ミュンヘン は日本で一番人気のドイツの街。

観光客の数では首都のベルリン がドイツで一番人気。

が、日本人は南の街が好き!

きっとベルリンに入ったことはなくても、ミュンヘンに行ったことがある人は多いはず。

当然、ドイツ留学先として真っ先に候補にあがり、

「どんな街ですか。」

というお問い合わせをいただくことも多いです。

毎回メールで説明すると大変なので 😉 、こちらで詳しく紹介しちゃいます。

目次

街の紹介

「説明されなくても知っている!」

という声が聞こえてきそうですが、まずは街の紹介から。

ミュンヘンはドイツに16ある州の中でも、最大の面積を持つバイエルン州 / Land Bayern の州都です。

 

すでに人口過密状態で、アパートの賃貸 はドイツ一高い。

なのにいまだに人口が増え続けており、すでに150万人を突破。

人口でみればベルリン、ハンブルクに次ぐ、第三の大都市です。

ハンブルク 海運で栄えた港町には見所がてんこ盛り!

ミュンヘンが(バイエルン州で)独り勝ちしている理由は、東京とほぼ同じで、

  • 大企業が本拠を置いている
  • インフラ(交通、学校、お買い物、博物館、美術館、コンサートホール)が充実
  • 大都市に住みたいという憧れ

の3つが、主要な原因です。

ドイツを代表する大企業、BMW 、ジーメンス、Allianz(欧州最大の保険会社です)を始め、海外の大企業もミュンヘンに本拠を置いています。

要するに仕事があるので、人が集まるわけです。

それだけ人が多いと電車、バス網も充実。

保育園から始まって学校や大学も多く、お買い物をする場所にも困らない。

そこで、

「ミュンヘンに住みたい。」

と、上京する人が後を断たず。

日本では観光地としてイメージが強いですが、

ドイツでは大企業が多く本社を置いてる南ドイツの産業の中心地として有名です(*1)。

地勢

かってミュンヘンは氷河期の時代、氷に覆われていました。

後退する氷河が山を削り、大量の砂利を残していき一帯の盆地が形成されました。

何も知らないと平地のように感じますが、ミュンヘンはアルプスの麓にあるので標高は520m。

デユッセルドルフの標高が38mである事を考えれば、ミュンヘンは立派な高地です。

日本では無名ですがアルプスに源を発するイザー河がほぼ町の真ん中を、南から北に縦断してます。

参照 : イザー河

 

旧市街は水害を考えて、標高が高いイザー川の左岸(西側)に築かれました。

ミュンヘン の気候

ミュンヘンの気候は典型的な盆地の気候です。

夏には気温が30℃を超えます。

イタリアから暖かい空気がやってくると

「フェーン現象」

で40℃を越えます。

なのにほとんどのホテルにはエアコンなし。

夏に行かれる場合は、エアコンのある数少ないホテルを選ぼう!

その一方で冬に寒波が張り出してくると、マイナス20℃まで下がります。

ただし日照時間は1756時間と決して悪くない(良くもない)。

宗教と風土

宗教と風土

ミュンヘンはドイツカトリック教徒の総本山です。

カトリックの信者は住民のほぼ27%。

田舎に行くとカトリックの割合がさらに増します。

プロテスタント派はたったの10%。

残りはその他の宗教か、信仰なし。

ミュンヘンは日本と同じく農耕社会から進化してきたので、と~っても保守的です。

 

つまり新しい物(者)への許容度は低い。

当然、日曜日に店を開けるなんて

「神を冒涜する悪魔の仕業」

で論外です。

土曜日も18時に一斉に閉店になります。

ミュンヘン = ドイツじゃない!

ミュンヘン = ドイツじゃない!

日本で

「これこそドイツ!」

と思われている

実はこの地方(バイエルン州)だけのものです。

なのに

「バイエルン = ドイツ」

と思われていることが、他の地方に住むドイツ人には迷惑千万な話。

ドイツで

「日本人です。」

と言えば毎回、

「東京ですか。」

と聞かれます。

東京出身なら気にならないですが、そうでない方には、

「また!?」

とガッカリします。

ドイツ人も同じで、

「またミュンヘンか?!」

とウンザリ。

そんなことは露知らずドイツ人に、

「ミュンヘンに行ったことがある。」

と言えば、

「それはバイエルンじゃないか。」

と言い返されることもあるほど、他の州では人気がないです。

ミュンヘンとベルリンは犬猿の仲

とりわけミュンヘンとベルリンは犬猿の仲です。(*2)

東京と大阪みたいなもの。

そこでアドバイス。

ドイツ人に知り合ったらまずは、

「あなたはどちらの出身?」

と聞こう。

バイエルン以外の州の出身だったら、

ドイツには行ったことはないが、バイエルンなら行ったことがある。

 

というジョークが通じます。

街の歴史

街の歴史

いい機会なので、ミュンヘンの歴史も見ておきましょう。

歴史を理解すると、観光名所ばかりか、人への理解も深まります。

そもそもミュンヘンが築かれて、発展したのは(中世の町にあるあるの)

「権力者のいざこざ」

が原因なんです。

今のミュンヘンに発展することになる集落は、ちょうどドイツ博物館へ向かうルートビヒ橋の近辺に築かれました。

その名もない集落がなんで神聖ローマ帝国の皇帝を輩出するような、大きな権力のある町になったんでしょう?

塩街道で栄えた町

シュヴェーヴィシュハルランツベルク同様、ミュンヘンは塩街道で栄えた町。

アルプスはかって海の底にあったので、岩塩の宝庫。

ここで採掘した塩を、近隣都市に運ぶルートが塩街道。

その障害がイザー河。

12世紀初頭、イザー河に架かる橋はひとつだけ。

これは大司教様の所有物で、ここを通る塩に関税をかけて大儲けしていたんです。

これをみた

“Heinrich der Löwe(ハインリヒ獅子王)

「そうは問屋がおろさない。」

とルートビヒ橋の建造を命じます。

これが完成すると軍を派遣して、ライバルの橋を破壊。

以後、塩街道はルートビヒ橋を通るルートに改訂されます。

さらに!

