皆さんご存じのドイツの首都 ベルリン は、 365万人の人口を擁するドイツ一の大都市。
あのミュンヘンの人口が150万ほどなので、その2倍強。
人口がドイツ一なら面積もドイツ一。
なんと890平方キロメートル以上もあります。
大阪市の4倍。
そのベルリン、10年ほど前までは留学先として、からっきし人気がなかったです。
しかし今やミュンヘンをしのぐほど人気の留学先に!
一体何が人気の上昇に貢献したのか?
以下にベルリンの魅力を解説していきたいと思います。
目次
街の紹介 ベルリン
ベルリンに住む魅力のひとつは、
他の町ではとても成功しないだろう客層の狭いビジネスでも、ベルリンなら存続できるので、起業の志を持った人が集まります。
他の町で禁止されている夜間の販売も、何故か小さな商店に限られるが許されている(*1)。
街の景色もベルリンならでは。
歴史を感じさせる建物があちこに建っており、これに広い歩道が加わって、他の都市では見ることのない独特な雰囲気をかもし出している。
さらにベルリンは、ドイツきってのリベラルな街。
なんでも有りです。
家賃の値上げを条例で禁止したり、
大手不動産会社の国有化を市民投票したり、話題に絶えません。
保守的な南とは正反対で、新しいものに対して許容範囲が広い。
日本なら
「そんなことは前例がない。」
で終わりですが、ベルリンっ子は
「それこそまさに今、変える理由だ。」
と考えます。
だから芸術活動やスタートアップの中心になっています。
ベルリン の語源
日本に数多く存在するドイツの都市伝説。
ベルリンに関する都市伝説も、幾つか存在しています。
その代表的なものが、
「Berlinは、Bär(熊)から派生した。」
というもの。
始末の悪いことにこの都市伝説には、その根拠まであるんです!
この為、
「”Berlin”は、”Bär”から派生した。」
という説が生まれ、ドイツ人まで信じています。
本当の語源
でも
超有名なドイツ企業のジーメンス。
日本人はドイツ語をうまく発音できないので、シーメンスと呼んでいます。
ドイツ人もスラブ語をうまく発音できないので
“berl”
がいつしか
“berlin”
になったわけです。
さらには、
「街の名前を憶えてもらおう!」
と、市がベルリンの象徴(旗)に熊 / Bär を描いたのも、都市伝説誕生に貢献しました。
ベルリン 新空港 BER オープン!
かってベルリンには7つも空港が存在していました。
効率が悪いので、シェーネフェルト空港の南に新空港 BER を建設して、ここをベルリン唯一の空港とすることがきまりました。
その後、計画ミス、手抜き工事、収賄 & 関係者の逮捕、空港建設会社の倒産などにより工期が長引き、14年も工事中。
「永遠に工事中の空港」
と呼ばれることに。
その新空港 BER はよりによってコロナ禍で、フライトが大幅に削減されている2020年10月31日にオープンしました。
空港ターミナルの地下に電車の駅があり、ベルリン中央駅まで30分で行けます。
観光に便利なホテル
ベルリンで泊まるなら、やっぱり観光に便利なホテル。
お金に糸目をつける必要がないなら、ブランデンブルク門の間の前のケンピンスキー。
要人ご用達のホテルでセキュリテイーも抜群です。
でもそんなにふんだんな予算なんか(普通の人には)ない。
そこで観光用のホテルなら、交通の要所まで歩いていける場所が最高です。
具体的な名前を挙げれば、アレクサンダー広場や中央駅。
前者ならインターホテルを改装したパークイン。
100番のバスも目の前から出ています。
中央駅ならご存じインターシテイホテル。
宿泊期間中の定期券がついてくるのが嬉しい。国会までも歩いていけます。
街の歴史
今のベルリンとその周辺は、入植に適していない沼地でした。
動物は多く住んでいましたが、より好んでこんな場所に住み着く人は居ませんでした。
ようやく7世紀頃になって、東からやってきた沼地の種族であるスラブ人が住み始めます。
この地に最初にやってきたドイツ人は、沼地に生息する動物を目当てした猟師でした。
Kölln / Cölln
その沼地を縦断する形で流れているのが、シュプレー河です。
そのシュプレー川の中央には、大きな中州が形成されていました。
文献学者によると、1237年の書簡でこの中州を、
“Kölln”
あるいは
“Cölln”
と呼んでいるのが、ベルリンに関する最古の記述です。
ブランデンブルク選帝侯領
発掘調査で、シュプレー河の両岸で12世紀ころの居住跡が見つかっています。
ゲルマン民族のベルリンへの入植は、この頃に始まったと考えられています。
当然、先住民族との争いは避けられず、絶え間ない戦争状態でした。
スラブ民族との戦闘に勝ったのが上述のアルブレヒトで、ブランデンブルク選帝侯領がこの地に建設されます。
その後もこの伯爵領を巡って、争いが絶えませんでした。
30年戦争では、スウエーデン軍が度々この地に侵入して破壊したため、ベルリンが落ち着いて発展するには至りませんでした。
30年戦争後、ブランデンブルク選帝侯領はようやく落ち着きを取り戻します。
それどころか講和条約で領土を拡大、神聖ローマ帝国内では中堅勢力にまで発展します。
選帝侯が移民政策を奨励したため、ユダヤ人、フランス人、ポーランド人、チェコ人などが移住、選帝侯領は人種のるつぼ状態でした。
ベルリン プロイセン王国の首都に!
