敷は、ゲーテの宿舎です。

この門を出て、下界から見上げるとまるで中世の街のようです。

シュヴェービッシュ ハル 議会前の銅像

シュヴェービッシュ ハル 役所前の銅像

ヨーゼフ塔の裏の通りに役所、正式にはシュヴェービッシュ ハル議会があります。

ここの銅像がステキ。

面白くて、それでいて躍動感アリ。

ロープは手すりになっているんです。お見事。官庁なのにシャレのセンスがいい。

誰が作ったのか、調べても出てきませんでした、、。

フランチスカーナ修道院横の、

「何コレ?」

より、こちらの方が全然、ステキ。

ハル & フランケン博物館 / Hällisch-Fränkische Museum

シュヴェービッシュ ハル & フランケン博物館

とにかく綺麗な建物が多過ぎて、ここで紹介できるのはほんのわずか。

もうひとつ紹介しておきたいのが、シュヴェービッシュ ハルの博物館です。

正式名称はハル & フランケン博物館 / Hällisch-Fränkische Museum 。

19世紀半ばからこの地方の芸術、文化に関するさまざまな品の蒐集を始め、それを転じているのがこの博物館です。

ホームページで見てみると、シナゴークの内部装飾(壁)なんかも展示されており、これが凄い!

時間がある方は、是非見ていきましょう。

入場料は無料です!

トイレもあるよ!

そうそう、ハル & フランケン博物館は山の斜面にあります。

入り口は高い裏側にあり、入り口だけみるとただの小さな家。

「これが博物館?」

と思いますが、裏から見るとその全貌が見えます。

生活と物価

シュヴェービッシュ ハル 旧市街の見張り塔とカフェ

シュヴェービッシュ ハルで生活される方、この街の家賃は安いです。

人口、4万人ですからね。

物価、すなわち食料品は他の街と大きく変わりませんが、生活費の1/3を占める家賃が安いと、結構、経済的な生活ができます。

勿論、治安も抜群にいいです!

シュヴェービッシュ ハルに留学

ローテンブルクにドイツ留学したい。」

ローテンブルク 完全制覇 – これでもう観光名所を見逃さない!

というお問い合わせを、ちょくちょくいただきます。

でもローテンブルクは人口1万人の小さな町。

あまり小さな町に住むと、食料の買出しが大変です。

電車なんか走ってないし、バスもない。

最初は感激するかもしれませんが、次第に感激が退屈に変わります。

綺麗な町に住みたいのだったら、シュヴェービッシュ ハルがドイツ留学先にお勧めです。

人口が多いのでショッピングセンターはあるし、バスも走っています。

シュヴェービッシュ ハルにはゲーテがあります。

学生寮も持っており、学校まで徒歩10分、快適に生活できます。

ただしそんなに大きな街でないので、長くても3か月程度の滞在がよろしいかと思います。

学校が小さいので、生徒が少ない11月~2月は、参加者不足により初級レベルと上級レベルはコースが開催されないこともあります。

11月~2月に留学されるなら、大都市にあるゲーテを選んだほうが賢明です。

* 注釈

1  ドイツ語で「一銭もない」は ”keinen roten Heller”って言うんですよ。赤い色は銅貨であった事を示してます。

2       貧困は歴史の保存に最適と言われる所以です。

3     最近では市場で、ギリシャ、あるいはトルコの特産品(オリーブ、ペパロニ & チーズ)が販売されています。

4    田舎の人は総じて保守的。シュヴェービッシュ ハルにはナチスを狂信的に信じていた人が多かったんです。探せば今でも居ます、、。

6     ゲーテはこの穀物倉庫の右にあります。

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