ハインリヒ獅子王は橋を渡った塩に対して関税ばかりか

“Stapelrecht”(保管義務)

を課し、ミュンヘンの商人が安く塩を購入して転売する事を可能にします。

こうして塩の関税・販売を独占したバイエルン侯爵領は、一気に裕福になっていきます。

ミュンヘン 名前の語源

街の名前が始めて文献に登場するのは1158年に記述された

”Augsburger Schied”

という一種の合意文書です。

そこにハインリヒ獅子王の命を受けて、

修道士(Moenchen)がイザー河に橋をかけた。

 

と記されています。

これが原因でこの地域を

「メンヒェン」

これがなまって後に

「ミュンヘン」

と呼ぶうようになったと考えられています。

ブレッツェルライダー

ブレッツェル

時は遡る事1318年、塩の交易で

「大金持ち」

になったミュンヘン在住のヴァードラー夫妻が、

„Wadler-Spende“(ヴァードラー募金)

を創設。

年に一回、病院にお金を寄付していました。

そのお金のお陰で収入のない病人や老人が、食事にあるつけることに。

これでは

「まだ十分ではない。」

と考えた夫妻は、年に一回3000個のブレッツエルを無償で市民に配布。

遠くに居ても聞こえるように、馬に鉄のひずめを打たます。

「パカランパカラン」

と音がすると市民は喜んで、音のする方向に走り出したそうです。

この慣習は19世紀まで続き

”Brezenreiter”(ブレッツェルライダー)

としてミュンヘンの歴史にその名を残しました。

バイエルン侯爵領の誕生

今ではバイエルン州となっていますが、その起源の

「バイエルン領」

が誕生したのは10世紀。

907年、ルイポルト侯爵家の

Arnulf I.(アルヌルフ1一世、通称 ; 悪者

がバイエルン侯爵と名乗ったのが始まりです。

その侯爵領は、南バイエルンからスイス、北イタリアまでを支配する結構でかい国。

その立場をさらに強化する為、アルヌルフ一世は自分の娘を神聖ローマ帝国の皇帝の兄弟と政略結婚させます。

こうしてバイエルン侯爵の地位は不動のものに。

ヴェルヘン家

と思ったら、ここで皇帝が交替。

赤ひげで有名な(女好きの)バルバロッサが皇帝になると、バイエルン侯爵領は神聖ローマ帝国に没収されちゃいます。

皇帝はその広大な領土を仲のいい侯爵の間で山分け。

この機会に誕生したのがオーストリア侯爵領なんです。

 

「残りのバイエルン領」

はヴェルヘン家に寄贈されちゃいます。

そう、ハノーファーの王家です。

ハノーファー ってどんな町?観光する場所はあるの?

すなわち!

ミュンヘンを築いたのはハノーファーの王家です。

しかし今度はヴェルヘン家が強大になり、皇帝の地位を脅かすほどに。

「戦争になるか?」

と危惧されていましたが、珍しく和平交渉が成功。

ヴェルヘン家はバイエルン領を放棄します。

ヴィッテルスバッハ家

ミュンヘン ババリア銅像

その空席になったバイエルン領主に収まったのが、

“Wittelsbach”(ヴィッテルスバッハ家)

です。

その起源は不明。

10世紀の書簡で初めて名前が登場。

アウグスブルクの右上(北東)にあるヴィッテルスバッハという小さな町の領主だったんです。

どうやってバイエルン領主に治まったんでしょう?

経緯はともかく、その後は

「ドイツ三大王家のひとつ」

に出世。

大躍進を遂げ第一次大戦までバイエルン領を納めます。

ルートビヒ4世

1328年、ヴィッテルスバッハ家のルートビヒ4世が、神聖ローマ帝国の皇帝に就きます。

その城をミュンヘンに構えた頃から、街の発展が始まります。

街の暗い歴史として、15世紀にはユダヤ人が住むことを禁止されて、迫害、追放されています。

ヴィッテルスバッハ家には古来からのお世継ぎ制度があり、

  • 君主は財産(領土)をお世継ぎに公平に分配すべし
  • お世継ぎは男子のみ
  • お世継ぎがいない場合は、領土は近親者に帰属す

というものでした。

これにより領主が死ぬと領土が分化され、さらには継承権を巡って、親族内で戦争が何度も繰り返されることになります。

賢いアルブレヒト 家訓を改定す!

16世紀、バイエルン公爵領は南北に分断されていました。

北バイエルン(首都はランズフート )の領主が死去すると、

ランズフート – 世界一高いレンガ作りの尖塔は圧巻!

北バイエルン領の相続権を巡って、南北戦争が勃発。

この争いに勝ったのが南バイエルンの公爵、アルブレヒト4世です。
アルブレヒト4世は分断していたバイエルン公爵領を再統一、ミュンヘンに首都をおきます。

 

そして、

「領主が死去した際は、子供の間で領土を分ける。」

というヴィッテルスバッハ家の家訓を改定、

「長男がすべて相続す。」

とします。

これにより公爵領が分割して弱体化、他の王国に吸収される危険を回避したので、

「賢いアルブレヒト」

という異名を頂戴します。

マキシミリアン1世

マキシミリアン1世

アルブレヒト4世を継いだのが、マキシミリアン1世。

戦争が続いて経済的に貧弱だった公爵領を立て直した功績者です。

もっとも町人が政治に口出しするのを禁止して、独裁者のようになります。

おまけにプロテスタント派を弾圧。

しかし権力は増して、1623年には公爵から選帝侯に昇進します。

ミュンヘンの国立劇場の前には、そのマキシミリアン1世の銅像があります。

30年戦争中の悪行

いい意味でも、悪い意味でもミュンヘンはドイツ カトリック教の砦。(*3)