1701年、フリードリヒ1世がブランデンブルク選帝侯に就任すると、伯爵領は進化のスピードを加速します。
まずブランデンブルク選帝侯領は、プロイセン王国に昇進します。
その後、周辺都市を統合して、ベルリンは大幅に拡大していきます。
フリードリヒ1世はこれまでの貴族と大く異なり、文化的な物には興味を見せませんでした。
王様の好きなのは軍隊(*2)。
国家予算の大部分を軍事予算に投入して、将来の争いに備えます。(*3)
フリードリヒ大王
フリードリヒ1世の息子が、フリードリヒ2世です。
フリードリヒ2世は王様に就任する前は、
「あの王子様が王様になったら、国はおしまいだ。」
と悲観される人物でした。(*4)
ところが王様になると、まるで人が変わったかのような変身を遂げます。
超大国オーストリア帝国の領土であるシュレージエンを、勝手に武力占領。
これがきっかけで、二度も戦争がおきます。
フリードリヒ2世自ら兵を率いてベルリンから出陣。
しかし小さなプロイセンは、ロシア、オーストリア帝国、フランス、ザクセン王国などを敵に回し、孤立無援。
転換は7年目に訪れます。
ロシアの女帝が死ぬと、後継ぎは早々に講和条約を結びます。
これで勢いがついたプロイセンは反撃に出て、最後は講和条約でシュレージエンを含む領土を保持。
人々はその功績を称えて、フリードリヒ大王と呼ぶことに。
統一ドイツの首都に!
勝ち続けたプロイセンに最初の敗北を味合わせたのが、ナポレオンです。
完敗したプロイセンは、領土の1/3を失います。
これがきっかけになり、社会構造の大改革が実施されます。(*5)
改革の甲斐あってナポレオンを撃退します。
ナポレオンの敗退後、
「デカイ顔」
をしていたのは超大国のオーストリア。
プロイセンはそのオーストリアを戦争で負かすと、お次はおフランスの番。
ドイツ史上初めて、ドイツ諸国が統一してフランスと戦います。
その普仏戦争に勝利したプロイセンは、ドイツ第二帝国の樹立を宣言。
首都はベルリンに置かれます。
第二次大戦後、西ドイツの首都はボンに移りますが、1989年の東西ドイツの再統一で、再びベルリンは首都になります。
生活と物価
日本でも大都市で生活されている方、あるいは都会志向の方には、ベルリンはとても住みやすいです。
日本のように高層ビルが建ち並んで視野を遮ったり、高速が街の景観を壊したりすることがないので、知らなければ365万も住んでいる街とは思えません。
行きたい場所には公共交通機関で行けるし、週末となれば24時間電車が走っているので、高いタクシーを使う必要もありません。
これだけ外国人が多いのに、外人局は「話がわかる」人が多く、滞在ビザも取りやすいです。
バイエルン州のアウグスブルクと比べたら、天と地、同じ国の制度とは思えません。
ベルリン生活のマイナス面は治安。
夜になると昼間は治安のいい場所も、危険な場所に代わります。
男性でも避けるべき危険エリアは、
の三か所。
アレク周辺も夜は危険なので、できるだけ避けた方がいい場所です。
こうした場所を意識して避ける最低限度の自己防御措置を取れば、ベルリンで快適に暮らせます。
ベルリン名物 Club Mate
他の地域ではほとんど飲まれないのに、ベルリンで大人気の飲み物がある。
それが”Club-Mate”(クルップマテ)です。
日本で言えば、「午後の紅茶」。
マテ茶を使ったアルコールフリーの炭酸飲料だ。
誰も見向きもしなかったこの飲み物が、ベルリンのハッカーの間で人気を博したのがきっかけ。
次第にパーテイーに欠かせない飲み物になった。
理由はたっぷり含まれているカフェイン。
ベルリン以外では人気がないので、見かけることはない。(*9)
ベルリーナー
クルップマテがベルリンだけの飲み物なのに対して、ベルリーナーはドイツ全土で人気の菓子パン。
正式なドイツ語では、”Berliner Pfankuchen”(ベルリン風パンケーキ)。
ドイツ人は簡単に、
「ベルリーナー」
と呼ぶ。
言い伝えではベルリンの兵役検査で不合格になった志願兵が、兵隊の糧食を作る部隊に入隊した。
パン粉をこねて大砲の玉の形に丸めると、オーブンがなかったので油で揚げたのが、このベルリーナーの起源だと語られている。
中にはジャムが入っており、ドイツ人は大好き!(*10)
プロイセンがドイツを統一すると、このベルリーナーもドイツ全土に広まった。
観光客を狙った詐欺に要注意!
相手は子供だったりしますが、ブルガリア、ルーマニアからやってきたちびっこギャング団。
見くびらないように!
詐欺の方法はなんやら書類を出して、サインをせびる方法。
サインをすると、
「お金を払え!」
というわけです。
まずサインする必要がないし、サインしても払う必要はなし。
なのに騙されて払っている人が多いです。
隙を見てお財布を盗む上、バックなどはカミソリで裂いて貴重品を盗み出します。
子供だから!と油断しては駄目!
相手はプロです。
ベルリンドームの前には、ぬいぐるみを被っている詐欺師が登場。
写真を撮って小銭を要求するか、隙をみて財布を盗みます。
ベルリン 留学
ベルリン にはゲーテから、値段が良心的なF+U Academy 、ドイツ語専門学校のカール デユーイスベルク、それに DiD Institut 等、多くの語学学校が存在しています。
学校選びに苦労することはあっても、学校が見つからないことはないです。
まだ5~6年前はドイツ留学先と言えばミュンヘンかフライブルクでしたが、今ではベルリンはミュンヘンと同じくらい人気の留学先となっています。
日本食ブームも手伝って、日本食レストランの数はデユッセルドルフよりも多いので、アルバイト探しにはいい環境が整ってます。
交通公共機関
ベルリン観光に欠かせないのが、公共交通機関です。
というのも市内の公共交通機関、週末(金曜日と土曜日)は24時間営業!
あのバンコクでも24時までなのに!
