今回紹介する街は ドナウヴェルト 。
有名な観光名所は大方、制覇したので、次はマイナーな観光名所に行ってみることに。
「灯台下暗し」
ともいいますからね。
まずは近郊にあるドナウヴェルトを候補にあげて、ネットで下調べ。
ても、綺麗な街の写真は少なし。
「ハズレれかもしれない。」
という一抹の不安はありましたが、アウグスブルクの自宅から1時間もかからない距離。
「ハズレても話のネタになる?」
と思い切って、いってみることに。
以下にどんな町なのか詳しく紹介いたします。
目次
街の紹介 ドナウヴェルト
まずは街の紹介から始めます。
人口は2万人にも満たない小さな町。
なのにロマンチック街道にも載っているのは、かっては大いに栄えた
「交易の町」
だったからです。
お陰で史跡が随所に残っています!
それもそのはず、ドナウヴェルトは神聖ローマ帝国が建立されるきっかけになったとっても意味のある町なんです。
とは言っても史跡を除けば、
「観光名所」
と呼べるものは少なく、観光地としてはかなりマイナーです。
当然、町を訪れる観光客(カメラを抱えているかどうかで判断)は、片手で数えられる程度です。
地勢
ドナウヴェルトは
「バイエルン州のシュヴァ-ベン」
と呼ばれる地域にあります。
ちょうど
「フランケン高地」
を源にするヴェルニッツ河(*1)が、ドナウ川に合流する場所に築かれ要塞町です。
ではわかりやすく言います。
アウグスブルクから北に60km。
右(西)に25Km行けば、ファルツ選帝侯領の首都だったノイブルクがある。
左上(北東)に5Km行けば、お城で有名なハーブルクがある。
政治上の区分で言えば、バイエルン州の西部にあるドナウーリース県 / Landkreis Dnaou-Ries の県庁所在でもある。
行き方
ドナウヴェルトはアウグスブルクの自宅から、ひたすら国道2号(でも制限速度は100kmh)を北進するだけ。
なのに道中、何故かナビゲーションは右折を指示!
指示された道を選んでしまい、超~大回り。
二回目はナビを信用せず、標識見て走ると車で40分ほどで到着。
電車で行っても30~40分。
ミュンヘンからバイエルン チケットが使える電車で向かうと、1時間45分。
ちょっと微妙な距離です。
幸い、旧市街はドナウヴェルト中央駅から300mしか離れていない。
駅の
「北出口」
から出たら北方向に向かっていれば、ヴェルニッツ河が見えてくる。
あとは右に進めば、旧市街に向かう橋が見えてきます。
名前の由来
歴史に初めて登場した頃の町の名前は
“Werd”
でした。
古典ドイツ語で
「島」
です。
同じころ、この地方の貴族が、
”Mangold von Werd”
と名乗っていたので、どちらが最初なのかそれは不明。
それが1607年に
“Schwäbischwerd”(シュヴァーベンのWerd)
になり、近年になってから
“Donauwörth”
となりました。
始めて街の名前を聞くと、
「ドナウ何?」
と聞かずにはおられない。
日本人には発音不可能な名前を持つ街。
“ö”は日本人には発音できないのに、その後ろに厄介な”r”が来ているのが原因です。
無理やり日本語で書くなら、ドナウヴェルト。
もっともドイツ人に、
「ドナウヴェルト」
と言っても、
「何だって?」
と全く通じません。
逆にドイツ人が、
“Donauwörth”
と言っても、
「へっ?」
と日本人には通じない。
発音上はドナウヴォル(ト)に近いです。
街の歴史
名前の謎が解けたら、街の歴史を見てみよう。
ドナウ河とヴェルニッツ河が交わるこの部分は、敵の侵入を阻むに絶好な場所。
さらにはその河川の横にはご丁寧に
「丘」
までありました。
ここに要塞を築けば、
「難攻不落の要塞」
が出来上がります。
もっとも当初は小さな集落があっただけ。
その小さな集落が街に発展するきっかけになったのは、
「東からの脅威」
が原因です。
天下分け目の戦
10世紀、東ヨーロッパでぶいぶい言わしていたのは、ハンガリー大帝国。
ちょくちょくドイツまで略奪にやってきました。
「これは将来、決戦になる。」
と判断した東フランク帝国(*2)の皇帝が
「天下分け目の戦」
に備えて、防御に適したドナウヴェルトに要塞を築きます。
ドナウ河に橋がかけられて、その橋を眼下に見下ろせる小山の上に
“Burg Mangoldstein”(マンゴルトシュタイン要塞)
の建築が急ピッチで始まります。