30年戦争中、各地で悪行を繰り返しました。

例えばお隣のアウグスブルク。

アウグスブルク ロマンチック街道の発祥地は見所盛り沢山

アウグスブルクは、カトリック教会から指名手配されてるルターを招いて公然と説教させます。

怒ったカトリック教会は暗殺者を差し向けるほど。

こうした経緯がありアウグスブルクはがちがちのカトリック教徒のバイエルン公爵には、

「目の上のたんこぶ」

でした。

30年戦争中、スウェーデン軍がアウグスブルクに侵攻すると、住民はカトリック教の圧政からの解放者として歓迎します。

「もう許せぬ!」

「アウグスブルクを成敗してやる。」

とバイエルン公爵 & オーストリアは軍隊を送りアウグスブルクを包囲、

「町を焼き払う。」

と脅し、目玉の飛び出るような身代金を課します。(*4)

流石に今日では信仰は自由です。

でも戒律に厳しく、スーパーの20時以降の営業を禁止しています(*5)。

プロテスタント系のデユッセルドルフのように、

「24時まで開いている!」

なんてことは絶対にありません。

バイエルン王国の誕生!

バイエルン王国の誕生!

18世紀、ミュンヘンは黄金時代を迎えます。

マキシミリアン3世がこれまでの勢力拡大政策から、一転して国内の新興に目を向け、劇場や美術が建造されます。

ナポレオンがドイツに侵攻してくると、バイエルンは

「長い物には巻かれよ!」

と、真っ先にナポレオンの軍門に下ります。

これが大当たり!

ナポレオンはプロイセン+ロシア連合軍を撃破して、その領土を没収。

バイエルン選帝侯領はご褒美に東フランケン & 東シュバーベンを割譲してもらい、領土はかってない広大な領域に広がります。

 

そして遂にバイエルン王国が誕生します。

お陰でバイエルン州は今日でも、ドイツで一番大きい州になっています。

これを記念して、バイエルン州の各地では一番の目抜き通りを、

「マキシミリアン通り」

と改名しました。

ルートビヒ2世 – 大食漢で同性愛の王様

日本で一番有名な有名なヴィッテルスバッハ家の王様と言えば、

有名なお城を建設させたルートビヒ2世

 

です。

でも日本では、現実とかけ離れたイメージが定着しています。

まずこの王様は同性愛者で有名で、出張する際は部下に、

「現地で夜のお相手を見つけおけ。」

と命令。

おまけに大食漢。

有名な肖像画とは大違いで、顔は脂肪で膨れ上がり、おすもうさんを上回る巨大なお腹を抱えていました。

王様としての職務に興味を見せず城ばかり建て、王家の国庫が空になる暴君振り。

側近はあきれ果て、医師が診断もしてないのに王様を

「精神障害」

と認定して幽閉、王位を叔父のルイポルトに委譲します。

最後の王様

ルイポルト王の後を継いだのが、最後の王様となるルートビヒ三世だ

 

第一次大戦では、

「エルザスーロートリンゲンを割譲してもいい。」

という皇帝の甘言に目がくらみ、バイエルン軍を派遣します。

政治家の口約束とは異なり戦争は長期化。

1918年11月、長い戦争と食糧難に辟易した住民が、戦争に反対したために監獄に収容された同士の解放、バイエルン王の退位を求めてミュンヘン市内を示威行進。

すると王様は、

「ヤバイ!」

と、詰める限りの家財を自動車に詰め込むと、闇にまぎれて逃走。

バイエルン王国はこうしてあっけなく消滅しました。

ミュンヘン の発展始まる!

ミュンヘン の発展始まる!

その後、19世紀の終わりから第一次大戦の勃発まで、ミュンヘンは目覚しい発展を遂げます。

その原因は何だと思いますか?

そう、工業化の波です。

抜き目のないバイエルン人、商才を発揮して起業、今日まで続くドイツの大企業が相次いで誕生します。

我々がミュンヘン観光で眺めている建築物の多くは、この時代に建設されたものです。

ミュンヘン の公共交通機関

ミュンヘン 観光の強い味方 公共交通機関

ミュンヘン観光に欠かせない公共交通機関。

これが結構、お得。

1日乗り放題チケット / Tageskarteを買えば、電車もバスも朝6時から乗り放題!

物価の高いミュンヘンで、チケットの値段はたったの9.2ユーロ!

日本じゃ考えられない安価な値段です。

15歳未満のお子さんには子供用1日乗り放題チケット / Kinder-Tageskarte も用意されており、さらにお得。

友達と一緒に観光する方には、グループチケットがあります。

5人まで一枚の切符で乗り放題で17,80ユーロ。

なんと3000円もしないで、1日間 乗り放題!

中央駅で各方面に乗り換え!

中央駅で各方面に乗り換え!

ミュンヘン中央駅には

  • “S-Bahn”(近距離電車)
  • U-Bahn”(地下鉄)
  • “Straßenbahn”(路面電車)

の駅が、それぞれ別個に設置されています。

どの電車を利用するかによって乗り場が違うので、駅に着いたら標識を見て確認しよう。

マリエン広場に行くなら地下鉄の2番なので直進。

有名な観光名所のオデオン広場に行くなら地下鉄の4、5番。

すなわち右折です。

ミュンヘン観光 塩の交易で栄えた町は見所豊富!

ミュンヘン観光 塩の交易で栄えた町は見所豊富!