おまけに(日本と比べたら)とっても安価に利用できます。
ドイツでは1日乗り放題チケット、1週間乗り放題チケット、それに1か月乗り放題のチケットがあります。
2022年の時点で、ベルリン中心部をカバーする1日乗り放題チケットが8,80ユーロ、1週間乗り放題チケット36ユーロです。
5日滞在するなら、1日乗り放題チケットよりも、1週間の乗り放題チケットがお得という計算になります。
さらにはほとんどの電車で、自転車持ち込み可!
自転車用のチケットが要るので、購入をお忘れなく。
チケット価格は毎年変更されるので、正しい価格は交通局のホームページで価格をチェックしてください。
ベルリン 人気の観光名所を大特集!
日本人に一番人気の観光先はミュンヘンですが、世界の観光客に一番人気の町は首都のベルリンです。
第二位のミュンヘンに圧倒的な差をつけています。
その次がハンブルクで、4位に来るのが不思議なことにフランクフルトです。
ベルリン人気の秘密は、その歴史。
19世紀に近代ドイツ史の表舞台に登場して、今日まで君臨しています。
当然、その史跡が数多く残っており、観光客をひきつけています。
今回は1週間ほど滞在して、ベルリンの観光名所を回って写真を撮影してきました。
以下に詳しく紹介したいと思います。
ブランデンブルク門 / Brandenburger Tor
ブランデンブルク門 / Brandenburger Tor はベルリン観光の目玉のひとつ。
日本では凱旋門とも言われていますが、間違いではありません。
最初のブランデンブルク門は17世紀に、関税を徴収する目的で城壁の一部を取り壊して作られました。
1788年、ドイツの対仏戦の勝利を祝うため、この初代ブランデンブルク門が取り壊されて、凱旋門の建造が始まります。
完成した門は高さ20m、幅62.5mの大作です。
ローマ帝国時代からの慣習を踏破、門の上には高さ6mのクアドリガ / “Quadriga” 、古代の戦車を導く女神の銅像が飾られています。
第二次大戦では大きな被害を受けましたが、あの東独政府が10年以上の歳月と大金をかけて修復しました。
しかしブランデンブルク門は東西べルリンの境界線にあったため、一般市民は近寄ることさえできず、ドイツ分断の象徴となってしまいました。
観光客が気軽に訪問できるようになったのは、再統一後です。
帝国議事堂 / Reichstag
帝国議事堂 / Reichstag は午前中を除き、いつ行ってもいい写真が撮れます。
全体像は少し下がって、緑の芝生の上から撮るのがコツ。興味のある方は、中にも入れます。
おまけに無料で!
ただし警備上の理由で、一度に入れるのは25人まで。
希望者が多いので、事前に申告が必要です。
建設史
第二帝国樹立後の1871年、
「統一ドイツにふさわしい議事堂を建設しよう!」
と、新しい議事堂の建設が議決されます。
お手本になったのは、プロイセンの議事堂 です。
完成したのは1894年。
建設費は今の価格で、1億6500万ユーロと見積もられています。
この費用は普仏戦争で負けたフランスの賠償金から捻出されました。
ドイツ国民に奉ぐ / Dem Deutschen Volke
帝国議事堂が完成した後になっても、決まらなかったのがひとつ。
それは、
「どんな文句を、国会の正面に刻むか?」
という論争です。
皇帝とベルリンの皇族至上主義者は、
「ドイツ皇帝に奉ぐ」
という文字を好みます。
一方委員会は、
「ドイツ国民に奉ぐ / “dem Deutschen Volke”」
という言葉を好み、20年間も続く大論争に。
その間に第一次大戦が勃発。
戦況が芳しくないので、
「提案に反対はしない。」
と皇帝が譲歩。
こうしてやっと有名な文字” dem Deutschen Volke”が刻まれることになりました。
首相官邸 / Bundeskanzleramt
帝国議事堂の正面に立つと、左手にスイス大使館と首相官邸 / Bundeskanzleramt があります。
2001年、前任者のシュレーダー首相の在任中に完成したモダンなガラス張りの首相官邸だ。
正直、全然、パットしない。
建築上面白いものはひとつもなく、建築された当時から評判が悪かったが、今になっても変わっていない。
お陰でここまでくる観光客もいないのが、唯一の長所。
日本と違い、首相官邸なのに警察の姿も見えません。
ベルリンは平和だな~。
ベルリン 勝利の塔 / Siegelssäule
ベルリンの有名な観光名所の勝利の塔 / Siegessäule は、ブランデンブルク門から続くパレード用の道路を30分歩いた先にある。
ドイツ統一戦争で、プロイセンがデンマークに戦勝した事を記念すべく、建設が始まった。
完成したのは1873年。
当時は帝国議事堂のある Königsplatz に建立されました。
下部には立派なモザイク画が。
そこにはドイツ統一の立役者、ヴィㇽへルム一世、ビスマルク、参謀本部長モルトケ、戦争大臣ルーム、それに悪者としてナポレオンが描かれている。
そして見晴台から見渡すベルリン中心部は、絶景でないですが、十分に綺麗です。(*6)
勝利の塔の中は(ちょっとがっかりな)博物館になっています。
入場時間 : 4月~10月 9時30分~18時30分
11月~3月 9時30分~17時30分
入場料 : 3ユーロ
勝利の女神 ビクトリア
塔の高さは67m。
てっぺんで勝利の月桂冠の(金の)冠をかざしているのは、勝利の女神 ビクトリアです。
行き方 – 100番バス
帝国議事堂の横に、有名なベルリンの観光バスの100番の停車場があります。