ハンガリー軍の猛攻
案の定、数万人の巨大な軍を抱えるハンガリー帝国がドイツ領内に侵入してきた。
侵略軍は略奪を繰り返しながら、怒涛の勢いで快進撃を続けた。
その侵略軍に対抗するのは、ドイツの地方都市。
当時、軍隊といえばせいぜい数千人程度の集団です。
地方都市には、この巨大な軍に抵抗する手立てはなかった。
オットー一世
強大なハンガリー軍はようやくアウグスブルク要塞の前で停止。
アウグスブルクを包囲して、まさに襲い掛かろうとしていた。
ここで救済にやってきたのが、ドナウヴェルトに要塞を築いて
「待ってました!」
と白馬に乗って登場した東フランク帝国の皇帝、オットー一世だ。
ハンガリー帝国軍はオットー一世の挙兵を見ると使者を送り、
「東フランク帝国に侵入する企図はありません。」
と誓った。
が、この使者が帰るや否やすぐに進軍を開始(*3)。
レヒヶ原の決戦
995年、こうしてオットー一世率いる寄せ集めの軍1万余りが、ハンガリーの大軍とアウグスブルクの南で決戦を挑むことになった。
この決戦は、
“Schlacht auf dem Lechfeld” (レヒヶ原の決戦)
という名前で歴史に残ることに。
圧倒的な優勢を誇るハンガリー軍の前で、オットー一世の軍隊は苦戦します(*4)。
次々に指揮官をハンガリー軍の複合弓の犠牲になって失います。
ここで「神風」が吹く。
夏の空がいきなり真っ暗になり、豪雨に見舞われると複合弓の接着部分が剥がれて、役に立たなくなる。
この機会に、オットー一世の装甲騎士がハンガリー軍に襲い掛かかかります。
「勝ったも同然」
の気分だったハンガリー軍は反撃を受けて総崩れ、退却を始める。
しかし大雨で膨れ上がったレヒ河が撤退渡河を阻み、立ち往生。
ここで退却するハンガリー軍を追撃してきたオットー一世率いる連合軍が、背後から襲い掛かる。
ハンガリー軍は逃げ場をなくして、完膚なきまでに壊滅される。
この戦いの後、ドイツはオットー一世の下に統一され、オットー大帝として神聖ローマ帝国の王座に君臨することになる。
Reichsstadt
要塞の周辺に築かれた集落は、1193年に街に昇進します。
その当時の街の名前が
”Werd”。
です。
街の支配者は、神聖ローマ帝国を築いたオットー一世の
「シュタウファー家」
でした。
1266年、シュタウファー家は借金を支払うため、ドナウヴェルトをバイエルン公爵に売却します。
そのバイエルン公爵の奥さんは、何故かドナウヴェルトに住んでいました。
その奥さんを
「浮気した。」
と一方的に決めつけると、斬首刑に処す。
それだけでは気が済ます、お世話役のメイド数名まで処刑します。
そのひどい仕打ちはドナウヴェルトで
「語り草」
になり、人気の演劇の題材になっている。
1301年にはバイエルン公爵領から独立、帝国都市/”Reichsstadt”に昇格して、神聖ローマ帝国の直属の治世を受ける街になる。
最盛期
帝国都市になってから、ドナウヴェルトは次第に交易で豊かになっていきます。
その富を守るため、
「シュバーベン同盟」
に参加して、皇帝が勝手に町を何処かの領主に売っぱらう事を予防。
しかし1459年には、領土拡張を狙う侯爵家の間でバイエルン戦争が勃発。
強力な軍隊を擁していたランズフートの領主、
「お金持ちのルートビヒ」
は領土拡張を目指して快進撃、ドナウヴェルトは占領されてします。
だが略奪されることはなく、占領も短期間だった為、大きな負担にはなりませんでした。
加えてバイエルン戦争の後、ドナウヴェルトはフッガー家の庇護下に入る(*5)
その後、フッガー家がヨーロッパ一の大金持ちになると、ドナウヴェルトも15世紀~16世紀にかけて最盛期を迎えた。
交易で財を成した街は、15世紀に聖母教会を建設。
30年戦争
他の諸都市同様に、ドナウヴェルトの繁栄に終止符を打ったのは、宗教改革に端を発する30年戦争です。
強権を悪用する教会に対して、市民はルターの宗教改革に熱狂。
まっさきにプロテスタントに改宗。
が、プロテスタント派のスウェーデン軍に占領されてしまいます。
スウエーデン軍は、防御に適したこの地にプロテスタント軍の本陣を置き、ドイツ各地へ遠征。
しかしレーゲンスブルクの戦で敗北を喫すると、バイエルン軍が反撃に出てドナウヴェルトを占領。
その後、講和条約が結ばれて
「これで落ち着いた。」
と思ったのだが、、
スペイン王位継承戦争