ミュンヘン 観光はドイツ観光のハイライトのひとつ。

新市庁舎やホーフブロイハウスで、日本人観光客をみかけない日はありません。

言葉の問題、土地勘がない事もあり、団体旅行で行かれる方がほとんどです。

しかし緻密なスケジュールの為、多くの史跡、観光名所が省略されてしまいます。

そこでここでは個人旅行で街を探検される方に、お勧めのミュンヘンの観光名所を紹介してみたいと思います。

“Marienplatz”( マリエン広場)

マリエン広場

まずはミュンヘンで一番有名な観光名所、

“Marienplatz”( マリエン広場)

から始めます。

ミュンヘンを建設したヴェルフェン家のハインリヒ獅子王。

この広場を町の中心として

「都市設計」

をしたのが始まりです。

ヴィッテルスバッハ家のルートビヒ バイエルン侯爵が1315年、ここで

「市を開く権利」

を付与します。

以来、

“Marktplatz”(市場)

と呼ばれてきました。

名前がマリエン広場に変わったのは17世紀になってから。

その理由はマリエン広場の真ん中にある聖母マリア塔です。

聖母マリア塔 / Mariensäule

聖母マリア塔 / Mariensäule

“Mariensäule”( 聖母マリア塔)

はマリエン広場の真ん中に建つ、ミュンヘンの建造記念物です。

事の始まりは30年戦争中のお祈り。

マキシミリアン一世が、

「ミュンヘンとランズフートが戦争で破壊されなかったら、感謝の印を贈る。」

とお祈りします。

奇遇にも両都市が破壊されなかったので、約束を守ってここに大理石で聖母マリアの塔を建造しました。

“Fischbrunnen”(魚の噴水)

魚の噴水

マリエン広場にあるもうひとつのアトラクションが、

“Fischbrunnen”(魚の噴水)

です。

14世紀の書簡に、この場所に

Bürgerbrunnen (市民の噴水)

があったことが記載されています。

その後、この場所が市場になると

“Marktbrunnen”(市場の噴水)

と名前を変えます。

名前が魚の噴水になったのは、19世紀になってから。

銅像が三層(三階建て)になっている、まるで宮廷の庭にあるようなそれは立派な噴水でした。

戦争で破壊され、今ではこんな質素な噴水に。

場違いに丈夫な噴水の柱が、

「かってはさぞかし立派な彫刻が立っていたんだろうな。」

と想像させます。

参照 : 魚の噴水

“neues Rathaus”(新市庁舎)

ミュンヘン 新市庁舎

初めて見ると感動さえ覚えるミュンヘンの市庁舎、

正式には

“neues Rathaus”(新市庁舎)

です。

この立派な市役所、実はとても巧みに

「設計時の失敗」

が隠されています。

古い市庁舎が狭くなったので、18世紀の中頃にこの場所に新市庁舎を建設することを決定。

建設を始めたはいいものの、

「これは小さ過ぎて全部の部署が建物に入らない!」

ことが完成する前にわかったので、その周囲の土地を買収。

当初、完成したのは現市役所の(向かって)左の部分です。

その後、右半分が増築されたので、よっくみると右と左側、色が異なります。

左側には石灰石を使っているので、独特の色合いが出ています。

その後も増築が進み、ミュンヘン市役所は今の中庭を囲む4角形の建造物になりました。

最後の飾りとして85mの塔が完成したのは、もう20世紀になってからでした。

希望者は市役所の塔に登ることができます。

  • 開館時間(平日) 10時~19時
  • 開館時間(祝祭日) 10時~17時
  • 入場料 : 大人6,50ユーロ、学生1ユーロ 割引価格には要証明書提示
参照 : 新市庁舎

ミュンヘン “Frauenkirche”(聖母教会)

ミュンヘン 聖母教会

新市庁舎と共にミュンヘンのトレードマークなっているのが、

“Frauenkirche”(聖母教会)

だ。

完成したのは1494年。

109mの長さ、幅40m、そしてまるで城壁のような石の壁は37mもの高さがある。

地元民は、

「手前の塔は奥の塔よりも、1m高くなっているんだよ。」

と、豆知識を教えてくれる。

実はコレ、地元民の大きな勘違い。

北側は98.57m、南側は98.45mとほぼ同じ高さで、その差を目で見極めるのは不可能。

何故、この高さかと言えば、

ミュンヘンの条例で100mを超える建造物を建てることは禁止されているからです。

 

参照 : 聖母教会

老いぼれペーター / Alter Peter

老いぼれペーター

次の目標は、

「階段を登る元気がない。」

と、4年前に断念した

“Alter Peter”( 老いぼれペーター)

の登頂です。

正確には隣の聖ペーター教会の尖塔です。

ミュンヘンを一望できる見晴らしが有名です。

この教会は13世紀の大火事で大部分焼け落ちましたが、その後、再建されます。

が、第二次大戦で爆弾が命中、残っていたのは尖塔の根っこの部分だけ。

瓦礫の山から使えるレンガを取り出して、今の形に再建するのだからドイツの再建技術は凄い!

長蛇の列!

長蛇の列!

ババリアから到着すると、すでに入場券売り場の前には長蛇の列。

もっと早く来るべきだった!

大人は5ユーロなんですが、ドイツ人はいい年しているのに、学生割引を勝ち取ろうと値段交渉。

お陰でチケットを買うのに15分もかかりました。

階段が狭く、降りる人、登る人が交互に動くので、300段の階段を登るのにさらに15分。

肝心の見晴台には多くの人間が居るので、待っても待っても1センチも動きません。

気の遠くなるような時間立ち尽くし、やっとお目当ての写真撮影のアングルを奪取。

もう二度と登らないので、ミュンヘン市街を撮り捲り。

老いぼれペーターの高さは90m。

アウグスブルクのペルラッハ塔より20m高い。

お陰で町の端まで見渡せます。

  • 開館時間 : 10時~18時
  • 入場料大人 : 5ユーロ、学生2ユーロ、生徒1ユーロ 割引価格には要証明書提示

ミュンヘン “altes Rathaus”(旧市庁舎)

ミュンヘン 旧市庁舎

新市庁舎の横に

“altes Rathaus”(旧市庁舎)

があるのだが、

「あ、ここにも綺麗な建物が。」

程度で、市庁舎だと気付く人は稀。

現存している市庁舎は、落雷により焼けたので15世紀に再建されたもの。

完成後、ふたつの穴を建物に開けて、路面電車が建物を迂回しないで通れるようにした。

そう、以前はここを電車が走っていたんです!