これに乗れば勝利の塔、”Siegessäule”まで5分で行けます。
歩くと30分くらいかかるので、バスがお勧めです。
勝利の塔の停車場は “großer Stern” (大きな星)ですが、その手前はドイツの大統領の宮殿もあるのでお見逃しなく。
ビスマルク記念碑 / Bismarck-Nationaldenkmal
勝利の塔の横に、ビスマルク記念碑 / Bismarck-Nationaldenkmal があります。
ドイツ統一の立役者である
- 宰相ビスマルク
- 参謀本部長モルトケ
- 戦争大臣ルーム
の銅像が立っている。
この記念碑は当初、ベルリンの帝国議事堂の前に設置されていた。
しかしナチスの時代に建築場所を確保する目的で、今の場所に移されてきた。
この場所だと気づかない人も多いので、帝国議事堂前に戻して欲しい
ヘルムートモルトケ公爵記念碑 / Helmuth-Graf-von-Moltke-Denkmal
プロイセンが数の上では劣勢であったのに、大国のオーストリアを破ることができたのは、
- 優れたクルップ製の武器
- 参謀本部長モルトケの戦術
があったと言われています。
普仏戦争での勝利後、彼の名声はヨーロッパで広まり、
「モルトケがいれば、負け(勝て)ない。」
と言われたほど。
結果、モルトケはビスマルクが更迭されても参謀本部長に留まり、90歳の高齢になるまで引退を許されず。
そのモルトケの功績を記念してベルリンはおろか、ドイツ中にモルトケ通りが命名されました。
首都ベルリンには立派な大理石の記念碑が建てられました。
大統領官邸 / Schloss Bellevue
折角だから、ここまで来たらベルリンにある大統領官邸 / Schloss Bellevueも見ていこう。
何しろ、大統領は首相よりも上の地位にある最高権力者だ。
ドイツの大統領は、国会議員の投票で決まる。
大統領官邸は大統領の執務室、迎賓館、そして大統領の住む家でもある。
官邸に使われている城を建てたのは、ドイツ人に一番人気の王様、フリードリヒ二世(戦争で負けなかったので大王とも呼ばれる)の弟だ。
第一次大戦では陸軍参謀本部として機能、同盟国の司令官がここに設置されていた。
第二次大戦では爆弾が命中、壁を残して焼け落ちた。
戦後、残っているレンガをかき集めて、戦前の姿に再建された。
ベルリン統一後、大統領官邸として使用されている。
ロシア兵慰霊碑 / Sowjetische Ehrenmal
元気があればバスを使わず、勝利の塔から徒歩で凱旋門方向に向かって歩き出すと、途中にロシア兵慰霊碑 / Sowjetische Ehrenmalがあります。
1945年4月16日、ベルリンを包囲したソビエト軍は歴史上、
「第二次大戦の最後の戦闘」
と呼ばれることになるベルリン攻防戦を開始します。
ドイツ軍は最後の予備をベルリン攻防戦に投入、ほぼ100万人、16歳の子供から60過ぎの男性まで、首都の守備に駆り出されます。
一方、攻撃するソビエト軍は250万の兵力を擁して、6000台を超える大型戦車をこの戦いに導入。
この戦いだけで17万人ものソビエト兵が死亡。
そのソビエト兵士の7000人の遺体が埋葬されているのが、この慰霊碑です。
入り口の両脇には、ソビエトを敗戦から救った救世主のT-34戦車が2台展示されている。
あのドイツで落書きもない、とてもいい状態で保存されています。
ルストガルテン / Lustgarten
有名な100番バスに乗ると、ベルリンのど真ん中に面白い名前のルストガルテン / Lustgarten という停車駅があります。
ルスト / Lust には(性的)欲望という意味(もある)。
期待していたら、肩透かし。
こちらのルストガルテンは、大きな敷地を指す言葉なんです。
冗談はさておき、かってベルリンがブランデンブルク選帝侯領だった頃(15世紀)、この沼地だった場所に庭園が築かれました。
その後、宮廷造園職人などを招き立派な庭園に仕上げ、外国から珍しい植物を輸入してここで植え付けます。
現在は博物館島の一部で、激動のベルリンの歴史を生き延びた壮麗な建造物が並んでいます。
博物館島に行く際は、ここで降りれば入り口はすぐ目と鼻の先。(*7)
ベルリン ドーム / Berlin Dom
ルストガルテンに建っている見後なドームは、ベルリンドーム / Berlin Dom と呼ばれる教会です。
最初に建造されたのは16世紀。
北にあるプロイセンなのでカトリックではなく、プロテスタント系の教会です。
18世紀になるとあちこち傷んできたので、フリードリヒ大王が古い教会を取り壊して新築を命じます。
完成したのは、大王の死後。
ドイツが統一されると、
「第二帝国にふさわしい立派な主要教会がベルリンに欲しい。」
という皇帝の要望で、1894年、3度目の建築が始まります。
完成したのは1900年。
改修工事中
戦争中ベルリンは何度も爆撃に遭い、ドームも大被害を受けてドーム(天井)は焼け落ちます。
その他の基礎部分は戦争の災禍を逃れます。
東独政府には再建する金がなく、1975年まで廃墟のまま。
やっと再建が始まるも、長い間放置していたので大工事が必要で、完成する前に東独政府は消滅しました。
2019年、教会の表面の彫刻がガタついてきたので、修復工事が始まってます。
終了するのは2023年(予定)なので、しばらくは工事中の形で我慢しなくてはなりません。
本来はドームの展望台にも(7ユーロの入場料を払えば)入れるんですが、しばらくはこれもできないかもしれません。
古代博物館 / Altes Museum