1704年、今度はスペイン王位継承戦争に巻き込まれる。
ドイツ国内では連合軍 vs. バイエルン公爵軍の戦に発展。
連合軍はバイエルン軍の拠点であるドナウヴェルトに兵を進め、
「シェレンブルクの決戦」
が起きる。
勝ったのは連合軍。
敗北後、ドナウヴェルトはバーデン家の支配下に移った。
その際に帝国都市のステータスも失い、ただの地方都市に成り下がる。
しかしナポレオンが西ドイツを占領すると、ナポレオンの同盟国だったバイエルン王国にドナウヴェルトを含む
「東シュヴァーベン」
を戦利品として割譲されて、今日に至っている。
第二次大戦
第二次大戦中、小さなドナウヴェルトはほとんど被害を受けていなかった。
が、米軍の進軍に備えて1945年4月、戦争終結の2週間前に大規模な空襲があり、街の中心部は大きな被害を受ける。
町のホームページに拠れば、
「ヴュルツブルクに次いで、最も破壊されたバイエルン州の街」
だそうです。
幸いなことに焼け落ちた町並みは(町の中心部に限られるが)復興され、かって繁栄していた頃の
“Reichsstadt”
の姿を見ることができる。
ドナウヴェルト 観光 – 帝国街道が自慢の要塞都市
ドナウヴェルトの自慢は、帝国街道と呼ばれる街の中心を貫く300mほどの坂道。
街の最盛期の15~16世紀、交易で儲けた商人や権力者がその富と権力を見せつけるために、立派な屋敷を競って建てたのがこの帝国街道。
始めて車で通ると、いきなり瀟洒な家屋が建ち並ぶ光景に出ぐわして、
「意外と立派!」
と少し感激。
でも個人的には、城壁が一番気に入りました。
町の規模がアウグスブルク(29万人)のような大きさはなく、3時間もあれば歩いて見て回れるのがいい。
皆までいえば、街のど真ん中の駐車場の料金がとっても良心的。
まずはこの街の一番の見所の帝国街道から始めよう。
ドナウヴェルト 帝国街道
かって南ドイツの交易ルートは、アウグスブルクとニュルンベルクを結ぶルートで、神聖ローマ帝国の主要街道だった。
この街道は “Reichs(帝国)”Straße”(街道)と呼ばれている。
ドナウヴェルト旧市街の真ん中を、この帝国街道が通っている。
帝国街道はちょうど市役所の前から始まり、一番高い場所に建っている
「ぎざぎざの建物」
まで続く坂道。
通りの両側には見事な屋敷が目白押し。
ドナウヴェルト フッガー屋敷 / Fuggerhaus
16世紀、お金持ちのフッガーは神聖ローマ帝国の
“Reichspfleger”(代理人)
となり、ドナウヴェルトの実質上の権力者になった。
その権力を誇示するために作られた宮殿のような建物がフッガー屋敷 / Fuggerhaus だ。
内部には見事な装飾品があったが、街がバイエルン王国に帰属すると、バイエルンの王様はまるで植民地のようにこれを接収。
装飾品はミュンヘンの国立博物館で展示されており、ドナウヴェルト市民にとってはゆるせないミュンヘンの横暴。
戦争で被害を受けたので、戦後、修復されました。
撮影にいくとピカピカだったので、最近、修復された様子。
現在では県議会として利用されている。
聖母教会 / Liebfrauenmünster
帝国街道を少し坂道を下った先には街の自慢の
“Liebfrauenmünster”(聖母教会)
が建っている。
ドナウヴェアトが交易によりお金持ちになったので、同じ場所に建っていた教会を取り壊し、さらに大きな教会の建設が始まったのが15世紀。
もっとも建設工事はうまくいかず、教会の屋根が倒壊してしまう。
そこで建築家をクビにして、アウグスブルクから一流の建築家を呼び寄せ、23年後に無事完成。
そのせいか、尖塔がずんぐりむっくり。
途中で建設を辞めて屋根をのっけて完成させた経緯が、一目でわかります。
この教会(塔)は、ランズフートの教会のように、レンガで建立されている。
もっとも高さは比較にならないが。
元気があれば塔の上まで上ってみよう(4月~9月に限られます)。
この教会からの見晴らしはすばらしい。
帝国都市噴水 / Reichsstadtbrunnen
聖母教会の向かいには、帝国都市噴水 / Reichsstadtbrunnenという銅像で飾れあれた噴水(井戸)がある。
古いものでなく、20世紀に建造された。
議論になっているのが、鷲が抱える球体だ。
かってナチスが世界制覇の野望の象徴として、
「地球を鷲掴みにしている鷲」
の銅像をこしらえて飾っていた。
そっくりですよね?