現在では路面電車はミュンヘンの幹線道路を通る路線に変更され、歩行者専用の道路になっている。

この先にホーフブロイハウスがあるので、きっとミュンヘン観光に来た人は、歩いた記憶がある筈だ。

第二次大戦中、爆撃でこっぴどく破壊されるも、戦後30年の年月をかけて再建されました。

参照 : 旧市庁舎

“Isator”(イザー門)

イザー門 / Isartor

旧市庁舎歩からまっすぐ歩いていくと、10分ほどでかってのミュンヘン旧市街の端っこに行きつく。

ここにミュンヘンでは数少ないかっての城門

“Isator”(イザー門)

がある。

かってはドイツ アルプスで採掘された塩をランツベルクを経緯して、

ランツベルク – 中世の街並みと城壁が残る城塞都市

ボーデン湖まで運ぶ有名な

「塩街道」

の入り口(それとも出口?)でした。

当時(14世紀)はこの門をくぐって町に入れたが、現在は道路は迂回するようになっている。

参照 : Isartor

トイレは何処?

ミュンヘンもトイレの難所です。

グーグルで調べると、イザー門に公衆トイレがある筈。

ないです。

期待してたのに~。

市役所の中に有料の公衆トイレがあります。

そちらを使ってから、次の観光名所に向かいましょう。

“Nationaltheater”( 国立劇場)

国立劇場

ミュンヘンを代表する建築物のひとつが、

“Nationaltheater”( 国立劇場)

です。

バイエルン王国の時代に築かれたので、この名前です。

今なら州立劇場と訳すべきかもしれませんが、オリジナルを優先しました。

この劇場の先から、ミュンヘンで一番”schickimicki”(*6)な、マキシミリアン通りが始まります。

参照 : 国立劇場

建設史

1811年、ここに建っていた修道院を取り壊し、王様の欲しかった劇場を建設することに。

モデルになったのはパリの国立劇場 です。

しかしあまり豪華な作りを希望したため、予算が足らず工事は中断。

ここで火事が発生して、すでに完成していた部分も大被害。

ただでも足らない予算に大穴が空き、1818年、工事を大幅に簡素化することで完成。

しかし1823年の火事でほどんど消失。

するとミュンヘン市は意外にも再建を決議。

それもオリジナルに近い案で。

わずか2年後には完成。

その後、さらに増築されて今の姿に。

再建

第二次大戦では爆撃で、土台しか残らないまで破壊されます。

戦後、

「新しい劇場を造るか(安い)、オリジナルを再現するか(べらぼうに高い)。」

の議論の末、ミュンヘンは後者に決定。

なんと再建は、80年代まで続く大事業でした。

お陰で19世紀の建設当時の見事な劇場を、見学することができます。

頻繁に劇やオペラが上演されているので、これが好きな人にはたまらない(らしいです)。

上演プログラムは国立劇場のホームページをご参照あれ!

ミュンヘン “Maximilianstrasse”( マキシリアン通り)

ミュンヘン マキシミリアン通り

マリエン広場(あるいは新市役所)の後方に、大きなマリエン公園があります。

その公園の横を直進すると、

“Maximilianstrasse”( マキシリアン通り)

に出てきます。

高級ブテイックや高級ホテルなどが店舗を構えているミュンヘンで一番地価の高い通りです。

グッチやエルメスに興味がなくても、ここには劇場なども並ぶ、まさに上流階級向けの通り。

まあ、ひやかしもかねて、一度、歩いてみましょう。

 “Vier Jahreszeiten”(ホテル 四季)

V.I.P.ご用達 ホテル四季

このミュンヘンで一番高級なマキシリアン通りに、V.I.P.の御用達の

“Vier Jahreszeiten”(ホテル 四季)

があります。

芸能人、スポーツ選手から政治家まで、お金に糸目をつけない人が泊るホテルです。

外国から政治家が来たり、ミュンヘンで国際会議があると、ホテル四季の会議場が使われることも多いです。

ホーフブロイハウス / Hofbräuhaus

ホーフブロイハウス

マキシミリアン通りをホテル四季の手前で右に折れると、観光客に大人気のホーフブロイハウスがあります。

まずはウンチクから。

その名前の通り、ホーフブロイハウスとは

“Hof”(宮廷)+ “Bräuhaus”(ビール醸造所)

です。

事の始まりは16世紀にバイエルン公爵が、

「安くビールを飲みたい。」

と言い出したのがきっかけ。

当時、王家は北ドイツからビールを輸入していたので、ミュンヘンまでの輸送費と関税が課せられて、とても高い飲み物でした。

「宮廷で醸造すれば出費も減り、販売で収入が入って、いい事ずくめじゃないか!」

と、ニワトリ小屋を壊して宮廷ビール醸造所が設置されます。

醸造を監督するのは修道院から派遣されてきた修道士で、最初の宮廷ビールマイスターになりました。

  •  開館時間 : 年中無休  9時~24時

白ビール / weißbier

当時、醸造されていたのは

「茶色のビール」

と呼ばれる普通のビール。

今、ミュンヘンのビールの代名詞になっているのは、

“Weißbier “(白ビール)

です。

もっとも素人には違いがわかりませんけどね。

参照 : 白ビール

 

当時は別の醸造所がバイエルン公爵から登録商標を与えられて、唯一、白ビールを醸造する権利を有していました。

16世紀にマキシミリアン公爵がこの登録商標を買い戻し、

白ビールは宮廷ビール工場でのみ生産されることに。

 

これによりこの白ビールが、

「ミュンヘンのビール」

として広まっていきます。

“Schweinshaxe”(豚の脛肉ビール焼き)

ホーフブロイハウス 外観

今の形でホーフブロイハウスの営業が始まったのは、19世紀にルートビヒ一世が、

「大衆もここで飲み食いしてもよか。」

と許可を出してから。

でもミュンヘンのホーフブロイハウスの名前が世界に知れ渡ったのは、アドルフ ヒトラーがここで度々演説をしたのが原因です。

第二次大戦では跡形ないまで破壊されましたが、戦前の姿のままに再建されることに。

完成したのは1958年。

以来、毎年3万5000人もの客が訪問するドイツで一番人気の居酒屋になりました。

日本人が決まって注文するのは

“Weißwurst”(白ソーセージ)

ですが、ホーフブロイハウスは

“Schweinshaxe”(豚の脛肉ビール焼き)

が有名。

是非、お試しあれ。

“Maximilianeum”(バイエルン州議会)

バイエルン州議会

朝から休みもなく歩き付けで足が棒のよう。

それでも頑張ってマキシミリアン通りを直進、イザー河にかかる橋を超えて歩いて、

“Maximilianeum”(バイエルン州議会)

を見にきましょた!