ベルリン ドームの斜め横になる壮麗な建物が、古代博物館 / altes Museum です。
プロイセンで最初に建造された博物館です。
ご覧の通りの立派な建造物なので、他の博物館同様に、ユネスコから世界遺産に指定されています。
一言で建設されたといっても、それは大変な工事でした。
ベルリンは地盤の弱い湿地帯。
湿地帯ですからね。
石造りの巨大な建物を建てれば、地盤が沈下してしまいます。
そこで3000本もの杭を打ち込み、これを土台にしてまるでベニスの街ように博物館が建造されました。
当初陳列されていた芸術作品は、
「国民の一般教養を高めるため」
と、王様が私財を投入してイタリアやイギリスの芸術収集家から買い取った品を展示していました。
今では主に古代の彫刻などが陳列されています。
開館時間 : 10時~18時
入場料 : 10ユーロ
ベルリン 博物館島 / Museuminsel
博物館島 / Museuminsel はシュプレー川の中州にあります。
一部はルストガルテンにあり、中州の先っぽまで博物館が所狭しと並んでいます。
この場所の「有効利用」を始めたのは、プロイセン王国の時代、「兵士王」と呼ばれたヴィルヘルム1世です。
冬にはベルリンの寒さで枯れてしまう植物を、ここで屋根付きの建物に保管していました。
ヴィルヘルム1世は植物には興味をみせず、この中州を貴重な塩などの倉庫としての経済的な使用が始まります。
ドイツを統一したヴィルヘルム一世の時代になると、第二帝国は海外に植民地を獲得、富をたくわえていきます。
海外の発掘作業で見つかった貴重な物品を陳列して自慢する場所が必要になり、最初の博物館がベルリンに設置されます。
それからは中州部分に次々と博物館が建設され、博物館島と名前を変えました。
古代国立画廊 / Alte Nationalgalerie
古代国立画廊 / Alte Nationalgalerie は、博物館島にある美術館です。
ご覧の通り、入り口の階段 / Freitreppe で有名。
そもそもプロイセンには美術館がなかった(プロイセンらしい!)ので、列強にふさわしい美術館を建てようと考えていました。
その時、ベルリンの銀行家で、絵画の収集家で有名だった人物が死去。
遺言で「ばら売り」しない事を条件に、ドイツ統一を成し遂げた皇帝に美術品を託します。
これがきっかけで1867年から古代国立画廊の建設が始まり、5年後に完成。
完成時のセレモニーには皇帝も出席して、盛大に祝われました。
古代国立画廊の前には、この美術館の建造を依頼したフリードリヒ ヴィルヘルム4世(完成したのは死後)の乗馬している素晴らしい銅像が立ってます。
第二次大戦では大きな被害を受け、展示作品の多くはソビエト軍に押収されました。
戦後、東ドイツ政府が20年の年月をかけて再建。
ドイツが統一されると、西側にも国立画廊があったので、古代画廊と呼ぶことで区別をしています。
開館時間 : 10時~18時
月曜日 休館
入場料 : 10ユーロ
ボーデ博物館 / Bode-Museum
中州の角に建っている象徴的な博物館が、ボーデ博物館 / Bode-Museum です。
この博物館の成り立ちは、ボーデという芸術歴史家の
「ベルリンに芸術作品を集めた芸術博物館を作ろう!」
という提案にその端を発します。
氏は皇帝一家の図書館、および芸術収集の責任者でもあったので、同氏の意見には皇帝が耳を傾けたわけです。
ボーデ博物館は1888年に完成して開館しました。
戦争中は被害が少なかったのですが、20世紀末になると老朽化の為、大幅な改装工事が始まります。
8年の年月をかけて修復、2006年に再び開館されました。
ボーデ博物館に陳列されているのは彫刻、それにビザンティン芸術です。
開館時間 : 10時~18時
休館 : 月曜日
入場料 : 10ユーロ
ペルガモン博物館 / Pergamonmuseum
ベルリンの博物館島で最大の人気を誇るのが、ペルガモン博物館 / Pergamonmuseum です。
ペルガモン博物館自体がまるで、神殿のような豪華絢爛な大理石の建造物です!
ここに陳列されているのはバビロニア(今日のイラク)、およびエジプトで発掘された石像や遺跡です。
博物館の名前は、バビロニアの王様が紀元前2世紀に建造させた神殿、ペルガモン神殿から来ています。
尚、ペルガモン博物館はすでに5年前から工事中で、工事が完成するのは2023(予定)年です!
開館時間 : 10時~18時
休館 : 月曜日
入場料 : 19ユーロ
忘れられた神殿
新興宗教の浸透によりバビロニアでも古来の宗教、宗教建築物は顧みられなくなります。
付近の住民は家屋を建てる際に必要な石を、かっては神聖だった神殿から取ってくる有様。
19世紀になると西欧人がこの地にやってきて、壊れている神殿に感銘を受けます。
皆、一番見栄えのいい部分を切り出して、自国に持ち帰り自慢します。
その一人にドイツ人技師がいて、
「このままでは神殿はなくなってしまう。」
と心配、
「是非、発掘作業を!」
と、ベルリンで王様に嘆願。
その結果、発掘チームが調査に派遣され、神殿の一部品を切り取ってベルリン帰ります。
でも興味を見せる者は少なく、忘れられてしまいます。
発掘 & 博物館の建造
1987年に王立博物館長に就任した人物が、倉庫の中で神殿の一部を見て
「これは凄い。」
と感激。
ベルリンにはギリシャ彫刻が少なかったので、一気に劣勢を挽回するチャンスを見出します。
ドイツ政府はオスマントルコに発掘の許可を取り付けると、発掘を開始。
ここで発掘した遺跡を展示しようにも、あまりに大きすぎて、展示室に収まらない!