舞踏場 / Tanzhaus
帝国街道通りの中ほどにあり、真っ赤な色で目に付く大きな屋敷が舞踏場 / “Tanzhaus”だ。
正確な建造の年代はわかっていないが、ドナウヴェルトが栄えていた14世紀あたりだと考えられている。
その名の通りかってはここで踊りが上演されて、宴会が催された。
16世紀からは穀物倉庫として使用されたがスペイン王位継承戦争、それに第二次大戦で消失したが、1975年に再建された。
最近では建物の基礎がもろくなり、聖母教会のように屋根が抜け落ちる可能性も出てきた為、
「取り壊す(安い)」
か、
「修復する(高い)」
が議論され、住民投票。
投票結果は、
「取り壊しが決まった。」
という報道と
「修復票が取り壊し票を上回った。」
という報道があり、よくわかりません。
次回、行った際にまだ建っているか(修復中)、取り壊されているか(新築される)、見てきます。
指揮官の家 / Stadtkommandantenhaus
舞踏場の隣の黄色い塗装の立派な建物は、ドナウヴェルトの指揮官の家 / Stadtkommandantenhaus。
16世紀にはバイエルン公爵 マキシミリアン王の后が住んでいた。
なんで奥さんを数百キロも離れたドナウヴェルトに住まわせたのだろう。
その後、ミュンヘンから派遣された司令官が住んでいたので、この名前。
戦争で全焼。
戦後、以前の姿に復興されました。
Baudrexlhaus
帝国通りの終わりには、綺麗な骸骨屋敷、”Baudrexlhaus”が建っている。
16世紀に建造された”Fachwerkhaus”(骸骨屋敷)で、上述のフッガー屋敷と並ぶ、ドナウヴェルトを代表する建造物だ。
ドナウヴェルト 市役所
帝国街道の初め、見方によれば終わりにあるのが、
「どっちが正面?」
と思わせる二面性のドナウヴェルト市役所です。
最初に建設されたのは13世紀。
その後、何度か消失する度に再建され、16世紀には3階(日本で言えば4階)が増築されたので、ちょっとちぐはぐな感じがします。
18世紀に屋根が作り直されて、そのちぐはく感はさらに完璧に。
見所は両方から登れる階段の”Freitreppe”と、ドナウヴェルトが帝国都市へ昇進した記念に取り付けたハープスブルク家の象徴である双頭の鷲。
リーダー門 / Rieder Tor
市役所前の通りを右に曲がると、かっての街への入り口になっていたリーダー門 / Rieder Tor が見えてくる。
ドナウヴェルトは最初から要塞都市として建築されたので、街は立派な城壁と水路で守られ、街に入るには4つの正門(塔)がありました。
近代化により次々に門が取り壊される中、唯一残ったのがこのリーダー門です。
現在はとっても質素な資料館になっています。
ドナウヴェルト 離れ小島 リート島 / Insel Ried
リーダー門の
「外」
には、ヴェルニッツ河に浮かぶ島がある。
正確には中州ですが。
名前はリート島 / Insel Ried。
島とは言っても旧市街との川幅は2mなので、言われなければ、島とはわからない。
リート島は城壁の外ではあるものの、ヴェルニッツ河が自然の要塞になっていたので、昔からドナウヴェルトの第二の核として発展していました。
周辺にはカフェが連なっており、地元民の憩いの場所。
ヴェルニッツ河
河が見えると、
「あ、ドナウ河だ」
と思ってしまうそうですが、ヴェルニッツ河 /“Wörnitz”です。
写真中、中央部分が上述した中州のリート島 / Insel Ried です。
ドナウ河はこの写真の30m手前で、大きくコの文字を描いてドナウヴェルトを迂回しているので、観光中にお目にかかることはない。
ヒンターマイヤー家 / Hintermeinerhaus
リーダー門はまだ城壁と繋がっています。
風情を楽しみながら城壁に沿って歩き出すと、リート島に建つ「真っ赤」な家が見えてくる。
これはヒンターマイヤー家 /”Hintermeierhaus”と呼ばれるかっての漁師の家。
15世紀に建造された。
中世の漁師というと貧乏なイメージがあるが、なんと立派な家だろう。
現在はドナウヴェルトの歴史を伝える博物館として利用されている。
墓場 / Friedhof
ヒンターマイヤー家の裏の狭い場所に墓石が並んでいます。
なんでここに墓場 / Freidhof が?