丘の上に巨大な建物が見えてくるので、見逃す心配はなし。

バイエルンの王様 マックス2世の命令で、優れたバイエルンの子供に英才教育を施す財団の本部、そして学校として、こんなに立派な建物が建てられます。

完成したのは1874年。

当時のバイエルン王国の経済力をうかがい知ることができます。

第二次大戦では2/3が大破しましたが、州議会がここに置かれることが決まり、オリジナルの姿に再建されます。

ちなみにこのややこしい名前、

「マキシリアノイム」

はバイエルンの王様、マキシミリアンに敬意を表して命名されたもの。

わかりやすく言えば上院という意味です。

戦後、上院は廃止されましたが、名前だけは昔のままで残ってます。

“Odeonsplatz”(オデオン広場)

ミュンヘン オデオン広場

次は

“Odeonsplatz”(オデオン広場)

に行ってみよう。

新市庁舎の横の通りを、マリエン公園を横目に見ながら直進するだけ。

オデオン広場には地下鉄の駅(3.4.5.6番)の駅もあり、ミュンヘン中央駅から乗り換えなしの直行も可能です。

広場の名前は、ここにあったオデオン劇場が由来です。

建物は今でも現存していますが、劇場ではなくバイエルン州の内務省が徴用して使用中。

この周辺にはミュンヘンの有名な史跡が多いので、一気にまとめて観れます。

テアティーナ教会 / Theatinerkirche

テアティーナ教会

オデオン広場にある大きな黄色の建物が、

“Theatinerkirche”(テアテイーナ教会)

です。

17世紀に建造されたこのカトリック教会は、ドイツで最初に建築されたバロック式建造物と言われています。

教会の表面装飾は建設の100年後、ロココ調で施されているのがこの教会の特徴です。

他にロココ調の教会と言えば、ランツベルクの教会くらいしか、思いつきません。

ミュンヘンの景観に欠かせない建造物なんですが、大きな教会で撮影に適した角度を探すのが難しい。

“Feldherrnhalle”(将軍廟)

将軍廟

テアテイーナ教会のお向いにあるのが、

“Feldherrnhalle”(将軍廟)。

“Felddherrn”とは戦争で軍を率いた将軍を指す言葉。

なので将軍廟と翻訳。

ドイツ史上初めて、

「統一ドイツ軍」

として普仏戦争に参加したバイエルン軍を称えるために、建設が決まります。

オリジナル(見本)はイタリアのLoggia dei Lanzi

一番左に飾られている銅像は、30年戦争で死と恐怖をまき散らしたバイエルン軍の Tiliy 将軍(ミュンヘンでは英雄)。

真ん中のギリシャ兵みたいな銅像は、バイエルン軍の象徴。

右側は”Wrede”元帥。

ナポレオンと一緒に戦いバイエルン王国の領土を広げ、ナポレオンが負けると敵側に寝返り、バイエルン軍を勝利に導いた元帥です。

参照 : 将軍廟

Siegestor(凱旋門)

Siegestor(凱旋門)

将軍廟からから、まっすぐ伸びる道を1kmずっと直進していくと、

「バイエルン軍に捧ぐ」

と書かれた

Siegestor(凱旋門)

があります。

この道路は、戦争で勝ったバイエルン軍のパレード用に建設された道路です。

凱旋門は1850年、バイエルン軍の普仏戦争の勝利を記念して建造されました(*6)

1871年、ドイツ連合軍がナポレオン三世を破ると、バイエルン軍は鼻高々にミュンヘンに凱旋。

この凱旋門をくぐって意気揚々と慰霊碑までパレードしました。(*7)

参照 : 凱旋門

王様の居城 ”Residenz”(レジデンツ)

王様の居城 レジデンツ / Residenz

オデオン広場の右手に王様の居城

”Residenz”(レジデンツ)

があります。

レジデンスは王様が実際に住んでいた御殿に加え、

  • 王様専用の教会
  • 宮廷庭
  • 王様専用の劇場

からなる建造物群の総称です。

今では想像できませんが、王様の居城は運河と城壁に囲まれていました。

14世紀、ミュンヘン市民がバイエルン公爵の圧政に反抗したため、市民から富と命を守るために城壁と運河が建設されました。

賢王との異名を持つアルブレヒト4世の時代になって、公爵は市民と和解します。

王様を守っていた城壁はミュンヘンの城壁に取り込まれるか、それ以外の部分は取り壊されました。

今のレジデンツを築いたのは、16世紀のバイエルン公爵、ヴィルヘルム4世です。

以来、暗闇に紛れて怒った市民から逃げる20世紀まで、王様がここに住んでいました。

今ではバイエルン州政府の持ち物です。

入場料を払えば中に入って、ミュンヘン市民が食うや食わずの生活をしたいた頃、王様がどんな豪華な生活をしていたか、実感することができます。

残念ながらここ数10年ずっと工事中で、当分終わりそうにはありません。

  • 開館時間(夏):  9時~18時
  • 開館時間(冬): 10時~17時
  • 入場料 : 大人10ユーロ

”Hofgarten”(ホーフガルテン : 和約 宮廷庭)

ミュンヘン 宮廷庭

そこで早々とレジデンツ通り抜けて、

”Hofgarten”(ホーフガルテン : 和約 宮廷庭)

に行きます。

宮廷庭には有名な

“Dianatempel”(ダイアナの寺)

があります。

入場料がなく、ベンチが多く設置されておりミュンヘン市民の憩いの場です。

参照 : 宮廷庭

“Bayerische Staatskanzlei”( バイエルン州政府庁)

バイエルン州政府庁

宮廷庭の横(あるいは奥)にあるのは、

“Bayerische Staatskanzlei”( バイエルン州政府庁)