そこでペルガモン博物館の建造が始まり、完成したのは1899年。
第二次大戦でも被害を受け、柱には砲弾が当たった大穴がそのまま残ってます。
道理で大掛かりな工事が必要なわけだ。
イシュタール門 / Ishutar-Tor
ベルリンのペルガモン博物館のもうひとつの観光の目玉が、イシュタール門 / Ishutar-Tor 。
初めてみると誰もが感激するこの門は、バビロンの伝説的な王様、ネブカドネッツア二世が建造したバビロンの街の入り口を守っていた門。
厳密に言えば、街への入り口は5つあったので、そひとつの門。
300年後、バビロンを征服したアレクサンダー大王は、バビロニアの豪華かさ、その技術に度肝を抜かれて、ここをその帝国の首都にしたほどだ。
その大王も若くして死去。
次第に街は衰退して、人々の記憶から消えさっていく。
再発見
19世中頃、この地を訪れたフランスの遠征チームが色のついたレンガを回収して帰っていく。
その40年後にこの地を訪問したのが、ドイツ人建築家。
彼はこのレンガの意味を理解して、ベルリンに報告。
王立博物館がまずは証拠物件を確保するように命じたので、レリーフを発掘して帰国。
「これはどえらい発見になる。」
と、王立博物館を説得して発掘が始まったのは1899年。
搬送 & 組み立て
3年にも渡る発掘作業で集めたレンガは399の木箱に収納され、オスマントルコ政府の許可を取ったうえで、船便でベルリンに送られる。
2000年以上も地中に埋もれていたので、レンガはすっかり塩漬け。
これを異なる濃度の海水に漬けて、ゆっくりと塩分を落とすのに1年半もかかった。
さらに長い年月をかけてパズルをはめ合わせ、イシュタール門がベルリンで一般に公開されたのは、1930年。
幸い戦争被害もまぬかれて、アレクサンダー大王が最初に目にしたであろうバビロンの正門、イシュイタール門をベルリンで感嘆することができます。
ベルリン の壁 慰霊碑 / Gedenkstätte Berliner Mauer
街の代名詞になっているベルリンの壁。
本物のベルリンの壁はほとんど撤去されており、どこが東西の境界になっていたのかわかりません。
唯一、”Ackerstr.だけはかっての境界線を見ることができます。
路面電車の10番に乗り、”Gedenkstätte Berliner Mauer” 駅で降りてください。
国境を超えようとして射殺された東ベルリン市民の慰霊碑と一緒に、かっての壁が東西の境界線に沿って残されています。
イーストサイドギャラリー / East Side Gallery
観光客が足を運ぶ
「ベルリンの東の端」
が、イースト サイド ギャラリー / East Side Gallery だろう。
撤去された壁の大部分は粗大ゴミとなるか、物好きな収集家に安価で販売されました。
ごく一部は、イースト サイド ギャラリーに飾られています。
シュプレー河の東岸(イースト サイド)に並んでいるので、この名前。
ここに行くには複数の方法があります。
S-Bahn、地下鉄、あるいは 路面電車M10を使って、ワルシャワ通り / Warschauer Str. 駅まで。
ここから徒歩7分ほど。
日本人に大人気!ベルリンの壁詐欺
イースト サイド ギャラリーのお土産屋では、
「本物のベルリン壁!鑑定書付き」
と書かれたコンクリの破片が、立派な値段で販売されています。
日本人は書かれている物に弱いので、
「本物と書かれているんだから、本物だろう。」
と、信じて購入される方が後を断ちません。
ここにもやはりキオスクがあり、「本物の壁」が売られています。
そんな簡単なトリックに騙されませんように。
上の木橋 / Oberbaumbrücke
イースト サイドギャラリーのすぐ近くには、上の木橋 / Oberbaumbrückeがあります。
映画・ドラマなどのシーンでよく登場する独特な形の橋です。
シュプレー川は古来から、物品の輸出入に使われてきました。
ベルリンへ持ち込まれる品に対して関税を徴収する(密輸を防ぐ)目的で、川に木橋をかけます。
そのひとつがこの上の木橋です。
19世紀末、ベルリンはこの木橋を鉄道も通れる橋に改造することを決定、ジーメンスに建設を依頼。
こうして出来上がったのが、今の上の木橋です。
第二次大戦末期、ソビエト軍のベルリン侵入を拒むためドイツ軍によって爆破されました。
が、あまりに頑丈に作っていたので、壊れたのは一部だけ。
戦後、東独政府が修復して、西と東を結ぶ重要な交通路となりました。
再統一後、大金をかけてかっての姿に修復され、欠かせないベルリン観光の名物になっています。
橋の屋根のある部分は大量の浮浪者が占拠しています。
夜間、この辺りに来るのは厳禁です。
チェックポイント チャーリー / Checkpoint Charlie
まだベルリンが分断されていた頃、米国管轄地域とソビエトの管轄地域の
「関所」
になっていたのが、チェックポイント チャーリー / checkpoint charlie で す。
ドイツ統一に伴いここにあったオリジナルの小屋は、撤去されました。
その後、大きなビルが建ち、跡形もなくなりました。
数年後、
「ベルリンの歴史を後世に伝える必要がある。」
と、ここに小屋のコピーを建てました。
素人役者が米軍の服装で立って、観光客から小銭をもらってます。
行き方
これまでは地下鉄6番 /U6 の街の中央駅 / Stadtmitte が最寄り駅でしたが、ちと遠かったです。
といっても徒歩7~8分程度。
徒歩7~8分でも旅行者には、
「どっちに行けばいいの?」
と方向がわからない。
ドイツ語に達者なら犬の散歩をしているドイツ人(現地人の証)に聞けるが、そんな人は稀。
今回行くと、ベルリンは なんとチェックポイント チャーリー駅を新設してました!