墓石に刻まれたその年代が、とっても古い!
昔は死者を教会の敷地内に葬ることが一般的だったので、こにはドナウヴェルトの教会があったようです。
調べてもそんな記述がないので、まだ発掘作業がされていないようです。
大海原飯屋 / Gasthof zum Hohen Meer
リート島にドナウヴェルトの誇る高層建築物がある。
それが大海原飯屋 / Gasthof zum Hohen Meer だ。
まるで中華料理屋のような名前。
建造されたのは17世紀。
当時、大海原飯屋が入っていたのでこの名前。
今ではアパートになっても、同じ名前で呼ばれています。
主要部分は3階建てだが、屋根の部分が4階もある7階建て。
中世の建築家でしか思いつかない、奇抜な構造です。
聖十字架修道院 / Kloster Heilig Kreuz
元気があれば城壁に沿って先まで歩くと、馬鹿でかい建物が見えてくる。
これは聖十字架修道院 /”Kloster Heilig Kreuz”。
ドナウヴェルトに要塞が築かれた当時、要塞の中に築かれた修道院です。
落成式ではエギスハイム出身のローマ教皇レオ11世から、
イエズスが処刑された十字架の一部が贈られたという由緒のある修道院(*6)。
落成式では教皇みずからが、落成式を祝ったという。
恐怖の館 / Ort des Grauens
聖十字架修道院は設立時、それほど大きくはありませんでした。
12世紀にこの場所に移動され、このように巨大化しました。
19世紀には修道院は閉鎖になり、所有権はこの地方の豪族、エッティンゲン公爵の所有に移ります。
飾られていた装飾品は公爵の宮殿の飾りになり、建物はカトリック系の全寮制の学校に。
その時代に修道員やカトリック司祭が組織的に子供に性的暴行を加えた事が明るみに出て、
恐怖の館 / Ort des Grauens の異名をいただきました(*7)。
ドナウヴェルト 要塞
聖十字架修道院の横に、ドナウヴェルトが要塞だった事が一目でわかる要塞の一部が残されています。
まるで映画のセットの要塞みたい!
今は、児童への性的暴力で悪名を轟かしたカトリック系の幼稚園として利用中!
ドナウヴェルト 城壁
夏には是非、リーダー門から続くドナウヴェルト城壁に沿って歩いてみよう!
薔薇や「その他の花」が咲いており、とっても綺麗。
観光に行くならやっぱり夏。
Färbertor
しばらく歩くと見えてくるのがかわいらしいFärbertor。
日本語に訳せば、
「染屋の門」。
近くに染屋があったのか、それとも染屋が入っていたのか?
語源を探すも見つからず、、。
Färbertorの先に
「恐怖の館」
があり城壁は終わり。
残りの城壁は一体、何処に?
ネットで調べた限りでは、見張り用の監視塔も残っている筈。
城壁はそもそも街の周辺を囲んでいるので、街の端っこに行けば見つかる筈!