です。

オリジナルは王様の近衛兵の宿舎。

王政が廃止されてから、バイエルン州政府庁に改造。

ワイマール共和国下では州知事がここで仕事をしていたが、ナチスが第三帝国を宣言するとほとんど意味(それに仕事)を失う。

第二次大戦では大被害を受ける。

昔の姿に復活させることはやめ、中央部だけ残して壊れた部分は撤去されて、両端にはモダンながガラス張りの構造になっている。

ちぐはぐ感がぬぐえないのは、この為だ。

今ではバイエルの州知事、州政府のお仕事場だ。

建物の前の銅像がとっても見事。

レジデンツの目と鼻の先なのに、ミュンヘン観光客でここまで足を延ばす人は稀。

“Haus der Kunst”(芸術の家)

芸術の家

バイエルン州政府庁の裏通りを直進すると、大きな三差路に出てきます。

ここから右に伸びているのが、ミュンヘンの目抜き通りのひとつ、プリンツレゲンテン通り / Prinzregentenstrasse です。

交差点の向こう右手に

“Haus der Kunst”(芸術の家)

が見えてきます。

芸術に興味のある方は、ミュンヘン観光の合間に覗いてみてはいかがですか。

近代芸術が展示されています。

毎月、最初の木曜日は18時~22時(開館時間延長)無料で入れます。

皆まで言えば、この芸術の家を作ったのはかってのミュンヘン市民、アドルフヒトラーです。(*8)

  • 開館時間 : 夏 10時~20時
  • 入場料 : 1日券 15 ユーロ

“Bayerisches Nationalmuseum”(バイエルン国立博物館 )

バイエルン国立博物館

プリンツレゲンテン通りには、芸術関係の建物、美術館、博物館が所狭しと並んでいます。

芸術に興味なくても、その建物が立派なので、是非、歩いてみましょう。

まずは

“Bayerisches Nationalmuseum”(バイエルン国立博物館 )

です。

なんでもイギリスで万博を閲覧してマキシミリアン二世が、

「ミュンヘンにもこういうものが欲しい。」

と建設を命じて、1867年に完成したもの。

建物が立派でついつい足が止まってしまいます。

  • 開館時間 : 10時~17時 木曜日は20時まで
  • 休館日 : 月曜日
  • 入場料 : 7ユーロ

アイスバッハのサーフィン / Eisbachwelle

国立博物館の先にミュンヘンの新しい観光名所、

“Eisbach”( アイスバッハ)

という小川があります。

川底に波ができるように細工をしてるので、サーフィンが楽しめる名所です。

海のないバイエルンでは唯一、サーインできる場所。

いつ来ても、サーファーで大賑わいしています。

見ていると、1分ほどで交代しています。

一人が長く使用しないように、ちゃんと取り決めがあるようです。

あまりにも人気になって待ち時間が長くなったため、ミュンヘン市は他の河でも同様の工事を計画中。

日本だったら、市がお金をかけてサーファーの楽しみを増やしてくれるなんて、有り得ない!

ミュンヘン “Friedensengel”(平和の天使)

ミュンヘン 平和の天使

アイスバッハからさらに200m歩くと、ミュンヘンの隠れた観光名所

“Friedensengel”(平和の天使)

が見えてきます。

この記念碑は1870/71の普仏戦争の終結を祝って、作成されたもの。

手前には大きな噴水があり、壁には手の込んだ彫刻があります。

階段を上っていくと見えてくるのがコレです。

8m x 8m の正方形のお寺の中心部に聳え立つのが、37mの塔。

平和の天使塔 土台部分

天使の像だけで6mもの高さがあります。

肝心のお寺は入場禁止なのにカップルが堂々と侵入して、観光客にバシバシ撮られているのに、平気でいちゃついていました。

流石、ドイツ人。

カップルの見えないアングルから撮り直し。

私の個人的なお気に入りの観光名所です。

難を言えば、午後には逆光になっているので、写真が撮り難い!

ミュンヘン ド”Deutsches Museum”(ドイツ博物館)

ミュンヘン ドイツ博物館

ミュンヘン1日観光では見ることはできませんが、ピナコテークと同じくらい人気なのが、

“Deutsches Museum”(ドイツ博物館)

です。

ドイツ博物館は第一次大戦後、技術革新を素人にもわかりやすく解説する目的で1925年に設置されました。

博物館としては世界一の規模を誇る博物館です。

展示品は28000点も(本来は)あり、毎年、150万人が訪問する人気の観光スポットです。

  •  開館時間 : 9時~17時
  • 休館日 : 年中無休
  • 入場料 : 15ユーロ

午前中は長蛇の列!

長蛇の列!

ドイツ博物館への行き方は簡単。

地下鉄のドイツ博物館駅があります。

下りると見間違えないように標識と→が出ているので、道に迷うことは不可能。

良かったのはここまで。

問題はまずチケット売り場から始まります。

毎年、150万人もの訪問者があるのに、空いてる窓口は2つだけ!

 

チケットを購入する列が(雨の中!)建物を1周!

楽勝で30分待ちます(午後になると短くなります)。

工事中!

そして期待して中に入ると、工事中!

お目当ての戦争中の展示品は

「別の博物館に移されたよ!」

とのこと。

「同じ質問をよくされる。」

とおじさん。

だったらチケットを買う前に言いなさい!

わざわざそれを見に電車に1時間半も揺られ、ミュンヘンまで来たんだよ!

あまつさえ、雨の中30分も待たされて、14ユーロも入場料を払ったのに!