これで迷わず行けます。
チェックポイント チャーリー駅で降りて地上に出ると、チェックポイント チャーリーまで50m。
地表に出て「どっち?」とキョロキョロすればわかります。
モーレン通り駅 / Mohrenstr.駅
チェックポイント チャーリーの写真を撮ったら、駅とは逆方向に歩いていこう。
道沿いにベルリン分断当時の写真が展示されており、興味のある方には資料館もある。
7分ほど歩くと地下鉄7番、中央駅 / Stadtmitte がある。
そのひとつ先の通りを左折して200mほど歩くと、地下鉄のモーレン駅 / U Mohrenstr. がある。
知る人ぞ知るかってのヒトラーの首相官邸には、ベルサイユ宮殿の2倍の長さ(100m)の赤い大理石の廊下がありました。
戦後、
「あの大理石は何処に行った?」
と話題になっています。
何故かモーレン駅は一面、赤い大理石で覆われています。
ただの地下鉄の駅ですよ?
わざわざ大理石を切り出して、駅の壁に使いますか?
以来、
「首相官邸の大理石はモーレン駅に使われているのでは?」
と語られています。
旧西ベルリンの中心部 クーアヒュステンダム
かっての西ベルリンの中心部で、最も華やかだったのは、クーアヒュステンダム。
今でもお買い物の中心部で、ショッピングセンター、デパート、大学、それにいろんな史跡が集中している。
ベルリンは4つに分断されていたので、4つの主要駅があった。
そのひとつが、日本人には舌が絡まって発音できない ツォーローギッシャー ガルテン駅 / Bahnhof Zoologischer Garten 。
ここには動物園、それもドイツで最古の動物園があるので、動物園駅という名前。
興味のある方は、どうぞ。
入場料 : 成人 16ユーロ、子供半額
カイザーヴィルヘルム記念教会 / Kaiser-Wilhelm-Gedächtniskirche
クーアヒュステンダムには、戦争で大被害を受けたカイザーヴィルヘルム記念教会 / Kaiser-Wilhelm-Gedächtniskirche が痛々しい姿で建っています。
50年代、本当は全部撤去される筈だったのですが、ベルリン市民の反対で尖塔だけ残されました。
横には新しい教会も経っていますが、やはり見てほしいのは半壊している教会の方。
まだ残っている壁、床、天井には見事なモザイクが施されてます。
これが壊れていなければどんなに立派だったろうか。
戦争の痛ましさをよく伝えてくれます。
西のデパート / Kaufhaus des Westens
ベルリンが分断していたころに、西側の豊かさを東にみせつける象徴となったデパートが、 “Kaufhaus des Westens”(西のデパート) 。
略して KaDeWe だ。
日本でいえば三越伊勢丹。
ドイツではデパートが軒並み衰退、倒産する中、唯一、黒字を出している高級デパート。
記念教会から歩いて5分でいけるので、是非、冷やかしにいってみよう
日本同様に、フードコートは屋上にあります。
ベルリン アレクサンダー広場 / Alexanderplatz
アレクサンダー広場 / Alexanderplatz はかっての東ベルリン地区にある交通の要所です。
ベルリン新空港 BER からは”RE7″か”RB14″の電車に乗れば、アレクサンダー広場駅に到着する。
所要時間は25分。
アレク(アレクササンダー広場の短縮形)まで出れば、ここを経由してない電車は(ほとんど)ないので、何処へでも乗り継げます。
交通の要所という実際面の他に、ベルリンを象徴する一面ももっています。
誕生史
ベルリンで映画が撮影されると、必ずアレクで撮影が行われます。
日本で言えば渋谷のスクランブル交差点みたいなもの。
もっとも規模ではこちらが上で、なんと8ヘクターもの広さ。
戦争で多くの建物が焼け落ちたことを利用して、東ドイツ政府がまだ残っている建物まで壊して、ここに四角形の大きな広場を作ったのがきっかけ。
まさかギリシャの王様から?
違います。
18世紀初頭、ロシアの皇帝アレキサンダー一世が、ちっぽけなブランデンブルク選帝侯領を表敬訪問。
フリードリヒ ヴィルヘルム3世がこれに感謝して、ベルリンの「パレード広場」をアレキサンダー広場に改名したのがきっかけです。
これには東ドイツ政府も苦情がなかったので、名前はそのまま残されました。
テレビ塔 / Berliner Fernsehturm
東独政府は西側にみせつけるために、この場所にドイツで一番高い建造物であるテレビ塔を建設させます。
高さは368mもあり、同様の目的で建造された日本の東京タワーよりも30m以上高いです。
現在では年間100万人の観光客が訪れる観光名所です。
ベルリンを一望できるのですが、値段も立派。
現地で買うチケットと、事前に予約して買うチケットが用意されています。
レストラン & Bar も設置されているのでリッチな旅行を楽しんでいる方には、お勧めします。
営業時間 : 3月~10月 9時~24時
11月~2月 10時~24時
入場料 : 16,50ユーロから
旧インターホテル / Interhotel
東ドイツ政府は直営の☆☆☆☆☆ホテルチェーン、インターホテルを1965年に設立。
目的は外貨の獲得。
以来、共産圏のホテルと言えば、インターホテルでした。
東ドイツ政府はベルリンのとりわけ目立つ場所にインターホテルホテルを建設。
以来、アレクサンダー広場の名物になっています。
その他、数多くの東ベルリンの企業同様、壁崩壊を生き延びることができず、二束三文でドイツ銀行など、西側の投資家に売却されました。
今ではPark In というホテルに変わっています。
世界時間時計 / Weltzeituhr
ベルリン市民が待ち合わせ場所に使うのが、この世界時間時計 / Weltzeituhr の前。
東ドイツ誕生20周年を記念して作られた16トンもの鉄の塊には、世界の24の時間ゾーンと146の場所の場所が表示されている。