シュールな芸術
ドナウヴェルトは芸術に力を入れているので、あちこちにシュールな彫刻、銅像が建ってます。
城壁を探して旧市街の東にある並木道を歩いていると、ここにもシュールな芸術が陳列されていました。
牛門 / Ochsentor
シュールな芸術のある並木道の先で、城壁を再発見!
その先にはレンガがむき出して中世の趣がある牛門 / Ochsentor が見えてきました。
牛舎が通ったので、この名前になったんでしょうね。
牛門の前、お堀があった場所は埋め立てられて畑になってました。
「もう十分に見た!」
という方、牛門をくぐればその先にはドナウヴェルト市役所があります。
でも最大の見所はこの先!
城壁沿いにもう少し歩いてみます。
マンゴルトシュタイン要塞 – Burg Mangoldstein
牛門の先に、ドナウヴェルトの街が建設されることになったマンゴルトシュタイン要塞 /” Burg Mangoldstein”が見えてきます。
もっとも残っているのは、マンゴルトシュタイン要塞の土台になったでかい岩(マンゴルト岩)と、これに繋がっている城壁だけ。
かってはこの岩の上に要塞、すなわち城壁に囲まれた都市が築かれていたんです!
今は土台しか残っていないので、想像するに難し。
建造は10世紀なので、1000年物。
この要塞からドナウ川にかけられた橋を監視していました。
要塞を築くのに使われていた石材は、数百年にも渡ってドナウヴェルト市民が街の建造物の建設に流用。
それでもまだ1818年には要塞の跡があったそうですが、これも撤去されて、今は土台になった岩しか残っていません。
要塞の跡
マンゴルトシュタイン要塞だけでは、だたの岩。
なんとか要塞の雰囲気をうまく伝えられないか?
と思い、近くにある学校の敷地に上って、要塞跡を撮影。
写真中、左端に木々の間に見えるのがマンゴルトシュタイン要塞の上の十字架。
その要塞から続いている城壁がコレ。
その城壁はレンガではなく、一つ一つ岩で作ってます!
ドナウヴェルト 旧兵舎 / alte Kaserne
城壁はマンゴルト岩の先で突然、終わっています。
「もう終わりなのかな?」
と通りを渡ると、先に長屋のような建物が見えてきます。
これは18世紀に建造されたドナウヴェルトの兵隊用の病院で、野戦病院 / Lazarett として利用されました。
地元の人は旧兵舎 / alte Kaserne と呼んでいます。
今は長屋として利用されており、どのアパートも住民がはいっています。
かなり人気があるみたい。
まだまだ続く城壁
よっく見ると旧兵舎、城壁に沿って建造されています。
その先まで歩いていくと、ご覧のようなレンガ作りの城壁が見えてきます。
この城壁は上で紹介したフッガー屋敷へと続き、ちょうどドナウヴェルトを一周した形になります。
監視塔
城壁の真ん中にある監視塔を内側から見てみます。
監視塔の入り口には、
“Alpenverein”(アルペン組合)
という看板が。
何かの団体が集会所として使っているようです。
まとめ
かれこれ3時間も歩きまわって、観光名所はほぼ制覇。
駐車場に向かって歩き出すと太陽の位置が変わって、帝国街道はまた違った雰囲気になってました。
舞踏場のすぐ近くの駐車場に戻り清算すると、たったの1.50ユーロ。
3時間+ですよ。
すごく良心的な値段です。
注釈
*1 ヴェルニッツ河 /”Wörnitz”は デインケルスビュール、ハーブルクそしてエッテンゲンを経由して、ドナウヴェルトに到達。
通常はライン川のように標高の高い南から低い北に流れるのに、逆光している珍しい河川。
*2 ドイツ人で最初の皇帝カール大帝の帝国、フランク王国が分離して843年に出来た国。
*3 プーチンと一緒ですね。
*4 数の上で劣勢なのに、だだっ広い平野部で戦闘をするのは戦術上のミスです。
*5 一緒本来なら街はハープスブルク家や神聖ローマ帝国の庇護下に入るもの。街が一家の庇護下に入るのは、かなりの例外。
*6 ドイツ中に「キリストが磔刑になった十字架の一部が贈られた。」と称する聖十字架修道院があります。仏舎利と同じ原理です。
*7 カトリック、プロテスタント教会での子供への性的暴行は、ドナウヴェルトだけの問題ではなく、世界中の教会で起きた蛮行です。