ホームページにも、

「博物館更新中!」

としか書かれていません。

展示品は大きく削られているので、訪問する価値があるか微妙です。

ミュンヘン カール門 / Karlstor

ミュンヘン カール門

最後にミュンヘン庶民用のお買い物通り、カオフリンク通りを下ります。

とても立派な建物が並んでいます。

全部紹介したいのですが、あまりに長くなるので割愛。

唯一、塩街道の出口(入り口)となるカール門/”Karlstor”だけ紹介しておきます。

かってこのカール門の前には大きなお堀があり、橋を渡って市内に入るようになっていたんです。

今からでは想像し難いです。

参照 : カール門

ババリア像 / Bavaria Statue

ババリア像 / Bavaria Statue

ババリア像 / Bavaria Statue は「オクトバーフェスト」が開催される、テレージエン原っぱ /”Theresienwiese”の端にあります。

ミュンヘン市内から電車で行くなら地下鉄のU4/U5に乗車、Schwanthalerhöhe 駅で下車。

ここでドイツ人に道を聞くか、オクトーバーフェストの会場に建っているでかいビールジョッキを目印にしてください。

ババリアとはBayernのラテン語。

巨大なババリア像 / Bavaria Statue は、バイエルンの守護神だ。

ナポレオン戦争後、ルートビヒ1世が民衆がドイツ人ではなく、バイエルン人としての自意識を抱く目的でこのモニュメントの建設を命じた。

見本はパルテノン宮殿だったので、なんとなく似ている。

上からオクトーバーフェストの会場がよく見渡せます。

巨大な銅像の頭の部分には展望台があり、元気のある方は登れます。

が、有料です。

その他の施設は無料で入場、閲覧できます。

時間あれば、ミュンヘン観光の合間にどうぞ。

オクトーバーフェスト期間中はテロ警戒のため、展望台に限り閉館です。

  • 開館時間 : 展望台以外は24時間
  • 入場料 : 基本無料 展望台のみ 3.50ユーロ

BMW 博物館 /BMW Museum

BMW 博物館

ミュンヘンの北、オリンピアパークの隣にBMW博物館 / BMW Museumがある。

最寄り駅は地下鉄の3番、それに8番の

“Olympiazentrum駅”。

ミュンヘンオリンピックの1973年に完成したBMWの歴史を飾る博物館だ。

歴代の名車と迷車が飾られている。

隣には、

“BMW Welt”

という(比較的)新しい車の展示場も。

博物館だけでもかなりデカイので、足早に見て回っても3時間かかる。

日帰り旅行では無理。

  • 開館時間 : 10時~18時
  • 入場料 : 10ユーロ  学割が効けば8ユーロ
参照 : BMW 博物館

ニンフェンブルク城 / Schloss Nymphenburg

ニンフェンブルク城

ミュンヘン市内の西北、中央駅から3kmほどしか離れていない場所にあるニンフェンブルク城 / Schloss Nymphenburg。

私も一度行きました。

が、あまりに広大で、

「コレ、全部歩くの?」

と入場料を払ったのに、正面の写真だけ撮って引き返した観光名所。

ウンチクだけ紹介しておくと、17世紀にバイエルン選帝侯が奥方に送った城が始まりです。

その後、何度も拡大&改装されて18世紀の初頭にほぼ今の姿になりました。

本来は

「夏の宮殿」

として増築されました。

でもお城の完成後、バイエルンの王様は旧市街のレジデンツではなく、ニンフェンブルク城に好んで住みました。

第二次大戦中は軽微の損傷で済んだので、18~19世紀の王様がどんな贅沢な暮らしをしていたか、実感することができます。

  • 開館時間 : 9時~18時
  • 入場料 : 大人8ユーロ(庭のみ)博物館はさらに6ユーロ

ミュンヘン 生活と物価

ミュンヘン 生活と物価

まずはミュンヘン生活のいい点から。

毎年、人口20万人以上の大都市が対象の犯罪率白書が発表されていますが、ミュンヘンは毎年、

「もっとも治安がいい街」

に君臨しています。

女性一人でも安心して暮らせます。

そして郊外にはミュンヘン空港があり、地下鉄、路面電車、バスなどインフラが整っています。

ドイツで一番高い家賃

あまりよくないのは、市内の生活費。

ミュンヘンの家賃はドイツで一番高いです。

アパートの平均家賃は28ユーロ/1㎡。

すなわち30㎡程度の小さなアパートでも、家賃は840ユーロです。

これに管理費や水道光熱費などが加わると、1000ユーロ。

まるで東京並み。

それよりも困るのは、ミュンヘン市内のアパートの数が全然少ない点。

アパート入居希望者の方が空き物件よりも多く、市内でアパートを借りるのは至難の技。

空き物件の見学になると30人以上もやってきます。

ドイツ人を差し置いて、部屋を確保するのは大変です。

そんな事とは露知らずミュンヘン留学を決めたから、

「貴社に頼めば、安く借りれますか?」

と、ちょくちょくお問い合わせをいただきます。

無理っす。

ミュンヘン 留学

ミュンヘン 留学

ミュンヘンは予算重視の留学先には向いていません。

しかし高い家賃を払えるなら、生活は快適です。

ドイツ第三の大都市だけあって、電車、バス網がくまなく巡らされており、公共交通機関で学校、大学に通えます。

ミュンヘン留学の定番はゲーテ。

ゲーテ・インスティテュート ミュンヘン 【宿泊施設なし】

授業の質で際立ったのがBWS

日本人が少ないのがDID校でした。

カールデューイスベルク校は2020年から郊外に移ったので、人気がなくなりました、、。

* 注釈

1         ベルリンはスタートアップの中心、ミュンヘンはテク(ニカル)関連の中心と二分化される傾向があります。

2         プロテスタント(ベルリン)vs.カトリック(ミュンヘン)という宗教の違いに加えて、ドイツ統一戦争でミュンヘンはプロイセンに敗北。劣等感を抱いています。

3        さらに「お固い」のがオーストリア。

4        ここで救世主として登場したのが、欧州一のお金持ち、ヤコプ フッガーです。フッガーはアウグスブルクのために私財を投げ打って身代金を払い、街を救います。

5         土曜日は18時まで、、。

6          シキイ ミキイと呼みます。ファッション & 流行に拘る人を指す言葉

7         数年前はナポレオン側で戦っていたのに!!

8         これが最初で最後の戦勝パレードでした。

9          これを指摘するとドイツ人は機嫌を損ねるので、くれぐれもご注意ください。

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