この世界時計と後ろに建つデパート Kaufhof は、テレビ塔、インターホテルと並び、アレクサンダー広場の名物です。
ベルリンに来たら記念撮影をお忘れなく。
夜になると、この場所は危険です。
警察がほぼ絶え間なく巡回していますが、何しろ広すぎます。
女性の一人歩きは控えましょう。(*8)
ベルリン 赤い市役所 / Rotes Rathaus
アレク(サンダー広場)から歩いて数分の所に、ベルリンの市役所がある。
まるでベルリンの左翼思想を想起されるように真っ赤なので、赤い市役所 / Rotes Rathaus と呼ばれている。
1817年、プロイセンの首都にふさわしい立派な建物にすることが決定され、公募されると欧州の有名な建築家がさまざまな案を送ってきた。
しかし最後にはプロイセンの建築評議会 / Baurat の案が採択され、10年の歳月をかけて建築された。
ベルリン ポツダム広場 / Potzdamer Platz
西ベルリンのもうひとつ交通要所のひとつがここ、ポツダム広場 /Potzdamer Platz 。
近くにはソニーセンターがあり、ブランデンブルク門まで1Kmほど。
名前の由来は、18世紀の初めにここにあったポツダム門。
18世紀後半、ドイツ第二帝国の二代目の皇帝ヴィルヘルム二世が
「遠回りしなくても夏の宮殿へ行ける道を作れ。」
と命令。
出来上がったのが、ポツダム門から伸びるポツダム通りです。
その周辺の土地はポツダム広場になりました。
現在ではベルリンの経済的な重要ポイントになっています。
ドイツ鉄道の本社ビル、高層高級ホテルなどが立ち並び、とってもお上品な場所です。
ソニーセンター / Sony Center
ベルリンのこの一等地に、飛ぶ鳥を落とす勢いだった(過去形)ソニーが、2000年から3年の年月と巨額の費用をかけて開発したのが、ソニーセンター / Sony Center だ。
独特の建築様式で、今でも人気が高い。
しかし10年後には韓国企業に売却された。
現在ではカナダとニューヨーの投資家が保有している。
真ん中にある噴水が人気で、いつも人が絶えない場所。
カフェやレストランが並び、いつも何かの販売セールが行われている。
が、一般人にはここにあるスタバと映画館くらいしか接点がない。
高級ホテル Hotel Esplanade
ソニーセンター敷地内の一角には、戦前に豪華絢爛で有名だった Hotel Esplanade の遺跡が陳列されています。
「黄金の20年代」
にはベルリンでもっとも有名なホテルだったのに、戦争で大破。
外壁の一部しか残っていない。
あまりに名前が有名なので、その名前を勝手に使っているホテルが、国中に存在しています。
ホロコースト慰霊碑 / Denkmal für die ermordeten Juden Europas
ポツダム広場とブランデンブルク門の間、ベルリンの一等地にあるのが殺害された欧州ユダヤ人の慰霊碑 / Denkmal für die ermordeten Juden Europas。
日本語で検索すると、
「殺害されたユダヤ人の記念碑」
なんて記述が多数あります。
洒落にならないので、慰霊碑と記念碑の違いくらい、しっかり使い分けましょう。
でも洒落にならないのは、おかしな日本語だけではありません。
誕生史
ベルリンが統一されてから、
「殺害されたユダヤ人の慰霊碑を作ろう!」
と企画があったのですが、10年近く先送りにされ、その度に予算カット。
「できれば作らずに済ませたい。」
とでも言っているようでした。
最終的に予算が決まり、芸術家からさまざまな案を公募、採択されたがこの案でした。
ベルリン市民の反応は、
「よくわからない。」
という意見が大半でしたが、ドイツ企業がコンクリートを流し込んで作成。
真っ二つに割れた慰霊碑
しかし3年も経たないでひび割れが発生。せかっくの慰霊碑が、真っ二つに!
「修復の費用は誰が払う。」
「どうやって修復する?」
でまた長い議論。
結局、ベルリン市が予算を払って鉄のコルセットを処方。
これが原因か、それとも敬意を示すためか、慰霊碑の上に乗ると、警備員からの怒声が飛んで注意されます。
上には登らないように。
注釈
*1 共産党政権下では夜間まで働く労働者のために、”Spezi”と呼ばれるキオスクの営業を許可。これが今でも残っています。
*2 背の高い兵士を集めて「巨身兵近衛兵部隊」を作って悦に入るなど、おかしな王様。
*3 この為、フリードリヒ1世は、”Soldatenkönig”(兵隊王)と呼ばれます。
*4 スパルタ教育に嫌気がさした王子様は、仲のいい護衛兵と一緒に逃亡。あっけなく捕獲されると、王子様の目の前で護衛兵は斬首刑に。王子様は気絶してしまいます。
*5 伝説的なドイツ参謀本部もこの改革で(スウエーデンをモデルに)設置が決まります。その後のドイツ軍の活躍により、世界中の軍隊で導入されます。
*6 ナチスの時代にヒトラーがベルリンを世界の首都に改造する「ゲルマニア」を建築家のシュペアーに命令。凱旋門から1.6km離れたこの場所に移されました。
*7 本当のことを言うと路面電車のM1、それに 12番の Am Kupfergraben 駅が博物館島に一番近いです。
でも国会議事堂や、ブランデンブルク門、アレクサンダー広場駅から博物館島に移動するなら、100番バスのルストガルテンが一番!
*8 男性でも腕力か脚力(逃げ足)に自信のない方は、夜間の一人での外出は控えた方がいいかもしれません。夜、誰かが寄ってきたら、止まって話を聞かないで、速やかにその場所から移動してください。
*9 発案したのは、ニュルンベルクのビール鋳造所。人気がないのでパテントが売却されて、全国で販売が始まった。が、発案元のバイエルン州では、からっきし人気がない。
*10 日本人は舌が肥えているので、おいしいとは感じないと思います。